“迷い”と“願い”の街角で -31ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

私達を取り巻く社会環境は、不断に変化し続けており、それに対応するには勉強を継続することが必要と言われます。

絶えざる学びの道、これを忘れたとき、環境への対応を困難にするだけでなく、専ら知識に権威を求めるようになることもあるのではないでしょうか。

知識は時に大きな武器となり、敬意を払われる場合もあります。しかし、それに捕われすぎれば、既存の知識を振りかざして、自らの権威付けに終始する危険もあるようにも思います。

学びというものに価値があるからこそ、謙虚に向き合う必要があるのではないでしょうか。

先日、前々から同窓会関係でお世話になっていた母校の高校の先輩(かなり上の方ですが)に頼まれて、同窓会室のちょっとした改装を手伝いました。趣旨は、和風の畳敷きの状態を、洋風の椅子とテーブルの部屋にすることです。


単なる模様替えか、と言うこと無かれ。大きな意味があるのです。同窓会活動に参加する方は、多くが時間に余裕のできた年配の方々です。当然、足腰のあまり良くない方もいます。そういった方にとって、畳敷きの地べたに座ったり立ったりというのは非常に負担がかかります。また、一般的に考えても、地べたに腰を下ろすより、椅子に座る方が疲労が少なく、リラックスして過ごすことができます。この改装は、同窓会室の利用を活性化するための有用な手段ということになります。


改装を終え、部屋が見違えるようになった後、諸先輩方の話を聞く時間がありました。中には戦争を体験していらっしゃるような方もいて、人生経験豊富な皆さんの話は、非常に有意義で興味深かったです。貴重な機会を得たと思っております。


また、先輩方は、同窓会の今後についても多くの考えを持っており、それが印象的かつ面白いものでした。イベントとしての同窓会の活性化をはるかに超えて、同窓会という組織がどのような役割を果たしてゆけるのか、ゆくべきなのか、そこまで広い話でした。


同窓会室を聖域にしようという意見がありました。こういうと、仰々しい感じがしますが、決してそんなことはありません。要するに、卒業生・同窓生には様々な意見・価値観を持った人がいるが、それにもかかわらず誰もが使うことのできる場所にしようということです。そのために、同窓会の組織等を利用した、政治活動等は控えてもらわなければならないという話でした。


そして、先輩方が同窓会組織を活用して最もやりたいこと、それは、会員に何か困ったことがあり誰かに相談したいとき、同窓会のネットワークを用いて、それに適切に応えようというものでした。私の母校は、60年以上の歴史があります。それこそ多種多様な方が社会に広くいます。それを活用して、多くの後輩をバックアップしてゆく、そのことを先輩方は情熱を持って語っておられました。


これが成功すれば、ひとつの現代型コミュニティーとして重要な意義を持つのではないかと思います。多様な立場・価値観を超えて結びついたネットワークが、その構成員をサポートする。大きな可能性がそこにあるといっていいのではないでしょうか。


それはともかくとして、この同窓会に関わり、多くの先輩方と知り合えたことは、私にとってとても幸せなことだったと思います。ここでしかできない有意義な体験をさせていただきました。先輩方には、色々なことを教えてもらい、また様々な面でお気遣いいただくなど、大変お世話になり、本当に感謝しております。また、機会を見つけて、関わりたいと思います。

以前からそうでしたが、ホリエモン事件以来特に、私はある危惧感を持っています。今のこの社会には、欲望をより実現することに、社会的な評価が置かれているのではないでしょうか。


財産や地位など、人が欲し憧れるのが当然と思われるもの、そういったものは社会に多数存在しています。それを追い求めることが必ずしも悪いことではないでしょう。しかし、それを過度に評価し、あるいはそれを「正義」としてしまうことには、危うさがあるように思います。


財産や地位などは、持てる者がいれば必ず持たざる者がいるのです。しかし、そのような持てる人ばかりで社会は成り立ちません。むしろ、多数の待たざる人、縁の下の人こそ、社会を支えているというべきでしょう。


また、「持てる人」はほおっておいても誰もがなりたがるのに対して、「縁の下の人」になりたがる人は少ないように思います。そのような時、社会にさらにその「持てる者」をもてはやし、「縁の下の人」を無視する風潮があったらどうなるでしょうか。社会を根底で支える「縁の下の人」の士気をそぎ、社会を根元から揺るがす恐れがあるのではないでしょうか。


さらに、欲望の実現を「正義」とする危険性は、別の側面にもあるでしょう。一般的に、正義は純粋さゆえに案外もろく保つことが難しいものであり、一方、欲望も過度に押し出せば反発を生むこととなるでしょう。しかし、欲望に「正義」を与えた場合、欲望の実現が素晴らしいこととして正当化された場合、それは歯止めのきかないものになる危険性があるように思います。


社会を長期的にかつ広く見渡したとき、「派手なもの」に短絡的に価値を置くのではなく、不可欠な「目立たないもの」を尊重することが重要になってくると思います。誤ったことに価値を置くと人生に幻滅するといいますが、社会についても同じことが言えるのではないでしょうか。

若干ネタとして古くなり始めていますが、WBCについての記事を書きたいと思います。


王ジャパンの見事な優勝で幕を閉じたWBCであり、選手の数々の好プレーが光りました。全般を通じて、やはりイチロー選手はさすがという感じでしたし、MVPに輝いた松坂投手、また、準決勝の韓国戦の上原投手の好投は素晴らしかったのではないでしょうか。


ところで、しばしばメディアで取り上げられたのは、イチロー選手の意外な一面でした。クールやわがままというイメージの強かったイチロー選手が、チームの中心となり、チームを大事にし、日本を背負って気迫ある活躍する姿は、確かに、印象的でした。


「愛国心」。しばしば問題とされるこれを、イチロー選手の活躍に見て、感動した人も多いと思います。


私自身、「愛国心」は、毒にも薬にもなるものだろうと思っています。イチロー選手に見えた「愛国心」は正の部分が際立っていました。負の部分が際立った場合は、誰もが承知するところでしょう。「正」となるか「負」となるかの境目は、もっと人間の根源的な部分のように思います。「思いやり」や「情熱」など正の感情の上に成り立つ愛国心は、正となり、「欲望」や「傲慢」など負の感情の上に成り立つ愛国心は負となるのではないでしょうか。


そのような意味で、王ジャパンの活躍に日本中が感動する一方で、WBCを辞退した松井選手に対する「裏切り者」のレッテルや、準決勝進出が閉ざされかけた時に若干目に付いたバッシングに近い日本代表に対する批判には気になるものがあります。


人がしっかりと「人としての道」を進むことではないでしょうか。イチロー選手の愛国心は、それに裏打ちされていたからこそ、感動を呼ぶものになったのではないかと思うのです。

本田由紀・内藤朝雄・後藤和智著『「ニート」って言うな!』を検討する3回目で、今回で終わろうと思います。1回目は本田氏執筆の第1部、2回目は内藤氏執筆の第2部について、批判的に書きました。今回は、後藤氏執筆の第3部に若干触れて、全体を通しての印象をやや詳しく書きたいと思います。


後藤氏執筆の第3部では、雑誌、投書などに見られるニート論を個別に取り上げ批評してゆくものです。丁寧に分析されており、いいものではないでしょうか。基本的に、個別の検討に終始しており、見方によっては物足りないと感じる人もいるかもしれませんが、着実に分析を重ねた王道を行くような内容ではないかと思います。


ただ、あえて言うなら、各種言説の問題点を指摘してゆくというスタイルのためか、やや一方的な印象を受けます。例えば、東京学芸大学の山田昌弘氏の「もしわが子が過大な夢を追い続けているような場合には、夢から覚めさせることが必要です」というコメントを、「親の責任」を強調するものとして批判していますが、これだけ読む限りでは、過剰に親を責めている印象は感じられません。


この「やや一方的な印象」は、この本全体を通じて感じた違和感でもあります。確かに、この本は、ニート論の問題を暴く点で、非常に優れた本であると思います。しかし、一般的なニート論の問題点の指摘・批判が主となっているためか、どうしてもある種の「偏り」が感じられてしまうのです。従来のニート論は、そこから何一つ得るもののない、完全に有害無益なものなのでしょうか。そして、この本に書かれていることが全てなのでしょうか。


この本の主としての価値は、従来の「思い込み」を打破し、冷静な議論の起爆剤となりうるところにあるように思えます。今後の様々な議論に期待されるところでしょう。


今回は、この本を批判的にばかり検討してしまった感がありますが、何度も言うように、この本は有意義なものであると思いますし、この本の内容を踏まえてニートについてのテレビ特集も違った視点から見ることができます。


先日フジテレビで、やはりニート支援の若者自立塾について特集されていましたが、この本の問題意識は役立ちます。1人の無業者の経歴紹介で、「ゲームやアニメ漬けのニート生活」というようなナレーションがありましたが、この本が批判する「ニート」への誤ったイメージ付与のいい例かと思いました。


また、1人の無業者が、若者自立塾を出た後就職するも、すぐに辞めてしまったという内容もありました。5社落とされた後に決まったその就職先というのは、自給800円のパートだといいます。「コピーやお茶汲みをしながら仕事を覚える」というような紹介がなされましたが、その後のステップアップは果たして期待できたのでしょうか。それを問題とするような視点は番組ではありませんでしたが、そここそもっと注目すべき部分であるようにも思います。


やや枝葉末節的な批判に終始してしまったのではと不安にもなる今回の記事ですが、ここで終わりたいと思います。


本田 由紀, 内藤 朝雄, 後藤 和智
「ニート」って言うな!

前回に引き続き、本田由紀・内藤朝雄・後藤和智著『「ニート」って言うな!』を検討してみたいと思います。今回は、内藤朝雄氏の書いた第2部です。


内藤氏は、ニート等の青少年に対する社会の憎悪のメカニズムを分析し、「教育」の危険性を述べています。不寛容な社会、そして「教育」というものの裏に潜む大きな問題への批判は明快で、この本において、最も印象深い部分の一つとなっております。


しかし、著者のそういった明快な文章は、時に乱暴とも見える主張へとつながる場面も見て取れます。一番興味深いと同時に、一番異論を持ったのも、この第2部でした。


例えば、「物質的には豊かになったが、人間性が本来の自然な姿から疎外された」という主張を批判して、高度経済成長以前の「貧しい日本」で育った世代のほうが、はるかに多くの犯罪、しかも現代と似た「歪んだ」変態的な犯罪を犯していることを提示しています。それは傾聴に値するものですが、「大地に足をつけないで、コンクリートに足をつけて、車に乗って豊かに生きている人のほうが、やっぱり善良なのだろうということです」というのは、少し言い過ぎではないでしょうか。


高度経済成長以前の「貧しい日本」の方が犯罪は少なかったというのが誤りだとしても、犯罪の減少には様々な要因があるのだと思います。専門的に犯罪心理学などを勉強していないので何とも言えませんが、そこまで言うのなら、現在においても、猟奇的な犯罪などは、都心部より農村部の方が多いというデータが必要であるように思います。


また、内藤氏の少年司法への注文も、無批判に受け入れることは難しいものといえます。


長崎県佐世保市で起きた小学生女児による同級生殺害事件の家裁決定、そして14歳未満の刑事責任を問えない現行刑法を内藤氏は批判し、重大犯罪に関しては、刑事責任を問える年齢を引き下げるべきだと主張しています。しかし、この部分、見落とされている要素があるような気がしてなりません。


内藤氏によれば、小学生女児には刑事責任を問えないが、人権や個の尊厳の観点からあれだけ社会を騒がせた犯人を放免するわけにはいかないので、家裁は、精神医学や心理学を捻じ曲げ、理由にならない理由で施設収容とした、といいます。家裁は「女児が殺人を犯した心理的・成育環境的理由はわかりません」と白状すべきとし、重大犯罪には14歳未満にも刑事責任を問えば済む話とするのです。


そもそも、内藤氏は、人権や個の尊厳といった価値を守るためには、14歳未満であろうと刑事責任を問うことが不可欠だと、自明のように言います。しかし、そこまで簡単に言ってしまっていいのでしょうか。小学生だろうと、とにかく刑務所に入れればそれが本当に人権保障と最も適合的なのでしょうか。


少年事件の処理のあり方というのは、それ自体重大なテーマです。加害者が低年齢であるゆえ、加害者保護の要請と被害者保護の要請のせめぎあいは、普通の事件よりもはるかに深刻といえるかもしれません。社会秩序の維持、被害者の人権、加害者の置かれた状況や、低年齢ゆえの更生可能性と刑罰を科した場合の効果など、様々な要素を考慮して、罪を犯した年少者をいかに処遇するのが最も妥当なのか、深く議論されるべき問題でしょう。


内藤氏の言うような、少年犯罪の厳罰化反対というのは、(被害者の)人権よりも教育を優先し、人権を破壊するものという主張は、いささか一方的に過ぎるように思えます。「あるべき少年犯罪処遇」ということの深い考察がないまま、家裁決定への心理学的な異論と自身の価値観のみから、少年事件の処理の根幹に関するあまりにも重大な結論を出してしまっているように感じます。


内藤氏の説く教育の危険性は、極めて有意義なものなのですが、それが極論に流れている部分もあるといえるのではないでしょうか。


それでは、回を改めて、続けたいと思います。

近時話題となっている本田由紀・内藤朝雄・後藤和智著『「ニート」って言うな!』を読みました。一般的なニート論のあり方については、私も疑問を持っておりましたので、興味深いものでした。ニートについての思い込みや、青少年犯罪についての誤解などを丁寧に解説し、不適切な情報の上に立つ意見や施策を批判していく内容には、なかなか説得力があり、有益な本であると思います。


基本的には支持できる本ですが、ただ、細かい点などで疑問を感じるところもありました。この本全体の流れとしては賛成しておりますが、今回は、そういった疑問点について、批判的な見地から書きたいと思います。


まず、本田由紀氏の著した第1部ですが、ニートという類型の不適切さを説き、それぞれの人の状況をより詳細・正確に把握・分析して、ニートについての誤解を暴いています。その部分、非常に頷かされるものがあります。ただ、後半、自身の意見を、やや強引に進めている感があります。


1点目は、フリーターに関して厚生労働省が行った調査をもとに、フリーターが意識・能力の点で正社員に勝るとも劣らないとする分析です。一概にフリーターが意欲等で劣るとするような考えには、私も賛成しませんが、基礎学力や知識・技能についての「自己評価」をそのまま根拠にするなど、やや無理をしているといえないでしょうか。


また、2点目として、本田氏は、専門高校の意義を説き、専門高校の生徒が、「学校適応」と「対人能力」に長け、「進路不安」が低いという調査結果を提示しています。しかし、提示された図を見ると、「学校適応」については、高校総合学科、普通科高ランク校とあまり変わらず、「対人能力」については、普通科低ランク校を除けば、やはり、どれもあまり変わらないように見えます。そして、選択の幅が絞られている専門高校であれば、「進路不安」が低いというのも、当然という気がしないでもありません。本田氏の説く専門高校の意義を否定する気はありませんが、結論を急いでいるようにも見えるのです。


詳細なデータによる分析が、本田氏の記述の強力な武器であり、素晴らしいものではありますが、上記のような部分では、そのデータに基づく主張を、やや無理に展開しすぎているように思えなくもありません。


次に、内藤朝雄氏の書いた第2部へと進みたいところですが、長くなることが予想されるので、今回はここで終わりにしたいと思います。

最近、暇な時間ができたためか、考えることが多くあります。それがプラスの方向にいけばよいのですが、マイナスの方向に行くと、最悪、負のスパイラルにはまる可能性さえあります。


色々なことが頭をよぎっては、自己否定の感情が湧いてきてしまう。そんな時、いくら頭で答えを考え出そうとしても、効果がなかったり、逆効果にもなりかねません。自分の心と向き合うべきなのに、抽象的な思考の堂堂巡りが、かえってそれを阻害しているということでしょうか。


むしろ、身近な小さなことでもいい、何かを「感じる」ことを重視するのがいいのかもしれません。風の香り、木の葉の緑、青空、そういったものを五感で感じると、なかなか心地よい気分になります。


そうして、悩んでいたことを振り返ってみる。そうすると、悩んでいたことが実は大したことではなかったと分かったり、適切な考え方ができるようになったり、ということもあるのではないでしょうか。

大分間があいてしまいましたが、以前の記事 の続きを書きたいと思います。


その記事では、体罰賛成派と反対派の間に、何を重視すべきかという価値観の相違があるというようなことを書いた上で、「体罰」の賛成・反対という議論の仕方が、体罰問題の本質を逆に見えにくくしているのかもしれず、一段階脱皮した議論が求められているように思うと述べました。


では、どのような議論をすべきなのか、それについて今回は考えを書かせていただきたいと思います。


そもそも、「体罰」とは何を意味するのでしょうか。一応、「指導として物理的な力を行使すること」などと言えるかもしれませんが、「軽く肩をたたく」くらいから始まり、どこからが「体罰」なのか、その境界線は曖昧なものといえるでしょう。


比較的軽いものを「体罰」としてイメージした人が賛成し、重大な力の行使を「体罰」としてイメージした人が反対するなど、その「体罰」の認識の違いが、議論をややこしくしている可能性もあります。この場合、比較的軽い力の行使は両者とも認め、重大な力の行使は両者とも反対しているのにもかかわらず、体罰賛成と反対で衝突することもありうるように思います。


体罰が良いか悪いかという論じ方よりも、問題を起こした生徒等への対応として、どのようなことを、どの程度すべきなのか、してよいのか、という観点から、総合的かつ具体的に考えた方が有益な議論となるのではないでしょうか。


私の意見を言うのであれば、少なくとも、外傷を負わせるほどの行為は、まず許されないように思いますが、それに至らない力の行使はどうでしょうか。一定の程度に満たない力の行使の場合、傷つく可能性があるとして問題とされるのは、むしろ生徒の精神面であることを考えると、問題は厄介です。なぜなら、精神的な影響の種類・大きさは、人それぞれであるからです。これは、言葉のみによる場合や何らかのペナルティーを課する場合でも、言えることでしょう。


結局、個々の生徒の性格・傾向、そして生徒と先生との信頼関係の態様・程度如何で、生徒への影響、すなわち、どのような行為が弊害が少なく、より効果的なのかは変わってくるように思います。そうならば、先生・生徒間の信頼関係の構築を促すようなバックアップ体制や、個別の事例研究を積み重ね情報交換できるようなネットワークが、重要になってくるのではないでしょうか。


体罰という範疇に限らず、先生が生徒に対してなす行為には、生徒に対して大きな影響を及ぼすものが多いと思います。その行為の、目的、影響を考慮して、望ましい方法を見出していくような柔軟な議論が必要であるように思うのです。

先日、TBSの報道特集で、自殺者の遺族の方々を取り上げた放送がされていました。 最近読んだ本に、まさにこの問題を扱ったものがあったので、関心を持ちましたが、時間の都合でほんの一部分しか見られませんでした。


その本というのが、カーラ・ファイン著:飛田野裕子訳『さよならも言わずに逝ったあなたへ―自殺が遺族に残すもの』です。自身も自殺によってご主人を亡くしたカーラ・ファイン氏が、多数の自殺者遺族の方々に話を聞きつつ、遺族の苦しみ、そしてその再起を綴ったもので、自殺者の遺族に焦点を当てた稀少な本といえるのではないかと思います。


愛する者を失うことは、ただでさえ非常につらいことです。ごく自然な形で亡くなった人の遺族の悲しみと再起を記した本を、以前読んだことがありますが、それでさえ大変な道程です。それが自殺であったなら、どうなるのか。自殺であるがゆえ、その遺族の方々は、私たちが思うよりはるかに強い苦痛を味わうことが、この本には書かれています。


「不協和音」という言葉が訳者により象徴的に使われています。愛ずる者を失った悲しみと絶望、自分を置き去りにしたその人への怒り、世間への恥、罪悪感、自分もまた自殺するのではないかという恐怖、「なぜ」という答えの出ない問いかけを繰り返しながら、さまざまな内的な感情や、あるいは外部の環境により、傷つき苦しみます。


「なぜ」という問いをやめ、こだわりを捨ててこそ、自殺ではなく死を悲しむことができるようになり、心が癒され始める。自殺をその人自身の選択と理解できてこそ、その人、そして自分自身を許せるようになる。私が思いめぐらすこともなかった、自殺者遺族の方々の癒しのプロセスがそこにはありました。


私を含め、一般では、自殺した本人ばかりに注意がいき、自殺者遺族の存在は忘れられがちです。さらに、自殺というセンセーショナルな出来事に好奇心を煽られ、騒ぎ立てることが、遺族の方々をどれだけ傷つけるのか、お恥ずかしい話、あまり考えたことはありませんでした。


示唆的な、意義深い本であると思います。


カーラ ファイン, Carla Fine, 飛田野 裕子
さよならも言わずに逝ったあなたへ―自殺が遺族に残すもの