“迷い”と“願い”の街角で -22ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

“結果とプロセス、どちらが大事なのか”、これは、しばしば見られる問いかけです。この問いには一般論としては答え難く、置かれた具体的な状況次第という側面が強いのかもしれません。


スポーツの世界では勝ち負け、つまり結果が重んじられるように思いますが、そこにおいて「勝てるかどうかは、相手チームに聞いてみましょう」などと言ったらどうなるでしょう。


しかし、この言葉は、元サッカー日本代表監督イビツァ・オシムが発したものです(木村元彦『オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える』)。ジェフユナイテッド市原・千葉監督の時代に、いくら勝っても内容が悪ければ観客は来ないと言い、「だからこそ、しっかりとしたチームを作りたい」、「そこから先、つまり勝てるかどうかは、相手チームに聞いてみましょう」としたのです。


では、イビツァ・オシム監督は、結果を出せなかったのかといえば、ご存知のとおり、目覚しい成果を出したのです。また、上述の言葉を見ると、“甘い”監督にも思えますが、その厳しさは有名なようです。


オシム監督は、試合前のミーティングで、「集中できずに、ピッチで寝るのなら、ホテルに帰って寝ていてくれ!」と厳しい言葉を投げる一方、「もし負けるようなことがあっても、自分たちのできることをすることで我々のプレーを見せよう。やることをやってもし負けるのなら、胸を張って帰れるはずだ」と言いました。


結果よりも大事なものを見据え、その大事なものを極めて厳しく追い求めていたということなのでしょう。結果を気にしてプレッシャーに負けては力は出せませんが、ただ結果を気にしないだけでは甘え、逃げることのようにも思えます。自分ができることをやることに徹底して集中すること、やるべきは、唯一つこれのみなのかもしれません。


「モチベーションを上げるのに大事だと思っているのは、選手が自分たちで物事を考えようとするのを助けてやることだ」「まずは自分たちのために、自分のやれることをやり切るということが大事だという話をする。次に、対戦相手が自分たちと試合をするに当たって何を考えて臨んできているかということを思考させる」


自身の力だけでどうにもならないことを思い悩んでも不安になるばかりでしょう。やるべきことが明確になれば、その不安は消え、後ろ向きに悩むことなく、前に向かって考えることができるように思います。


表面的な結果に一喜一憂することも、過大な成果を求めて潰されることも無く、厳しく「あり方」を問う姿勢に、多少趣旨は異なるかもしれませんが、マザー・テレサの次の言葉を思い出しました。「もしも私たちが謙遜ならば、ほめられようと、けなされようと、私たちは気にしません。もし誰かが非難しても、がっかりすることはありません。反対に、誰かがほめてくれたとしても、それで自分が偉くなったように思うこともありません」(『マザー・テレサ―愛と祈りのことば』)


決して簡単なことではないのかもしれませんが、自分を失わず、自分に閉じこもらず、世界に向かって自分であるために、心がけなければならないことなのでしょう。


なお、オシム監督の次の言葉も、強く印象に残りました。


「試合や練習の中で、何かが起こったら怒鳴られる選手というのが選手の中で必ず決まってくる。そいつのせいじゃなくてもそいつが怒鳴られる。それが怖い。その雰囲気の中で監督までが、そいつを怒鳴っていたらどうなるんだ?」


オシム監督は、選手を先入観で見ず、平等に扱うと言われており、上記はその平等性について語られたものです。余裕を無くし誰かに矛先を向けてしまいがちな今の時代において、気にとめておくべきことのように思えました。


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正月休みに読んだ本が非常に印象に残りました。パール・バック『母よ嘆くなかれ』です。


アメリカの女性作家であるパール・バックの一人娘キャロラインは、知能の発達が見込めない子でした。この『母よ嘆くなかれ』は、パール・バックが、その過酷な現実に向き合い、受け入れ、キャロラインと自身にとっての幸せを求めていく旅路を記したものです。


この本は、同じような境遇の母親に向けて書かれたという側面が強いですが、それに限らず、苦しい現実とどう向き合うのかという普遍的な問題について、参考となる要素がとても沢山盛り込まれています。


パール・バックにとって、ある発想の転換が、その苦しみを和らげるきっかけとなりました。「どうしてこのわたしがこんな目に」という疑問に答えが無いと悟った彼女は、「意味のないものから意味をつくり出そう」、「答えをつくり出そう」と決意し、「娘がそういう人間であるということ、彼女が生きているということ、そのことが人類にとって有益なものでなくてはならないのです。娘の生命はみんなのようではないとしても、彼女だけのあり方で価値あるものと認めなくてはならないのです」とします。


この発想は、ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』の「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ」との記述に通じるものがあるように感じました。


この世の現象に「意味」はあるのでしょうか。少なくとも目には見えません。しかし、目に見えないといって「無い」ともいえません。確かに、「意味」は、もともと存在するというには若干頼りないですが、人間が主体的に「意味」を見出し、信じ、そして行動によって表出していったときには、強い存在感を持つように思えます。


また、パール・バックは、過酷な現実に「なぜ」と問わなくなったのは、「自分自身のことや悲しみについて考えるのをやめて、娘のことだけを考えるようになったところ」にあるとし、「わたしが、自分を中心にものごとを考えている限り、人生は耐えられないものであったのです。そしてその中心をほんの少しでも自分自身から外すことができるようになったとき、悲しみはたとえ安易に耐えられないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解できるようになったのです」と言います。


夜回り先生こと水谷修氏は、自分への執着から苦しみ何も出来ない状況を、「自分病」と呼んでいました。自分を見失ってはならない一方で、社会的な生き物であり、そもそも世界の一部である人間は、他者と、そして、より広く世界とのつながりを実感していなければ、幸せを得にくいのでしょう。苦しみは人を内向きにし、そして自分に執着することが余計に苦しみを増す悪循環があるのかもしれません。自分への執着を捨て、周りの他者に、自分を包む世界に目を向けることで、この悪循環を断つことができるのだろうと思います。


そして、最後に、単純ですが、強烈に目に焼きついたのは、「どんな人でも、人間である限り他の人より劣っていると考えてはなりません」という一文です。


普通に生活していても、この意識を保つことは必ずしも容易ではありませんし、苦境となればなおさらです。簡単な一文ですが、自身に宿る魂に、命に唯一無二の価値を認め、他者の中にもそれを見なければ裏打ちされない、「人間の尊厳」を表すものに思えました。

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2010年も残すところ僅かとなりましたが、皆様にとって2010年はどのような年でしたでしょうか。


さて、知人のブログで、「その人がいいと思う部分や共感できる部分が本の中にあれば読書する意味があると思う」という記述を目にしました。


これを読んだときに、これとの重なりを感じさせる文章を思い出しました。


「自分と同じ孤独や悩みを書物や映画の中に見つけ、それに共感し学ぶことが心の成長となる」というもので、読売新聞の人生案内(2010年2月17日)で、心療内科医の海原純子氏が紹介しているもので、アメリカで出版されたばかり(当時)の本にあった言葉とのことです。


確かに、共感できる作品は心に残りますし、共感できそうかが作品を選ぶ際の大きな基準にもなっているように思えます。


では、共感の先には何があるのでしょうか。


ところで、私の好きな漫画本に、城アラキ・長友健篩『バーテンダー』があります。魂を救うための一杯“神のグラス”を目指すバーテンダー佐々倉溜を中心に、様々な人間模様と孤独を癒すためのサービスを極めようとするバーテンダーの姿を描いたものです。


その中に、このような言葉がありました。


「立ち止まる旅がある。振り返る旅がある。そしてまた歩き出す。一番長い旅は、自分の魂に向かう旅だから」


共感することは、自分の中の感情に気づき、認めることにつながるのでしょう。そうすれば、さらにそれを深めていくことができるのだと思います。


誰にでも輝く魂があって、しかし、その魂の声をきちんと聴いて、それに正直に生きることは非常に難しいことなのではないかと感じることがあります。


魂は奥深く、一生かかっても極めることができないのかもしれません。だからこそ旅を続けるのでしょう。心の声に気づき、認め、深めていくことで、自分の魂に向かう旅を続けていくのでしょう。


来年は、どのような旅になるでしょうか。


それでは、よいお年をお迎えください。

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平成9年に社会を震撼させた“あの事件”を覚えていらっしゃいますでしょうか。当時14歳の少年が、児童を連続して殺傷した神戸連続児童殺傷事件です。忘れるはずも無い事件ではあるものの、思い起こす機会は最近ありませんでした。

しかし、ふとしたきっかけで、知人からこの事件に関する書籍をまとめて借りることとなり、読んでいくうちに、当時のことを思い出すとともに、この事件について今まで知らなかった数多くのことを知ることとなりました。

高山文彦著『「少年A」14歳の肖像』では、取材者としての著者の目から少年Aの軌跡が追われている一方、
「少年A」14歳の肖像 (新潮文庫)/高山 文彦
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酒鬼薔薇聖斗の告白―悪魔に憑かれたとき/河 信基
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彩花へ―「生きる力」をありがとう (河出文庫)/山下 京子
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淳 (新潮文庫)/土師 守
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「少年A」この子を生んで……―父と母悔恨の手記 (文春文庫)/「少年A」の父母
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校長は見た!酒鬼薔薇事件の「深層」/岩田 信義
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少年A 矯正2500日全記録/草薙 厚子
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朝、うちで飼っている犬の声で目を覚ましました。柱に綱が巻きついて動けなくなっている様子、いつものことです。綱を解くと、途端に散歩モードになり、催促に負けて、朝食も食べないまま散歩に連れて行くことになりました。


散歩の帰り道、近所に住む小母さんと出会いました。私が子どものころからよく知っている方で、散歩の行き帰りによくお会いします。もう90歳くらいだと思うのですが、しっかりした元気な方で、会うといろいろと立ち話をします。


ただ、今日の話は重い内容だったと思います。私は知らない方ですが、近所に住む方についての二つの話でした。


一つ目は、その小母さんの隣の家に一人で住んでいる男性の話でした。以前は、両親そして祖母と4人で暮らしていたとのことですが、祖母と父親を相次いで亡くし、母親と二人だけになってしまったそうです。しかし、しばらくして、その母親も、その男性を残し、部屋で自ら命を絶ってしまったとのことでした。


二つ目は、そこから少し離れた家の女性とその母親の話でした。以前、小母さんは、その女性が散歩しているのをよく見かけたそうなのですが、年ごろになっても結婚しないでいたのを小母さんは不思議に思ったとのことです。しかし、しばらくすると、その女性が散歩するのを見かけなくなりました。もともと体が弱かったのでしょうか、寝たきりになってしまったようなのです。結婚しなかったのもそれが原因なのかもしれないと言います。父親は既に他界しており、母親が一人でその女性の世話をしているそうです。


小母さんは、最初の話では、家族を全て亡くし一人で生活する男性、そしてその母親が抱え込んだ自殺するだけの事情、また、次の話では、親がずっと子を看病していかなければならない母娘の境遇に思いを馳せつつ、「運命」という言葉を口にしていました。


こんな身近に、人生を絶望させるに足るような重い運命があることを、改めて思い知らされました。


人は皆、軽重と言っていいのか分かりませんが、それぞれ異なる運命を背負って生きているのでしょう。そして、苦しみ悩みながら、向き合い方を見つけているのだろうと思います。


今回の話の方々が、その運命に如何に向き合っているのか、それは私には知る由もありません。なので、無責任なことは言えませんが、あくまで、私の願望として、苦しみを伴う運命が、「不幸」とは必ずしも一致しないと信じたいです。


不幸な人は人を幸せにはできないと言います。しかし、苦しみを背負う人が、同じ苦しみを背負う人等と共感して、癒しあい、希望を与えることはよく耳にします。それは、苦しみと不幸が同一ではないということを証明しているように思うのです。


自分だけに課された運命に、自分なりに向き合うこと、そこに人生の尊さが見える気がします。


最後に、最近目にして印象に残ったヘレン・ケラーの言葉です。


“Let Us Have Faith” (1940)より

Life is either a daring adventure, or nothing.

To keep our faces toward change and
behave like free spirits
in the presence of fate is strength undefeatable.


当然ながら様々な日本語訳があるようですが、自分なりに訳すと次のとおりです。

「人生は、果敢な冒険か、無かのいずれかである。運命の御許で、変化に向き合い、自由な精神を体現することが、何事にも負けない強さとなる」

サン=テグジュペリの童話『星の王子さま』、人から薦められて最近初めて読みましたが、ただの子供向け童話として片付けられない、深い人生観と社会批判が込められた内容に感嘆しました。

“大切なものは目には見えない。その真実を人間は忘れてしまっている”と、この童話では繰り返し語られています。


王子さまは1輪のバラと面倒を起こして自分の星を去り、様々な星をめぐった後、地球にやってきます。王子さまは、かつてそのバラから、バラは宇宙で自分1輪だけと聞かされていましたが、地球で、たった一つ庭に咲き乱れるたくさんのバラを見て愕然とします。


しかし、王子さまの友だちになったキツネは、王子さまに、「心で見なければよく見えない。大切なものは目には見えないんだ」と、そして、「君が君のバラのために割いた時間のために、君にとって君のバラは世界でたった1輪のかけがえのないものになっている」と教えるのです。


目では見えない心で見る真実、これは子どもじみた空想なのでしょうか。大人の世界では心で見る真実などに構っている時間は無く、目に見えるものを大切にするようになることが大人になるということなのでしょうか。


確かに目で見えることを否定することは望ましくないでしょう。しかし、主体的に「生きる」ということを考えたとき、自分という人間として、世界をどのように見て、そして何を大切にするのか、それを心で感じることは欠かせないことのように思えます。


王子さまは地球に来る前に立ち寄った星で、大切なものを見失っている人たちと出会いました。「僕はまじめな人間だ」とまくし立てながら、金の勘定に明け暮れ、自尊心ばかり膨れ上がらせてしまった人もいました。地球でも、特急列車に乗り込んでみたものの自分が何を探しているのか分からなくなっている人たちを目の当たりにしました。心で探しさえすれば、探しているものはたった1輪のバラとか、ほんの少しの水の中にちゃんと見つかるのに。


生きること、そして愛することは主体的な営みなのだと思います。心で見ることを忘れると、知らず知らずのうちに流されていってしまうのかもしれません。自分にとって大切なものを心で見据えること、それを「生きること」だと言っても過言ではないのかもしれません。


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結果とプロセスどちらが大切か。誰しもこの問いかけを一度は耳にしたことがあるでしょう。


プロセスを重んじるばかり手段が目的化して、結果が出なくても構わないとすることは望ましいとはいえないでしょう。一方、結果さえ出せればいいとして手段を問わず、人を傷つけても、極端な場合、露見しなければ法を犯してもよいとすることは許されないと思います。


そもそも、結果とプロセスは、どちらが大事かと天秤にかける関係にはないのではないでしょうか。


もちろん結果を出すことは重要です。しかし、人が直接結果そのものをコントロールすることは通常困難で、適切なプロセスを経ることにより結果を出そうとします。プロセスに関係なく結果が出る場合もあるでしょうが、それはたまたま出た結果といえ、結果を出し続けたいなら、プロセスをしっかりさせる必要があるのでしょう。


他方、結果が出るようにプロセスを重んじても、実際には結果を出せないことがあります。この場合、結果が出なければ意味が無いと全否定されるべきなのでしょうか。


しかし、上で述べたように、人が結果そのものをコントロールすることは困難で、否定も何も、最善のプロセスを考え、進む以外に人ができることは無いように思います。また、運や恵まれた環境、そして周囲の人の助け無くして得られる成果など決してないのではないかと思います。


結果を出すことばかりに固執するあまり、それを導いてくれる天や人の助けを忘れれば、かえって成果を遠ざけていってしまうようにも思います。


さらに、過去の成功や実績を振り返るとき、それらがすべて自分の能力や努力によるものと考える謙虚さを欠く態度は、生きることの豊かさを奪い、苦しみを与える意見をはらんでいるのではないでしょうか。


精神科医でありハンセン病患者への支援で知られる神谷美恵子さんは、人生の各段階における心のあり方について論じた『こころの旅』において、「老い」に関しての内容ではありますが、心理学者のエリクソンの「ひとりの個人の一生は単なる一つのライフ・サイクルが歴史のひとこまと偶然にぶつかったにすぎない」という言葉を引用し、また、「人間はどれだけのしごとを果たしたか、ということよりも、おかれたところに素直に存在する「ありかた」のほうが重要性を帯びてくるだろう」としています。


これは、ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』の「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ」、「生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない」という内容とも通じているようにも感じます。


人はその置かれた状況が作り出していく運命に流されるものだとすれば、それに向き合う「ありかた」だけが、前進することを可能にしてくれるのかもしれません。


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「人間は負けるように造られてはいない。殺されるかもしれないが、負けはしないんだ」


言わずと知れたヘミングウェイ『老人と海』で、主人公であるキューバの老漁師サンチャゴは、4日もの格闘の末に巨大なカジキマグロを仕留めますが、その直後鮫に襲われます。冒頭の台詞は、最初の鮫を撃退した後にサンチャゴが口にしたものです。そして、次から次へと襲ってくる鮫にカジキマグロを食いちぎられていきますが、サンチャゴは、手を尽くして闘い続けるのです。


冒頭の台詞には、「自分は負けた」と思っても、そう思っているだけで、決して負けたわけではなく、自分らしく生の歩みを進めていくことを諦める必要などどこにも無いと勇気付けるものを感じます。


また、一方で、「自分は勝った」と思っても、敗者がいることを前提とする勝利は、決して本当の勝利ではないということなのかもしれません。


誰かを打ち負かすことによって得られる「勝利」は、絶えず誰かに打ち負かされることによって失い、「敗北」へと転換される可能性を孕んだ、非常に不安定なものです。また、敗者との関係でしか成立しない不確かなものです。誰にも奪われまいと「勝利」にしがみつき、そのために誰かの「敗北」を望まずにはいられないとしたら、本当の勝利とは程遠いようにも思えます。


ヴィクトール・E・フランクルは、『夜と霧』において、次のように述べています。


「どんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める」。


自分であること、自分として生きること、自分の運命に向き合うこと、勝利に形は無いのかもしれません。

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「広島のある日本のあるこの世界を愛するすべての人へ」


このような一文から始まるのが、広島と原爆を題材にした漫画本、こうの史代『夕凪の街 桜の国』です。原爆の投下から10年後の広島を舞台に、原爆投下時の記憶を重荷として背負いながらも明るく生きる女性・皆実を中心に描いた『夕凪の街』、そして、時は50年を経て現代に移り、皆実の姪・七波が自身のルーツとして広島と向き合っていく『桜の街』へと話がつながっていきます。


背表紙には、「最もか弱き者たちにとって、戦争とは何だったのか、原爆とは何だったのか・・・」とあります。しかし、皆実を始めとした登場人物たちは、原爆の被害者としてその悲惨さを体現しているわけではありません。被爆という運命を背負いながら、自分らしく生きる「人」の物語です。だからこそ、悲しさ、切なさ、温かさ、強さ、優しさ、美しさ、様々な感覚が混然一体となって伝わってくる気がします。


さて、読み手はこの話のどこに魅かれるのでしょうか。私はとても好きな作品ですが、「どこが好きなのか」と問われたら、答えに窮したでしょう。当初は、自分でも分かりませんでした。


その後、自分の中で、ある本がこれに重なりました。ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』です。これは、ユダヤ人の心理学者である著者が、第2次世界大戦中に強制収容所に送られた体験を心理学的な視点から綴ったものです。


この『夜と霧』には、「生きる意味」について、次のように書かれています。


「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ」。「生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない」。

生きることとその要請の「具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない」。

「具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在している」。「運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ」。


分かるような、分からないようなという感じを残しつつも、深く心に残る、どこか腑に落ちる言葉です。

「こんなはずじゃない」と苦しい状況を受け入れず、そこから逃げても、無理して抗っても、ただただ傷つくばかりです。一方で、自分の内なる魂の声を無視して、状況に流されれば、心の渇きに苦しむことになるのではないでしょうか。


状況を見据え、内なる声に耳を傾け、そして運命に向き合い自分の足で歩いていくことができれば、それがその人の人生であり、そこには唯一無二の輝きが放たれるのかもしれません。


世界の中の、日本の中の、広島の地で被爆という運命を背負い、苦しみ迷いながらも、自分の人生を歩んだ『夕凪の街』の皆実。そして、広島、原爆へとつながる自分のルーツに向き合い、その意味に思いめぐらす『桜の国』の七波。どちらも、原爆投下という世界的な歴史的な運命へとつながっていく自身の運命に主体的に向き合っており、そこに静かに輝く「生きる意味」が不思議な魅力を感じさせているようにも思えます。


ちなみに、『夜と霧』には、「殴られる肉体的苦痛は、わたしたちおとなの囚人だけでなく、懲罰をうけた子どもにとってすら深刻ではない。心の痛み、つまり不正や不条理への憤怒に、殴られた瞬間、人はとことん苦しむのだ」とあります。


一方、『夕凪の街』の皆実は、原爆投下について、「誰もあの事を言わない。いまだにわけがわからないのだ。わかっているのは『死ねばいい』と誰かに思われたということ、思われたのに生き延びているということ、そしていちばん怖いのは、あれ以来、本当にそう思われても仕方のない人間に自分がなってしまったことに自分で時々気づいてしまうことだ」と思いめぐらします。


そして、皆実は、思いを寄せる打越に「うちはこの世におってもええんじゃと教えて下さい」と胸の内を明かし、打越は皆実に「生きとってくれて、ありがとうな」と手を差し伸べます。


本当に怖いのは、物理的・外的な加害行為そのものではなく、そこに込められる悪意や敵意。そして、それを真に救うのも、物資による支援などよりむしろ、ただの優しさや思いやりということなのでしょうか。


生きるに当たって、本当に大事なものは何なのか、それを考えさせられました。


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海外でも高い評価を得ている北野武監督の映画作品、最近では『アキレスと亀』が話題になりました。ほかにも、『HANA-BI』や『菊次郎の夏』など、印象に残る作品はありますが、個人的に好きなのが、『キッズ・リターン』と『DOLLS』の2作品です。北野作品に感られる魅力は観る方によって様々だと思うのですが、私にとっての魅力が、この2作品に特に強く感じられるのです。


『キッズ・リターン』は、1996年の公開作品です。勝手気ままに生きている落ちこぼれの高校生マサルとシンジは、あるきっかけからボクシングを始めることとなります。しかし、このボクシングとの出会いは、二人を同じ道には導かず、シンジがボクシングで頭角を現していく一方、マサルはジムから姿を消し、ヤクザの世界へと身を投じていました。そしてさらに、マサルにも、シンジにも、過酷な転機が訪れるのです。


この作品の登場人物たちは、皆それぞれ弱さを抱えた等身大の人間です。人間が弱さを抱えているのは当たり前であり、等身大の人間を描こうとしている作品も少なくはありませんが、ここまで人間が人間として持つ当然の弱さを真っ直ぐに受け止めている作品は、ほかにどれほどあるでしょうか。


弱さゆえ、愚かさゆえ、無様に傷つき倒れますが、他者との比較とは無縁の輝きがそこにはあり、理由を語りえない共感を覚えます。ハッピーエンドとはいえないのかもしれませんが、絶望を感じさせないさわやかさがあります。

「まだ始まってもいねえよ!」


一方、『DOLLS』は、3組の男女の愛を描いたラブ・ストーリーです。しかし、その男女たちは、裏切りに、罪に、運命のいたずらに、孤独に傷つき、大切なものを失い、絶望し、狂気にさえ陥ります。描かれているのは、残酷だからこそ美しい、究極の愛です。


『キッズ・リターン』の登場人物たちが等身大の人間たちなら、この『DOLLS』の登場人物たちは、普通には理解し難い「壊れた」人間たちです。描き方や捉え方次第では違和感や恐怖の対象にさえなってしまうでしょう。


しかし、そんな「壊れた」人間たちにも深い愛があり、むしろ「壊れている」からこそ、残酷なまでに純粋に、そして静かに愛が輝きます。優しい描き方が、その愛を感じさせ、受け入れさせてくれます。残酷な物語ですが、それを静かに見つめる誰かの優しい眼差しがあるのです。


この2作品には、ヒーローもヒロインも不在です。現実でも、誰もがヒーローの衣、ヒロインの衣を着れるわけではありません。しかし、そんな衣は本当に必要なのか、そんな衣を本当に着なければならないのか。


真っ直ぐ、優しく見つめてみれば、ヒーローやヒロインの衣のきらびやかな装飾ではなく、人が人として無条件に持つ魂の、生命の美しく静かな「輝き」を感じられるのかもしれません。


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