“迷い”と“願い”の街角で -21ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

東日本大震災後に流れていた公共広告機構(AC)のCMで、金子みすゞ氏の『こだまでしょうか』が話題になりました。同氏の作品としては、ほかにも、「みんなちがって、みんないい」のフレーズで有名な『わたしと小鳥とすずと』などがありますが、私の印象に強く残ったものとして『しば草』というものがあります。


しば草は、つまらない雑草。その一方で、綺麗な花や玩具にして楽しく遊べる草がある。けれども、原っぱに、そんな草花しかなかったら、遊び疲れても、腰かけることも寝ることもできない。そして、しば草を、「青い、じょうぶな、やわらかな、たのしいねどこ」と讃えます。


誰もが華やかに生きられるわけではありません。そして、華やかに生きる人だけでは、世の中は成り立ちません。目立たずとも、優しく強い生き様があります。


これを、「弱者の視点」ということもできるでしょう。しかし、「弱者」という言葉からは憐憫が感じられるのに対して、この『しば草』からは、そのような印象を感じません。むしろ感じるのは、あらゆる生命への優しさです。


可憐な生き様も、目立たない生き様も、幸せな時も、苦しい時も、それは表面上の様子であって、その奥を見てみれば、変わらない生命の輝きがあります。


表面部分は環境に大きく左右され、その表面部分の迷いや混乱に、時には奥底の輝きが見えなくなってしまうこともあります。そして、表面部分も大事な生命の一部とすれば、それを捨て去ることはできませんし、捨てるべきでもないのでしょう。


しかし、生命の奥底の輝きを見失わないようにはしたいと思います。


私も表面的な迷いからは逃れられない弱い人間ですし、生命の輝きにあふれる世の中が今にもやって来るなどとは考えていません。それでも、自分の輝きを、そして人の輝きを少しでも増していこうとするのなら、それこそが、ほんの少しでも世の中を前に進めることになるのではないか、そんな気がしています。


表面は環境に応じて複雑になり、そうなることが必要ではあるとしても、本当に大事なことは、いつの時代でも、誰もが持っている、非常に単純なことなのかもしれません。

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NHKで放映された「ハーバード白熱教室」では、初めてハーバード大学の講義が公開されたということ以上に、身近なテーマを題材に、正義という大きく深い問題を、学生の積極的な討論を盛り込みながら、鋭く分かりやすく議論を進めていくマイケル・サンデル教授の講義が話題となりました。


私は本放送では最終回しか見なかったのですが、そこでサンデル教授が述べたことが非常に印象に残りました。


「なぜ、永遠に解決できない質問を提起しながらも、これらの議論は続いていくのか、」「その理由は、私たちは日々、これらの質問に対する答えを生きているからだ。」「生活の中で、時に答えなど無いと思えても、哲学は避けることのできないものだ。」


このことは、まさにサンデル教授が講義の中で明らかにしています。身近な意見の分かれるテーマを提示して、学生に議論させますが、そこに正誤は無く、サンデル教授は、学生が出した意見を、学生の中にある答えを哲学的に分析し、解き明かすことで講義を進めていきます。

生きる中で直面する大きな課題には、答えの無い問題が含まれていることが多いでしょう。それに向き合う際に、自分の外側に模範解答を求めても、何も解決しません。今ここにいる自分が、自分自身の中の声に耳を傾けて、歩み方を選ぶことによって答えを出すしかないのでしょう。


自分の外に模範解答を探して答えるのは一時的には楽ですが、模範解答など究極には存在しない以上、出した回答が間違っているのではないかという不安にさいなまれ続けるように思えます。自分が出す答えは、当然自分の責任において背負わなければならないので苦しい面はありますが、背負う覚悟さえあれば、それが本当の意味で自由であるということなのではないでしょうか。


人が、その置かれた状況で出した答えについて、意見や価値観はそれぞれである以上、賛成できる場合もあれば、できない場合もあるでしょうが、直面した課題に対して自身の中から引き出した答えを、少なくとも否定することはできないように思います。


他人を変えることはできません。できるのは、自分としての答えを生き続けていくことでしょう。


植物好きの家庭裁判所判事桑田義雄を中心に裁判官や調査官が問題を抱えた家族や事件を起こした少年に向き合う姿を描く毛利甚八作・魚戸おさむ画『家栽の人』には、次のようなエピソードがありました。


新人の裁判官桐島は、桑田に、「少年の処分を決定するのが不安、自分にそんなことを決める権利があるのか」と漏らします。これに対して、桑田は言います。「処分が厳しいか甘いか、そればかり考えているんじゃないですか。」「それを忘れたらどうです。」「どんなに長い処分を与えても、少年は社会に戻ってくるんです。」「その時・・・その少年が、笑って暮らしている可能性を探すのが、裁判官の仕事じゃないんですか。」


行為に見合った処分の軽重の標準はあるでしょうし、それを度外視することは望ましくないとは思いますが、それを模範解答を示すマニュアルととらえて、それだけにとらわれると、もっと大切なことを見失うということかもしれません。少年の未来のために決定する処分は、まさにその少年に向き合っている者にしか出せない答えなのでしょう。


それでも、その答えが正しいのか間違っているのか、悩みは尽きないかもしれませんが、模範解答に照らしての正誤に汲々としているより、悩みながらでも日々答えを出していくことのほうが、未来へとつながっていくような気がします。

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“つまらなさ”が面白い映画、それが、私が『ジョゼと虎と魚たち』を観た感想でした。インターネット上に掲載された感想は、愛に共感し、切なさに感動して書かれたようなものが多かったので、その意味では、私の捉え方は変わっているのかもしれません。


雀荘でアルバイトをする大学生の恒夫(妻夫木聡)は、あるきっかけで、乳母車に乗り包丁を振り回すジョゼと名乗る少女(池脇千鶴)と出会います。ジョゼは足が不自由で、世間体を気にする祖母はジョゼの存在を隠し、乳母車で散歩に連れ出していたのでした。恒夫は、二人の家を何度も訪れるうちに、次第にジョゼに惹かれていくのです。


これから、結末も含めて感想を書いていきますので、これから観たい方は読まれないほうがいいかもしれません。


この物語は、恒夫と障害を持ったジョゼが惹かれあいながらも、現実の壁に阻まれて別れていく切ない純愛の物語と、そう言えると思います。


しかし、私はそうは観られませんでした。恒夫とジョゼの愛が、軽薄なラブストーリーにしか思えなかったのです。いえ、これだと誤解を招きそうですので、言うなれば、若さゆえの情熱的だけれども過ちに満ちた愛、成熟して振り返れば愛とも呼べないであろう未熟な愛、私が感じたのはそれでした。


恒夫は、ジョゼと出会う前、ノリコ(江口徳子)と体だけの関係を結びながら、香苗(上野樹里)に近づくなど、女性との関係を軽く楽しんでいました。ジョゼとの出会いの後は、真剣に向き合う様が随所で見られますが、ジョゼに迫られた際に、躊躇しつつも押し切られるように体の関係を結んでしまいます。


恒夫は、ジョゼと最終的に別れることとなった理由を「僕が逃げた」と述懐します。恒夫は、軽薄さを捨てきれず、覚悟を決められなかったということなのでしょう。なぜ真剣さを随所に見せつつ、そうなり切れなかったのか。もう一つうかがわれたのは、恒夫の鈍感さでした。


ジョゼがゴミ出しをしてもらうために、近所の男性に胸を触らせていると告げられた恒夫は、中途半端に「おかしい」と言うだけで、口では「仕方ないだろう、帰れ」と言いつつも苦悶するジョゼを残して、その通り帰ろうとしてしまいます。ジョゼは追いすがり、二人は結ばれますが、その際、「胸を触る近所の男性と自分とは違う」と体の関係を躊躇する恒夫でしたが、「どこが違う」と問うジョゼに、何も答えられませんでした。


また、ラブホテルのベッドで、ジョゼは、自分を魚に例えて、寂しささえ感じない暗闇から今いる明るい場所に泳いできたと言いますが、恒夫の返答は眠気もあって気のないもの。さらに、ジョゼは、恒夫との別れの予感を口にしますが、もう恒夫は眠っていました。その恒夫の唇に、ジョゼは静かに唇を重ねます。


一方のジョゼも、気持ちとは裏腹のことを言ったり、車椅子を使おうという恒夫の言葉を拒み、恒夫におぶさるなど、恒夫に対して子供のように甘えていました。その依存もまた、恒夫の決心を揺るがせていました。


ジョゼの持つ障害は確かに二人の関係の負担とはなっていましたが、最後は、特に、その障害への向き合い方を含めた、二人の見解の不一致が、別れへと誘っていったように思えました。愛は確かにそこにあったのでしょうが、すれ違いゆえに伝わらず、表に出てきたものだけでは、軽薄なラブストーリーにしか見えなかったのかもしれません。そのような意味では、ジョゼの持つ障害ゆえに、単なるラブストーリーと一線を画するものではないと感じました。


それゆえ、映画の中で、ジョゼ以外の「健常者」が、障害について語る場面は、とてつもなく大きな違和感を抱かせるものでした。


恒夫の弟隆司は、ジョゼと話した後、「リアル身障者と初めて話した」などと発言します。


そして、恒夫に思いを寄せる香苗に至っては、福祉を志していましたが、ジョゼとの接触により、心の奥の偏見や鈍感さが噴出することとなります。恒夫に、ジョゼが椅子等から飛び降りることについて聞かされていた香苗は、障害に適応して生活の一場面として行っているだけにもかかわらず、「見てみたい」と見世物のような発言をします。さらに、恒夫がジョゼと結ばれると、「身障者のくせに」と悔しさに心を奪われた挙句、ジョゼに「足が動かないあなたの武器がうらやましい」と言い放って叩き、福祉への情熱も消え去ってしまいます。


障害者を聖者のようにとらえる固定観念が、かえって現実を知った際の強烈な差別意識につながるということを聞いたことがありますが、その一場面といえるのでしょうか。


切ない終わり方ですが、私は、これからの長い未来への序章として、決してアンハッピーエンドではないと思いました。


ジョゼが、恒夫との別れの後、電動車椅子で街に出て、寂しくも大人びた表情で家事をこなす場面が出てきます。「甘え」を捨て、「自立」へ踏み出したその様子は、まさに未来へと向けた「成長」にほかならないのではないかと思いました。今は寂しさの中にいても、ジョゼには、次の幸せが必ずやってくると、私はそう感じました。


一方、恒夫も、別れの後、ジョゼを想い号泣します。ジョゼによってもたらされた真剣さゆえに、もとの軽薄な世界には戻れません。その「気づき」が、新しい明日をいずれ招くことでしょう。ただし、恒夫は、ジョゼとの別れの後、香苗のもとに行きますが、香苗のそばで号泣する恒夫と、恒夫の様子に気づかず一方的に話し続ける香苗では、うまくいかなくなるのではと思えてしまいます。「気づき」ゆえの飛躍には、ジョゼ以上に時間を要するのではないでしょうか。


私自身、人を愛するのは苦手です。気持ちをいつからか押さえつけ、自分の心のはずなのに分からなくなり、自分も人も愛せなくなってしまったのではとも思います。そんなコンプレックスが、この映画について、ひねくれた見方をさせているのかもしれません。


それでも、自分を生き続けるしかなく、そこにしか、そして、その先にしか答えは無いのでしょう。ジョゼが一歩踏み出し、恒夫もいずれ歩みだすように、自分でありきるための旅を進めるしかありません。

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“本気で言ったことは、本気で聞かないとだめなんだ”


重松清の短編集『青い鳥』の表題作は、いじめをテーマにした作品であり、阿部寛主演で映画化もされました。


いじめを苦にした自殺未遂の後、転校した野口君。それを機に病欠した担任に代わって吃音の村内先生がやってきます。村内先生は、片付けられていた野口君の机と椅子を教室の元の場所に戻し、毎朝、「野口くん、おはよう」と誰もいない席に声をかけるのでした。


この作品では、いじめに関する重要な問題に対して著者なりの答えが明確に示されているように思います。ひとつは、“いじめとは何か”、もうひとつは“いじめを行った者はどう責任を取ればよいのか”です。


生徒会で「誰かを嫌うのもいじめになるんですか」と問いかけた園部君に対して、「嫌うのもいじめだ」と不機嫌そうに言う教師、みんなから意見を集めて話し合おうという先輩。それを聞いた村内先生は、園部君も、そして皆も間違ってる、でも、園部君が本気で言ったことは本気で聞かないといけない、そう言うのです。そして、嫌うから、大勢だからいじめになるのではなく、人を踏みにじって苦しめようと思うこと、苦しめていることに気づかずに、苦しくて叫んでいる声を聞こうとしないことがいじめなんだと答えました。


野口君はいつも笑っていました。だから、クラスの皆はいじめているという意識がありませんでした。村内先生は、皆が野口君を、その苦しみに気づかないほど軽くしか見ておらず、野口君を踏みにじったと指摘しました。そして、責任として、忘れるなと言います。野口君のような友達とまた会ったとき、今度はその声が聞こえるように。


“いじめとは何か”、その問いに対して、これまでで最も腑に落ちる答えを聞いた気がします。


「正しい者」は、「間違っている者」を踏みにじる権利がある、そんな風潮を感じる一方、「正しさ」を武器にした攻撃に違和感をずっと感じてきました。本気の声から乖離した「正しさ」なら、いくらでも理屈をこねくり回して作り出せます。そして、「正しさ」が本気の声を封殺し、最悪の場合、本気の声を封殺し踏みにじった先に、薄っぺらい「正しさ」へのプライドを獲得しようとすることさえあるのではないでしょうか。


本気の声をごまかして、他人の本気の声を封殺する「正しさ」なら凶器でしかありません。本気の声を本気で聞いたその先に、「正しさ」を見つけていければいいと思うのです。


また、人は皆過ちを犯します。その過ちにどう向き合えばいいのか。村内先生は忘れるなと言います。過去の過ちをただただ悔やむだけなら何にもなりません。しかし、忘れてしまえば、また過ちが繰り返されます。過度の自責も忘却も、過ちと向き合えない弱さの結果でしょう。


映画版では村内先生が「強くなる必要は無い。人は皆弱いんだから」と言っていました。過ちを犯す弱さを受け入れる強さが、過ちと向き合えない弱さを超えさせてくれるのかもしれません。


過ちを忘れず自身の責任として引き受けて、その上に立って歩んでいく。常に犯し続ける過ちを、自分の中に学びとして取り入れて活かしていく。それが生きることの一つの側面なのだろうかと思いました。

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大学時代の恩師が、私を含めたゼミ生の卒業に当たって贈られた言葉が、「人を相手とせず、天を相手とせよ」であり、西郷隆盛が遺した言葉とのことでした。これについて、贈られてからかなりの時間が経った今になってですが、もっと詳しく知りたくなり、神渡良平『西郷隆盛人間学 道をひらく言葉』を手に取りました。この本では、上記の恩師から贈られた言葉を含め、西郷隆盛の遺した多くの言葉が紹介され、それに関する西郷の思想や逸話等が解説されています。

この本で紹介されている西郷隆盛の言葉、思想、行動、振舞は、客観的に賞賛に値するものなのでしょうが、それ以上に、自由かつ豪快でありながら、優しく謙虚であるところに、無条件の魅力を感じます。これは、西郷が、まさに「天」を相手として生きていたからなのでしょう。

「敬天愛人」は有名ですが、「天」を敬い、すべてを受け入れるからこそ、天が人を分け隔てなく愛するからとして、自分と同じように人を愛したり、自分の最善を尽くし、人を咎めることなく、自分の足らないところを反省したりと、強く優しい振舞ができるのでしょう。また、年下の者にも礼儀を払う上下分け隔てない態度や、戊辰戦争で降伏した敵軍への寛大な対応も、「天」に仕えるところに由来しているように思います。

また、印象に残った言葉としては、意訳ですが、「過ちを改めるのには、自分が誤ったと認識すればそれでよく、さっぱり思い捨てて、直ちに一歩踏み出すべきだ。過ちを悔しがり、取り繕おうと心配するのは、割った茶碗のかけらを集めて落ち込んでいるのと同じでどうしようもないことだ」というものです。

過ちを謙虚に受け入れることとと過ちを引きずることは混同されがちで、時として周囲や社会が後者を望み、押し付けることさえあるように思います。しかし、世の中のためには、前者を選び、一歩踏み出すことが望ましいことは明らかです。そして、自分の罪悪感や弱さ、そして時には周囲や社会の悪意が懺悔の牢獄に居続けることを望むにもかかわらず、踏み出すことを可能にするのも、「天」と相対するがゆえなのでしょう。

そして、「天」と相対するのに重要なのは、「己に克つ」ことだといいます。これについて、神渡氏は、「人生には他人との闘いというものは存在しない。あるのはただ自分の弱さとの闘いのみである」としています。

一方、この「己に克つ」ことは、単に自分を押さえつけることとも違うようです。西郷が好んだ佐藤一斎の言葉に「天に仕えるということは、自分をごまかさないこと」というようなものがあります。得てして外部から進入してくる浅い欲望に惑わされずに、自分の中の深いところにある天に通じる魂の声に従え、といったところでしょうか。

これは困難な道にも思えます。しかし、苦しみの多い世の中を生きるためには、これこそ幸せへの道しるべにも思えます。崇高な理想の灯台といえると同時に、「天」が愛し「天」に通じる誰の心にも共鳴する優しげな灯火ともいえるのかもしれません。

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東日本大震災から1か月が経ちました。計画停電も無くなり、少なくとも私の周りでは、震災前とほとんど変わらない日常が戻ってきています。しかし、被災地では、取り戻しようも無い喪失が続いているのでしょう。


今日お会いした方が、被災地の状況を、まるで原爆投下後の広島・長崎のようだと言っていました。


それを聞いて不意に、こうの史代の原爆をテーマにした漫画を映画化した『夕凪の街 桜の国』をまた観たくなりました。いえ、前々からもう一度観たいと思っていたのですが、きっかけができたという方が正しいかもしれません。


私が、どうしてこの作品に惹かれるのか、どこに惹かれるのか、そして、お会いした方の言葉がきっかけではありますが、どうして今、強く観ようという気持ちになったのか、それを見極めたいと思いました。


この映画は、原爆投下から13年後を舞台とした『夕凪の街』と、現代を舞台にした『桜の国』で構成されています。


『夕凪の街』の主人公皆実は、被爆後の広島で優しく前向きに生きながらも、被爆により深い心の傷を負っていました。生きていていいのだろうか、幸せになってはいけないのでは・・・“死ねばいい”という悪意と共に原爆を落とされ、大切な家族を含めた多くの犠牲を越えて生きてきた皆実、彼女に思いを寄せる打越は、「生きとってくれて、ありがとうな」と、その苦しみごと彼女を包みます。


原爆でも、今回の震災でも、沢山の大切なものが失われました。私も、時々思います、「なぜ私ではないのか」と。報道で、待っていた愛する人を残して亡くなった多くの方について知る度に、「どうして、その人が死んで、私が生きているのか」と、「未来を生きる価値は、私よりその人にあったはずでは」と。


亡くなった方の分まで幸せに、前向きに生きることで意味を見出すというのが模範解答なのかもしれません。しかし、そういう気持ちになれない自分がいます。そこに唯一ある感覚は、「無常」というべきものなのでしょうか。


『夕凪の街 桜の国』の登場人物たちは、特別な活躍をしているわけではありません。しかし、そこにはなぜか、人間としての輝きを、大上段に構えない静かな尊厳を感じます。それは、様々な、どうしようもない苦しみを抱えながらも、忘れたい心の傷を引きずりながらも、運命から逃げたり、他者を恨んだり、自分を見失ったりすることなく、ゆえに必然的に、運命の上に立ち、自分の心に、そして他者に誠実に向き合い、生きているからかもしれません。そこには、人間としての強さ、自分として生きる本当の個性、そして、大げさに言えば魂の発現があるように思えます。


原作の作者であるこうの史代の好きな言葉は、ジッドの「私はいつも真の栄誉を隠し持つ人間を書きたいと思っている」なのだそうです。何となく、納得しました。


「真の栄誉」は、人間である限り、誰の中にもあるのではないかと思っています。ただ、それを封印してしまっている場合も多いのかもしれません。一人の人間として、世界に、自分に誠実に向き合えば、それに気づくことができるのでしょうか。そうなりたいと願います。


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先日、東京の実家近くの福祉作業所を兼ねたケーキとクッキーのお店に行ってきました。


以前、母校の文化祭で、ボランティアクラブがそこのクッキーを販売しており、そのときに食べたのですが、さっぱりしていて、生まれてから食べたクッキーの中で一番好きなものになりました。ただ、卒業後は口にする機会もありませんでしたが、急に思い立ってお店に買いに行ってみました。


ところが、確認不足、定休日とは知らずに日曜日に行ってしまいました。店の前で、場所だけでも確認できたことが収穫と思い、帰ろうとしたところ、店の中にいたスタッフの方が気づき、開けてくれたのです。


一番好きだったチョコレートのクッキーを一袋購入したところ、ケーキ一切れとお試しの新製品のクッキーをサービスしてくれました。何より定休日にもかかわらず対応してくれたスタッフの方の笑顔が嬉しかったです。母校の文化祭で買って食べたことや、その店で同級生の家族が働いていることなどを話して、店を出ました。


そして、その品物をバッグに入れ、普段生活している山梨への帰路に就きました。


しかし、中央線が人身事故でストップ。反対側のホームにしか自動販売機が無い、暗く小さな駅に停車したまま1時間も待たされました。時間も時間で空腹になり、人身事故が悲劇だとは思いつつも、苛々している自分がいました。


ちなみに、人身事故が仮に自殺だったとしても、私は、それを、「死ぬのなら人に迷惑をかけないように一人で死んでくれ」などと責める気にはなれません。自殺の裏には多くの場合、精神疾患が関係していることが指摘されており、本当は「生きたい」にもかかわらず、尋常ならざる苦しみの状態によって死に至らしめられるという意味では、ある意味では避け難い事故死や病死と大きな差は無いのではないか、自由かつ明確な意志で死を選択する場合はむしろ非常に少ないのではないかとも思うのです。


さて、話を戻しますが、そこで思い出し、バッグから取り出したのは、いただいたお試しの新製品、オニオンクッキー。お店でオニオンのクッキーと聞いたときに驚きましたが、とりあえず食べてみることに。これがおいしかったのです。甘くないクッキーはあまり好きではないのですが、これは逆にアクセントの効いた塩気があり、甘くも辛くもないものより、ずっと私好みでした。


それを食べるうちに、初めて味わうおいしさへの喜びと共に、お店で対応してくれたスタッフの方の笑顔を思い出し、いつの間にかリラックスしていました。いただいたのはクッキーだけではなく、そこに乗せられた目に見えないもの、電車の遅れなど忘れさせてくれる、より深い何かがあったのではないかと感じました。


それが具体的に何で、そこまでの感じをなぜ抱かせるのかは分かりません。ただ、このよく分からない何かのために、働き、そして生きていると言っても過言ではないような、そんな気がしています。これを忘れずに見つめていきたい、そう感じさせた電車内でのクッキーでした。

毎日新聞のウェブサイトに3月21日付けで「福島第1原発:英雄でも何でもない…交代で懸命の復旧作業」と題した記事が掲載されました。mixiでも紹介され、アクセスと日記への引用のランキングが高くなっています。

http://mainichi.jp/photo/news/20110321k0000e040033000c.html


記事の内容は、「近く現場に入るという下請け会社の30代の男性社員」の、「残っている人がずっと放射線を浴びながら作業していると思われるかもしれないが、実際は法にのっとった管理で人を入れ替えながら作業を進めているので、英雄でも何でもないと思います」というコメントを中心に据えたものです。


非常事態においても、安全に配慮して作業するのはあまりにも当然のことで、これがなされていなかったら逆に大問題だと思います。一方で、上記の男性のコメントから「英雄でも何でもない」という部分を抜き出し、見出しとした記事に違和感を感じました。


作業員を英雄視した海外メディアが取り上げられる一方、インターネット等では、「問題を起こしたのは東京電力なのだから英雄などではなく当然のこと」という意見が見られます。上記の記事がこの「世論」に乗ったものかどうかは断言できませんが、「英雄でない」との趣旨は全く異なります。


さて、英雄視し賞賛する意見と、自業自得とし糾弾する意見、どちらが正しいのでしょうか。


答えなど無いと思います。いずれも「見方」「評価」に過ぎません。「見方」や「評価」は人それぞれです。


しかし、危険と隣りあわせで作業している方々のことを考えると、自業自得との糾弾は悲しく感じます。東京電力の不始末なのだから、そのせいで東京電力の職員が死んでも自業自得と、私はそうは割り切れません。


組織の不始末は、職員が負うべき、それが組織というものだと、観念論としては言えるかもしれません。しかし、個々の職員に、この問題を防ぐ力があったのでしょうか。組織に属する個々人は、たまたまその時そこにいただけという場合が多いのではないでしょうか。少なくとも私は、もし自分が東京電力の職員だったらと仮定したとき、自分次第でこの事故を防げたとは思いません。


もちろん東京電力は今回の問題を教訓に改善に取り組むべきでしょうし、その場合には職員はそれに奔走することになるでしょう。しかし、原発で作業している職員等、そこで働く個々の「人間」に、今回の事故を理由として裁きを下すのは別問題のように思います。


作業に当たる職員を英雄と考えるのかどうか、それは考え方次第です。私は、誤解を恐れずに言うのであれば、英雄視する必要は無いと思います。英雄なんて必要とされない状況が一番なのですから。


望まれるのは、ただただ、今回の深刻な状況が終わり、作業に当たっている方が無事に帰られること、それだけです。任務を終えて無事に帰ってくることに比べたら、それが「英雄の帰還」かどうかなど大した問題ではないと思うのです。


評価することなど忘れて、今まさに苦しみながら奮闘する人たちの無事を祈る。それでは、いけないのでしょうか。

“誰かに必要とされる人間でありたい”、そう思い、願って生きてきました。親や先生も、そういう人間になるよう説いていましたし、社会も、そのような人間に価値を置いてきたと思います。


必要とされる人間であろうとすることは、決して悪いこと、間違ったことではありません。しかし、種々の「思い違い」がここに加わると、自分も他人も傷つける醜悪な事態を招く危険もあるのではないかと、最近感じるようになりました。


すべてを失った「おとうさん」と唯一残った愛犬ハッピーの旅を描いた村上たかし『星守る犬』、その続編『続・星守る犬』の「あとがき」では、次のように書かれています。


「誰かが自分のことを必要としてくれている」・・・と感じたり、

「誰かが自分のことを待ってくれている」・・・と思えることは、

きっと何よりも「幸せ」なことなのだと思います。


「必要とされること」は幸せなことなのです。だから、誰しも、多かれ少なかれ、当然ながら、人から必要とされたいと感じているのではないでしょうか。“誰かに必要とされる人間でありたい”、そう思って生きてきましたが、誰しもがそう思っているということを踏まえてこられたのか、そんな疑問が頭を過ぎりました。


マザー・テレサは、「どんな人間も、いつか経験することになるかもしれない最もひどい病は、自分がだれにも必要とされていない存在だと感じることです」と言いました(ベッキー・ベネネイト編『マザー・テレサ 愛のこころ 最後の祈り』)。


私はこれまで、一面において、自分に生きる価値がないと思って生きてきたように思います。“誰かに必要とされたい”と強く思うのは、すべてではないでしょうが、その反動による側面があるのかもしれません。そして、実際に、誰かに必要とされた経験も、それなりにあると思います。


しかし、私は、きちんと誰かを必要としてきたのでしょうか。さらに、本当に必要とされているのかという不安から、どれだけ必要とされているのかを他人と比べたり、他人よりも必要とされるよう競争したりして、優越で不安を打ち消そうとしてきたのではないか、非常に必要とされている誰かに嫉妬し、その必要性を否定したい衝動に駆られたことはなかったのか、そんな思いが湧いてきました。


そもそも日本社会は、「必要とされること」を奨励する一方で、必要とされない人を「役立たず」と切り捨てがちなところがあるようにも思います。「必要とされたい」思いの強い真面目な国民性も、無価値感からくる不安で暴走すれば、「最もひどい病」である「必要とされない絶望感」をえぐり込む極めて残酷な毒牙にもなりかねないのではないでしょうか。


昨今話題となっている就職氷河期、少子高齢化、無縁社会の問題にも、これが大きく関わっているのではないでしょうか。この目に見えない「最もひどい病」を念頭におくかどうかで、これらの問題は感じ方が大きく変わってくるような気がします。


ところで、仕事は誇りや必要とされている感覚を得る機会にもなりますが、だからこそ、逆にそれらを引き裂き絶望させる機会にもなり得ます。人よりも有能であり、大きな業績を残すことが奨励され、時には、仕事に厳しく、また、自分に厳しければ、人に厳しくすることも美徳とされる場合があります。


しかし、これにもマザー・テレサは警鐘を鳴らします。「大事なのは、思いやりを持って行動することです。能率よく働くことができて、誇りに足る仕事ができるのは、自分だけだと思ってはいけません。そんなふうに思っていると、自分と同じ天分に恵まれていないかもしれない他人に対して、思いやりに欠けた、利己的な厳しい評価を持ってしまいます。あなたがたは、自分たちの最善を尽くせばよいのです。そして、他人もまた、それぞれに最善を尽くしているのだと信じることです。そのうえでまた、小さなことにいつでも誠実であるように努めなさい。小さいことだからといって、思いやりも少しだけでいいということにはなりません。むしろ小さなことにこそ、あなたの力が発揮されるのですから」と(同書)。


蛇足ですが、私は、このことは必ずしも成果主義を完全に否定するものではないと思っています。成果による給与の差異等はある程度容認できると思いますが、問題なのは、それだけで人間としての評価を行い、全人格を否定してしまうような、そこにいる人間の心性でしょう。


自分も他人も、皆が幸せであることが大切というのであれば、「必要とされること」と同じくらい「必要とすること」が大事なのではないかと思いました。そして、「必要とすること」も、「必要とされること」も、その根底には共通して、相手を受け入れ、尊重する心が、そしてその前提として自分を許容する心が必要なのではないでしょうか。


では、何をすればよいのか、それはまだ分かりません。今後の課題の一つとして、考えていきたいと思います。


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“何のために働くのか”、“働くとはどういうことなのか”、多くの方が一度は考え、あるいは、考え続けてきたことでしょう。また、この“働く”は、狭い「仕事」ということだけでなく、世の中と関わる様々な場面も含め、総じて“生きる”ことを指すといえるかもしれません。


城アラキ・長友健篩『バーテンダー』で、次のような場面がありました。


ホテル・バーで働く見習バーテンダー和久井翼は、就職活動のためOB訪問にやってきた大学の後輩を別のバーに連れて行きます。その後輩が、自分にしかできない個性を活かした仕事をしたい、ステップアップを目指さなければ何のために働くのか分からない、と言うのに対して、和久井は、特にサービス業では、それは少し違うと示しつつも、うまく言葉になりません。そのとき、そのバーのバーテンダー東山は言いました。


「言葉にならない言葉を探す。それが大人への第一歩なのかもしれませんね」


そして、卵黄を使った牡蠣の味のするカクテルを作ります。これは、昔、テキサスの草原で高熱を出し、死ぬまでにどうしても牡蠣を食べたいと言う人のために、その仲間が作ったという話があるとのこと、そして、東山は続けます。「草原に牡蠣があるはずがない・・・正しいです。でも大人の世界では正しさよりもっと大事な物もあります」 大人の嘘のほか、「絶望しない魂、信じる強さ、誰かを必要とする謙虚さ、必要とされる喜び、優しさと思いやり、友情と励まし、そして決して金額や地位では証明できない誇り。なぜ人は仕事をするのか、それはいろいろな大人の心を探すため・・・私はそう思いたいですね」


仕事が組織の中で、そして社会の中で行われる以上、その制約はあります。そして、各仕事には、組織的な目的、社会的な目的が付されているのでしょう。しかし、それはあくまで組織的、社会的な観点に過ぎません。私たちが意志や精神を持ち主体的に生きる人間である以上、それとは別に、人間としての主体的な働く目的があっていいはずですし、むしろ当然のことのように思います。


組織や社会では、組織的目的や社会的目的に即した成果が評価されます。そして、それを求めることは決して悪いことではないでしょう。むしろ「正しい」ことです。しかし、一人ひとりの人生において、その働く理由が成果すなわち「正しさ」の追求のみとなってしまうのは寂しく、味気ないことではないでしょうか。


さらに、「成果」を働く目的として、それを誇るとしても、組織や社会において達成される成果は多くの場合一人では不可能なものであり、想像以上に、立場や環境、周囲の協力があってこそのものだろうと思います。


また、「成果」は刹那的に評価されるとしても、人の記憶に、心に残り、本当の意味で世界を創っていくのは「正しさよりもっと大事な物」なのではないでしょうか。


元サッカー日本代表監督イビツァ・オシムは、「プロの世界だから結果は大事。内容が良いかどうかよりも、やはり勝ち負けが注目されるし、それがプロでもある」としつつ、「私としては、いる選手がやれる最大限のことをして、魅力的なサッカーを展開したいと考えている。そういうサッカーを目指すにはリスクが付きものだ。しかし、現代サッカーがビジネス化し大きなお金が動くからといって、そのリスクのほうを狭め、大きなお金のためにサッカーをしていたら、そのサッカーは面白いものになるのだろうか?」とします(木村元彦『オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える』)。


また、マザー・テレサは、「何をするかが問題ではなく、どれほどの愛を、そこへ注ぎ込むことができるか・・・、それが重要なのです」と説いています(『マザー・テレサの「愛」という仕事』)。


さらに、古本屋で購入した神谷美恵子『生きがいについて』には神谷美恵子著作集月報(1)が挟まっており、そこに掲載されていた同氏の「日々」という作品には、ゴッホ展を観に行った感想として、「人は自分であり切らねばならない、ということを再びまざまざと感じて帰って来た。自分のこれから進むべき道をはっきりと示されたように感じた。精神病医として立とうとあがくことのおろかしさよ。私にとって精神医学は最初から単に人間に接触する道ではなかったのか」とありました。


もちろん、組織的、社会的な目的、要請、事情を、個人の心情により無視するのは甘えでもあるかと思います。しかし、それらをある程度相対的に見て、人間としての主体性を失わずに自由な精神を体現していくことは、自身の、そして他者の人生のために、ひいては世の中のために大切なことではないでしょうか。

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