最近生活環境が変わってテレビを見る機会が減りました。しかし、5月25日(金)にフジテレビで放映された山田太一ドラマスペシャル「星ひとつの夜」は、ついつい見入ってしまいました。
渡辺謙演じる野々山廣治は、無実の罪による11年の服役を終え、孤独に暮らす清掃員。玉木宏演じる岩崎大樹は、自宅で株の取引をして何十億もの大金を動かすものの、人間不信になっている青年。心を閉ざした孤独な者という以外に共通点のないこの2人の交流と変化を中心に話は展開します。
このドラマを見ていて、他のドラマとは違う特徴のようなものを感じました。
それは会話シーンです。どちらか片方がひたすら話し続け、もう一方がひたすら相槌を打ち続けるというパターンがかなり多かったのではないでしょうか。主人公2人の会話シーンでは特に顕著でしたが、他の登場人物との会話シーでも共通していたと思います。
たいていのドラマでの会話シーンは、一方が話し、そしてもう一方が話すというように交互に積み重なっていくパターンが多数といえるでしょう。
ドラマに限らず、昨今はコミュニケーションの時代といわれ、そのようなキャッチボール的会話が望ましいもの、それを超えて出来て当たり前のものという考えもあるように感じます。そう考えれば、このドラマの登場人物たちの会話は、劣等生的な会話なのでしょうか。
そもそも、キャッチボール的会話が唯一望ましいコミュニケーションの形なのでしょうか。
確かに、その重要性はあると思います。今の時代、そういった意見の相互交換と発展・創造こそ求められているというのは事実とも思います。
しかし、それがコミュニケーションの全てだとは思えません。キャッチボール的会話は、一方が意見を言い、それに対して他方が賛否を述べるような形で進むものと思います。しかし、あらゆる物事、賛否で割り切れるものとは限りません。むしろ割り切れないものの方が多いのではないでしょうか。
また、キャッチボール的会話は、自分の意見を言わない従来の日本的やり取りへの批判を背景として、自己主張を求めるものとして出てきている側面があると思います。ただし、自己主張という部分を強調しすぎると、かみ合わないやり取りになったり、場合によっては、お互いが意見を言いっぱなしにしているだけという状況も生まれてくる危険があります。
人の言うことを、肯定も否定もせず受け入れる。それは、人を人として尊重する上で、とても大切なことなのではないでしょうか。今の情報化社会、コミュニケーションの時代の中で、置き忘れられていることが、このドラマにあるように感じました。