「気合があれば乗り切れる」「前向きであれば何とかなる」など、様々な局面での人間の精神面を重視した言説は、よく見かけます。ひょっとしたら、以前よりは語られることが少なくなってしまったのかもしれませんが、聞かれないということは決してないでしょう。
人間には、人格が、心があり、そうであるならば、精神面は非常に重要です。人が物事に対処するに際して、気持ちを奮い立たせて当たるのと、消極的に無機質に当たるのとでは、当然ながら差が生じるでしょう。確かに前向きであることは、人生をよりよく生きるうえで不可欠のものかもしれません。
そういった精神論は、自ら貫くべきものとして持っている場合には、度々美しく輝き、困難を切り開いてゆくことでしょう。しかし、それが、他者に向けられた場合、そのやり方によっては、思いもよらない副作用を生じさせることもあるのではないかと思うのです。
精神論は、主観的であり、往々にして抽象的で、意味が曖昧な場合があります。一方、人間がそれぞれならば、その置かれておる状況もそれぞれです。どんな人生を生きてきて、何について何を考え、何を思い、何を感じるのか、千差万別というべきでしょう。精神論は、必ずしも即座に万人に通じるとは限りません。
何かに悩み困っている人に対して、その置かれている状況を考慮することもなく「気合があれば何とかなる」といったとすれば、それはどれほどの助けになるのでしょうか。いえ、それならまだしも、相手の状況に配慮することなく「やる気があれば何とかなるもの、やる気がないから悪い」などと言ったらどうでしょうか。主観的な内容で反論する余地もさほどなく、相手に不快感を与えてしまうように思います。
社会問題ともなればさらに顕著でしょう。社会的に不利益を受けている人々がいた場合、背景や原因を考慮することなく「本人の気持ちの問題、気合がないからそうなる」としたら、どうなるでしょう。その人々を不当に傷つけるだけではありません。社会問題を、社会が一丸となって取り組まねばならないものだとしたら、そういった精神論で本人の責任と断じてしまうのは、社会の構成員として無責任なことといえるのではないでしょうか。
人間にとって精神が大事であり、精神面で乗り切るべき場合が多々あることもその通りだと思います。しかし、精神論の使い方は、誤らないようにしたいと思います。口先で軽々しく振り回せるほど、人間の心、精神は軽くないというべきでしょう。