“迷い”と“願い”の街角で -34ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

以前、友人ととある川にシーバス釣りに行ったことがあります。そこで、興味深い経験をしたので、振り返りつつ書きたいと思います。


夕方、友人と私が川辺についたとき、2人の先客がいました。それぞれ関係のない人のようで、1人は向かって左、もう一人が右で釣っており、その間は間隔があいていました。


そこで、私たちは、その2人の間で釣りを始めました。すると、しばらくして、右側にいた先客が、「向こうの人の友達? どうして黙ってそこで釣るの?」と言うのです。色々と言われましたが、私は正直、意味がわかりませんでした。友人は察したのでしょう、私たちは、その人のさらに右側に移動しました。


ようやく、先ほどの人の言ったことの意味がわかってきました。釣りにおいては、魚が集まりやすい、いわゆる「ポイント」というものがあります。そして、私達が最初に釣を始めたところは、その「ポイント」でした。しかし、その右にいた先客は、なぜ、そこで釣らなかったのでしょう。そこがまさに肝心なところです。すなわち、その右の人よりもさらに先にいたのが向かって左側にいた先客であり、右の先客は、その左の先客の邪魔にならないように、十分な間隔をあけ、「ポイント」から離れて釣っていたのです。


なるほど、右の先客が、左の先客への配慮からあえて空けておいた「ポイント」に、後からきた私達が割り込んだのです。確かに、右の先客としては納得できないことでしょう。


しかし、全く反論の余地がないわけではありません。私達が「割り込んだ」と書きましたが、私達にその意識はありませんでした。そのくらい最初の2人の間隔は開いていたのです。確かに、最初にいた人への配慮は大切です。ただ、1人があまりにも多くのスペースを確保することは、極端な話、公共の場所であるその川辺を、先に来た少数の人間のみで占領することとなります。少なくとも、「ポイント」の恩恵を受けられる人の数は減ることとなるでしょう。


先にいた人の尊重、後から来る人への配慮、どちらも重要な要素であり、やや難しい調整といえます。「公平」と一口に言っても、その意味は必ずしも単純には解することはできません。


民事執行の分野で似たような話があります。執行の手続を最初にした人を優先するか、他の債権者の利益を重視するか、という考え方の違いで、日本では、後者の考え方が強い制度となっていますが、やはり、問題も指摘されています。


ちなみに、この釣りで、一緒にいた友人は沢山釣りましたが、私は1匹も釣れませんでした。

更新が滞り申し訳ありません。


最近余裕がなくなっております。時間的にというよりも、精神的にというべきでしょう。


今の自分の状況、そしてこれからの自分、考えていけば不安だらけで、それでも考えていたら昨日は寝不足になってしまいました。少し、今眠いです。


自分はどうしたら良いのか。そもそも、自分に何ができるのか。“何もできないんじゃないか”という不安が頭を過ります。


最近思います。私には、そもそも“夢”というものがなかったのではないか、と。“夢”だと思っていたものが、決してそんなものではなかったのかもしれない、と。


しかし、“夢”とは、結局、何なのでしょうか。人生を輝かせるもの、しかし時に、自分や他人を押しつぶす。“夢”のあるべき姿とは、“夢”を持つとは。


“今を生きる”、ロビン・ウィリアムズ主演の映画にありましたが、これほど難しいこともないと感じる今日この頃です。

言葉にこそ心がある、というようなことが言われることがあります。また、「言葉」が、紛争・対立の中心に来ることは、めずらしいことではないでしょう。このジェンダー・フリーの問題は、その代表的なもののひとつであるでしょう。


5年ぶりに男女共同参画基本計画が改定され、「ジェンダー・フリー」という用語を使用して性差を否定するのは、「国民が求める男女共同参画社会とは異なる」と明記されました。さて、これをどうとらえるべきでしょうか。そこに、このジェンダー・フリーの問題の複雑さがあるように思います。


あらゆる性差を否定するジェンダー・フリーは行き過ぎである、という意見があります。実際、「あらゆる性差の否定」について、意見を求められれば、たいていの人が反対するのではないでしょうか。では、ジェンダー・フリーは否定ということで問題なしでいいのかといえば、そう単純にはいかないのではないでしょうか。


そもそも、ジェンダー・フリーが明確に定義されていなかった、ということが問題を複雑にしているようです。主に、ジェンダー・フリーを批判する人は、「あらゆる性差の否定」の意味に捉えている場合が多いのではないでしょうか。しかし、ジェンダー・フリーを推進する人からすれば、ジェンダー・フリーはそんなに極端な意味ではない、ということになるようにも思います。


ジェンダー・フリー否定派の人から見れば、「じゃあ、ジェンダー・フリーという言葉をやめればいい」と思われるかもしれません。しかし、ジェンダー・フリーを緩やかな意味に解釈し意見を持ってきた人の立場にたつと、ジェンダー・フリーを悪い意味に決めた上で、否定ないし使用禁止にされるのは、納得できないことともいえそうです。


男らしさや女らしさの強制、女らしさや男らしさの否定、いずれも極端とするのが、一般的認識といえるでしょうか。しかし、その中間を行うことこそ、実は一番難しいように思えます。


性差の問題は、画一的に決着するのは困難、というよりも不可能に近いと思います。望むべき性のあり方を描きながら、個々の事例に即して具体的に考えてゆくのが、一番の近道であるように思います。

以前も書きましたが、今まで読んだ本の中でも、とりわけ感銘を受けたものが4冊あります。うち、2冊については既にご紹介しました。今日は、その3冊目をご紹介したいと思います。


今回の本は、西街守著『透明の国のアリス―少年鑑別所の少女の言葉』です。少年鑑別所に勤務していた元法務教官の西街氏が書いたノンフィクションであり、北里ありすという少女を中心に描かれています。


鑑別所に入所してくる少女達のおかれた残酷で過酷な状況、社会の歪み、法務教官であった西街氏の思いと苦悩、そして、少年司法制度の問題、そういったものが、非常によく盛り込まれており、様々な感覚を読み手に与えます。


そんな中でも、私がとりわけ印象に残った部分があります。以下、少し長くなりますが、引用します。



家庭裁判所での審判に向けて心身の安定を図るというのが鑑別所の役割のひとつなのだが、まったく機能していないようだ。もっとも僕に言わせれば無理もないが。ここでの生活は子供の心を安定させるどころか逆に苛立たせることばかりだからだ。

                     ・・・

警察による現場検証もそのひとつだ。これは通称・引き当たりというが、引き回しといったほうがよりふさわしいと思う。

                     ・・・

確かにありすは傷害事件を起こした犯罪者かもしれないが、心がないわけではない。人目にさらされて傷つかないわけではない。僕は胸が苦しかった。ありすがわざと平気なふりをしているのがわかったからだ。これが僕の仕事か、と思った。ただの合法的ないじめじゃないのか。これも社会的制裁なのか。ずいぶんひどいことをしているのに、警察も教官もみな平気な様子だ。この仕事に慣れているというのか。僕に言わせれば麻痺しているだけだった。

もし、ありすを本当にいじめたり、ののしれる権利がある者がいるとしたら、それは被害者とその家族だけのはずだ。



いかがでしょうか。その通りと思われる方もいるでしょう。反論したい方もいるかもしれません。しかし、私は、最後の「本当にいじめたり、ののしれる権利がある者がいるとしたら、それは被害者とその家族だけ」というところは肝に銘じなければならないように思うのです。


しかし、これは、犯罪というような社会悪に対して無関心、無反応であれ、というのではないでしょう。犯罪から人を、社会を守るには、犯罪に関心を持ち、社会悪として社会的な怒りが共有されてしかるべきではあるはずです。ただ、ここにおいて、あくまで「社会的な」怒りたるべきことに注意しなければならないように思うのです。


最近は特にその傾向を感じるのですが、犯罪を犯した人間に対し、個人的な鬱憤をぶつけようとしてはいないでしょうか。「犯罪」にかこつけて、犯人を憎むことで、憂さ晴らしをしようとしてはいないでしょうか。被害者でもなんでもない私たち自身が、「自分のため」に怒ってはいないでしょうか。


犯罪に対して、社会が怒ることは大切です。しかし、それは、犯罪のない幸せな社会を企図する、理性的かつ前向きな怒りでなければならないと思います。事件のよりよい解決は何か、二度と起こさないためにはどうしたらよいか、思考ある怒りであるべきです。ただ、怒り自体が感情的なものであり、理性的な怒りと感情的な怒りの区別は曖昧で、難しいことではあるでしょう。


とはいえ、感情的な怒りの暴走は、冤罪や、不相当な処理、時にはちょっとしたことから被害者へと矛先が向くなど弊害は否めないと思います。社会の一員として、努力すべきことでしょう。


ところで、この『透明の国のアリス』ですが、非常に感銘を受ける本であり、素晴らしいものだと思います。しかし、読み手に100%納得・賛成されては困る本でもあるとも思います。


著者の目から見た少年司法の実際は、絶望的で目も当てられず、西街氏は結局、法務教官を辞職しています。しかし、皆がこれに賛同すれば、少年司法の担い手は皆無になってしまいます。少年司法制度は、動かされつづけなければなりません。意義深い本ですが、少年司法を志す人が読んだ場合には、「いや、それでも・・・!」と思ってもらわなければなりません。これは、本の矛盾ではなく、本に描かれた現実の社会の矛盾ゆえといえるのではないでしょうか。


西街 守
透明の国のアリス―少年鑑別所の少女の言葉

3日から3夜連続で古畑任三郎ファイナルが放映されました。私は以前より、このドラマが好きだったのですが、今回も非常に楽しめるものだったと思います。


第2回目のイチロー選手の話は、友人の間ではあまり評価が良くありませんでしたが、私はそれなりに面白かったのではないかと思います。イチロー選手の演技も、よかったといえるのではないでしょうか。


また、1回目と3回目は、これまでの古畑にはないストーリー展開で、かなり力が入れられていたように思います。個人的には、3回目のラストで、古畑が1994年 4月の第1シリーズのまさに初回に登場した犯人・小石川ちなみについて語ったのに、感慨深いものを覚えてしまいました。


しかし、ひとつ気になった点があります。それは1回目の話なのですが、堀部音弥(藤原竜也)を巧みに誘導し、殺人を犯させた上死に至らしめた天馬恭介(石坂浩二)は、今回の事件では何もしておらず完全犯罪だが、15年前の事件で逮捕、ということでした。


ストーリーとしては面白かったのですが、法律的な疑問があります。今回の事件について、天馬は本当に罪に問われないのでしょうか。


音弥の大吉殺しについて、若干難しい点があるかもしれませんが、天馬に殺人幇助が成立しないこともないように思います。他人の犯罪を手伝った場合の罪を幇助犯といいますが、判例は、手伝われた側が手伝われたことに気づかなくても、この幇助犯は成立するとしています。


一方で、音弥の死に関しては、これには殺人罪が適用されていいと思います。精神的苦痛を与えて悶死させる場合にも殺人罪は成立するとされていますし、偽装心中、具体的には後を追うと騙して相手だけ自殺させた場合にさえ殺人罪の適用を認めた判例があるくらいです。音弥の死を意図して、火薬の量に関する記述を改ざんしたとすれば、殺人罪としていいのではないでしょうか。


15年前の件がなかった場合にも、さすがに、そうは問屋がおろさない、というところのように思うのですが。

フランケンシュタインは、誰もが知っている、死体をつなぎ合わせてできた人造人間の物語です。


雑学として、「フランケンシュタインというのは、その人造人間を造った科学者の名前」ということを知っている方もおられると思います。


しかし、原作において言えば、これを「創造主の名前をとって、その怪物がフランケンシュタインと呼ばれるようになった」という認識は正確ではありません。原作中、その人造人間は、一度も「フランケンシュタイン」と呼ばれることはなく、最後まで名前はありませんでした。題の「フランケンシュタイン」はあくまで創造主の名前なのです。


このフランケンシュタインという物語を、私は大学での講義の関係で読んだのですが、その講義においては、「そもそも、怪物というものには名前がない」ということが言われていました。なぜなら、怪物というのは、既成の秩序の外から来るもの、だから名前をもっていない、というのです。


しかし、この物語が、原作を飛び越えて広まるにつれ、怪物は創造主「フランケンシュタイン」の名前を手に入れました。この物語、この怪物が、親しまれ市民権を得て、秩序の中に取り込まれたといえるのかもしれません。


それはともかくとして、原作の『フランケンシュタイン』は、フランケンシュタインの名で親しまれたイメージとは大分違う物語といえるのではないでしょうか。専ら子供向けの単純な怪物物語などでは決してありません。


秩序外の理解し得ない何かがもつ不気味さのようなものを漂わせながら、創造主ヴィクター・フランケンシュタイン博士の苦悩と、そして名前も与えられなかった怪物の絶対的な孤独、それらが非常に深く描かれています。大学4年時点で、難しいと感じる部分も多い作品でした。


機会がありましたら、読んでみてはいかがでしょうか。


森下 弓子, Mary Shelley
フランケンシュタイン

地方出身の大学時代の友人が、再三言っていたのが、「東京では子育てしたくない」という言葉でした。


少子化問題というと、子育ての財政的な援助や施設の充実が、対応としては真っ先に頭に浮かびます。そして、それも間違いではないと思うのですが、少なくとも、彼が言ったのは、そうした財政面、施設面のことではないでしょう。


おそらく、子供を心豊かに育てられる環境ではないと、言いたかったのだと思います。


東京に暮らす者としてはショックですが、同時に納得できるものもあります。一概には言えないと思いますが、人や自然との交流が豊かな心を育むというのなら、いい環境とはいえないでしょう。


しかし、私の住むところは、近所付き合いもまだ残っており大丈夫だと思っていたのですが、以前 も書いたように、それもまた永続的なものとは言えないようです。


子供を心豊かに育てられる環境ではないというのは、また、大人も心豊かに生活できる環境ではないということになるでしょう。ただ、子供ほど、それに大きく影響を受けることになります。


制度論などでは解決できない、根本的な問題がここにあるといえます。しかし、他方、だからこそ、一人一人の人間によるところが大きいとも言えるのではないでしょうか。一人一人の人間にこそ、できることがあるとも言えるのではないでしょうか。


もはや他人事でないこの問題、考えていかなければと思います。

新年、明けましておめでとうございます。


昨年は、読者登録、コメント、トラックバック、そして私の未熟な記事を読んでいただいて、本当にありがとうございました。


経済は良くなってきているようにも見えますが、今後、社会の矛盾は深さを増して露呈されてくるようにも思います。


目の前のことに流されず、本当に大切なものを頭において、冷静に考える。そうすることによって、私もこの世に生きる人間の端くれとして、未来の創造にほんの少しでも貢献できたらと思っております。


簡単ではございますが、新年のご挨拶とさせていただきます。


それでは、今年もどうぞよろしくおねがいいたします。

今日で2005年も終わります。私にとって子の1年は、万事上手くいったとは言いがたいですが、様々な出会いと経験のあった実り多き1年であったと思います。


一方で社会に目を転じますと、悲惨な事件事故が相次ぎました。何ともいえない閉塞感漂う1年であったといえるのではないでしょうか。


2006年を迎えるに当たって、今後の社会に求められるもの、様々な人がそれぞれの見地から思うところがあるでしょうが、私は、「共感」と「創造」を挙げたいと思います。


「バッシング」と「自己責任」という言葉は、もはや耳慣れました。先のイラクの件ほどではありませんが、今回の耐震偽造問題において、公的支援がなされることが決まると、インターネットの掲示板で被害を受けた購入者に対する中傷が行われ始め、読売新聞の記事によれば、「まわりの人に敵意を持たれているようで怖い」と訴える人もいるといいます。社会に対流するどす黒い力が、出るくいを打たんとばかりに徘徊しているようにさえ感じます。


他方で、9.11の総選挙以後、小泉総理および小泉チルドレンと呼ばれるような議員の方々を、タレントのように闇雲に賞賛し祭り上げるようなことが行われているように見えます。肝心な日本の将来を決める政策論は置いてきぼりの印象です。


心無い「中傷」はもちろん、目立つところばかりを取り上げたステレオタイプ的「賞賛」も、人格を軽んじる行為であるように私は思います。他人を「評価」するよりも、社会の多くの人に「共感」を持つことこそ必要なのではないでしょうか。人を貶め絶望に沈めることも、徒に祭り上げて野放図にすることもなく、多くの人の立場を思い共感して、考えなければならないのではないでしょうか。


また、耐震偽造問題では、競争と営利追求重視の中、安全や信頼という基本的なことが踏みにじられていることが発覚しました。政治においても、社会においても、問題山積、八方塞の中、考えることが放棄され、己の欲求の貫徹を重視し、よりより未来を企図することが忘れ去られているような気もします。


自由競争の貫徹も説かれますが、競争が絶対的な善でないことは明らかでしょう。「よりよい社会」の実現のためには「競争」の要素も必要なのかもしれませんが、それならば、無条件な競争の導入ではなく、「社会をよくする」ような形に工夫することが求められてしかるべきです。「競争は絶対的な原理、それによって淘汰される人があっても仕方ない」などとは、決して言うべきではありません。


現状のまま、パイを奪い合うための「競争」を行うのではなく、広い視点から、皆がよりよく暮らせる社会を「創造」することこそ、望まれるべきでしょう。数に限度あるパイを奪い合うのみの社会に、人は希望をもてないと思うのです。


私達が、「未来」という言葉を使うとき、ただ単に時間的な先をいうのではなく、「現在とは違う時代」というニュアンスが含まれることが多いと思います。だとすれば、「創造」による変革無くして「未来」はあるのでしょうか。「創造」を忘れた人に、社会に、「未来」は感じられるのでしょうか。複雑に組みあがった社会で「創造」はたやすいことではないのかもしれません。しかし、未来の創造のないところに、希望ある現在もないのではないでしょうか。


年末、「未来」を考えない短絡的な凶行が、子供の「未来」を奪うという事件が相次いで起きました。まるで、日本の現在の社会を象徴するかのようというのは、考えすぎでしょうか。


今の時代、「人間の尊厳」こそが問われているように思います。ただ目の前のことに流されることがないように、「人間」や「世界」といったものにこだわり、突き詰めて考えていきたいものです。


それでは、来年もまたよろしくお願いいたします。

家の近くに区立の郷土資料館があります。小学生のとき、見学で行ったっきり、入ったことはありませんでしたが、この間ふと思い立ち行ってみました。


昔の生活を思わせる品々が色々と並んでいました。しかしながら、小さな部屋に、ただ並べただけという印象はぬぐえません。家の近くで入場無料ですが、今後二度三度と行くことはないでしょう。


やはり、それらの古い品々が実際に使われていた生活、時代を感じさせるのに、条件が不十分だったのではないかと思うのです。ある程度のタイムスリップの感覚を引き起こさなければ、研究家の方はともかくとして、私のような一般人、とりわけ、それらの品々になじみのない若い世代の人間には、魅力を感じさせないように思います。


大きな資料館では、十分な展示品、解説のみならず場の装飾、音響、照明の工夫で、タイムスリップの感覚を与えるように図ることもできるでしょう。一方、小さな資料館でそういったことをやるのには無理がありそうです。


しかし、庶民的な、つまるところ人間味あふれる歴史は地元にこそあるように思います。それが、魅力を感じられないまま放置されるというのも悲しいことでしょう。


そこで、ひとつ、私の単なる思い付きに過ぎませんが、展示された古い品々が実際に使われていた生活を絵にして一緒に飾ったらどうかと思うのです。それも、実際にそれらの生活を体験したことのある年配の方々に、描いていただくというのはどうでしょうか。手書きの絵は、CGのイラストや写真よりも、場合によってはよく雰囲気を伝えてくれます。それらを一緒に展示し、あるいは冊子とすれば、そこに描かれた生活と展示品を見比べて、多少なりとも歴史的な想像力を掻き立て、魅力を感じさせてくれることもありうるかもしれません。


画一的な経済発展が行き詰まりつつある今日、土地に根ざした人間的な歴史を、大事にしていきたいと感じます。