江戸時代の禅僧で、詩人、歌人、書家としても有名な良寛。その残した戒語に「身に過ぎたことすべからず」というものがあります。「身の程を知れ」ということでしょう。
以前も触れたことがありますが、「身の程を知る」という言葉に釈然としない印象を持っていました。謙虚さを表す言葉として使われることも多いですが、使い方によっては、特に「身の程を知れ」という命令の形で使われると、むしろこれほど傲慢に響く言葉も無いとさえ思えたからです。
この言葉が卑屈さを要求するものでなく、そうではない、望ましい身の程の知り方があるとしたら、どのようなものなのでしょうか。
この疑問はしばらく置いておき、少し話を変えたいと思います。
魂を救うための一杯“神のグラス”を目指すバーテンダー佐々倉溜を中心に、様々な人間模様と孤独を癒すためのサービスを極めようとするバーテンダーの姿を描いた城アラキ・長友健篩『バーテンダー』で、印象深い場面がありました。
ミスター・パーフェクトと呼ばれるベテランバーテンダー葛原隆一が、様々な利害の中で葛藤し、仕事に悩む客に対し、「喫茶去(きっさこ)」について語る場面です。
「まあお茶でも飲んで行きなさい・・・という意味です。」「人と人が向き合うとその瞬間に邪念が生まれます。貴賎貧富、利害得失、老若男女にかかわらず等しく『喫茶去』という。誰に対しても恐れず構えず無心で接する。私はこれが人が人に出来る究極のサービスだと考えています。」
また、客の理不尽な言動に納得できず、「お客様は神様なのか」と悩む新人バーテンダー和久井翼に対して、葛原は、次のように言います。
「お客様を神様にしてはいけません。それはお客様をただのお札と見ることと同じです。」「神様があなたのように・・・ただのお札があなたのように悩みますか?」
「金を支払う」という優位性があるがゆえに客に媚びるとすれば、それは金のためであって、「人間」としての客は度外視されてしまいます。確かに、それではサービスも何も無いということになるのかもしれません。
地位、権力、名声などについても同じことが言えるのではないでしょうか。これらがあるために、ことさらに尊重するということは、その力に媚びているだけであって、その人間を尊重しているとはいえないのでしょう。
話を戻して、「身の程を知る」ということについて。そもそも、なぜ人は、身に過ぎたことをしようとするのでしょうか。それは、自分にない地位、権力、名声、財産への憧れ、それを持つ者への嫉妬からなのではないかと思います。
しかし、それらは実際には虚しいもの、葛原の言う「邪念」にほかなりません。そう考えると、「身の程を知る」というのは、地位、権力、名声、財産の乏しさに卑屈になることでは決してなく、それらの虚しさと同時に、より本質的に大切なものを悟り、現状を受け入れることではないかと思えるのです。
そう考えると、地位、権力、名声、財産に富む者が、それを背景に、乏しい者に対して「身の程を知れ」などと言うことは、趣旨を履き違えた言動となるでしょう。
「身の程を知る」ことは、「身の程」よりも遥かに大切なものがあると知ってこそ、できることなのかもしれません。そして、それこそが、本当に誠意を持つこと、謙遜することなのかもしれません。
これは、マザー・テレサの「もしも私たちが謙遜ならば、ほめられようと、けなされようと、私たちは気にしません。もし誰かが非難しても、がっかりすることはありません。反対に、誰かがほめてくれたとしても、それで自分が偉くなったように思うこともありません」という言葉にも通じているように感じました。
最後に、良寛の歌には、このようなものがあります。
「置露に心はなきを もみぢ葉の薄きも濃きも己がさまざま」
自分のあるがまま、恐れず構えず無心で・・・ということでしょうか。
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