“迷い”と“願い”の街角で -23ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

先日、昔からの友人と長時間話しこみました。その人と初めて出会ってから10年以上、それぞれに、そして、二人の間にも色々なことがあったような気がします。


その人は、これまでも、そして最近も、決して楽しいとはいえない出来事を経験していました。しかし、その一方で、それを前向きに受け入れて、成長への歩みを進めていました。


そのような話を私にしてくれましたが、私はといえば、それに静かに耳を傾け、時折、感じたまま思ったままを少しだけ口にするくらいのことしかできませんでした。いえ、その人が生きる上で直面する悩みを解決する主体はその人自身であり、その人が苦悩とその解決の舞台の主役である以上、そもそも、私は出すぎた言動をすべきではないでしょう。私自身の未熟さから何も言えない側面もあるのかもしれませんが、どんなに経験があっても、その人を主役として尊重すべきであることは変わらないのだろうと思います。


その人は、どこか私と似たところがあります。生きる環境は違っていますが、その人の悩み、そしてその解釈には、私にも共感できる部分が多くあります。


その人には、以前から時々、生きていく上での悩みを打ち明けられることがありました。それにつけて、私は、自分がその人にとって価値ある人間であるとの自負を感じて、嬉しく思ったものです。その自負は必ずしも間違ったものではなかったかもしれませんが、もっと大切なことを見落としていたような気がします。


人が抱える悩みやその解釈を耳にすることは、自分にとっても生きる糧となります。そして、何より、私を信頼してその人の人生に深く関わる経験を聞かせてくれたのです。その人にとっての私以上に、私にとってその人がかけがえのない友人であったことに改めて気づくことができました。


人の悩みや苦しみを聞かせてもらっても、できること、すべきことは限られています。そんな中で、最も大切なのは、信頼してくれたことに、そして生きる上での大切な問題を共有させてくれたことに感謝することなのかもしれません。

新年明けましておめでとうございます。今日から2010年が始まりました。


2009年、色々なことがありました。社会でも暗い話題が多かったですが、個人的にも悩むことが多い1年だったかなと思います。


今まで、色々なことを心の中に閉じ込めてきました。それがトラウマとして自分を蝕んでいることを感じています。そのトラウマごと、自分そのものを消してしまいたい衝動に駆られることもあります。


自分に、周囲に、社会に、そして世界に苛立ち、押さえようのない怒りに苛まれることがありますが、きっとその奥底にあるのは、自信のなさ、孤独、劣等感、不安、怯え、恐れといったものなのでしょう。自分を蝕む負の感情を直視できず、そんな自分を受け入れられず、もっともらしい理由を付けて、自分や周りの世界への怒りに転化させる。しかし、これでは、苦しみは深まるばかりです。


他人が、社会が、自分の思い通りになるわけはありません。また、自分の心も思いのままになるわけではありません。そうである以上、受け入れるほかはないのです。


自分の心の声を素直に聞き、その声を大切にすること。その声が求めるものを実現するために世界に働きかけること。世界が常に応えてくれるわけではないでしょうが、行動の選択肢は多様で、できることはあるでしょう。そして、できる限りのことをやっていけば、心も、現実も、道が開けてくるかもしれません。


これができることを強さと呼ぶなら、私は強くなりたいと願います。

「命は大切だ」。「命を大切に」。そんなこと何千何万回言われるより、 「あなたが大切だ」、 誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きていける。


以前、公共広告機構(AC)のCMで流れていたフレーズです。非常に深く印象に残っています。共感する方も多いのではないでしょうか。


さて、改めて問い直してみたいのですが、「命は大切だ」と「あなたが大切だ」の、これほどまでの大きな違いは、一体どこにあるのでしょうか。何となく感じるものはあっても、それはどこから来ているのでしょうか。「命」という一般に向けた言葉より、「あなた」という個人に向けた言葉の方が、心に届くということでしょうか。


ところで、「大切なのは言葉よりも行動だ」と言われることがあります。これが常に間違っているとは言いませんが、万事に当てはめるには違和感があります。言葉というのは人間の偉大な創造物であるだけでなく、「言う」ということ自体がひとつの「行動」なのではないかと思うからです。


この違和感と、冒頭のACのCMのフレーズを重ねたとき、少しだけ何かが分かった気がしました。


意図的な「行動」には、それを行う目的と、それを行うことによる効果があるはずです。「言う」というのが「行動」だとすれば、そこにはどんな目的が、そしてどんな効果があるのでしょう。


言う内容や状況によってそれぞれなのは自明なことです。では、「命は大切だ」と言うという行動と「あなたは大切だ」と言うという行動の間にはどのような目的と効果の違いがあるでしょうか。これらを言った人たちは、何を目的とし、言われた人に何を残したのでしょうか。


生きることに悩む人に、「命は大切だ」と言うということは、単なる哲学の説明、悪くすれば説教です。誰でもそのくらいは知っている、分っている、そのような観念をただ示されただけで、悩みが解消されるなどあり得ません。


それでは、「あなたが大切だ」と言われたらどうでしょう。目の前の人が、自分を受け入れ、尊重してくれていると感じるのではないでしょうか。もちろん心が伴ってのことですが、「あなたは大切だ」と言うということは、人をありのままに受け入れ、尊重する行動といえるでしょう。


これは、ちょっとした表現の違いが大きな効果の差異をもたらすと、そういうことではありません。「言う」ということを「行動」として理解すれば、「命は大切だ」と言うということと「あなたが大切だ」と言うということとでは、あまりにも「行動」としての性質が異なり、間違いようもないものといえるのではないでしょうか。


これについて、正しい内容の発言が、望ましくない結果を招くような状況を経験したことはありませんか。人の侮辱がその最もたるものだと思いますが、発言内容が正確であっても、決して好ましい行動ではありません。また、誰かが人を批判する発言をした際に、その内容の真偽をめぐって口論になる場合も見受けられますが、内容の真偽を問わず、それが人を傷つけるためになされた発言であれば、決して許されない行動です。


何のために何を言うのか、特にインターネットを通じて、無機質な言葉が舞い踊る中、気をつけ問い直したいと感じます。

先日、ある友人から、次のような話を聞きました。


知り合いが読んでいる本の話をし、自分に何の本を読んでいるのか尋ねたので、多忙なので本はあまり読んでいないと答えたところ、その知り合いから軽蔑するような視線を向けられた。やはり、人間は本を読まなければいけないのだろうか。


皆さんはどのように考えますか。


読書の大切さは、様々なところで説かれ、現代の活字離れを憂う声もしばしば聞かれます。また、若いうちにどれだけ多くの良書を読むかが重要などと言われることもあるように思います。


どれだけの良書を読んだかが、人間としての価値を決める。


果たしてそうでしょうか。


海外の日本と比べればはるかに貧しいといえる国の人たち、本などそうそう読む機会もないであろう人たちが、私たちの心まで和ませるような輝く笑顔を見せている様子、誰しもテレビで一度は見たことがあるでしょう。一方、活字離れとはいえ、どんなに本を読まない人でも、日本人であれば、彼らよりは活字に触れているはずです。しかし、その海外の人たちより日本人の方が人間としての価値が高いと、そう言える人はいるでしょうか。


読書に限らず、人間の価値は何で決まるのかというような言説を聞く機会は時々あります。しかし、私はどうしてもそれに違和感を感じてしまいます。そのような言説には、人間を「値踏み」し、価値のある人間と価値の無い人間を峻別しようとする発想が感じられることがあるからです。


そもそも、人間が同じ人間の価値を判断することなどできるのでしょうか。人間を値踏みする資格がある者がいるとすれば、極端に言えば、それは人間を超えた存在ではないかと思えるのです。医療におけるクローン問題について、「神の領域」が説かれることがありますが、人間が他の人間を「値踏み」するのは、最もお手軽な「神の領域の侵犯」ではないかとさえ感じます。


種々の場面における競争や評価を否定しているわけではありません。問題は、一面だけを見て人間存在の価値そのものに優劣をつけることだと思います。人間としての価値が「軽い」「安い」「低い」などとレッテルを貼られることほど屈辱的な行為は無いのではないでしょうか。


恩師から「誰に対しても同じ態度で接すること」を説かれましたが、その意味の深さが分かってきた気がします。


人間は弱く、一面的な価値にすがり、他者との優劣に一喜一憂するもの。恩師の教えを守るのは、簡単なようで意外と難しいことのようです。


自分も他人も生かす比べようのない価値、誰も同じく持っていて、けれどすべて形を異にする価値、そんな価値を発現していきたいものです。

プロフェッショナル、広辞苑によると「専門家。職業としてそれを行う人」とあります。これによれば、何かを職業として行っている以上、その人はその道でのプロフェッショナルということになるように思います。また、個人的には、生計を立てるための仕事でなくても、一定の役割をもって社会にかかわる活動をしている人もプロフェッショナルといえるのではないかと考えています。


ところで、プロフェッショナルとして必要なこととは何なのでしょうか。


専門的な知識や技能が一番最初に思い浮かぶかもしれません。しかし、それ以上に大切なものがあるように思います。


プロフェッショナルであればこそ、常に専門的な知識や技能を磨いていかなければなりません。これは、言い換えれば、プロフェッショナルであれば、その知識や技能が常に「不十分」と捉えなければならないということにもなるのではないでしょうか。だとすると、プロフェッショナルは、新人からベテランまで程度の差はあるにしても、常に不十分な知識と技能で仕事に当たっていることになります。


不十分な知識と技能という不安定な基盤で、それでもプロフェッショナルとしてしっかりと歩んでいくために必要なもの、それがプロフェッショナルとして必要なことではないか、そんなふうに最近感じています。


では、その必要なものとは何かですが、自分の、周囲の、社会の現状をきちんと把握し、自分に求められている役割を認識し、周囲に、そして社会にとってより良い結果をもたらすべく役割を果たしていこうという気概なのではないか。まだ未熟すぎる私ではありますが、それが現時点での思うところです。


専門的な知識や技能が高くても、自分が目立つことや自分の考えを通すことに躍起になり、周囲を顧みず、仕事を停滞させ、社会に不利益をもたらすのであれば、それはプロフェッショナルとしてあるべき姿とはいえないのではないでしょうか。逆に、知識や技能が多少不足してても、自分の役割を認識し、より良い結果を目指す気持ちがあるのであれば、道は開けていくようにも思います。


知識や技能がより深化していく現代社会で、私などは付いていくだけで一苦労です。しかし、一方、知識や技能に振り回されて、その知識や技能が人を傷つけ、社会を壊すような現象がありはしないでしょうか。


知識や技能が高いだけで偉いことにはならないでしょう。なぜならば、知識や技能は道具にすぎません。使い方を誤れば、性能の良い「凶器」にもなります。それを使いこなす「人間」こそがプロフェッショナルなのではないかと思うのです。

転勤により群馬を離れて約3か月、久しぶりに前の職場に顔を出してきました。顔ぶれは私のいたころとあまり変わっておらず、皆さんの元気な姿を見ることができ安心しました。皆さん温かく迎えてくださり、本当に嬉しかったです。もう少しここにいたかったと思わせてくれるような所でした。


環境が変わり、まだ不安の中で日々働いていました。前の職場に顔を出すことで後ろ向きになるのではないかという恐れの気持ちもありました。


しかし、古巣の方々と話して、忘れていた大事なことを思い出したような気がします。


自分の力なんて大したものではありません。もっと言えば、一人の人間にできることなんて限られています。だからこそ、皆の、一人一人の「想い」に大事に向き合う、そして、紡いで、皆にとってより良い結果に、未来に繋げるような生き方をしていきたいと思いました。


“夜回り先生”水谷修氏は「想いは、語るものではありません。そっと置くもの。そっと生きるもの」と言っていました。私は群馬の職場に私なりの「想い」を置いてくることができたと、そう信じたいです。


群馬の職場の皆さんに、再度感謝したいと思います。ありがとうございました。


“迷い”と“願い”の街角で-利根川「古巣」

最近は表立って話題に上らなくなっていますが、学校に行かず、就職せず、職業訓練も受けていない、「ニート」の問題は、まだまだ深刻なままでしょう。親の依頼を受け、「ニート」状態の人を社会生活へと促す「レンタルお姉さん」たちの姿や活動を紹介したのが、この荒川龍著『レンタルお姉さん』です。


本書では、著者がレンタルお姉さんたちの活動に同行するなどし、そこで目にした彼女たちの行動や人となりが描かれており、それを通じて、今の社会において失われつつある「他人を尊重し、共感することから始める人間関係の結び方」の持つ可能性が示されています。


レンタルお姉さんは、手紙、電話、訪問と、時間をかけて「ニート」状態の人たちと交流し、その生活の変化を促す、「学歴や社会的な肩書に縛られず、個人として互いを認め合うことだけが手がかり」の仕事であり、そこで体現されている「人が人に会い、話し、何かを伝えるということが、本来持っている底力」は、「ニート」支援のための特別なテクニックではなく、社会一般で誰もが活用できる普遍的なものです。本業の傍ら活動している「レンタルお兄さん」が、活動で得た経験が本業の職場で活きたとするエピソードもあります。


それゆえ、レンタルお姉さんたちも、活動で様々な技能等を培い、駆使しているものの、「普通の人」としてそれぞれ個性を活かして働く姿が強調されています。著者は、レンタルお姉さんを「ニート支援に情熱を燃やす無私な女性」とイメージするのは正確でなく、「自分らしく生きたい、働きたい、と試行錯誤してきた普通の女性たち」であり、唯一普通とは異なるのが、この仕事を通じて「実人生で求めてきたものを、それぞれ確実につかみとっている点」としています。


人を本当に幸せにするものは、不幸から救うものは何か。その答えが、立場、肩書、制度、効率といったものを優先するモノクロの世の中で見えにくくなっている一方、決して特別な存在ではないレンタルお姉さんがその答えを実現している姿が何とも鮮やかに感じました。

レンタルお姉さん/荒川 龍
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この4月、異動のため2年間過ごした群馬の地を離れました。


研修後の最初の赴任地である群馬で、初めて一人暮らしをしました。この2年の間に、新たに始まった業務により職場は激変し、私生活においても母の死を経験するなど、色々なことがありました。


それでも楽しい2年間でした。仕事を通じて色々な人と出会い、一緒に働き、交流を結ぶことができました。この地を去ることがこんなにも寂しいことになるとは思いませんでした。


この地、そこでの仕事、一緒に仕事をした方々、すべてに本当に愛着があります。できることなら、もう少しいたかった。去り難い気持ちが強いというのが正直なところです。


今度の地では、当然ながら職場環境は全く異なり、仕事の内容も違うもので、不安を感じざるを得ません。それがさらに後ろ髪を引かせます。


しかし、振り返ってみれば、群馬で曲がりなりにも私が仕事をまっとうできたのは、それこそ、一緒に働いた方々のおかげでした。その方々が、支え、認めてくれたからこそ、頑張ることができました。群馬での私の仕事は、周りの方々にやらせていただいたものだと思います。


そうであれば、私は、大きな感謝と思い出を胸に、自分の道を新たに歩んでいかなければならないのでしょう。


群馬の地で私がやるべきことは、いったん終わりを告げました。そこはもう私の「いるべき場所」ではありませんが、私にとって大事な場所であり、一緒に仕事をした方々が大切な人たちであることに変わりはありません。


いつかまた、きっと行きたい、きっと会いたい、そのためにも、前向きでありたいと思います。


微力ながら、また、自分にできることをやりながら、無理せず、焦らず、真っ直ぐに一歩一歩進んでいきます。


皆さん、本当にありがとうございました。


さようなら、赤城山。


“迷い”と“願い”の街角で-赤城山「去る時」

11歳の時に骨肉腫というガンの診断を受け、13歳でこの世を去った猿渡瞳さん。その母親直美さんが、母娘のガンとの闘いを描いた手記が、この猿渡瞳・猿渡直美『ママ、笑っていてね・ガンと向き合い、命を見つめた娘の贈り物』です。


「ガンとの闘い」というと、苦痛に耐え忍ぶ壮絶な状況を思い浮かべてしまいます。しかし、この本からは、そのような状況があったことはうかがえはするものの、中心として描かれているのは、「明るさ」や「前向きさ」、「優しさ」や「思いやり」をもって生き抜いていった母娘の姿であり、それこそが、瞳さんと直美さんの「闘い」でした。


そのような前向きな生き方、闘いにより多くの奇跡が起き、余命半年の宣告にもかかわらず、瞳さんは2年間生き続けたばかりでなく、周囲の多くの人に大きな影響を与えた様子が感じられます。


若干11歳にして骨肉腫にかかるという過酷な運命、しかし、瞳さんと直美さんは、その運命から逃げることなく、しっかりと受け入れ、そして闘います。命を見つめ、運命に感謝し、闘い抜きます。だからこそ、この本は、過酷で悲しい現実が描かれているにもかかわらず、「幸せ」があふれているのでしょう。


ガンを告知した直美さんに言った瞳さんの言葉。「・・・ママがガンじゃなくて、あたしがガンで本当に良かった。ママがガンだったら、あたしのほうが辛くて一週間も生きていけなかった」「あたしだったらガンなんかに負けないもん」「ママ、教えてくれてありがとう」


体は弱りきっていても、前向きに闘うこと、生きることを最後まであきらめなかった瞳さん。「私の体、ありがとう。骨肉腫、ありがとう。もう演技は終わったよ。これからは最高の健康体になるからね。この苦しみを知ったおかげで、たくさんの人の痛みが分かるようになれたから、世界中の人を救いに行けるあたしになれたよ。あ・り・が・と・う」


心の中で瞳さんと一緒に生きる直美さん。「いま私は、人生の幸、不幸は生きた時間の長さで決められないと思っている。いかなる環境に置かれようと、決してあきらめず、ハードルを乗り越えることができれば、人は幸せになれると娘が教えてくれたからだ。だからわが家は、大切な長女・瞳を失っても、そのハードルをそれぞれが乗り越え、いまを大切に幸せに生きている」


ほんの些細な小さな事でさえ、逃げたくなり、受け入れることを恐れてしまう私です。まだとても、この母娘のようにはなれません。「自分らしく」という言葉はよく使われますが、本当に自分らしく幸せに生きるためには、覚悟をもって運命を受け入れる以外にないのでしょう。それができない一方で、外部のよく分らない糸に縛られる自分がいます。しかし、本当に行くべき道がほかに無いのなら、少しずつでも歩んでいきたいと思うのです。

ママ、笑っていてね ガンと向き合い、命を見つめた娘の贈り物/猿渡直美
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ご無沙汰しております。新年いかがお過ごしでしょうか。


さて、年末年始も、危機的な不景気という暗い話題が闊歩し、その象徴のような形で「年越し派遣村」がメディアに大きく取り上げられました。そして、当然の如く、「派遣切り」にあった方々への同情の念、社会的な対策を求める声が聞かれたほか、逆に自己責任を強調する意見も出てきました。


自己責任、もはや使い古された言葉です。自分の行為の結果については、自分が責任を負うこと、これは確かに、自立した人間として生きるために必要なことでしょう。生きる上での心構えとしては、納得できるものです。


しかし、不遇な立場に置かれた方、不幸に見舞われた方を放置し、切り捨てる理由として、自己責任を持ちだすことには大きな違和感があります。人は誰しも完璧ではなく、置かれた境遇や状況も様々です。その各々の事情を把握しないまま、自己責任など問えるのでしょうか。


否、そもそも不幸が生じた経緯・理由など重要ではありません。この世に不幸が生じたとき、それに手を差し伸べない理由などあるでしょうか。たとえどんな理由があるにせよ、不幸はそれ自体対処すべき問題であり、放置していいものではありません。人は誰しも幸せに生きることが必要なはずです。不幸になっていい人間はいません。人間が不幸になる正当な理由など、あっていいはずがありません。


そうはいっても、現実は不条理が渦巻き、すべての人の幸福の実現は極めて困難な課題です。しかし、ここで諦めて、不遇な立場の方を切る理由を探し、その正当性を語るのか、それとも、すべては無理でも、可能な限り一人での多くの幸せを企図するのか、その差は大きいと思います。


私事になりますが、ボランティアで子どもたちに会う機会があり、その際に思うことがあります。子どもたちには「皆に幸せな未来が待っている」と、それが嘘というなら、せめて「皆が幸せになれるよう、頑張るよ」と言ってあげたいのです。口が裂けても「この中の半分は幸せになれるけど、半分は無理だよ」などと言いたくはありません。


また、子供のころだけ夢を見させておけばとばかりに、現実を遮断し適当に耳触りのいい綺麗事だけ子どもたちに聞かせるような無責任なこともしたくありません。子どもたちに綺麗な夢を描けというのなら、せめて大人が今の世の中を少しでも綺麗にする努力をすべきです。


私も無力な人間で、自分のことさえままなりません。それでも、一人の大人として、子どもたちにより良い未来の社会を提供するため、可能な限り何かをやりたいと思うのです。その何かを、今年も探したいと思います。