「ゆとり世代」については、様々なところで論じられています。
基礎学力が乏しい上に、プライドが高く、打たれ弱いなど、散々な言われ方をすることもあれば、それに反対する意見も少なくないように思えます。
しかし、そもそも、「ゆとり世代」と呼ばれる方々に施され、そのネーミングの由来となった「ゆとり教育」は、上の世代が、大人の社会が決めたものです。自分たちが決めて進めた「ゆとり教育」であるにもかかわらず、それを受けた世代を「ゆとり世代」と批判する。何とも無責任で、矛盾した行動ではないでしょうか。
自分は「ゆとり教育」に反対だったという方もいるかもしれません。しかし、止められなかったのです。社会は、「ゆとり教育」に賛成したのです。社会を構成する全員に、多少なりとも責任があるはずです。
そもそも、子どもは、社会と無縁には育たないのではないでしょうか。乱れた子供が育つとすれば、それは大人の社会が乱れているのではないでしょうか。
そして何より、「ゆとり教育」を善として勧めた社会が、「ゆとり世代」を悪として糾弾する。この何とも言えない軽さや無責任さが、社会への不信感を生み出しているようにも思えます。
ひとりの人間が何でもできるわけではない、むしろ、大したことはできないのは当然です。しかし、様々な社会問題に自分が関係しているという責任感や当事者意識を持つ人が増えれば、社会は大きく変わっていくのではないでしょうか。
「ゆとり世代」の問題は、「ゆとり教育」を受けた当の世代ではなく、それを生み出し、子供たちを弄び、他人事のように批判する社会の無責任さを訴えているように思えてなりません。