“迷い”と“願い”の街角で -24ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

この『サラエボの花』は、1992年に勃発し95年に停戦を迎えたボスニア紛争、その終結から約10年を経たサラエボに暮らす母娘の物語です。


ボスニア紛争が終わって10年、平和を取り戻したかのようなサラエボ。しかし、その傷跡は、まだ癒えることなく残っていました。


12歳になる娘サラを一人で育てている母エスマ。そのエスマにも、ボスニア紛争により負った、誰にも癒えない重い過去、深い心の傷がありました。それはやがて、この母娘の関係に亀裂を走らせ、娘サラの心にも影を落とすことになります。


それぞれの心の傷に苦しみ、愛し合いながらも反目する母娘。過酷な現実により深く傷つけられた心は、簡単に癒されることはないけれど、現実を受け入れたとき、サラとエスマは新たな一歩を踏み出すのです。


紛争という嵐で容赦なく傷つけられた弱々しい花、しかし、決して枯れることなく懸命に咲く強い花、現実を乗り越え愛を育み、未来を見つめる美しい花が咲いています。


この映画の舞台は、ボスニア紛争終結の10年後、現在のサラエボであり、戦争を描いたものではなく、残虐な暴力シーンはありません。しかし、今なお残っている癒えることの無い傷跡が、静かに描かれています。


戦争や紛争の問題は、一朝一夕に解決できるものではありません。それが、民族問題や宗教問題を孕むものであれば、その複雑さは、私たちの想像を越えるものなのではないでしょうか。


戦争・紛争への見方は、望ましくないという認識がある程度共有されているとしても、今なお多様といえるでしょう。戦争・紛争の原因や影響も多面的です。人の命が奪われていくことを考えれば悠長なことは言っていられないのかもしれませんが、それでも、その多様な要素に目をつぶりながら、一面的な結論に走ることも望ましいことではないように思います。


この『サラエボの花』は、紛争の影響のほんの一面を、突きつけています。それを直視し、悩み続ける勇気も必要ではないでしょうか。


サラエボの花
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働いても豊かになれず、生活保護水準以下で生活する人々が、現在の日本に少なからず存在すること、そして。そのような人々を指す“ワーキングプア”という言葉があることは、広く知られてきたところです。


この“ワーキングプア”の問題が広く知られるようになった契機の一つとしては、NHKでこの問題を取り上げた特集番組が放送されたことでしょう。その番組の取材に基づいて書かれたのが、このNHKスペシャル『ワーキングプア』取材班・編『ワーキングプア-日本を蝕む病』です。


本の中でも触れられていることですが、“ワーキングプア”の問題は、「見過ごされてきた問題」であり、「見えにくい問題」です。この本では、日本各地で、懸命に働いても豊かになれないという点では一致しているものの、様々な人生を歩み、各々の境遇に苦しむ人々が描かれ、その、「見えにくい問題」に光が当てられています。


“ワーキングプア”の問題は、「生活の糧の不足」というだけでなく、「働くことの意味」や「人間の尊厳」といったテーマにまで関わります。しかも、個人の刹那的な都合による問題ではなく、背後には、周囲の人々のほか、地域、社会、国のあり方と密接に関係した、人生の深さ、重さがあるように感じました。このため、「自己責任」の一言で切り捨てていい問題ではないとともに、セーフティーネットの一律拡充のみにより解決できる問題でもないというべきでしょう。さらに、この本で描かれた人々について、その“ワーキングプア”に陥った原因が、肉親の病気や死など、誰にでも起きうることであり、誰にとっても他人事ではありません。誰もが、この問題について、今後の“社会のあり方”、“人間のあり方”に関わる普遍的なものであり、かつ、身近にあるものとして捉える必要があるのでしょう。


この問題は、把握しにくい上、雇用、国際情勢や社会保障など様々な問題が絡み合い、かつ、普遍的な要素をもつ一方で、それぞれの人生に深く関わった極めて個別的な内容も持つため、解決するのは容易ではないでしょう。この本でも、早く手を打つことの重要性は指摘されているものの、当然かもしれませんが、特効薬の処方箋は示されていません。


しかし、「新宿の雑踏や六本木ヒルズをただ単に眺めているだけでは、都市をさまようホームレスの若者たちを見過ごしてしまう」という印象的な表現がありましたが、とりあえずは見過ごさない目を持つこと、「見えにくい問題」について顕在化させることは最初の大きな一歩ともいえます。


また、「おわりに」でNHK報道局社会部副部長の中嶋太一氏は、ディレクターの一人の「人にはどうしようもない運命、というものはあるのだと思います。でも、その人自身の運命を大きく変えるのは無理だったとしても、その運命を支えていける社会は、少しでも何かできるかもしれない。『あなたは必要な命だ』と言ってあげられるかもしれない」とのコメントに「解決の糸口が垣間見えたような気がした」としています。


国民一人一人が考え行動すべき問題であるのは確かですが、私個人としては、何をすべきなのか分かりません。この本から私が得たものが、単なる刹那的な同情だけなら、ただただ失礼というべきなのでしょう。ここまで書いてきておきながら、私自身に偉そうなことを言う資格は全く無いことを再認識せざるをえません。それでも、自分の無力さを謙虚に受け止め、この本で得たものを頭のほんの片隅に置いておくことにしましょう。そうすれば、いつの機会にか、「少しでも何かできる」ことに繋がるかもしれません。


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以前から、母が私を産んだ時は大変だったという話は聞いていました。しかし、より具体的な話を、つい最近になって初めて聞きました。


私を身ごもった時、母は40歳手前でした。その高齢のためもあってか、出産に当たっては大きな危険が伴うことが指摘されており、当時、母が入院していた病院において、上層部は堕胎させるという方針でいたそうです。しかし、担当していた若手の医師が出産させると強く主張し、私は生まれることができました。生まれた際は、2000グラムの未熟児でしたが、今では、身長は高めで、太りすぎを気にする体重です。


結果的に私は無事生まれましたが、出産前の結果が読めない時点においては、上層部の判断と若手の医師の判断のどちらが正しかったのかは分りません。なので、その病院上層部を恨む気持ちはありません。しかし、その若手の医師の想いのため、今、私はここにいます。正しいか、間違っているかなど関係なく、その医師の行動が、私を存在たらしめているのは間違いありません。


人の想い、信念、行動について、正しいか、間違っているかの二分的な考察がしばしばなされるところだと感じられます。それによって、時には醜い罵りあいも起こります。しかし、正しいかろうと、間違っていようと、多くの人の想いが折り重なって、この世界は築かれています。そもそも、正しいか間違っているかを単純に割り切ることなどできない中で、確かに存在する人々の想いと、それに基づく世界を認め受け入れることは必要ではないでしょうか。


そして、多くの人の想いと世界を認めた上で、自分の想いに正直に進んでいけばよいのではないかと思います。


大変な思いをして私を産んでくれた母、その母が今年の3月に他界しました。以前から体調は優れなかったのですが、命にかかわるものではなく、そういう意味では突然でした。


上の出産時の話も、葬儀の場で親戚から聞いたものです。


昨年4月から私は一人暮らしをし、実家には2週間に1度くらい週末に帰っていました。偶然にも、予定が立て込み、昨年12月から今年1月までは毎週末帰っていた上、正月休みは長く、ゆっくりと実家で過ごすことができました。天に与えられた母との最後の時間でした。


「おかえりなさい」「いってらっしゃい」という言葉の重みが、温かさが今になって強く感じられます。もっと、これからも言ってほしかったというのが正直なところです。


悲しみ苦しみはもうあまりありませんが、やはり母がいないというのは変な気分です。


母は私にどのような想いを託し、受け継いだ私は何をすればよいのか、それはまだ分りません。


今年、2月までは寒かったですが、母の死と前後して急に暖かくなりました。気づけば庭の梅が咲いていました。親戚は母を春のような人と称していました。母の旅立ちとともに春がやってきました。


自分に嫌気もさす今日このごろですが、人の想いを受け継ぎ、その上に立っているのであれば、自分も想いに正直に、もう少し生きてみよう、もう少し前に進んでみようと思います。

ふと目についた報道が2件ありました。


ひとつは、40代の男性が、不祥事ばかり起こす社会保険庁を懲らしめるためと、社会保険庁の職員寮に侵入し放火しようとして逮捕されたというもの 、もうひとつが、NHKの戦争特集番組を巡る訴訟の原告側の市民団体に、日経新聞の記者が「ばか者」「あほか」など罵倒する内容のメールを送ったとして処分されたというもの です。


不正や犯罪は、それ自体は許されないものであり、厳正に対処すべきものですが、最近、それに対して、不適当な方法による攻撃、過剰な攻撃、さらには筋違いの方向に矛先を向けるような攻撃がなされる場合が見られないでしょうか。


また、自分とは異なる考え方に対して、激しい敵意や憎悪を抱くような、徹底した中傷や罵倒が行われる場合も目につくように思います。


不正や犯罪に対して否定する声を上げることは望ましいことでしょうし、ある意見に対して反対の意思表示をすることも決して悪いことではありません。


しかしながら、昨今の、不正や犯罪に対する行動、異なる意見への反応には違和感を覚えるものが少なくありません。人の幸せを脅かす不正や犯罪に対する攻撃が、決して人を幸せにすることにつながらず、余計に不幸を導くものであったり、世の中を良くするための議論・反論のはずが、単なる罵りになってしまっているようなものです。


結局、不正や犯罪、自分とは異なる考え・価値観を、それそのものとしては重視せず、欝憤や不満を爆発させるための、単なる名目やきっかけにしているのではないでしょうか。


人を不幸にし、世の中を乱すのであれば、不正や犯罪に対する正当な行動とは言えません。良識ある議論・反論とは言えません。「正義」を名目にすれば何をやっても、何を言ってもよいとするような甘えをもって、感情を爆発させ、不当に人を傷つけるような行為をするなど許されるはずもありません。


何のために、何をすればよいのか、どうすべきなのか。「正義」の怒りは、冷静さと穏やかさのもとで熟慮されるべきでしょう。冷静さも穏やかさも吹き飛んだのであれば、もはや暴走する感情にすぎません。

ご存知のように、日本では現在、毎年3万人以上の方が自殺により亡くなっており、多くの場合、自殺の背景には、心の病があるということも、広く知られてきているところです。


高橋祥友著『自殺予防』では、自殺問題の基本を押さえるように、日本や世界における自殺の現状、自殺者の心理や自殺と心の病との関係、各国の対応のほか、自殺者遺族へのサポートについて書かれています。どうしても固めの内容の本であり、情けないことに、なかなか頭にも入ってこないのですが、強く印象に残るとともに、これだけでも社会に広まれば大分状況も違ってくるのではないかと思う内容がありました。


自殺を予防すべきという発想について、極端に言えば、自殺は本人の意思によるものであり、防ぐことは不可能であり不要であるとの反対意見も存するように思います。


これに対し、本書では、「自殺はけっして自由意思に基づいて選択された死ではなく、むしろ、ほとんどの場合、さまざまな問題を抱えた末の「強制された死」である」とします。だからこそ、自殺を防ぐ必要もあれば、問題を取り除くこと等による予防も可能な場合が多々あると言えるのでしょう。


また、自殺は、その遺族にも大きな影響を及ぼします。これについては、以前、カーラ・ファイン著:飛田野裕子訳『さよならも言わずに逝ったあなたへ―自殺が遺族に残すもの』 を、ご紹介したことがあります。自殺は、その原因も、影響も、本人のみに限られたものではありません。


また、本書でも触れられていますが、「『死ぬ、死ぬ』と言っている人間は、死なない」という言説は誤解であり、このことは、近時、広く知られるようになってきました。少しでも多くの人が、種々の誤解を捨て、「強制された死」としての自殺の現状さえ認識できれば、自殺へ引きよされられそうになる人を繋ぎとめ、様々な自殺対策が効果を発揮する土壌となるように思います。



自殺予防 (岩波新書)/高橋 祥友
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『大停電の夜に』は、クリスマス・イヴ、大停電により暗闇に包まれた東京を舞台に、それぞれの想い、苦しみ、愛や葛藤を抱えた12人の男女が織り成す物語です。


ある男は、自分の弱さから別れた昔の恋人に想いを寄せ、ある女は、未来のない不倫の恋愛に終止符を打ち、またある男は、妻と不倫相手との間で揺れながら、父親の余命と自らの出生の秘密に苦しみ、またある女は、病気により生きる希望を見失う・・・


純粋で真っ直ぐな愛情が紡ぐピュアなラヴ・ストーリーというわけではありません。登場人物たちは皆、自分の過去に苦しみ、境遇に悩み、弱さに迷います。結末に至っても、彼ら、彼女らを苦しませていた状況自体が、綺麗に変わってしまうとは限りません。


それにもかかわらず、終焉は温かいものです。


人は弱く、過ちを犯し、どちらが本物でどちらが嘘ともいえない相反する気持ちに引き裂かれそうになりますが、すべてを忘れて何かのために奔走するとき、ふと立ち止まり自分を見つめなおすとき、美しい奇跡に、愛情に触れたとき、温かく優しい気持ちになれるのでしょう。そして、自分の中の温かい気持ちに気づいたとき、自分を大切に受け入れることができるのかもしれません。


たとえ、たどり着いた場所が模範解答のようなものではなく、様々な障害や矛盾、そして心の葛藤を残させるものであったとしても、自分の優しさを大切にできたなら、他者を許し、その温もりを分かちながら、自分の足で確かな一歩を踏み出せるのだろうと思います。


大停電の夜に ~ナイト オン クリスマス~
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小学生のころの話ですが、何か些細な問題でも起きると、すぐに始まるのは犯人探しで、見つかった犯人、あるいは無理にでも作り上げた犯人を徹底的に攻撃するというようなことが往々にしてありました。日常的に、人の悪口も相当発せられていたと思います。少なくとも、私の周りに関して言えば、中学から高校、大学へと進むにつれて、そういったことは減っていきました。


しかし、「大人の社会」に目を向けてみると、小学校のような犯人探し・攻撃や人の悪口を見聞きすることが往々にしてあるように思います。


本来、実のない犯人探し・攻撃や人の悪口は、成熟とともに減っていくはずではないでしょうか。そういった関心から手にとったのが清水義範著『「大人」がいない・・・』です。


この本では、日本において、未熟な「可愛さ」を好む文化があることや、経済成長により苦なく生きられるようになり、成熟した「大人」になる必要性がなくなったことで、可愛い「子供文化」が発達しそれが世界をリードするまでになっている一方、社会現象の幼稚化が社会を蝕む危険性が生じているとされています。


社会現象の幼稚化の例として挙げられているものの一つに、イラク人質事件への日本社会の反応がありました。この事件の際に、日本の社会は、今どうするべきかを深く考慮する代わりに、人質となった人達への短絡的な個人攻撃を行ってしまったが、そのように犯人探しをして納得したような気分になるのは「ぼくが悪いんじゃないもん、という子供の発想」だとするのです。


「ぼくが悪いんじゃないもん、という子供の発想」は、問題が発生したときに襲うストレスに対処しきれないことから来るのかもしれません。ストレスに耐えて問題の根源を冷静に見極めて行動するということができず、ストレスによるイライラで冷静さを失い、そのストレスをぶつけるべき「はけ口」としやすい人間を選んで、その人を無造作に叩くというような振る舞いをしてしまうのではないでしょうか。


冒頭で、中学から大学にかけて減ってきた犯人探し・攻撃や人の悪口を見聞きする機会が、「大人の社会」に往々にして見られる気がすると書きましたが、上述の内容を踏まえれば、人としてはそれまでより成熟していても、「大人の社会」ではそれまでの生活よりも大きなストレスが生じるために対処しきれないことが原因と考えることができるでしょう。小学生のころは、ストレスも小さいですが人間としての成熟度も低く、小さなストレスにも対応できません。中学から大学にかけては、人としての成熟に比して、ストレスの増加はそれに比例するほどには大きくなかったのでしょう。だからこそ、ストレスに対応することができたのではないかと思います。


本書では、経済成長により苦なく生きられるようになったことが幼稚化の原因の一つであるとし、苦を乗り越えられるのが「大人」だといいます。しかし、今の日本の社会では、経済成長によりある種の苦はなくなってきましたが、時代の変化に伴い、今まで経験・克服されたことのない別の苦が生じてきているとはいえないでしょうか。ストレス社会などといわれて久しくはありますが、「現代的な悩み」は多方面で指摘されているように思います。


大人としての義務というような硬い観点からではなく、苦をしなやかに乗り越えて楽しく、またゆとりのある「大人」を生きるという観点から、「大人」のあり方を考えてもいいのかもしれないと感じました。


「大人」がいない… (ちくま新書)/清水 義範
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もう解散してしまいましたが、私の中学から高校時代にかけて最盛期を迎えていたバンドにLUNA SEAがあります。その代表曲の一つが「ROSIER」で、中高時代の友人には、カラオケでこの曲を歌う人が結構います。


この間、久しぶりにこの曲を聞いたのですが、この曲を好きな人が、なぜ好きなのか分かった気がしました。もちろん感覚的なもので、正直なところ何ともいえませんが、この曲が、あの時代の、私達が社会にもっていた眼差しや、その中で生きる自分のある種の理想像を非常に反映しているように思えるのです。


バブル経済が終わりを告げ、今まで隠されていた闇の部分が目に付くようになっていた時代といえるかもしれません。失業率と自殺者数が伸び続け、大蔵官僚の腐敗が暴き出される一方、地下鉄サリン事件や酒鬼薔薇事件といった常軌を逸した犯罪が起こりました。

“輝く事さえ忘れた街は ネオンの洪水 夢遊病の群れ 腐った野望の吹き溜まりの中”


そして、醜悪なものの氾濫する中で生きる自分については、気高く、美しく、儚く、そんな若干ナルシズム的な誇りをもって見ていたような、そんな気がします。

“輝く星さえ見えない都会で 夜空に終りを探し求めて この夜にかざした細い指先 答を探し求めている”

揺れて揺れて今心が 何も信じられないまま”

“揺れて揺れてこの世界で 愛することも出来ぬまま はかなく散ってゆくのか”


また、確かに儚さをもって自分を見る一方、「自分達がやらなければ」という信念じみたものに基づくパワーのようなものも感じていました。ある種の前向きさがあったのです。それを反映するように、「ROSIER」は醜悪なものの中の儚さが溢れた歌詞ですが、曲調はパワフルかつスピード感のあるものです。


この曲や、この曲から感じた当時の自己像を取り上げたからといって、「最近の歌は」「最近の若者は」などと言うつもりは決してありませんよ。醜悪なものの中の儚さと、ある種の前向きさなどといっても、勘違いのナルシズムによる格好付けと独りよがりな信念と言われれば、身も蓋もありません。


ただ、時代には時代の空気があって、その時には意識しなくても、後から思い返すと、とても懐かしくかつ色を帯びて感じるものではないでしょうか。10年後、今の時代の歌を聴いたとき、今の時代にどんな色を見るのでしょうか。


ROSIER/LUNA SEA
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「優しい心が一番大切だよ。その心を持っていない、あのコたちの方がかわいそうなんだ。」

そう母親に告げた数日後、当時高校生だった小森香澄さんは、自らの手で命を断ちました。母親の小森美登里さんが著した『優しい心が一番大切だよ ひとり娘をいじめで亡くして』では、娘への愛、娘を失った悲しみや苦しみ、娘をいじめた者や何も対策をとらなかった学校への怒り、そして、社会・世の中に対する想いなど、様々なことが綴られています。


今述べたように、様々な内容の詰まった本ですが、その根底に貫かれているのは、まさに香澄さんが残した「優しい心が一番大切だよ」というメッセージに通じるものだと思います。


人が人をいじめていい理由は、人が人を傷つけていい理由は、この世に一つも存在しない。人は人を傷つけてはいけない。母親の美登里さんはそう強く主張します。そして、優しい子がいきにくいことに、優しいだけでは幸せになれないことに疑問を投げかけるのです。


価値観が多様化する社会の中、それぞれ異なる人格や個性を認め合う「優しい心」がより大切になってくることでしょう。幸せな環境が人を幸せにし、人の幸せが幸せな環境を生み出す。周囲の優しさが人を優しくし、人の優しさが周囲を優しくする。自分と人の「優しい心」を大切にすれば、必然的に自分も人も幸せになれるといって過言ではないのではないでしょうか。


逆に、「優しい心」が非難されるのであれば、「優しい心」を踏みにじることが許されるなら、人の不幸が周囲を不幸に、周囲の不幸が人を不幸にする負のスパイラルになってしまいます。だからこそ、「優しい心が一番大切」なのです。その影響の大きさを考えれば、単なるキレイゴトと一蹴することなど、できるはずもありません。


しかし、現実の世の中を見れば、多くの人が「人が人をいじめていい理由」を、「人が人を傷つけていい理由」を躍起になって探しているようにさえ感じます。転じればそれは、「自分がいじめられていい理由」に、「自分が傷つけられていい理由」になってしまうにもかかわらず。


人が人をいじめていい理由は、人が人を傷つけていい理由は、この世に一つも存在しない。美登里さんはそう主張していましたが、多くの人は、それを当然の主張だと受け取るでしょうか。今、この社会に生きる人たちうち、どれほどの人が、自信を持って、胸を張って、美登里さんと同じ主張をできるでしょうか。頭で、理屈で分かっていても、心から言い切れるでしょうか。


氾濫する情報の中で、次世代に伝えるべきは本当の「一番大切なこと」です。私たち自身がそれを見失ってしまえば、伝えようもありません。私達が、私達の社会が「優しい心」を見失ったまま、「優しい心」を涵養する教育を主張しても空疎です。「優しい心が一番大切だよ」というメッセージに、私達は、立場にかかわらず、一人の人間として、どう応えていくのか。難しい宿題です。


優しい心が一番大切だよ―ひとり娘をいじめで亡くして/小森 美登里
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この『夜回り先生のねがい』は、もう知らない人はいないと言っても過言ではない“夜回り先生”こと水谷修氏が『夜回り先生』の最後の1冊として書いたものです。


夜回りや多くの子供たちからの相談への対応など、水谷氏の行動は、素晴らしいものです。ただし、その出発点は、何も特別なものではない、あたりまえの幸せを、あたりまえのように大事に思い、考え、行動することであるように、この本を読んで感じました。当然のことの延長線上に、多くの人が知る“夜回り先生”があるのではないでしょうか。


そのことは、「はじめに」の次のような文章が如実に示しています。


「15年間におよぶ活動の中、子どもたちが私に求めてくれたのは、ひとりの人間として当たり前の優しさでした。私は子どもたちのそばに立ち、一緒に悩んだり、泣いたり、喜んだりしました。何かしてもらったら必ず『ありがとう』と言い、失敗したら必ず『ごめんね』と言いました。でも、ただそれだけのことでした。それをもし優しさというなら、どんな大人でも、親も先生も誰だってできるはずです。幸せはきっと、いますぐ隣にあるものなんです。日本中の子どもたちがそのことに気づいてくれることを、願ってやみません。」


目立つこと、特別なこと、秀でたこと、抜きんでたこと、そういったものに目を奪われがちな中で、本当に大切なあたりまえのことが蔑ろにされているようにも感じる今の社会で、下手をすれば、そういったあたりまえの価値を守るべくした行動についても、表面だけを見た薄い感嘆や敬服に終始してしまいかねないのではないでしょうか。


しかし、“夜回り先生”の根底にあるもの、あたりまえの幸せ、あたりまえのことの大切さを感じ取るならば、水谷氏のような行動はとれなくても、同じ方向を向いて歩むことは、自分にもできると気づくはずです。無理しなくて、できる範囲でいいのです。あたりまえのことなのですから。


水谷氏も、自分の失敗に苦悩するとともに、これまで行動してきたのは正義感からではなく、子どもたちから信頼され必要とされるのが嬉しかったからだと述べます。


この本で、水谷氏は、子どもと同じく大人も苦しんでおり、彼らを許してあげてほしいというメッセージを送っているのですが、いままで自分が子どもの側に立ち大人を敵視してきたことへの疑問・後悔と、大人を敵視するスタンスをずっととってきたにもかかわらず、大人への許しを願うことに勇気が必要だったことを明かしています。浮足立った正義感ではなく、あたりまえのことを大切に、地道に歩んでいるからこそ、迷い、悩み、失敗しながらも、前に進む勇気が持てるのかもしれません。


余計なこと、空疎なことに惑わされず、すぐ隣にあるあたりまえのことを大切にできることの強さは、2月15日にフジテレビで放送された『死ぬんじゃない!~実録ドラマ・宮本警部が遺したもの~』で描かれた、自殺しようとした女性を救うために線路に飛び込んで殉職した宮本警部にも感じ取ることができます。


水谷氏は、「大人も子どもも、誰だって本当は人を傷つけたくなんてないんです。人は本来、みんな優しいものです。」と言います。


様々なことに惑わされて自分を見失い、不必要なことで苦しまず、あたりまえのように自分を大切にできれば、他人のためにあたりまえのことをできるのかもしれません。



夜回り先生のねがい/水谷 修
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