ある朝の立ち話から | “迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

朝、うちで飼っている犬の声で目を覚ましました。柱に綱が巻きついて動けなくなっている様子、いつものことです。綱を解くと、途端に散歩モードになり、催促に負けて、朝食も食べないまま散歩に連れて行くことになりました。


散歩の帰り道、近所に住む小母さんと出会いました。私が子どものころからよく知っている方で、散歩の行き帰りによくお会いします。もう90歳くらいだと思うのですが、しっかりした元気な方で、会うといろいろと立ち話をします。


ただ、今日の話は重い内容だったと思います。私は知らない方ですが、近所に住む方についての二つの話でした。


一つ目は、その小母さんの隣の家に一人で住んでいる男性の話でした。以前は、両親そして祖母と4人で暮らしていたとのことですが、祖母と父親を相次いで亡くし、母親と二人だけになってしまったそうです。しかし、しばらくして、その母親も、その男性を残し、部屋で自ら命を絶ってしまったとのことでした。


二つ目は、そこから少し離れた家の女性とその母親の話でした。以前、小母さんは、その女性が散歩しているのをよく見かけたそうなのですが、年ごろになっても結婚しないでいたのを小母さんは不思議に思ったとのことです。しかし、しばらくすると、その女性が散歩するのを見かけなくなりました。もともと体が弱かったのでしょうか、寝たきりになってしまったようなのです。結婚しなかったのもそれが原因なのかもしれないと言います。父親は既に他界しており、母親が一人でその女性の世話をしているそうです。


小母さんは、最初の話では、家族を全て亡くし一人で生活する男性、そしてその母親が抱え込んだ自殺するだけの事情、また、次の話では、親がずっと子を看病していかなければならない母娘の境遇に思いを馳せつつ、「運命」という言葉を口にしていました。


こんな身近に、人生を絶望させるに足るような重い運命があることを、改めて思い知らされました。


人は皆、軽重と言っていいのか分かりませんが、それぞれ異なる運命を背負って生きているのでしょう。そして、苦しみ悩みながら、向き合い方を見つけているのだろうと思います。


今回の話の方々が、その運命に如何に向き合っているのか、それは私には知る由もありません。なので、無責任なことは言えませんが、あくまで、私の願望として、苦しみを伴う運命が、「不幸」とは必ずしも一致しないと信じたいです。


不幸な人は人を幸せにはできないと言います。しかし、苦しみを背負う人が、同じ苦しみを背負う人等と共感して、癒しあい、希望を与えることはよく耳にします。それは、苦しみと不幸が同一ではないということを証明しているように思うのです。


自分だけに課された運命に、自分なりに向き合うこと、そこに人生の尊さが見える気がします。


最後に、最近目にして印象に残ったヘレン・ケラーの言葉です。


“Let Us Have Faith” (1940)より

Life is either a daring adventure, or nothing.

To keep our faces toward change and
behave like free spirits
in the presence of fate is strength undefeatable.


当然ながら様々な日本語訳があるようですが、自分なりに訳すと次のとおりです。

「人生は、果敢な冒険か、無かのいずれかである。運命の御許で、変化に向き合い、自由な精神を体現することが、何事にも負けない強さとなる」