“迷い”と“願い”の街角で -18ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

御無沙汰しております。今年も、もうすぐ終わりですね。皆様にとって、今年はどのような1年だったでしょうか。


さて、私は、自分の無力さと、それによる不自由をさを感じる機会が多々ありました。自分にもっと力があれば、もっと自由になれるのにと思ってしまうことがありました。


しかし、それは何かが違うと、思うようになってきています。本当に、力があれば自由になれるのか、と。


力には責任が伴うと、よく言われます。しかし、世の中を見渡せば、力と責任が離れてしまっていることが多々あります。


力を使えば責任から逃れることもできます。責任を伴うべきとされる力は、責任から逃れ、責任を押し付けるための有効な手段となり得るのでしょう。そのような振る舞いをしている人こそ、自由を謳歌している人なのでしょうか。


いえ、自分の責任を否定するとは、自分の振る舞いを否定すること、自分の過去を否定すること、自分を否定することなのではないでしょうか。自分を否定したところに、自由があるとは思えません。


むしろ、自分に責任を持って生きることこそ、自由に生きることなのではないでしょうか。責任を負う覚悟があるからこそ、自由に生きることができるようになるのではないでしょうか。力と責任は離れてしまいがちですが、自由と責任は表裏一体、離そうと思っても離せないものではないか、責任がない自由とは存在し得ないのではないかと思っています。


自由と責任を自覚していれば、力と距離を置いて使いこなすことができるのでしょうが、責任と自由を持たずに力だけ持てば、自分自身が力そのものだと錯覚しかねません。力に固執し、執着し、力を持ち続けることが目的になります。


他者との比較による、相対的な力の大きさに自分を求めれば、自分と向き合う必要も、自分の内面を掘り下げる必要もありません。心も、自由も無くなります。そのような状態を、「強さ」と言えるのでしょうか。


自分を受け入れ、自分であり続けること、自分に責任を持ち、自由に生き続けること、むしろ、それが「強さ」なのではないかと思います。しかし、これは決して簡単なことではないでしょう。


とにかく、今は、精一杯自分を生きていきたいと思います。来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

漫画『はだしのゲン』について、松江市教育委員会が市内の小・中学校に対して自由に読むことができない措置をとるよう要請していた問題で、閲覧を制限することは妥当なのかどうか、意見が分かれています。


歴史に対する認識や表現の自由といった大きな論点が関係しており、重要な問題とはいえるでしょう。


しかし、この問題の中核にあるというべき教育という観点からは、適切な言い方かどうか分かりませんが、「どうでもいい」と思えてしまいます。そして、この「どうでもいい」問題で揺れている社会にこそ、私は恐ろしさと憤りを感じるのです。


今回の閲覧制限の理由について、松江市教育委員会の前の教育長は「漫画の中に一部に過激な描写がある」ことを挙げていたようですが、当然、背景には教育における歴史や国家に対する考え方の問題があるといっていいでしょう。これまで繰り返されてきた「偏った教育」批判の応酬です。


“純粋な子供に「偏った教育」を施してはならない。「適切な教育」を施して望ましい人間にしなければならない。”


子供を入力したプログラムどおりに動くロボットとでも思っているのでしょうか。子供を軽んじすぎてはいないでしょうか、侮りすぎてはいないでしょうか。


子供は、大人が思うよりはるかに世界から学び取り、感じ取っていると思います。教室で教わったことだけが子供を形成するのではありません。親から、兄弟から、友達から、親せきから、地域の大人から、自然から、本から、テレビから、多種多様な物事を自分の感性を通じて理解しているのではないでしょうか。


そう考えれば、小・中学校で『はだしのゲン』が閲覧制限になろうとどうなろうと、子供たちには、ほとんど影響はないのではないかと思います。


むしろ、今回の問題、そして、これまで繰り返されてきた教育をめぐる議論の背景に見え隠れする大人社会の子供観、子供は教えたとおりの人間になるという安直な発想こそ、大きな問題だと感じています。


“正しいか間違っているかは大人が決める。そして、それを子供たちにインプットし正しい人間にするのだ。”


そう主張する大人たちが、それぞれ子供の腕をつかみ、右へ左へと引っ張ります。一体、誰のための教育なのでしょうか。子供を利用しているだけで子供不在の空虚な権力闘争です。


そもそも、子供に限らず人間は、言葉だけで動くものではありません。例えば、「思いやりを持て」と言えば思いやりのある人間になるのか、そうならば教育など簡単です。「思いやり」それ自体に触れるからこそ、思いやりのある人間になるのでしょう。子供に思いやりのある人間になってほしければ、「思いやり」の姿勢を大人たちが身を以て示さなければなりません。


しかし、そんな簡単なことを大人社会は忘れていないでしょうか。


「思いやり」の姿勢をみせない大人社会が、「思いやりを持て」という言葉だけ子供たちにインプットし、その言葉どおりにならない子供を「不良品」扱いする。子供は大人から学んだだけです。建前とは異なる欺瞞に満ちた大人社会をしっかりと学んだのです。


子供は、いえ人間は、ロボットではないのです。他人をロボット化する傲慢な発想が、教育に限らず、日本をあらゆる側面で蝕んでいるように思えます。最近話題のブラック企業の問題にも通じるところではないでしょうか。


大人は、子供を人間扱いするところから始めるべきです。子供をロボットと同一視するような恥ずべき侮りを捨てて、覚悟を持って子供に向き合い、子供から学ぶ必要があるでしょう。人を人と思わないような発想を基にしていたら、どんな議論をしてみたところで、未来にはつながらないと思います。

2012年も、残すところ1日となりました。今年は、山梨から茨城へと異動し、大きく環境が変わったほか、色々なことがありました。


先週、久しぶりに山梨を訪れ、御無沙汰していた方々に会ってきました。温かく迎えてくれて嬉しかった半面、寂しい出来事もありました。


山梨にいた頃に、よく昼食に行っていたうどん屋があり、店の方々も私の顔を覚え、気さくに声をかけてくれて心地よかったのですが、11月で閉店していました。


また、母娘でやっていたラーメン屋があり、そこにもよく行って、閉店時間が過ぎても、小さいお孫さんと遊んだりしたものでしたが、年末で42年の歴史に幕を下ろすことにしたそうです。


私が山梨を去っても、私が馴染んだ山梨は残り続ける、いつでも戻れると、心のどこかで勝手に思い込んでいました。大げさかもしれませんが、「万物は流転する。」という言葉が頭に浮かびました。


ところで、今年は、私にとって試練の年であったと思います。環境が激変し、私が今まで積み重ねたものが通じなくなってしまいました。いえ、本当に価値あるもの以外のものまで沢山積み重ねすぎ、それらに拘りすぎ、身動きが取れなくなっていたのかもしれません。


人生において、前に進むために経験を積み重ねていくことは素晴らしいと思いますが、それが自分への執着を生んでしまったように思います。それを戒めるかのように苦しみに襲われました。しかし、その戒めに気づくこともなく、蟻地獄のように、もがくほど落ちていきました。


そのことに気づいてからも、そこから抜け出しきれない私がいます。今年の結果を見れば、この試練、この自分との闘い、まさに「完敗」といったところでしょう。


それでも、希望が生まれました。意志が希望を生みました。


特に12月に入って起こった多くの出来事から、小さなことでも、意志を発現して、主体的に向き合えば、そこから人生における希望が生まれるということが、何となく分かりました。今までの私は、「しよう」とせずに、「させてもらおう」としてきたのかもしれません。


自分への執着を捨てることは、自分を捨てることではありません。ありのままの自分で、世界に向き合っていきたい、向き合っていける自分でありたいと思うのです。


山梨では、終わってしまった絆がありました。しかし、閉店するラーメン屋では、「また山梨に来る機会には、家に顔を出してね。」と言ってくれたほか、想像もしていなかった新しい繋がりもできました。終わるものがありましたが、始まるものもありました。


この1年、平坦ではありませんでした。それも、誇れる困難との直面などではなく、醜い自分との闘いで、無様にもがいていたような苦しみでした。


それでも、自分の中に小さな意志が咲き始め、小さな希望が降り始めています。自分の本質を見失えばこそ、自分に執着してしまうなら、1人の人間としての誇りを持って、自分として生きていきたいと思います。


また来年もよろしくお願いいたします。



“迷い”と“願い”の街角で

我が家の愛犬メリアが生後1か月程でやって来てから15年が経ちました。15歳になっても、まだまだ元気です。


そして、私は30歳になりました。気付いてみれば、人生の半分をメリアと共に過ごしたことになります。


あと何年も一緒にいられるわけではないでしょう。それまでの時間を、大切に積み重ねていければと思います。



“迷い”と“願い”の街角で-メリア(♀15歳)

渡辺謙さん主演のNHK土曜ドラマスペシャル「負けて、勝つ ~戦後を創った男・吉田茂」が終わりました。


決して理想の人物が偉大な功績を残す過程を描いたサクセスストーリーではありません。一人の人間が、逆境に翻弄され、苦悩し、多くの犠牲を払いながらも、本当に大切なものを守るために、精一杯の覚悟を持って生き抜く姿が描かれていました。


苦しみの中にあっても、明日に向かって生きることに価値がある。逆に、苦悩のない心地よい環境で、大切なものを見失うことがあります。


極限状況の中を闘い続け、命を懸けて独立を果たした吉田茂。国民への背信ともいえる条件での講和とならざるを得ず、命の危険まで感じていた吉田でしたが、その懸念とは逆に、吉田は国民から賞賛されます。


その状況に吉田は気を良くし、谷原章介さん演じる白洲次郎が退陣を勧めても、「まだやるべきことがある。」と総理大臣の職に留まりますが、次第に国民の支持を失っていきます。


そして、最後は、なすべきことを終えた後の、幸福とも不幸ともとらえられない吉田の姿が描かれます。


このドラマで、最も強く印象に残ったのが、退陣を勧める白洲と続投しようとする吉田とのやり取りの場面でした。


極限状態で日本のために闘い抜いた吉田も、国民に賞賛された途端に、権力欲に支配されてしまいます。「まだやるべきことがある。」と言いながら、心中にあったのは「使命」の仮面を被った欲望でした。人間は弱く、本人でさえ、本当の使命と使命の仮面を被った欲望とを区別することができません。


もともと一本気で自由を好む吉田の性格を知っていた白洲は退陣を勧めますが、権力欲に支配され、聞く耳を持たない吉田。白洲はそれを寂しげに見つめます。白洲が好んだ吉田の気質は鳴りを潜め、吉田らしからぬ吉田がそこにいました。


本当の使命と使命の仮面を被った高慢な権力欲、これらを見分けるのは難しいと思います。併存している場合も多いでしょう。事が上手く運んでいれば、問題も生じません。しかし、本人の心の中では、「弱さ」が次第に大きくなっていきます。そして、肥大化した「弱さ」が、いずれ破綻を招きます。


人は弱く、過ちを犯します。しかし、それを越えて人は生きていくのでしょう。


善悪よりも、正邪よりも、幸不幸よりも深いところに使命が、そして人生があるのかもしれません。



NHK土曜ドラマスペシャル:負けて、勝つ ~戦後を創った男・吉田茂

http://www.nhk.or.jp/dodra/dodrasp/

自分の至らなさばかりを見せ付けられる今日この頃です。


苦悩や苦痛に立ち向かっているつもりでいました。しかし、本当はその逆に、適当な理由を付けて、苦悩や苦痛から目をそらしていただけなのかもしれません。


自分の苦悩や苦痛を引き受けられないような人間に、一体何ができるというのでしょう。


苦悩や苦痛を背負っても、醜く弱い自分を見せつけられても、自分を尊ぶこと、自分の人生を貫くこと。


誇りを持つ。そこから始まるのかもしれません。

深刻ないじめや犯罪が起きると、社会の多くの方々が、被害者の側に立ち、加害者や、しかるべき立場にあったにもかかわらず防げなかった機関等を糾弾します。


社会が被害者の側に立つのは、一見当然とも思われますが、本当にそうなのでしょうか。


誰しも、本当に恵まれた環境にいたのなら、凶行に走ることなど、全くとはいえないかもしれませんが、ほとんど無いのではないでしょうか。そんな意味では、社会が凶行へと追い込んだといえます。


もちろん、いじめや犯罪が正当化されるわけではありませんし、正当化すべきでもありません。


しかし、加害者を凶行への追いやり、被害者に苦痛を与えた根本的な原因が社会にあるのなら、加害者等を一方的に糾弾するという姿勢は無責任なものに思われます。


同じ社会の構成員を凶行から守れなかったにもかかわらず、「被害者の味方」を安易に標榜することも、虫のいい話ではないでしょうか。社会はむしろ、広い意味での共犯者としての責任を負っているのではないでしょうか。


被害者、加害者、関係者、多くの方の不幸を生み出してしまった社会の一員として、いかにそれに向き合うのか。考えていく必要があるのではないかと思います。

「ゆとり世代」については、様々なところで論じられています。


基礎学力が乏しい上に、プライドが高く、打たれ弱いなど、散々な言われ方をすることもあれば、それに反対する意見も少なくないように思えます。


しかし、そもそも、「ゆとり世代」と呼ばれる方々に施され、そのネーミングの由来となった「ゆとり教育」は、上の世代が、大人の社会が決めたものです。自分たちが決めて進めた「ゆとり教育」であるにもかかわらず、それを受けた世代を「ゆとり世代」と批判する。何とも無責任で、矛盾した行動ではないでしょうか。


自分は「ゆとり教育」に反対だったという方もいるかもしれません。しかし、止められなかったのです。社会は、「ゆとり教育」に賛成したのです。社会を構成する全員に、多少なりとも責任があるはずです。


そもそも、子どもは、社会と無縁には育たないのではないでしょうか。乱れた子供が育つとすれば、それは大人の社会が乱れているのではないでしょうか。


そして何より、「ゆとり教育」を善として勧めた社会が、「ゆとり世代」を悪として糾弾する。この何とも言えない軽さや無責任さが、社会への不信感を生み出しているようにも思えます。


ひとりの人間が何でもできるわけではない、むしろ、大したことはできないのは当然です。しかし、様々な社会問題に自分が関係しているという責任感や当事者意識を持つ人が増えれば、社会は大きく変わっていくのではないでしょうか。


「ゆとり世代」の問題は、「ゆとり教育」を受けた当の世代ではなく、それを生み出し、子供たちを弄び、他人事のように批判する社会の無責任さを訴えているように思えてなりません。

思うとおりにならない環境に苦しんできました。何もできない自分に苦しんできました。もがけばもがくほど落ちていく蟻地獄のように。


トンネルの出口を示すような光が現れては消えていきました。


もしかしたら、今回も本当の出口ではないのかもしれない。そんな不安も感じつつ、それでもまた光が見えてきています。


今まで感じたこともないような絶望の中、自分が犯し続けてきた愚かな勘違いに、また一つ気がつきました。


3月までいた山梨で、本当に多くのものを得ました。得ることは素晴らしいことです。しかし、そこに感じる傲慢さ、それを発していたのは得たものへの執着でした。


ヴィクトール・フランクルは、「過去というのは 全ての事を永遠にしまってくれる『金庫』のようなものです。思い出を永遠に保管してくれる『金庫』なのです。」と言います。


そうであれば、得たものは、その「金庫」にしまって、歩き出せばいいのです。


しかし、それに執着して、それにしがみついている自分に気がつきました。失うまいと、奪われまいと、傷つけられまいと、もっと得たいと、もっと欲しいと激しく執着する自分がいました。


過去という「金庫」にしまったそれらに執着していては前になど進めるはずがありません。


小林一茶の句に、次のようなものがあります。

「裸にて 生まれてきたに 何不足」


欲して生きるのはやめよう。軽い心で、運命の流れに身を任せながら、自分なりに前へと進んでいこう。そう思います。

渡辺謙さん主演のNHK土曜ドラマスペシャル「負けて、勝つ ~戦後を創った男・吉田茂」を観ています。戦争に負け、四等国とみなされ、他国に占領された屈辱を越え、独立を目指す吉田茂元首相の姿を描いたものです。


現在を生きる方が作った作品なので当然といえば当然なのかもしれませんが、作中に漂う日本の卑屈な雰囲気は、現在のものとよく似ている気がします。


自分を受け入れられず、自信を持てない人は、容易に卑屈になる一方で、容易に傲慢にもなるそうです。日本という国も同じなのかもしれません。そして、日本という国は、戦前から本質的に変わっていないのかもしれません。開国で卑屈になり、傲慢に戦争を行い、占領によって卑屈になり、経済力に物を言わせて傲慢になり、そして今、経済停滞により卑屈になっています。


劇中で、ダグラス・マッカーサーが吉田茂に「日本は四等国だ。」と言い放ちます。今、目に見えぬ何かから、同じことを言われているような、そんな雰囲気が漂っているように思えます。


しかし、そんな卑屈を、屈辱を感じながらも、日本は、日本人は生きてきました。生きてくることができました。日本を、日本人を傲慢にさせたり、卑屈にさせたりしてきたものが本当に大切なものならば、それを失い、卑屈になった時点で、もはや生きてはいけないはずです。


それよりも大切なものがあったとしか思えません。目立たなくても、間違いなくあったはずです。卑屈になっても、屈辱を受けても、絶望しても、それでも前に向かわせる何かがあったはずです。


未来へと続く何か。自分が死んでもなお、先へと進む何か。


人は、得られないことに苦しみます。名誉、財産、社会的地位、権力など、得られないことが苦しみを生じさせるものは、同時に、自分の死を越えて未来へは残せないもののように思えます。


人から贈り物をされたとき、記憶に残るのは、贈られた「物」ではなく、「気持ち」ではなかったでしょうか。誰かに助けてもらったとき、嬉しいのは、助けられた「実利」ではなく、込められた「思い」ではなかったでしょうか。


様々なことが表面的に大切にされていますが、その底で、本当に後世に残っていくのは、形のない「思い」であって、それがたまたま形あるものに宿ることがあるというだけなのではないかと思います。


ちょっとした笑顔の挨拶だけでも、気分が良くなったりします。そして、そのちょっとしたことを積み重ねて人は生きています。日頃の何の変哲もないやり取りは、想像以上に世界に影響を与えているような気がするのです。


誰でも、自分のなりのやり方で、世界に何かを残していくことができる。その積み重ねが歴史を創っていると言っても、必ずしも大袈裟ではないのではないでしょうか。


人は、自覚していなくても、誰もが世界に影響を与え、何かを残して生きている。しかし、できれば、それを自覚することで、より幸せに生き、より多くのものを世界に残せるような気がします。


自分にはまだ、残せるものがある。そう信じて、生きていけたらと思います。



NHK土曜ドラマスペシャル:負けて、勝つ ~戦後を創った男・吉田茂

http://www.nhk.or.jp/dodra/dodrasp/