“迷い”と“願い”の街角で -33ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

若干おかしなタイトルをつけてしまいました。「体罰」については、教育現場における大きな問題として、盛んに議論されるところです。今回は、その議論で、絶対に勝てるとはいかないまでも、議論を断然有利に進める方法を述べてみようかと思います。


まず、「体罰賛成」の側の方についてですが、様々な生徒等の問題行動を挙げて、「体罰を使わずに、これらの問題行動を押さえる方法を具体的に述べてくれ」と体罰反対派の人に詰め寄ってください。相手が乗ってきて、応え始めたら成功です。生徒の問題行動は数え切れないほどのパターンがありますし、信じ難いものだっていくつもありますから、一つ論破されても、次、その次と追い込んで下さい。かなり相手としては厳しいと思います。


次に、「体罰反対」の側の方についてですが、体罰の結果生じる不利益について、「こういった体罰の結果生徒に生じる問題をどう防げばいいのか」と体罰賛成派の人に詰め寄ってください。相手がそれに応じてきたならこっちのものです。体罰によって身体的・精神的に問題を抱えるようになった生徒の例も、かなり報告されているはずですから、それを次々に挙げてください。そのうち相手もしんどくなると思います。


ずいぶんと下らない話をしていると思われますでしょうか。しかし、我慢して読んでくれた方には感謝し、先に進めたいと思います。何が言いたいのかといいますと、当然かもしれませんが、体罰についての賛成や反対の意見の裏には、事実や現状の解明だけでは決着のつかない、何を重視すべきかという価値観の違いがあるのです。


体罰賛成派の人は、基本的に、問題行動の抑止による学級運営の安定を重視しているといえるかもしれません。体罰反対派の人は、力の行使による生徒の身体的・精神的損害の防止を重視しているといえそうです。よって、自分の価値観を前提とした議論のフィールド(「問題行動を押さえる方法」や「体罰の結果生徒に生じる問題を防ぐ方法」)に相手を引っ張り込めば、議論が有利になるのは必然でしょう。


逆にいいますと、先ほどの必勝法をかけられた場合、それを回避する方法も提案できます。片や「学級運営の方が大事、体罰の結果生徒がどうなろうと構わない」と、片や「生徒第一、学級運営がどうなろうと構わない」と開き直って、相手のフィールドでは議論しないことです。しかし、もはや、このような議論が聞くに堪えないことは明らかでしょう。どちらの価値も無視できないものだからです。


「体罰」の賛成・反対という議論の仕方が、体罰問題の本質を逆に見えにくくしているのかもしれません。それよりも、一段階脱皮した議論が求められているようにも思います。


長くなったので、次回あたり続きを書くことにいたします。

若干、前回に引き続いた内容となります。ところで、そもそも、軍隊と警察とは何が違うのでしょうか。どちらも実力を行使する機関です。程度差は当然かもしれません。警察官のピストルと、自衛隊の持つ兵器とでは次元が違います。しかし、どこが境界線なのでしょうか。


私は、装備等の程度差以外に、本質的な違いが両者にはあるように思うのです。武器・兵器の程度差はむしろそこから来ているような気もしないではありません。


単純化すれば、国家というものを基準としたとき、内部を取り締まるのが警察、外敵から国を守るのが軍隊といえるでしょう。そんなことか、当たり前じゃないか、と思われたでしょうか。しかし、そこに起因して重大な側面が見えてくるようにも思うのです。


警察が取り締まるのは、犯罪者だといっても、同じ社会に住まう「身内」です。だからこそ、状況にもよるでしょうが、普通は当然手加減がなされますし、武器もさほど破壊力は高くありません。ほとんどの犯罪者が生きたまま逮捕され、ある意味では手厚い処遇を受けることになります。


一方で、軍隊が相手にするのは、「よそ者」です。社会の外部の人間なのです。基本的には敵部隊の壊滅を目的とし、破壊力の高い兵器を用います。


確かに、軍隊と警察では、相手のスケールが全く違いますので、以上に示した違いが唯一絶対であるとは少なくとも思いません。しかし、とりわけ、戦争と軍隊、犯罪と警察をめぐる、主張や意見、世論には、その部分の影響が見て取れるように感じるのです。


だとすれば、社会の階層分化が起き、社会に多数の、とりわけ下層の「よそ者」が生じた場合、警察が主流派の世論を背景に「軍隊化」することも考えられるのではないでしょうか。他方で、国連の考え方、PKOなどについて、微妙なところながら、軍隊の「警察化」の要素もあるのではないかと感じます。


国民国家の概念は、基本的には、一国で完結し、他国の存在は重要な要素として組み込まれていないように思います。その国民国家の概念があまりにも押し出された場合、壊滅の要素を強くした軍隊の拡大も考えられます。また、国民国家の概念が、一人一人の人間を重要な要素としてとらえきれないならば、警察の「軍隊化」も促進される可能性があるように思います。


今現在、国民国家というものを軽視・無視することは望ましくないかもしれません。しかし、他方で、その国民国家の内包する危険性を無視し、また国民国家で捉えきれない要素をもっと深い考察から拾うこを放棄することも許されないというべきでしょう。


困難かもしれませんが、安易な二者択一より、高次の止揚を求める必要は、いつの時でもあるのではないでしょうか。

外交問題、とりわけ憲法9条の問題をめぐり、「軍隊が国を守るのは当然で、それができないのが異常」という意見が見られます。そもそも、外交・安全保障というデリケートな問題に、「当然」や「異常」といった言葉が安易に使われすぎているきらいも感じますが、それは置いておくことにして、上記の意見、どのようにお考えになるでしょうか。


友好的とはいえない国が軍事力を持っているのなら、こちらも軍事力を持っている必要がある、という意見もあるでしょう。いや、軍事力自体が危険を招くのであって、平和的な問題の解決こそ望まれるべきだという意見もあるでしょう。


ここでは、上記の見解とは違った軸で考えてみたいと思います。


「軍隊が国を守ることは当然か」と問われるのなら、「当然」なのではないでしょうか。しかし、それを善いとも悪いとも言いません。ただ、国を軍隊が守ることになるのは、必然の流れではあると思います。


というのも、近代以降の国民国家というものが、そもそも、「戦争用」に形成されているといえるのではないでしょうか。「戦争の装置としての国民国家」という言葉はそれなりに聞くものです。


1789年のフランス革命を期に、統一された国民による国家が形成されました。その国民国家のナポレオン率いる軍隊は圧倒的な強さをもって、広くヨーロッパを制圧し、その過程で国民国家の概念を広げてゆくこととなりました。国民国家は、それまでの農民を従えた領主の寄せ集めの国と比べて、外敵との対決・排除にきわめて優れたものであり、その結果、国民国家の形成以後、戦争は増えてゆくこととなります。


国を軍隊と戦争により守るのが当然なのではなく、軍隊と戦争により守られるものがまさに「国」というべきなのでしょうか。


では、ここからの選択肢はどうなるでしょう。従来の近代的国民国家が戦争を誘発するよいうのなら、国民国家を至上視し、それによる戦争による犠牲を仕方ないこととして受け入れることが考えられます。一方で、近代的国民国家を乗り越えることを志向し、そのための手立てを考えるという道もありうるでしょう。


真に私達が何を望むのか、「軍隊が国を守ることは当然か」という次元よりも深いところにまで踏み込んだ議論が求められているのかもしれません。

最近、野党と小泉総理との間で「格差」をめぐる論争が行われています。小泉総理は再三にわたって「格差は悪いことではない」と述べています。しかし、その意見の当否を論ずる前に、注意しなければ、小泉総理の言説に惑わされて本質を見誤る危険性があるのではないでしょうか。


悪平等を排し、頑張った人がその分報われて差がつくこと、それが悪いことなのか。というようなことが小泉総理の発言の趣旨だと思います。一見、妥当にも感じる部分があるかもしれません。しかしながら、見落としてはいけない重要な要素がここにはあるように思います。


まず、「格差」ですが、一口に「格差拡大」と言っても、その中身いかんでは全く違うものになります。すなわち、それなりに稼げる人とふんだんに稼げる人との格差拡大と、ふんだんに稼げる人と生存さえも脅かされる人との格差拡大では、深刻さには雲泥の違いがあります。


真の問題は「格差」ではなく、その先にある、多くの人が絶望し、生存を脅かされ、豊かな人生を送れない社会の可能性でしょう。頑張った人がその分報われるのは良いですが、目指すべきは誰もが何らかの形で豊かに暮らせる社会であり、それを放棄するような「格差」是認は当然問題視されるべきです。


また、「頑張った分だけ報われる」前提には、「スタートラインは同じ」という前提があってしかるべきです。しかし、格差が拡大していった場合、その前提は本当に確保されるのでしょうか。


以前 書いたように、生活保護家庭は低学力の子を生み、その子が低学力ゆえに貧困に陥るという例があります。格差があまりにも拡大した場合、むしろ生まれた環境で一生が左右されるという可能性も高いのではないでしょうか。小泉総理の言うような「勝ち組みと負け組が固定化せず流動化する社会」が、果たして「格差社会」から生まれるのか疑問です。むしろ、その固定化こそが「格差社会」の本質であるようにも思います。


「与党叩き」と表面的な言説による「開き直り」との対決にどれほど意味があるのでしょうか。問題はもっと根深いことを考えてほしいと願ってやみません。

私はある缶コーヒーをよく飲みます。以前は、嫌いではありませんでしたが、そこまで何度も飲むほどには好んではいませんでした。


きっかけは些細なことです。学生時代、出会ったころはあまり気の合わなかった友人がいました。極端な話、性向が私とは正反対に近い人だったように思います。ただ格別反目しあうわけでもなく普段は普通に接していましたが、意見が食い違うことも度々ありました。


色々ありましたが、最後にはそれなりに理解しあえたように思います。あるとき、私が彼を手伝った際、その礼として、一本の缶コーヒーを私にくれました。


人間の味覚とは面白いもの、それが今では私の好物の一つです。

前原氏が民主党代表となったことで、憲法改正への動きが加速しそうな昨今です。それについて、当然ながら、三回に渡り独自の憲法改正案まで発表してきた読売新聞は非常に歓迎しています。そして、読売が改憲を主張する際によく言うのが、憲法改正賛成が多数となった世論調査の結果です。


しかし、そもそも世論調査の結果というものも絶対ではありません。とりわけ、憲法9条の改正の賛否を問う調査において、各新聞において結果に大きな差も見られます。また、何度かここでも触れたように、読売自身の調査でも、集団的自衛権の行使については、反対が賛成を若干ながら上回りました。改憲の世論が多数であることを再三主張する読売は、この結果については全く触れることはありませんでした。


ところで、少し違った見地から話をすすめましょう。「憲法改正に賛成か反対か」という質問の仕方に対して、疑問が呈されることがあります。何か問題がある部分について具体的に賛否を問うならまだしも、少ないとはいえ前文のほか103もの条文を有する憲法をひっくるめて「変えるべきか」というのは、有益な結果を導かない、というものです。


私も上記見解に賛成です。そして、ここで注目したいのは、「憲法改正に賛成」という回答の持つ「意味」です。普通に考えれば、「問題があるから変えるべきだ」という積極的な主張ととらえるべきかもしれません。個別具体的な事例についてならそう考えてもいいでしょう。


ですが、前述したような「憲法改正に賛成か反対か」という、包括的な質問の場合はどうでしょうか。改正すべきと思う点も、その理由も、どのように改正すべきかについても、かなりの幅が出てくるのではないでしょうか。さらに考えれば、「個々の条文のいずれかに何か問題があれば変えればいいのではないか」というような積極的な賛成というよりも「容認」というべき意見も含まれている可能性は否定できません。単純には解釈できない部分が、こういった世論調査にはあるように思います。

「気合があれば乗り切れる」「前向きであれば何とかなる」など、様々な局面での人間の精神面を重視した言説は、よく見かけます。ひょっとしたら、以前よりは語られることが少なくなってしまったのかもしれませんが、聞かれないということは決してないでしょう。


人間には、人格が、心があり、そうであるならば、精神面は非常に重要です。人が物事に対処するに際して、気持ちを奮い立たせて当たるのと、消極的に無機質に当たるのとでは、当然ながら差が生じるでしょう。確かに前向きであることは、人生をよりよく生きるうえで不可欠のものかもしれません。


そういった精神論は、自ら貫くべきものとして持っている場合には、度々美しく輝き、困難を切り開いてゆくことでしょう。しかし、それが、他者に向けられた場合、そのやり方によっては、思いもよらない副作用を生じさせることもあるのではないかと思うのです。


精神論は、主観的であり、往々にして抽象的で、意味が曖昧な場合があります。一方、人間がそれぞれならば、その置かれておる状況もそれぞれです。どんな人生を生きてきて、何について何を考え、何を思い、何を感じるのか、千差万別というべきでしょう。精神論は、必ずしも即座に万人に通じるとは限りません。


何かに悩み困っている人に対して、その置かれている状況を考慮することもなく「気合があれば何とかなる」といったとすれば、それはどれほどの助けになるのでしょうか。いえ、それならまだしも、相手の状況に配慮することなく「やる気があれば何とかなるもの、やる気がないから悪い」などと言ったらどうでしょうか。主観的な内容で反論する余地もさほどなく、相手に不快感を与えてしまうように思います。


社会問題ともなればさらに顕著でしょう。社会的に不利益を受けている人々がいた場合、背景や原因を考慮することなく「本人の気持ちの問題、気合がないからそうなる」としたら、どうなるでしょう。その人々を不当に傷つけるだけではありません。社会問題を、社会が一丸となって取り組まねばならないものだとしたら、そういった精神論で本人の責任と断じてしまうのは、社会の構成員として無責任なことといえるのではないでしょうか。


人間にとって精神が大事であり、精神面で乗り切るべき場合が多々あることもその通りだと思います。しかし、精神論の使い方は、誤らないようにしたいと思います。口先で軽々しく振り回せるほど、人間の心、精神は軽くないというべきでしょう。

三浦展著『下流社会―新たな階層集団の出現』が話題を呼んで以来、「下流」という言葉が盛んにメディア等で取り上げられるようになりました。


先日も、「下流」を生きる人を紹介した番組が放映されており、終わりの一部分だけ観ることができました。若干、そういった人々を興味本位で取り上げている雰囲気があり、好感の持てない側面もありましたが、ポイントをついていると思うような発言も、コメンテーターの方達の口から出ていました。


一つ目は、ライブドアの堀江氏のように極端に上昇志向の強い人と、上昇志向が全くといっていいほどない人の二極化というものです。山田昌弘氏のいう「希望格差」、また、まさに三浦氏が指摘するような「下流とは、単に所得の低さを意味するのではなく、コミュニケーション能力や、人生に対する意欲の低さを意味する」という点を捉えているように思います。


では、なぜそうなってしまうのでしょうか。人間そのものが変わったのでしょうか。そうとも考えられます。しかし、社会的な要因も無視できないでしょう。


競争の激化ということが指摘されますが、私は、それと関連して、競争の質も変わってきたためではないかと思います。一昔前の競争は、決して穏やかではないにせよ、経済の総量が増大し、「どれほど多くパイを取れるか」という競争だったのではないでしょうか。つまり、「上昇」自体はさほど難しくはなく、「どれだけ」上昇するかに力点がおかれていたように思うのです。


しかし、近時、経済の停滞、経済構造の変化から、「上昇」そのものが困難となり、「数少ないパイを互いに奪い取る」という、弱肉強食のえげつない競争になってきたとはいえないでしょうか。だからこそ、上記のような「上昇志向」の二極化が進むようにも思います。


また、二点目として、「下流」の人が、せわしない社会に入ることで「自分が自分でなくなる恐怖」を感じているのではないかという指摘がありました。


これには、確固たる自分の軸を持ちにくいことが背景にあるのではないでしょうか。周りの状況に簡単に左右されてしまうからこそ、そういった恐れが生じるのではないでしょうか。だとすれば、この要因は今始まったことではないと思います。


日本人の横並び意識は高度経済成長時代に始まったという指摘が『希望格差社会』にあったと記憶しております。それに経済の成長を至上視した考えが相まって、自分の生を支える哲学を見出しにくくしてしまったのではないでしょうか。


「下流」という現象は、日本の奥深く根元まで蝕む病の表面部分といえる気もします。


三浦 展
下流社会 新たな階層集団の出現

こちら の記事を見て、どのように思われるでしょうか。「勝ち組、負け組の格差が広がり、結婚できない男がいる一方で、特定の男には複数女性が群がる」という、格差社会におけるひとつの現象を扱ったものです。


これをどのように捉えるか、人それぞれだとは思いますが、「由々しき事態」と上記の記事を締めくくっているように、いえ上記の記事のトーンよりもはるかに深刻かつ重大な問題であるように思うのです。


上記の記事は、「日本も『一夫多妻制』になる」というタイトルをつけています。しかし、私はこれは、「一夫多妻制」なのではなく、「家族、家庭の崩壊」ではないかと思っています。


この現象の原因について、記事の中で、東京家族ラボ主宰の池内ひろ美氏は「魅力も経済力もない男性と結婚するぐらいならしないほうがマシ。でも子供だけは欲しい。だったら優秀な遺伝子のほうがいいし、ある程度は物心両面で支えてもらいたい。そう考える女性は少なくありません」と述べています。


家庭、家族は、社会の基礎的な単位として、人に生きがいや安定感をもたらす機能があるというべきでしょう。それに対して、「ある程度は物心両面で支えてもらいたい」とありますが、このような関係が、とりわけ心の安定にとって、どれほど支えになるのか疑問が残ります。もはや、それを「家庭」や「家族」と呼ぶことができるのでしょうか。


勝ち組と負け組の格差拡大により、方や結婚できない人間が増加し、方や「家庭、家族」の伴わない事実上の結婚生活を送る人が増加した場合、家庭や家族が崩壊し、社会全体が非常に不安定なものとなりかねないでしょう。


「勝ち組」「負け組」という発想が大手を振ってまかり通ること自体、狭く刹那的な雰囲気を感じます。「勝ち組」が今現在の享楽に没頭し、「負け組」が絶望に沈むとしたら、誰が社会を前に進めるのか。誰にとっても未来のない社会が、そこにあるのではないでしょうか。

昨年末かと思いますが、とあるテレビ番組で、スピリチュアル・カウンセラーとして有名な江原啓之氏が、「『叱る』と『当たる』は違う。『叱る』ことは愛がなければできないこと。最近の親は、叱っていない、当たっている」という趣旨の発言をしていました。


愛ゆえに厳しくすべきときもあるでしょうが、「厳しさも必要」や「本人のため」を言い訳に当たってしまってはならないのでしょう。親も人間である以上、難しいことでもあるとは思いますが。


ひとつ思い出したことがあります。小学校時代の、あまり良いとはいえない思い出です。


昼休み、私は友人と2人で3階か4階の階段近くで遊んでいました。すると、突然、見知らぬ中年の女性が憤慨してやってきました。その人が言うところには、私達がいたすぐそばの階段の踊り場から、数人の生徒が、外の道行くその女性に向かって「バカ」と言ったらしいのです。


そして、それは私達のじゃないのか、と言いました。私達には身に覚えのない話です。やった人間に関しても心当たりがありません。説明するのですが、「他に女の子もいたでしょう?」、「見てないはずないじゃない、こんなに近くで」、と怒り冷めやらぬ様子。そして、ずっと自分達でないことを主張してきて、やっと分かってきてくれたかと思ったのですが、最終的には、「あなた達はやってないと言うけども、もしやったのなら、とんでもないよ」と怒鳴られて終わりました。


その後、その女性は職員室にも怒鳴り込んだようで、ホームルームで先生からその話を聞きました。幸い、私たちを犯人として名指しするようなことはなかったようですが。


別にそれがトラウマ等になったなどということはありません。ただ、楽しい思い出でなかったのは確かでした。あの怒り方は尋常ではありませんでしたが、人それぞれ、その人にも何か事情があったのかと思います。


もうひとつ、関係ない話ですが、小学生時代の苦い思い出が浮かんできました。どちらかというと、こっちの話のほうが刺々しく心にあります。


友人達と、ロボット仕掛けの恐竜が動く施設に行った時のこと。ゴンドラに乗って見て回るのですが、後ろの席の中年の男性が、「食べられちゃう~」などとやっていました。結構うるさく感じた当時の私。恐竜に詳しかった小学生の私は、そのエリアの恐竜が草食であることを知っていました。そして、後ろの席にも聞こえる声で、「これは草食恐竜、人間を食べることはない」と友人に言ったのです。静かになった記憶があります。


その男性、「このクソガキ」と内心思ったのではないでしょうか。今更ながら、とりあえず謝っておきます。ごめんなさい。