“迷い”と“願い”の街角で -19ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

自分よりも、大きな使命のあった人が、もっと世の中に貢献できる人が、多くの人を幸せにできる人が死んでいく。


それを見ながら、知りながら、何もできない自分が生きている。


渡せるものなら、自分の命を渡したい。


こんな思いは、自分を生きれない臆病さから来るもの。むしろ多くの犠牲になった人たちの分まで生きて幸せにならなければいけない。


正論だとは思う。でも、そんな優等生的な回答は、本当に苦しい時には、何の役にも立たない。


必要なのは、励ましの言葉ではない。本気で励ましてくれる“人”なのだ。言葉という入れ物を通じて伝わる、その“気持ち”だ。


それを得られないのは、それを与えてこなかったから。


ただ、矮小な自分の中で我欲が廻っているだけ。


違う景色が見える日が、いつか来るのだろうか。

向上していこうとする気持ちは、とても素晴らしいことだと思います。人が輝き続けるには絶えざる向上や変化が必要なのかもしれません。


しかし、それも少しの差で大変違和感のあるものになってしまいます。


向上の大切さを説くのはいいのですが、「これからの世界は、普通であっては生きていけない。ひと握りの特別な存在にならなければ幸せにはなれない。」というようなメッセージが発せられ過ぎているような気がするのです。


「世の厳しさを認識すべし」というような声もあるのかもしれませんが、多数の人が必然的に不幸になるような発想を肯定することには抵抗を感じずにはいられません。このような考えを持ってしまえば、幸せな人は他人の不幸に鈍感に、不幸な人は、他人を恨むか、自分を恨むか、いずれにしても自分の殻に閉じこもる以外にはなくなります。


そんな向上心は、それこそ我欲でしかないのではないか。


努力するのであれば、誰もが幸せになれる世界を創るために努力したい。


世の中の上っ面の動きに振り回されずに、地に足つけてそこで生きることができるのが、本当の幸せなのかもしれません。そうであってこそ、ほかの誰かをしっかり受けとめることができるのかもしれません。


そのためにこそ、自分を高めていきたいと思うのです。

私は弱い人間です。ずっと、恐れや怯えを抱えて生きてきました。何よりも、そのような弱い自分、臆病な自分に怯えていたのです。


だから力が欲しかったのです。自分をその力で守りたかったのです。勉強で人よりも優れた成績をとること、仕事で人よりも活躍すること、そうすることで傷つかないように自分を守ろうとしていました。


そうしていなければ怖かったのです。傷つけば、自分が自分でなくなるようで怖かったのです。


弱いからこそ力を求めた。だからこそ、本当に怖かったのは、そんな自分の弱さを暴かれることでした。臆病な自分が露呈されることでした。そんな自分を認めたくありませんでした。


しかし、今回ばかりは、そう言っていられなくなりました。自分を守るための力など、環境次第では何の役にも立ちません。


私の目の前には、子供のままの私がいました。他人が、世界が怖くて、不安で、怯えて泣いている私がいました。見たくなかった、目をそらしてきた私がいました。


甘ったれているのかもしれません。しかし、そんな子供の私を抱きしめなければ、先に進むことはできません。


臆病さを庇った私は、なんと傲慢だったことでしょうか。謙虚さの仮面をかぶりながら、弱い自分を守るために、自分は特別だと思い続けたのです。特別なのに謙虚な自分という自己像にしがみついてきたのです。


人助けをしていきたいと思っていました。しかし、その思いは、純粋な貢献の欲求などといった高尚なものではありませんでした。人より力を持って承認されたい。そんな卑怯な感情でした。


弱い自分のまま、その弱さを越えていきたいと思います。弱さに目を背けるためにしがみつく力が強さなのではなく、弱さを認め乗り越えていくのが強さだと思うのです。


自分のために自分の足で歩いていく。その延長線上にあって、人のためにできる何かがあるのなら、それをやっていきたい。それが使命ならば、迷いなく取り組めるはず。力に頼らない強さで、それを行える日が、いつの日か来るのでしょうか。

私は、母方の祖父母と同居していました。ただ、2世帯住宅で、食事等は別々でした。


祖母は神経質で厳しい性格でしたが、反対に祖父は、決して怒ることのない、いつも笑顔の優しい人でした。私は、そんな祖父が大好きでした。


小学校の低学年までは、父母との夕飯が済むと、寝るまでの時間、祖父と過ごすことが多かったです。私の遊び相手として、いつも嫌な顔一つせずに付き合ってくれました。それをいいことに、出した玩具を片付けさせるなど、今思うと恥ずかしいくらい我儘に振る舞っていました。それでも祖父は、常に笑って応じてくれました。


あまりに心配性で、私が2階のベランダに出るだけで慌てるなど、疎ましく感じることもありましたが、何かを押し付けてくることもなく、いつも笑顔で受け入れてくれることが本当に嬉しかったのです。


父母の影響もあり自信を持てなかった私は、学校でも悪口やからかいの対象となりました。泣いて帰ると、母は、ろくに理由も聞かず、「男の子は親が死んだ時しかないちゃいけないの! 分かった?!」と怒るだけでした。「いじめ」を受けるような子供とは思いたくなく、もし「いじめ」があっても対応する方法も分からず、「いじめ」を受けたということを理由に、いつものように「お前の育て方が悪い。」と父に責められるのが怖かったのではないかと思います。親に相談することは有害無益、いつしかそう確信しました。


悪口やからかいの対象にはなったとはいえ、クラス中から無視されるようなことはなく、いつも仲のいい友人は多くいて、先生方にも恵まれました。とはいえ、そんな自信を持てないままの小学校生活を、それでも楽しく過ごすことができたのは、いつでも笑顔で受け入れてくれる祖父の存在が大きかったと感じています。


祖父は私だけでなく、誰に対しても物腰穏やかで温厚でした。そんな祖父が怒るのを、たった1度だけ見たことがあります。


私が小学生のころ、友人の家で、数人でゲームをしていました。最初に私が負けると、友人たちはダンボールで私の墓を作り始めました。普段は多少の悪口やからかいも我慢していましたが、憤慨して帰宅しました。


しばらくして、その友人たちが家を訪ねてきました。憤慨して帰るなど、考えてみれば初めてのことでしたので、友人たちも戸惑ったのだろうと思います。また遊ぼうと言われました。しかし、玄関先で、先ほどのことを思い出し、今度は涙が出てきました。


その時、祖父母と母が出てきました。祖母は、「はっきりしないあなたも悪い。」と私を責め、母も例によって祖母に追従しました。しかし、祖父は私が泣いているのを見て、「一体どうして泣いているんだ! 誰が泣かせたんだ!」と大声を出しました。


祖父の言動は必ずしも正しかったとはいえないと思います。祖父も、後で反省していたようです。しかし、まず怒ることのない祖父が、私のために怒ってくれた。その時は呆気にとられたというのが正直な感想でしたが、今にして思うと本当に嬉しいことです。


小学校高学年になると、さすがに祖父と一緒に過ごす時間は減っていき、小学校卒業の直前、祖父は他界しました。数日前までは元気でいたので、本当に突然の別れとなりました。


それ以降、私は次第に自信を持って生きていけるようになっていきました。しかし、それは偏った脆い自信でした。その脆い自信が崩れないよう、苦しみました。


苦しみの増大をきっかけに、自分の本質的な問題に気づき、生き方を見直す必要に迫られました。今度は少しずつ本当の自信を得ることができてきたと思います。


母は亡くなりました。父との関係は、以前とは比べようがないほど、良好に変わってきました。


しかし、また壁に直面しています。


その暗闇の出口を探していたところで、不意に祖父の思い出がよみがえってきたのです。あんなに好きだった祖父の思い出を、どういうわけか封印していたようです。あんなこともあった、こんあこともあった、それらは笑顔で私を受け入れてくれた大好きな祖父の大切な思い出だったはずなのに、なぜか心の奥底に沈められていました。


見せ掛けだけの成長・自立に縛られて、我儘放題だったあの頃の自分をむしろ認められず、閉ざしてしまったのでしょうか。


今度の壁は、私の醜い部分を私に見せつけています。自分の醜い部分を許すというと、自分を甘やかすなと叱られそうですが、受入れ許すことと正当化することの違いをわきまえ、許していきたいと思います。


簡単なことではないでしょうが、祖父が私を受け入れてくれたように、私は自分のすべてを受け入れることで明日に進みたいと思っています。


私は、祖父に雰囲気が似ているとよく言われます。祖父の温厚さや寛容さの素養を、もし受け継いでいるのなら、自分を含む世界を許し、受け入れ、そこから始めていけるようになりたいと思います。


読んでくださった方、このような話にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

私だけではなく、父も、母も苦しんでいたと思います。父も、母も、本来は優しく善良な人、だからこそ、大切な思い出もたくさんあります。


しかし、全員が認められない苦しさを抱え、分かり合えず、本当の心の交流ができずに過ごしていたのでしょう。


祖母や父から軽んじられ、自分の意志を持たない人生を送った母は、私に対しての優越感を失わないよう必死でした。優勝劣敗の世界で苦しんだ父は、能力の優越でしか私を褒められませんでした。表面的にはいい家庭でも、心は断絶してバラバラ、深い絆を紡げなかったのです。


母は、父が買ってくるものは何でも「美味しい」と言いました。父の顔色をうかがってのことなので、「美味しい」と言いっているのに食べないこともあり、逆に父を怒らせました。母の死後、父は、墓前への供え物を買ってくる際、「お母さんは一体何が好きだったんだろう」とつぶやきました。


そんな父母に私は本音を言えませんでした。小学校の頃、小学生が悩み事を相談する相手として最も多いのが「親」というアンケート結果を見たとき、私は信じられませんでした。親になんて相談できるわけがない、皆どういう心境で親に相談しているのだろうか、と。


私の成績が上がると、父も母も大喜びしました。私の将来の成功だけが、父と母を結びつけ、父と母の生きがいになっていきました。


大学は、国立大学には落ちたものの、難関の私立大学に合格し、私は満足していました。国立大学に落ちたとわかったとき、既に私立大学の合格が決まっていたので、そんなに私は落胆しませんでした。電話で結果を母に知らせ、家に帰ると、母は泣いていました。1時間くらい泣き続けていたのです。父は、職場の同僚に、落ちた国立大学を1ランク上の大学と偽ったそうです。私のことなのに、父も母も自分のことで精一杯でした。実際の私は、父母の心の中にはありませんでした。


家庭が安らぐ場所だという感覚が、私にはありません。


子供の頃、私は父母に、「僕は結婚なんてしたくない。」と言ったことがありました。その時は、なぜそんあことを言ったのか自分でも分かりませんでしたが、虚しいだけの父母の結婚生活への拒否反応だった気がします。そんな私の気持ちに気付いてほしいと、無意識に思ったのかもしれません。


しかし、そんなこと気づくはずがありません。父母だけになったとき、父は、「あいつは何でそんなこと言うんだ? 俺は子供の頃そんなこと言わなかったぞ。」と母に言ったそうです。母は、そのことを後で私に伝えてきました。口にはしませんでしたが、暗に父親の機嫌が悪くなるからもう言わないでくれと伝えたかったのでしょう。


今でも、私は幸せな家庭を築く自信をどうしても持てません。「愛」というものがこの世に存在することは分かります。しかし、利害得失を超えた「愛」のやり取りが自分にできるとは思えないのです。自分を愛してくれる人がいるとは信じられないのです。


ただ、山梨時代にお世話になったカウンセラーからは、無条件の愛情を受けなかったにしては、人格の土台が真っ直ぐであると指摘されました。


何度も言うとおり、父母も本質的には善良で、いい思い出もあったことがあるほか、学校の先生には非常に恵まれ、皆私の話や気持ちを真剣に聴いてくれたことが大きいと思います。


しかし、もう一つ大事なことを忘れていました。とても大きいことのはずなのに、なぜか封印されていた記憶がありました。


加藤諦三著『自分に気づく心理学』の中で「甘えの欲求」の重要さが指摘されているのを目にしたとき、不意にその封印が解かれたのです。


私にも無条件で甘させてくれた、わがままを許してくれた人がいたのです。


誰よりも優しかった祖父の思い出です。

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今日は亡くなった母の誕生日です。


前回、母との関係で傷ついた記憶を中心に書きましたが、いい思い出もたくさんあります。特に、一人暮らしを始めて以降、実家に帰った際に迎えてくれることは心の支えとなりました。


人格を持った一人の人間として認めてくれなかったことは大きな苦しみでしたが、母自身が周囲から認められなかったという事情もあったほか、基本的には善良で優しかったことに間違いはないと思います。私自身が、心の奥の古傷を癒していけば、いい思い出がもっと蘇ってくるのかもしれません。


さて、今回は、父について書きます。


父は、高校卒業と同時に上京し、就職しました。真面目で優しい努力家というのが、本質的な部分だろうと思います。しかし、就職したのは、上下関係の厳しい、体育会系の職場であり、このことが父自身だけでなく、母や私にも影を落とすことになったのだろうと思います。


その職場で培われたものと思いますが、父の価値観は、「優勝劣敗」でした。能力の有無が人間の価値であり、劣ることは許されないと考えていたようです。父は、道徳に反するよりも、能力が劣ることの方を激しく攻撃しました。「悪いこと」については、多少知っておくほうがいいと言う一方で、「できないこと」や「弱いこと」については、徹底して罵倒しました。


私は、父が若干高齢になって生まれたため、大切には思ってくれていたようです。このため、父から直接激しく責められることはありませんでした。しかし、細かな間違いや失敗について、よく嫌味を言われました。会話中の小さな言い間違いは大げさに指摘されましたし、小学校の頃、親子参加球技大会でミスをした時には、帰宅後、「お前にパスしなけりゃよかった」と何度も言われたこともありました。


母は、不器用で臆病な人でした。そんな母を、父は徹底的に責めました。スパゲティを茹でる際、ポットにもう使わないお湯が余っているにもかかわらず、それを使わずにお湯を沸かし始めた母を、父が大声で怒鳴り、叱り飛ばしたことを覚えています。


私に不満があるときは、私に言えないので、月並みですが、母に「お前の育て方が悪い。」と言いました。母も辛かったでしょうが、目の前でそんなやりとりをされる私も身の置き場がありませんでした。


テレビに向かって悪口を言う、画面の中の人を批判するというのは、そんなに珍しくないと思いますが、父の場合その程度が異常でした。目を吊り上げて、徹底的に罵倒し、人格を完全に否定します。あまりの口汚さに、もう聞きたくなく、トイレに逃げ込んだことがありました。


一貫して、「悪い強者」よりも「善良な弱者」が攻撃の対象で、いじめの自殺問題では自殺した方を、振り込め詐欺では騙された方を批判しました。小学校では、弱い人には優しく、命は大切にと教わるのに、正反対の価値観が家では肯定されており、混乱しました。


また、「好み」次第に物事にも「正解」を求め、音楽でも食べ物でも、自分とは違う好みを持った人間を「間違っている。」と批判しました。


父は真面目に働いていたので、お金には不自由しませんでした。父は、母や私のためにどれだけ頑張っているのかを説くことが多かったです。「お父さんの子供の頃なんかは大変だったんだぞ。」「お前は恵まれていいるなあ。」「お前は幸せだなあ。」と言われ、父に悪意はないのでしょうが、何とも言えない居心地の悪さを感じました。


「子供の気持ちを聞くような子育ては嫌いだ。子供がどう思おうと、とにかく親の言う事を聞かせるのが子育てだ。」と言う父に悩みなど相談できるはずもありません。また、「子供がストレスなんか感じるわけがない。」というのも父の持論でした。


それでは、今はどうか。その頃と比べたら、驚く程に穏やかになりました。


加齢の影響もあるでしょうが、抑圧の強い職場を定年退職し、現役を退いたことは大きいでしょう。また、私が一人暮らしを初めて独立したことも影響していると思います。


加えて、母が亡くなったことも原因かと思います。しかし、母の死にショックを受けたというのではありません。母は父に怯え、父のご機嫌ばかりうかがっていましたが、このことは逆に父にとっても重荷だったのではないかと思います。父は、母の死によって解放されたのではないでしょうか。善良な人同士が負の連鎖によって掘り続けた蟻地獄は、片割れの死によって動きを止めたのかもしれません。

私の母は、天使のように優しく、朗らかな人として、親戚や知り合いに評判でした。確かに、一面において、それは正しかったと思います。しかし、その内面は、豊かな人生の代わりに、苦しみと歪みで満ちていました。


母が普通の人とは違うということに気づき始めたのは、いつのことだったか、よく覚えていません。どこが違うかと問われれば、抽象的ですが、「自分」が無いのです。


献身的なのではありません。自分で考えたり、判断したりせず、とにかく周囲に合わせることが母の生き方でした。このような姿勢は、母方の祖母と父の影響だったと思います。


父は、結婚後、私の母の実家に同居していました。いわゆるマスオさんの状態です。ただ、2世帯住宅で、食事等は父、母、私と祖父母とで別々でした。


このため、母は、結婚後も、祖母がなくなるまで祖母と同居していました。


祖母は私に対しては厳しい顔を見せませんでしたが、母に対しては非常に厳しかったと聞いています。それも、専ら学校の成績に関してのことであり、家事や躾を教わることはなかったようです。父が言うには、結婚当時、母は家事が一切できなかったそうです。


祖母は神経質な人だったようです。そして、祖母が怖かった母は、祖母に対して神経質になっていました。祖母は子供があまり好きでなかったようで、小学生低学年の頃、初めて友達を家に呼びたいと申し出た私を母は怒鳴りました。「うちにはお祖母ちゃんがいるでしょ! 何考えているの!」。泣きながら友達に断りの電話を入れたことを覚えています。


ちなみに、その後は、次第に友達を呼べるようになりました。1回呼んでみたら、特に問題なかったということではないかと思います。


さて、父も、亭主関白を是とする人でした。このため、結婚前は専ら祖母に押さえつけられていた母は、結婚後、祖母とは多少距離ができたものの、父に押さえつけられることになりました。


母は、祖母と父の顔色をうかがって生き続けました。父の機嫌を損ねないよう、会話の内容も、父に合わせることに神経を使っていました。母自身が何を考えているか、どう思うかではなく、父が何を望んでいるかが問題だったのです。男尊女卑を好んだ父に迎合して、母が積極的にそれに賛成する発言をする始末でした。


そんな母が、唯一優位に立てるのは、私との関係でした。


母は、私を、育てるべき子供というよりも、世話すべきペットとして扱いました。ペットはただ飼い主に世話され、飼い主を癒していればよいのです。祖母が母に何も教えなかったように、母も私に何も教えませんでした。代わりに、私が何かをやろうとすると、必ず馬鹿にし、からかいました。ペットに自主性や自立など必要ありません。


祖母と違うのは成績のことでうるさく言わなかったところですが、それも小学生まででした。中学生になると成績のことしか頭になくなりました。高校受験時から成績が上がったことをきっかけに、母は優しくなりました。しかし、このことは、母の中では成績イコール人間の価値なのだと確信させるものでした。


母は、時々、突然怒り出すことがありました。内容は機嫌次第であり、翌日には一転「どうでもいい」と言い出すなど、一貫性がまるでありませんでした。父に機嫌次第で気まぐれに押さえつけられた反動ではないかと思います。


祖母や父は、母の話や気持ちを聞こうとはしませんでした。同様に、母は私の話や気持ちを聞こうとはしませんでした。常に一方通行でした。


また、母は極端に責任を負うことを嫌いました。私が小学生の頃、レンタルビデオ店に行ったのですが、カードを私の名前で作りました。母と一緒に借りた作品について、貸出期限超過でレンタルビデオ店から電話がかかってきたときも、何のためらいもなく私に電話を渡し、会話に全く関心を示しませんでした。これも、極端に他者に押さえつけられ自由を奪われた結果なのでしょう。


祖母と父に自信を奪われ、劣等感ばかりだった母。私にそれを転嫁する以外に逃げ道はなく、その自信のなさから、交友関係はどんどん狭まっていきました。父は、自分がその遠因となっていることに気づかず、母の交友関係の狭さを批判しました。


以前は風邪もひかなかった母ですが、リウマチを患い、次第に動けなくなっていきました。病弱や虚弱を蔑視する父は、「体が自由に動かせなくなったら、人間としてオシマイだな。」と言いました。


精神的にも弱っていった母は、唯一といっていい友人に多額のお金を騙し取られました。そんな友人だけが母から離れなかったのです。父は母を激しく責め、その後、母の心身は急激に悪化しました。


64歳、平均寿命から言えば早すぎる死ですが、最後の1~2年間、夜になると母の部屋から大泣きする声が聞こえてきたことを思うと、死によって解放されたと思わざるを得ません。


母は本来、優しく善良な人だったと思います。ここには悪い記憶しか書きませんでしたが、いい思い出だって沢山あります。しかし、母の人生は幸福なものとはとてもいえなかったと思います。優しく善良な人間が、どうして断罪されるかの如き生き地獄を味わうのか、その疑問は胸に刺さったままです。

アダルトチルドレンという言葉をご存知でしょうか。


もともと、アルコール依存症の親に育てられ、成人後も生きづらさを感じている人のことを指す言葉ですが、現在は、アルコール依存症に限らず、機能を十分に果たさない家庭で育てられ、同様に成人後も生きづらさを感じている人を含むようになっています。大人になりきれない、幼稚な大人と誤解されている場合も多いようです。


私は、学生時代までは、生きづらさを抱えつつも順調に生きていました。勉強ならば、努力すれば、まだ何とかなるからです。


しかし、社会人になって、人間関係に大きな障害を感じました。辛く苦しく、どうにもならない状態へと追い込まれました。


「生きづらい」


頭に浮かんだその言葉をインターネットで検索しました。そして出会ったアダルトチルドレンという言葉、地震の欠如や完璧主義、迎合といったその特徴が、自分にぴったりと当てはまりました。


機能不全家族として分かりやすいのは、虐待や育児放棄です。しかし、そんな経験は全くありません。それどころか、怒ることもほとんどない優しい親でした。では、一体どこが機能不全なのか。


機能不全の例の一つに、過保護・過干渉というものがあります。まさにそれでした。


ところで、過保護による後日の苦労を、自業自得だと思われるでしょうか。子供の頃に楽をしていたから、そのツケだと思われるでしょうか。そう思われても仕方ない、そう思うのが自然なのかもしれません。


しかし、過保護・過干渉は、それを受けている当時から大きな苦しみなのです。過保護・過干渉は、親が子どもを思い通りに管理するための、支配するための道具です。


親の意向どおりにしていれば守られ、褒められますが、少しでも外れれば徹底して貶されます。干渉して、子供の感情や性格、好みまで思いどおりにしようとしたかと思えば、子供が自分ですべきこと、やりたいことを先回りしてやってしまい、子供に何もできなくさせてしまいます。そして、暗に、このようなメッセージが送られます。


「お前はどうせ何もできない。だから守ってやる。その代わり言うとおりにしろ。」


この呪縛の恐ろしいのは、縛っている親も縛られている子も、いわば無意識であり、呪縛に気づかないところです。生きている実感のない空っぽの人生に悩み、親の以降から外れないよう極度の不安の中に生きながらも、これが普通と、疑うこともしませんでした。


両親は、それぞれの事情から私を支配しようとしました。そして、それを招いたのは、両親が抱えた苦しみでした。


父、母、私の3人が皆苦しみを抱えながら、それに向き合いもできず、表面的な営みの中で苦しみをさらに増大させる。その果てに、母は、惨めな最期を迎えました。死が母を解放してくれたことを、救いと思わざるを得ません。


父も母も善人でした。善人同士が互いに不幸にし合いました。一体どうして、こんなことになってしまったのでしょう。

この話を書く日が来るとは思っていませんでした。ごく限られた方にしか話したことがない内容です。


最近、仕事を通じて悩むことが多くなりました。それは、もはや、仕事上の葛藤に留まるものではなく、自分の存在そのものを脅かすまでに大きくなってきています。このことは、原因についても、単なる仕事上の壁だけでなく、もっと自分の心奥深くに巣食う何かがあることを意味するのではないかと思います。


この4月に転勤で茨城へとやってきましたが、それまで3年間山梨にいました。そのうち2年間ほど、私はカウンセリングに通っていました。


目の前の勉学や仕事がうまくいっているときだけ充実しているものの、それ以外では自分を肯定できず、自信が持てず、生きること自体が辛く苦しく、疲れ切ってしまったのです。


山梨の前には群馬におりましたが、そのような苦しさを抱える一方、職場の方々が素晴らしく、やりがいを持って仕事をすることができ、楽しく過ごすことができました。


山梨に転勤し、仕事内容と環境が変わったことをきっかけに、苦しみが耐え難い水準へと高まりました。夜寝るときに、このまま目が醒めなければいいと思うようになっていました。ここに至って、初めてカウンセリングを受けようと決意したのです。


カウンセラーの力を借りて、心を整理していきました。そして、徐々に自分を肯定できるようになっていき、改めて仕事にも邁進できるようになりました。山梨の最後の1年間は、本当に素晴らしいものになったと思います。


一方で、一抹の不安も感じていました。仕事がうまくいきすぎたためか、仕事のやりがいが自分を肯定する要素の大半を占めてしまったのです。本当に楽しい時間だったのですが、この姿勢でいることが、そのうち厚い壁に突き当たる結果になるのではないかと感じられたのです。


しかし、苦しみが顕在化しない段階で、これに対処することは困難でした。満たされた状態では、改善点も見えないのです。


その一抹の不安は的中しました。


4月に、再び仕事内容も環境も変わり、再び大きな苦痛を感じるようになったのです。無力感、絶望、無気力が大きくなっていきました。


しかし、後戻りしたわけではないと思っています。山梨での経験に至るまで、然るべき道をずっと一歩ずつ歩いてきたのだろうと、すべてが必要な過程だったのだろうと思います。


山梨で全てが解決したわけではなかった。それでも、山梨において必要な経験をし、それを踏まえて今、さらに上の課題に直面しているのでしょう。


これまで、この話を書こうなどとは全く思いませんでした。それがなぜか、苦難に直面している現在、書こうという気持ちになっています。自分でも不思議でなりません。


それでは、これから何回かに分けて、これまでほとんど誰にも話してこなかった自分のことを書いていこうと思います。

大津市で、「いじめ」を受けていた中学2年の男子生徒が自殺した事件がきっかけとなり、いじめの問題が注目、議論されています。


「いじめ」は、受けた子の心を深く傷つける。だから、「いじめ」はいけない。


当たり前の言説です。しかし、大人は、このことを本当に確信を持って言えるでしょうか。人が人を傷つけることなど、大人の世界では、当たり前のように行われています。何だかんだと理由をつけて、人が人を平気で虐げています。


ストレスが溢れる社会で、余裕をなくした人が理不尽に他者を攻撃する。人は迷い苦しむ弱い生き物ですから、人が人を傷つけることを、無くすことはできないのかもしれません。そういう現実は受け入れなければいけないのかもしれません。


しかし、そのような不条理な現実を、どこかで正当化してはいないでしょうか。攻撃される側を「悪者」として、「因果応報」や「勧善懲悪」などと名づけてみたり、攻撃される側が弱いことを理由にして、「弱肉強食」などと道理を説いてみたり、そのようなことが行われていないでしょうか。


世の中は確かに不条理かもしれません。しかし、思えば、歴史は不条理との「戦い」で進んできたのではないでしょうか。大人が、社会が、「不条理」と戦う姿勢を見せず、それに乗って快楽を得るようなことをしていたら、それを見ている子供たちが、「いじめ」を捨てることなどできないと思うのです。社会では当たり前だが、教室でやるから許されない、そんな軽薄な問題にしては絶対にいけません。


人が生きるに当たって、本当に大切にすべきものは何なのか。その知恵が、忘れ去られてしまっているのではないでしょうか。その「深さ」で物事を考え、感じ、動くことを忘れてしまったことが、社会を迷わせ、そこに生きる人たちを狂わせ、苦しませているのではないでしょうか。


まずは自分が、道理に生きることを諦めない。人は弱さから逃れられなくても、せめて弱さを受け入れて、不条理に抗い、自分らしく生きようとする姿勢を、捨てないようにしたいと思うのです。