“迷い”と“願い”の街角で -30ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

話題となっていた藤原正彦著『国家の品格』を、遅ればせながら読みました。


この本については、賛否両論あるようです。それが当然だと思いますし、私も、納得・共感できる部分もあれば、賛同できない部分もありました。


この本は、社会科学と、思想・哲学といった心情的なものの中間にあるように感じました。社会科学的分析の側面において賛否両論当然あるでしょうが、心情的な面はなおのこと、納得できる人とそうでない人が分かれることでしょう。


この本の社会科学的側面を専ら見て、痛烈な批判をなさる方もいます。確かに、私から見ても賛同できない記述はありました。しかし、それのみによって、この本を悪本と断じることもできないのではないでしょうか。


「理論で全てが解決するわけではない」という藤原氏の見解は、その通りだと思います。ただし、藤原氏自身が仰るように、理論が大切であることは当然ですが。


理論というのは、その性質上、多少なりとも抽象化されています。それが汲み取っていない側面があることも当然考えられます。理論的に白黒つけることが悪いことだなどとは言いませんが、それのみによって全部につき善悪の価値判断をしてしまうことは、窮屈に思えてなりません。


藤原 正彦
国家の品格

このブログでは初めてとなりますが、今日取り上げるのは漫画本です。ただ、普通の漫画本とはかなり趣の違うものといえるでしょう。


まず「あらすじ」を紹介したいところですが、この本については、その「あらすじ」を書くのが非常に難しいと感じます。全体を貫くストーリーというものが明確にはありません。「ノート あとがきにかえて」で作者が「深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場。彼ら(彼女ら)は別に何らかのドラマを生きることなど決してなく、ただ短い永遠のなかにただずみ続けるだけだ」と言うところです。


それでも、無理に「あらすじ」らしきものを書くこととしましょう。


高校生の若草ハルナは、自身のボーイフレンドからイジメを受けていた同級生の山田を助けます。その礼として、山田はハルナに宝物を見せるというのですが、その「宝物」というのは、川辺の茂みの中で発見されずにあった人間の「死体」でした。そして、「死体」について知っているもう一人の人間、ハルナの1学年下の吉川こずえ、この3人の奇妙な関係を中心に話は描かれます。


この3人だけでなく、周囲の多くの人間が、複雑な絡み合いを見せ、そして多くの惨劇を生むことになるのですが、前述したとおり、この多くの人間の絡みには一本通ったストーリーはなく、表現のしようがありません。


この『リバーズ・エッジ』の中で、多くの人が強い印象を受けるシーンがあるようです。死体が発見されそうになり、そうなる前に埋めてしまおうとするシーン。そこでのハルナと吉川のやりとりです。


吉川「若草さんは初めてアレ(死体)を見た時どう思った?」

ハルナ「・・・よくわかんない」

吉川「あたしはね"ザマアミロ"って思った。世の中みんな、キレイぶって、ステキぶって、楽しぶってるけど、ざけんじゃねえよ、いいかげんにしろ。あたしにも無いけど、あんたらにも逃げ道ないぞ、ザマアミロって」


この『リバーズ・エッジ』では、作者の思い、視点、主張とでもいうべきものが、あるいは直接、あるいは間接に表現されており、それは確かだと思います。しかし、一本通ったストーリーが無いのと同様、これぞという一本の主張を見出すのも難しいように私は感じます。以下の記述も、上記のシーンについて、多分に自分なりの解釈、いえ自分なりに感じたこととなるでしょう。


人間は「意味の世界」に生きているといいます。しかし、「人間の解放」「個人の自己実現」「人類の進歩」「共産主義革命」等の「大きな物語」が語られた近代は、二度の世界大戦と高度資本主義社会の到来によって終わりを告げたと、フランスの哲学者リオタールは主張します。「大きな物語」の死は、歴史や人生の意味を喪失させます。


現代は価値観の多元化した時代といわれますが、「大きな物語」がないゆえの「小さな物語」の乱立ともいえるでしょう。自分の小さな物語、小さなプライドに固執して、キレイぶって、ステキぶる。刹那的な欲望に過大な価値を置いて、楽しぶる。幸せでないのに、幸せぶって、結果、人を貶め傷つけて。しかし、皆がそうやって、自分と他人をだましている間にも、来るべきものは来るのです。


「ざけんじゃねえよ、いいかげんにしろ。あたしにも無いけど、あんたらにも逃げ道ないぞ、ザマアミロ」


自分なりの感想でしかありません。漫画でしか表現できないものが表現された作品ではないかと思います。一度読んでみてはいかがでしょうか。


岡崎 京子
リバーズ・エッジ

世界史的には、資本主義と共産主義の二大潮流の戦いは、共産主義の敗北で幕を閉じたということになります。


その共産主義敗北の大きな要因は、人間の経済的動機に対する配慮がなかったことが挙げられるでしょう。すなわち、頑張った分だけ報われるから頑張るのであって、頑張ってもそうでなくても見返りが同じなら、人は頑張る気をなくすのです。各人の努力に関わらず同じ見返りしかない共産主義は、人の活力をそいでしまいました。


さて、経済が右肩上がりであるころの日本は、まるで社会主義国家のような平等で豊かな状態を生み出していました。こんなに成功した共産主義社会はないとまで言われるほどです。それはなぜ可能だったのでしょうか。


それは、右肩上がりの経済発展のなせることだったのでしょう。確かに、横並びの社会でありましたが、全国民の頑張りにより、経済全体は大きくなり、見返りは大きく生活は豊かになっていきました。頑張った人とそうでない人との差はなくとも、皆が頑張った分だけ今日よりも豊かな明日があったのです。


今回、何が言いたいのかといいますと、「格差」こそが人のやる気を高め社会を活性化させる、という考えに待ったをかけたいのです。頑張った人とそうでない人との「格差」こそ、頑張る人の士気を高め、活気ある社会を生むという考え方が、とりわけ近時の構造改革、小泉総理の主張の背後にはあるようにも思います。確かに、一理、ないとは言いません。


しかし、大切なのは「頑張った分だけ報われる」ということであり、それはイコール「格差」ではないといえます。そして、格差ゆえに「頑張っても報われない」と考えた人が絶望し、社会の二極分化、地盤沈下を生むと主張するのが、このブログでも何度か取り上げた山田昌弘著『希望格差社会ー「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』でした。


最終的に私たちは、どういう社会状態を目指しているのでしょうか。そして、それを導く手段は何なのでしょうか。自由な競争と格差がその手段といえるのでしょうか。政策は手段であり、手段を考えるには、決して最終目的との関係を見失ってはいけないと思います。

格差社会について、小泉総理がよく言う言葉に、「格差が固定化されないようにしなければいけない」というものがあります。小泉改革が格差拡大を招いているという批判に対して、格差拡大は問題ではなく、その格差を、「勝ち組」「負け組」を固定化させないことが大切だと主張するものです。


頑張った人がその分多く報われ、一度報われなかった人も再起が可能な社会、そう言えば理想的な世の中にも思えなくはありません。しかし、本当にそれが実現できるのでしょうか。


格差は拡大しても固定化されなければ良いといいますが、開きすぎた格差を逆転することは容易いことではないと思います。格差が拡大すればするほど逆転が困難になる、つまりそれは格差拡大は必然的に格差の固定化を招くということになるのではないでしょうか。


そもそも、チャンスが均等に配分され誰もが挑戦・再起できるというのなら、結果的にはそこまで格差は広がらないのではないでしょうか。格差の固定されない「格差社会」などと言いますが、格差の拡大と固定化こそ「格差社会」の特徴のように思います。


また、最近話題となっている消費税増税についても、この「格差社会」との関係では、矛盾したものを感じてしまうのです。


消費税は、ある意味で平等な税です。所得に関係なく、払った額に応じて税金を取られます。国民全体から広く浅くというのが、消費税の特徴といえるでしょう。しかし、これは、国民全体に比較的余裕があってこそ課せるものではないでしょうか。というのも、所得が低い場合、所得に関わらず課される消費税負担は、それだけ大きいものとなります。適度な平等社会であってこそ、消費税というものが有効なものとなるのだと思います。


「所得には格差を、負担は平等に」というのは、果たして筋の通ったものなのか、問い直してみる必要があるでしょう。

昨日、ある楽団の演奏会を聴いてきました。クラシックが中心であり、私自身クラシックに造詣が深いわけではないのですが、やはり生の演奏はいいものでした。


ところで、開演前のアナウンスでは、演奏中に音をたてないようにという注意が、かなり強調されてなされ、ここまで言う必要があるのかという印象も、正直持ちました。しかし、開演後、なんとなくその意味がわかったような気がするのです。


音楽の演奏中、なぜ音をたててはまずいのでしょう。当たり前。音楽の邪魔になるから。しかしながら、大きな音で演奏された場合、多少の音が観客席から発せられても、音楽が聞こえなくなるなどということはありません。


聴くにあたって気が散るから。確かに言えるでしょうが、逆に、気が散らないように集中すれば問題ない、ということにはならないでしょう。


私は、音楽には、各楽器の音のほかに、「静寂」というものが、重要な要素としてあるのではないかと思います。演奏中の、楽器の音以外には音が鳴らないという「静寂」、演奏前、演奏後の完全なる「静寂」、それは非常に大切なものなのではないでしょうか。


そんな意味では、演奏後、ひと時の静寂の後に拍手があった方がいいようにも感じました。音楽は、音のコラボレーションですが、もっと言えば、音と無音のコラボレーションといえるのかもしれません。

4月26日に、小泉総理は、報道陣の質問に答えて「首相談話」を出したとのことで、その「発言要旨」が翌日の読売新聞に載りました。「要旨」であり、発言そのままを読んだわけではありませんが、従来の小泉総理の発言と比べても相当乱暴な物言いが目立つように思います。


自民党について、「自民党のみならず、野党も含めて、支持団体重視、一部の既得権を擁護するという勢力をぶっ壊した。私は田中派、竹下派(とそれに連なる派閥)の支援なくして自民党の総裁になった初めての総裁だ。(人事での)派閥推薦、順送り、これもぶっ壊した」と言います。


自己の名誉優先、また、問題を単純化して、かつ、一方的な「悪」のレッテルを張り付ける、昨年の選挙のやり方と通じるものがある発言です。総理の言うような側面はあったかもしれません、しかし、それが全てとは思えません。その結果、国民に何か利益が還元されたのでしょうか、今後されるのでしょうか。


また、格差について、「改革を進めていかなかったならば、逆に格差は固定して、ますます増えたのではないか」「格差批判は小泉政権批判の裏返しだ。(格差は)与野党問わず、反小泉勢力が一番使いやすい言葉だ」と小泉批判をけん制しました。


この格差についての発言には、中身がありません。ただ、言い返しただけです。小泉改革は、基本的に、自由主義路線であり格差拡大を招きやすい性質を持つものといえるでしょう。にもかかわらず、かえって格差が縮まったというのなら、もうすこし合理的な根拠があってしかるべきです。以前の格差に関するあまり実りの無い議論を見れば、「反小泉勢力が一番使いやすい言葉だ」というのも、全く理が無いではないかもしれませんが、格差という国民生活にとって重大なテーマにしては、不誠実ではないでしょうか。


最後に、靖国参拝については、、「(中国は)『なんで、こういう問題で首脳会談を行わないなんておかしなことを言ったのか』と後悔する時があると思う」と今までには無いほど挑発的な言葉を使いました。そして、「外国の首脳は『小泉首相の言うことは正しい。中国、韓国はおかしい』と言っている」とします。


ところで、小泉総理が正しく、中国韓国がおかしいと言う「外国の首脳」とは具体的に誰なのでしょうか。ある程度影響力をもった国、それもある程度の数の国々の首脳の発言ならば、国際社会で認められていると言っても良いかもしれませんが、果たしてどうなのでしょうか。


小泉総理はもう任期が切れます。任期が無い以上、総理自身が「『なんておかしなことを言ったのか』と後悔する時」を向かえることはないでしょう。そんな後悔をし、その不利益を被るのは、国民、とりわけ「負け組」というような立場におかれた方々だと思います。少なくとも、任期がまだある以上、現在及び将来の国民に対して、結果責任を負っていることを、忘れないでほしいものです。

日本近現代史において、大きな転換点は二つありました。ひとつは明治維新、そしてもうひとつは戦後改革です。これらが、日本に及ぼした影響は計り知れません。


ところで、明治維新を第一の維新、戦後改革を第二の維新として、「第三の維新」と言われている出来事があるようです。それは、司法制度改革です。


最近は話題から遠ざかりつつありますが、一般市民が刑事裁判に参加する裁判員制度を中心とした、一連の司法制度改革は、「第三の維新」とも呼べるほどの大改革でした。お上にお任せという従来型の発想を転換し、市民本位の価値観を取り入れた、画期的な出来事です。


しかしながら、それとは別に「第三の維新」と称される出来事がありました。やや昔となってしまいますが、平成13年の省庁再編です。1府22省庁だった組織体制が、1府12省庁へとがらりと変わりました。国の中枢が、ここまで転換されて良いのかと思うほどの大改革です。


ここまで書いてきて、やはり、どこか空しいものを感じてしまいます。以上の出来事は、本当に「第三の維新」と呼べるようなものなのでしょうか。建前ほどの、大影響を持っていたのでしょうか。


まず、明治維新や戦後改革のように人も、社会も、国全体が大転換したのとは異なり、上記の二つは、国家機関の制度的な変革にとどまるものといえます。当事者にとっては一大事であっても、多くの一般人にはそこまで大きな影響を与えていないのではないでしょうか。


また、今述べた点とも関係しますが、明治維新や戦後改革は抜本的な価値観の転換を伴いったのに対し、司法制度改革や省庁再編は、多少の理念転換はあったにせよ、従来の価値観がひっくり返るようなことはなく、一般人から遠いのであればなおさら、その影響は限られたものになるといえるでしょう。


日本人は心のどこかで、「維新」という棚から牡丹餅的な奇跡を夢見ているのかもしれません。しかし、それは、そうそうあり得ないでしょうし、むやみな変革が必ずしも良いとは言えません。


ただ「維新」を望み、あるいは、一定の改革を「維新」と称して満足してしまうよりも、現状変革の努力を不断に続けることこそ求められているように思います。

突然ですが、弁証法というのをご存知でしょうか。ある命題(テーゼ)があるとき、それに反する命題(アンチテーゼ)を立て、その両者を止揚した高次の命題(ジンテーゼ)を得る、というものです。砕けた言い方をすれば、ある考え方があるとき、それと相反する考え方をそれに衝突させ、よりよい考え方へと高めるといったところでしょうか。


ところで、異なる考え方を、ただただやみくもに衝突させたところで、高次の考え方を得られるとは思えません。異なる考え方の摩擦から、よりよい考え方を得るには、それ相応の工夫が必要なのではないでしょうか。では、どのような工夫が要求されるのでしょう。


大きな要素として、「異なる考え方の存在を認める」ということがあるように思います。反対はしつつも、相手の存在を認めておれば、擦り合わせの末に、止揚を実現することができるのではないでしょうか。一方、相手を100%悪として存在すら認めなければ、擦り合わせによる止揚など期待できるわけも無く、相手の消滅を目的とした、執拗な攻撃が続くことでしょう。


価値観が多元化した現代においては、価値観の衝突を調整し、高次の価値観を得やすくする仕組みが重要であるように思います。にもかかわらず、現実の日本社会では、相手の全否定を企図した言動が、むしろ多く見られるように感じるのです。


相手を100%の悪と考えた方が、行動という面は楽でしょう。ただ、それへの攻撃と壊滅を目指せばよく、迷うことなどありません。しかし、それが本当に問題の解決につながるでしょうか。行為は楽でも、問題解決という目的の達成という面では、どうでしょうか。


相手の存在を認め、止揚を目指すのは簡単ではありません。とはいえ、問題解決には、もっとも直線的なプロセスにも思えます。


価値観が多元化すればそれだけ、目的が手段を正当化できなくなるといえるでしょう。異なる価値観を調整する、正しき手段、正しきプロセスが、求められているのではないでしょうか。

以前、女子アナに関するバラエティー番組を少しだけ見ました。女子アナの常識はずれな言動を、ゲストが笑っていました。


しかしながら、テレビで時に流されるような、愚かともいえるほどの女子アナの非常識ぶり。それは、どこまでが真実なのでしょうか。むしろ、大部分、演じている、あるいは演じさせられている可能性が高いようにも思います。それを「バカ」と呼ぶゲストの方がむしろ、愚かなのではないかと思いました。


ふと、ちょっと考えてみます。そのゲストは、女子アナの非常識が演技であることを知ってて言っているのではないでしょうか。バラエティー番組なのです。そういった人を軽く嘲笑うような発言が方向付けられているともいえるでしょう。


では、そういった形に女子アナをしたて、そういうバラエティー番組を作る局が愚かなのでしょうか。しかし、当不当は検討されこそすれ、視聴率を取るためには、視聴者に受けるようなそういった傾向に向くのも自然といえば、自然かもしれません。


ならば、そういう愚かな女子アナを求める一般視聴者が最も愚かなのでしょうか。ですが、考え方を変えれば、コメディー番組を見て笑うのと、どれほど大差があるでしょうか。愚かな演技に笑うというのなら、同じようなものということもできます。


女子アナをピエロにしたて笑いものにする。愚かなことにも思えますが、その根源を、その愚かさがどこから来るかを考え出すと、だんだんとよく分からなくなっていきます。ひょっとしたら、その「愚かさ」を突き詰めようとしている私が、一番愚かなのかもしれませんね。

今日、研修の一環として、TOEICを受験しました。しかし、結果は、あまりかんばしくなさそうです。

英語に接することにつきブランクがあったのは、原因のひとつであるでしょう。ただ、今後の教訓とすべきという意味では、より大きな問題点があったように思います。

時間が足りずに解けない問題が多くありました。つまるところ、時間管理に失敗したのです。英語力以前に反省しなければならないことでした。

失敗経験としては有意義だったと言えるのかもしれません。