本屋でふと気になった本を衝動買いすることがありますが、ステファノ・フォン・ロー文:トルステン・クロケンブリンク絵『小さい“つ”が消えた日』もその中の1冊です。長らく本棚に放置していましたが、最近ようやく読みました。
“あ”さんから“ん”さんまで、いろいろな文字が住んでいる五十音村。ある日、小さい“つ”は、「音を持たないやつなんて、文字でもなんでもない」と皆からバカにされて、傷つき、家出をしてしまいます。すると、新聞、テレビ、人の会話までから、小さい“つ”が消えてしまいます。混乱する人間達をよそに、小さい“つ”は、それまで見たことのなかった広い世界を目の当たりにする一方、他の文字達は小さい“つ”を探し始めました。
この話で、特に印象深かった場面が2ヶ所ありました。
1つ目ですが、自分は必要とされていないと感じて五十音村から飛び出した小さい“つ”は、広い世界に飛び出して、様々なものに触れていきます。そして、太陽や月、虹、雲など、自分と同じように口をきけないものがあるということに気づきます。さらに、滝や海、風も、声はあっても言葉で話すことはできないことを知り、小さい“つ”は、言葉を話せないことが自分の価値を決めることではないんじゃないかと感じるのです。
これは、五十音村で文字達が「誰が一番偉いか」ということに躍起になった挙句、小さい“つ”をバカにした偏狭さと対照的といえるでしょう。
中日新聞で今年1月から7月にかけて連載された「いじめと生きる」 の中で、このことと通じる内容のものがありました。「第1部・ドラえもんのいない世界で 空間の違い=「町内」飛び出すとジャイアン変身」(2007年1月5日中日新聞) では、通常の短編ドラえもんで描かれる町内ではいじめっ子のジャイアンが、広い世界を舞台にした大長編(アニメでは劇場版)では、友を助けるかっこいいジャイアンになることが指摘されています。その上で、閉じられた空間で繰り返されるいじめについて、もっと開かれた広い世界があることを教えることの重要性が語られていました。
続いて2つ目ですが、小さい“つ”が消えて大混乱が生じた際、最初、文字達は自分達の過ちを省みることもなく口々に小さい“つ”を「無責任だ」と責め始めました。それに異を唱えたのは、最年長で一番賢い“こ”さんでした。小さい“つ”に心無い言葉を浴びせたお前達の方がよほど無責任だ、と。すると、今度は文字達は内輪で責任の擦り付け合いを始めます。再び“こ”さんがそれを遮り、小さい“つ”を探すことが先決だとたしなめるのです。
小さい“つ”が消えたことで混乱が生じたとき、すぐさま文字達が自分の非に気づく流れだったなら、あまり注目もしませんでした。しかし、最初に自分達が言い放った悪口も忘れ小さい“つ”を責める文字達に、ある種のリアリティーを感じたのです。
閉鎖的空間で「誰が一番偉いか」という単一の価値基準に縛られ、無意識にうちにもゆとりを無くしているとするならば、それが小さい“つ”への悪口を生んだとするならば、そうそう自省の上の行動などとれないのが当然でしょう。“こ”さんの知恵がそれを目覚めさせました。
しかし、転じて、今の社会を見たとき、小さい“つ”に対するような行動は、あちこちに見られる一方、“こ”さんの役割を果たすものはどれだけあるでしょうか。“こ”さん的な歯止めと軌道修正を図ることの出来る存在を欠くための暴走のようなものを、むしろ感じる場合が多くあります。
もし、“こ”さんの知恵がなかったら、この話は一体どう展開していたのでしょうか。
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