大分間があいてしまいましたが、以前の記事 の続きを書きたいと思います。
その記事では、体罰賛成派と反対派の間に、何を重視すべきかという価値観の相違があるというようなことを書いた上で、「体罰」の賛成・反対という議論の仕方が、体罰問題の本質を逆に見えにくくしているのかもしれず、一段階脱皮した議論が求められているように思うと述べました。
では、どのような議論をすべきなのか、それについて今回は考えを書かせていただきたいと思います。
そもそも、「体罰」とは何を意味するのでしょうか。一応、「指導として物理的な力を行使すること」などと言えるかもしれませんが、「軽く肩をたたく」くらいから始まり、どこからが「体罰」なのか、その境界線は曖昧なものといえるでしょう。
比較的軽いものを「体罰」としてイメージした人が賛成し、重大な力の行使を「体罰」としてイメージした人が反対するなど、その「体罰」の認識の違いが、議論をややこしくしている可能性もあります。この場合、比較的軽い力の行使は両者とも認め、重大な力の行使は両者とも反対しているのにもかかわらず、体罰賛成と反対で衝突することもありうるように思います。
体罰が良いか悪いかという論じ方よりも、問題を起こした生徒等への対応として、どのようなことを、どの程度すべきなのか、してよいのか、という観点から、総合的かつ具体的に考えた方が有益な議論となるのではないでしょうか。
私の意見を言うのであれば、少なくとも、外傷を負わせるほどの行為は、まず許されないように思いますが、それに至らない力の行使はどうでしょうか。一定の程度に満たない力の行使の場合、傷つく可能性があるとして問題とされるのは、むしろ生徒の精神面であることを考えると、問題は厄介です。なぜなら、精神的な影響の種類・大きさは、人それぞれであるからです。これは、言葉のみによる場合や何らかのペナルティーを課する場合でも、言えることでしょう。
結局、個々の生徒の性格・傾向、そして生徒と先生との信頼関係の態様・程度如何で、生徒への影響、すなわち、どのような行為が弊害が少なく、より効果的なのかは変わってくるように思います。そうならば、先生・生徒間の信頼関係の構築を促すようなバックアップ体制や、個別の事例研究を積み重ね情報交換できるようなネットワークが、重要になってくるのではないでしょうか。
体罰という範疇に限らず、先生が生徒に対してなす行為には、生徒に対して大きな影響を及ぼすものが多いと思います。その行為の、目的、影響を考慮して、望ましい方法を見出していくような柔軟な議論が必要であるように思うのです。