山梨での3年間:今、スタートラインで | “迷い”と“願い”の街角で

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確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

お久しぶりです。前回の更新から大分時間が経ってしまいました。

さて、平成21年4月から暮らしてきた山梨を転勤で離れることになりました。3年間の滞在でしたが、2年で異動することが多い私の職場としては、比較的長くいられたと思います。

この3年間は、私にとって実りの多いものでした。特に3年目は締めくくりとしての学びがいくつもあり、山梨に3年間留まったことが、大げさに言えば運命と感じられました。

前にいた群馬でも楽しく過ごさせてもらいましたが、自分でも気付かない内面の欠陥を抱え、山梨に来てしばらくしたころに顕在化し、それと向き合わずにはいられなくなりました。

迷い、悩みましたが、その欠陥に向き合う取組を支えてくれた方がいたほか、それに限らず、暖かな居場所となってくれた方々、力を合わせて仕事を進めてくれた方々、私的な活動で協力してくれた方々がおり、その皆様のおかげで、前進することができました。

かつて、「正しい」か「誤り」かを考えあぐね、他人の意見に不安を感じてしまい、自信を持って反省することができませんでした。「正しさ」を自身の基盤としていたために、それを奪われ、自身の存在を失うことを恐れたのです。

しかし、究極的には「正しい」も「誤り」もありません。正誤よりも前に人間は存在しています。

正誤は結局のところ、人間の意思の問題であり、いかに意思を決するかの問題です。模範回答をどこかに求めても決して見付からず、自分の意思で生きていく中に自分なりの「答え」を見出だすしかないのでしょう。

だからこそ、余計なこだわりを持たずに、今できることに懸命に取り組む、それでいいのでは、それしかないのではないでしょうか。

そして、自分の為すことに責任を持つこと。

自由には責任が伴うというフレーズを耳にすることがあります。自由に振る舞いながら責任を負わないことを非難する場合によく使われますが、最近、責任を感じなければ、そもそも自由自体が成り立たない、そんな気がしています。

責任を負うというのは、自分の為した結果を受け入れる覚悟を持つことではないでしょうか。そんな意味では、誰かに怒られないように、叱られないように頑張ることを責任感があるとはいえないと思います。

すべてを受容する覚悟があるからこそ、自分の心に正直に振る舞える。この感覚が自由というものなのかもしれません。

自由は、選択の余地が広いことや権限が大きいこと、ましてや他人を押し退けてまで傍若無人に振る舞うこと、他人を支配して思い通りにすることではなく、すべてが思うままにはならないという当たり前の環境にあって、自分の心に正直に向き合い、責任を持って動くことなのではないでしょうか。

山梨の3年間で、ようやく私は正直に自分に向き合えるようになってきたように思います。山梨を離れ、出会った方々と別れるのは寂しいですが、この時間が貴重な宝物として人生に積まれました。

山梨の3年間が引いてくれたスタートラインに今立っています。不安もありますが、ここから今、出発しようとしています。

山梨と、ここで出会った多くの方々に心から感謝します。ありがとうございました。


“迷い”と“願い”の街角で-甲府市街と富士山

“迷い”と“願い”の街角で-甲府市から見る南アルプス