“迷い”と“願い”の街角で -32ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

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ひさびさにパソコンからの更新です。昨日、5泊6日の熊本旅行から帰ってまいりました。本当に楽しい6日間でした。最後の画像は、向こうを出発する直前に、熊本空港で撮ったものです。締めくくりの記事に載せる画像としては相応しいのではないかと思います。


熊本には父の実家があり、小さいころからしばしば行っておりました。現在、祖父母はすでに他界しているのですが、その家には、伯父伯母と従姉夫婦、そしてその子供たちがいます。また、その比較的近くに、他の伯父伯母も住んでおります。


これまでは、何かの用事に合わせて他の親戚も集まり行動を共にしたり、そうでなくても実家の誰かと行動することが多かったのですが、今回は、多少ながら、1人で行動する時間を設けてみました。そうして、あることに気づきました。


1人の行動も楽しいには楽しいのですが、何かが足りないのです。私は、観光地としての熊本も当然好きですが、やはり、そこに多くの親戚がいるからこそ好きで行くのです。今までの私の熊本に関する思い出は、すなわち、親戚の方々とのふれあいの思い出だったのです。


旅行も後半に差し掛かってそのことに気づいたとき、自分がなぜはこの熊本旅行を切望していたのかが分かった気がしました。私は、親戚の多い、この自然あふれる熊本の地を、第二の故郷として、自分の帰るべきひとつの場所として確認したかったのではないかと思うのです。


本当に素晴らしい旅行でした。諸事情により、前半は数多くの親戚と行動を共にし、その方々を見送るかたちで熊本に残りました。そして、それ以降は、父の実家の方々や、近くの伯父伯母にお世話になりました。楽しい時間を過ごさせてくださった方々に、心から感謝いたします。本当にお世話になりました。


飛行機から見た熊本の風景に、いつも以上に感慨を覚えました。これから忙しくなり、そうそうは無理だと思いますが、またきっと行きます。

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旅先での携帯からの更新も今日が最後になります。その今日は、電車で散策に行きました。画像はその際撮ったものです。

本当に早いものです。色々な人と接した有意義な時間でした。楽しい旅行でした。

明日の最終日もいい一日であってほしいと思います。
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画像は菊水の江田船山古墳のものです。

さて、6日間の日程の熊本旅行も、4日目が終ろうとしています。旅行自体まだまだ先だと思っていたのに、本当に早いものです。そう思うと寂しい気持も沸いてきます。

しかし、楽しい時間の過ぎることは、悲しむべきものではないのではないでしょうか。確かに、楽しい時間が終わるのは寂しいものです。ですが、その代わり、かけがえのない思い出を手にすることができます。

これから来る出来事に希望を持ち、今という時間をよく過ごし、思い出を重ねてゆく。過去、現在、未来、どれも貴重で、楽しいことは、そのすべてにおいて楽しく、決してそれ自体色あせることはないように感じます。

残りの旅行の時間を有意義に過ごしたいと思います。
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今日は街を散策してきました。駅周辺はかなり開発され、私の家の近くとあまり変わらない光景でしたが、少し離れれば広い畑などに囲まれた、開けた空間となります。この広さは普段の生活ではありません。

ところで、お世話になっている親戚の家には子供が数人います。最初会ったときは、一番上の子も赤ちゃんでした。会うたび見違えるほど大きくなっていきます。その子らを囲んだ団らんが私はとても好きでした。


ただ、その子たちも大きくなったためか、それぞれの時間を過ごす場合も多くなってきたようです。少し寂しいですが、人は成長し自立していくもの、仕方ありません。

とはいえ、今日は遅くになって、若干そういった団らんを味わうことができたようです。この時間、思い出を大切にしたいと思います。

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熊本に来たら必ず行きたい所、阿蘇山に今日は行ってきました。阿蘇の雄大な景色はいずれも素晴らしいのですが、特に好きなのは、やはり火口です。初めて見たのは中学生のときでしたが、その想像以上のスケールに圧倒されました。

それ以来、毎回火口には行くのですが、前回そして今回は、ある不覚をとってしまいました。写真に夢中で、まずは我が目に焼き付け、その環境全体から感じることを二の次にしてしまった気がするのです。

後悔のような念が起こりましたが、ふと別な考えも頭に浮かびました。写真にしろ、見て感じることにしろ、何かを「手に入れる」つもりで接するからこそ、変に気負って後悔するのではないかというものです。

気負うことなく、自然体のままいればいいのではないしょうか。自然と何かを感じとることもあるでしょうし、そういった自然に感じることが真に貴重な体験なのではないでしょうか。

いずれにせよ、大自然の営みの中、人は様々なものを与えられているのであり、何かを手に入れようと躍起になるのではなく、その貴重な恩恵に感謝することが大切なのかとも思います。
山手線と飛行機の遅れはあったものの、無事熊本の地に降り立つことができました。天気はあいにくの雨ですが、明日は晴れるようです。

多くの親戚の方々と会い、話すことができて楽しかったですが、あまりブログのネタになりそうなことはありませんでした。

ただやはり、親戚が多く、そして仲がいいというのは幸せなことだと思います。小さい頃の私にとっては、それは当然のことでした。しかし、核家族化が進んだ社会では、もはやそれは当然とはいえず、今後ますますそうなっていくでしょう。いえ、前にも書きましたが、親族どころか、もっとも基本的な家庭の崩壊さえ懸念されます。

旅行記のはずが、若干違った話になってしまいました。申し訳ありません。明日は、もっと旅情感ある記事を更新できたらと思います。
私事ですが、6日からしばらく熊本に旅行へ行ってまいります。

時間次第で、出来るかどうかは分かりませんが、旅行記とまではいかなくとも、旅行中感じたことなどにつき、携帯から更新したいなどと思っています。

今回は、試しのためもあり、携帯から投稿してみました。

人や自然と触れ合い、実りある旅行にしたいと思います。

憲法9条に関しては、近時では憲法改正が現実味を増してきたためか、いっそう様々な所で大きく議論がなされています。これを問題にしたブログ記事も多く、今回9条改正の是非を取り上げたアメブロの「Think Japan」では、さまざまな人がコメント、トラックバックをしています。


あまりにも多くの人が関心を持ち論じてきたテーマであり、もはや、賛成の意見、反対の意見に付け加えるべきことはほとんどないようにも思えます。


しかし、私は、今の状態での9条改正論議の意義には限界があるように感じます。いくら議論しても壁にぶつかり、そこから先へ進めない。それは、今の9条をめぐる論議が多分に観念的だからではないでしょうか。9条は「平和主義」を定めたものですが、まさに「主義」のぶつかり合いが、今の9条論争に思えるのです。


外交や安全保障は、本来なら現実分析や技術的な発想をもって論ずるべきテーマのように思います。今の世界の存する不安要因、その危険性の種類・度合い、それを回避するために必要な行為の態様・程度、そういったものを確かなデータに基づいて冷静に講じられる必要があるものではないでしょうか。


しかし、実際にはそういった議論はあまり見られず、「普通の国」や「平和国家」といった観念・主義がダイレクトにぶつかり合っている印象を受けます。自身の主義そのものが衝突の対象であるから、この9条論議においては、目を覆いたくなるような侮辱的な言動、相手の人格を傷つけ存在を否定するような主張が往々にしてなされるのではないかと思います。


日本人は、ひょっとしたら、多数の価値観を並存させることが極めて不得手なのかもしれないとも思います。どうしても、正しい価値はひとつと思い込み、自分の価値観を正しいことを確認するために、異なる価値観が存在するだけで違和感を感じ、時には徹底的に叩き潰さなければ気がすまなくなるのかもしれません。


観念論争は間違ったことだなどとは思いません。理想というもの、主義主張が人間のあるいは国家のバックボーンとなるのなら、それには大きな意義が当然あると思います。しかし、それだけでは、足りない部分が出てくるのではないでしょうか。


価値観には違いがあって当然です。そこでは、実際の問題にあたるには、現実に即した冷静な論議であってこそ、両者の歩みよりも可能になるのではないでしょうか。「どちらの価値観が正しいか」ではなく、それぞれの価値観を認めつつその違いの下、現実的な回答を模索するべきではないかと思うのです。目的が、自分とは違う自分は好きでない価値観、それを持った人間をつぶすこと、になってはならないと思います。


私は、現時点での9条改正には反対です。それを決める前に議論すべきことがあるように思います。現実の情勢の把握と、それに対応するのに必要なことの冷静かつ詳細な分析。その対応が現行憲法の下で不可能なのか、不可能ならどうすれば可能なのか、その議論がなければ、そもそも変えるといっても、どう変えたらいいのかという最も肝心な部分さえ曖昧なものになってしまうのではないでしょうか。

体罰議論の記事の続きを書かねばならないのですが、他に気になることが出てきまして、勝手ながら、もう少し先延ばしにさせていただきたいと思います。


2月27日付けの読売新聞夕刊で運動部長・高岡和弘氏の著した論考が目にとまりました。今回のトリノオリンピックでの日本勢の不振について書かれたものです。


史上最多の112人の選手を派遣しての不振につき、「派遣費用の無駄遣い」という声が出たことを紹介し、それについて疑問を呈しています。「無駄」かどうかは次につなげていけるかにかかっているとした上で、選手のサポート体制のぜい弱さを指摘しています。


スポーツの世界は勝負の世界、とりわけオリンピックともなれば、非常に高次元での戦いが展開され、わずかな差が明暗分けてしまうことにもなるでしょう。また、好調なときもあれば、不振なときもある、それは当然のことではないでしょうか。「派遣費用の無駄遣い」というのは、健闘した選手の方々に対して辛辣で、あまりにも早計な意見に思います。


同郷の者として、日本選手の方々には当然活躍してほしいですし、応援しています。しかし、「金出したのだから、結果出せ、メダル取れ」というのは、無機質で悲しい声に思えてなりません。


オリンピックでは、皆が上を目指して競い合います。しかし、スポーツの素晴らしさは、「結果」にあるのでしょうか。競技こそが輝きであり、それに順位やメダルがついてくるのではないでしょうか。メダルの取れない競技に意味はないなどと、誰に言えるでしょう。


選手の方々には、常により上を目指して輝きを増していってほしいと思います。その活躍を願いつつも、戦っている選手を応援することしかできない私たちは、「オリンピックは参加することに意義がある」という言葉を、心のどこかにおいておくべきなのではないでしょうか。

本屋には時々気分転換に行きます。どのような本があるのか色々見て回ったりするのですが、この間寄った際、山野車輪著『嫌韓流2』が目に止まりました。「2」が出たのか、と、さりげなく表紙を見たとき、正直目を疑いました。


「信じられない程腐り切った国、それが韓国だ!!」


ここまであからさまな口汚い罵倒を表紙に載せた本が、今までどれほどあったでしょうか。週刊誌などはともかくとして、書店の最も目立つところに並ぶような本です。唖然としました。


日本と韓国との間では、最近摩擦が多くなっています。主義主張は大きく対立し、さまざまな問題が表面化しています。


主義主張が対立することはあるでしょう。相手の批判に反論することだってあっていいはずです。しかし、「思い切った反論」と「品位や節操をかなぐり捨てた罵倒」とは違うように思います。また一歩、退廃へと歩みを進めてしまったのではないでしょうか。こういった言葉の氾濫は、それこそ「信じられない程腐り切った」社会を呼び寄せるものに思えてなりません。


愛国心というものが取りざたされて久しくなります。しかし、郷土を本当に愛するなら、西洋的な国民国家システムを過度に重んじたり、他国を罵倒することで相対的に自国の価値を上げようとするより、日本を純粋に見つめる他の方法があるように思います。


「正しい・悪い」を判断するためには、価値基準が必要です。近代化以後、とりわけ戦後、その価値基準そのものに触れられなくなっていたようにも感じます。日本的な価値基準をじっくりと見据えること、他国との違いを認識すること、それがなければ、郷土というものは徐々に風化・崩壊してしまうのではないかと感じます。