最近まで、偶然ながら、多少なりとも仕事がスムーズに行っていました。逆にそれが大切なことを忘れさせていたようです。壁にぶつかり、二重の意味で自分の弱さを実感しています。
人はそれぞれ、持って生まれた、また幼少期からずっと身につけてきた限界の中で生きています。その限界という「枠」は大きさも形も、人生の形と同じく多様です。不変ではないにせよ、簡単に越えられるものではありません。
その限界を前提に、自分にできることを精一杯やることが重要なのだと思います。自分と人とを比較し、世間並みかそれ以上であろうとすることは、ある意味真面目なのかもしれません。しかし、他人並にやろうと無理をすれば、自分を傷つけ、今度はそれを補うように、自分並でない他人を足蹴にします。
限界を超えるための努力は素晴らしいですが、一方で超えられない限界もあります。また、いずれにせよ、限界というものは、そもそも自分の人生をともに歩んできた要素として、大切に扱う必要があるのではないでしょうか。それを邪険にして、他人との比較から潰し合いを行い、自分も他人も不幸にするよりは、それぞれの限界に応じて自分にできることを提供し、皆がよりよい結果を享受できるようにすべきなのではないでしょうか。それは、自分も他人も、ありのままに受け入れる優しさと、皆にとってのよい結果を企図する大きな視野を持つことに他ならないと思うのです。
実力主義の世の中で、甘えた考えだと思われるかもしれません。しかし、潰し合いによる不幸の増殖こそ、人的資源を無駄に消費し、よい結果を遠ざけるのではないでしょうか。限界に応じた形でも、皆がよりよい結果を求めて邁進するほうが、人的資源を活用することになるのではないでしょうか。また、
http://ameblo.jp/j-igarashi/entry-10052641414.html
で指摘されているように、実力があれば、何をしても、何を言っても許されるという発想こそ「甘え」なのではないかと思います。人間は弱い。恵まれた立場にあれば、様々なことを見落とし、忘れます。世の中全体を考えたとき、それがどこにせよ、「何をしても、何を言っても許される立場」などというものがあること自体が、大きな問題なのではないでしょうか。
「嫌われ恐怖症」な人達の悲痛な告白に共感の声
2ちゃんねるの「嫌われ恐怖症なやつちょっと来て」と題されたスレッドがネットで話題となっている。..........≪続きを読む≫
ちょうどこんな記事が出ていました。「嫌われ恐怖症な人の人物像について『ある程度優秀だったり、褒められて育った奴が多い気ガス。しかし絶対的な自信を持てる程の実力はないレベル』といった分析がなされ多くの賛同を得ている」とのことですが、私は若干違った見解です。本当に自分を支える自信は、「根拠のない自信」なのだと思います。つまるところ、「自分は自分でいい」という自信、ありのままの自分を受け入れる自己肯定感です。絶対的な自信を持てる程の実力のある人間など、この世に露ほどもいるのでしょうか。根本的な自己肯定感のない、外面的な自信など、むしろ脆いのが当然だと思うのです。
限界も含めて自分を受け入れれば、その余裕を持ってすれば、もっと色々なことが見えてくるような気がします。そうすれば、より大きな結果のために、無理なく邁進できる道が見えてくるようにも感じています。自分は、まだまだですが、そうありたいと思いました。