私が、今まで読んだ本、とはいえ大した数ではありませんが、その中で、非常に感銘を受けたものが4冊あります。1冊は、以前紹介した坂上香『癒しと和解への旅―犯罪被害者と死刑囚の家族たち』です。今回は、残りの3冊のうちの1冊に関して書きたいと思います。残りの2冊も、追々、ここで紹介いたしたいと思います。
そこで、今回ご紹介する本ですが、建石一郎著『福祉が人を生かすとき―ドキュメント「落ちこぼれ」たちの勉強会』です。私は以前推理小説等を中心に読んでおりましたが、そんな読書からも離れていた数年前、この本を読んでから、再び本を、それもノンフィクション系のものを手にとるようになりました。
この本は、著者である建石氏が、ケースワーカーとして働いている時の、「ある取り組み」について書かれた本です。折りしも、ケースワーカーとして働き、その仕事をブログに綴っておられる方と相互に読者登録をしておりますが、重要な、かつ大変な仕事だと思います。しかし、この本は、若干、ケースワーカーの仕事の本筋からは、外れた内容といえるのかもしれません。
というのも、この本が描く建石氏が中心となってなされた「ある取り組み」というのは、この本のサブタイトルにあるように、「『落ちこぼれ』たちの勉強会」だからです。しかし、なぜ、生活保護制度に基づき金銭給付の決定をし、生活を支援していくことを任務とするケースワーカーの方が、「勉強会」をすることとなったのでしょうか。
高校に進学させるためです。建石氏は、貧困世帯の子どもが、その生活環境から低学力に陥り、中卒で社会に出るも、まともな仕事が保障されず、「貧困の継承」がおこなわれている状況を訴えます。そのため、建石氏らは、その「貧困の継承」を断ち切るために、高校への進学を勧め、それを阻む低学力から子どもたちを救おうと、勉強会を開いたというのです。
貧困世帯の子どもの低学力が取りざたされる場合、様々な反応・意見がありうるでしょう。
「貧しくても勉強のできる子もいる。勉強できないのは本人の責任なのだから仕方ない」というような厳しい意見も、たまに聞かれます。しかし、生活保護世帯の子どもの高校進学率と、一般のそれとの歴然とした差を見れば、できる子「も」いることを根拠に、簡単に「本人の責任」と言ってしまえることはできないように思います。
一方で、優しい意見としては、この本の「まえがき」で紹介されている、ある中学校の校長先生の言葉に類するものがあるように思います。
「あまり高校、高校と言わない方がいいと思いますよ。人それぞれ向き、不向きがありますからね。勉強ができなくても他の何かができる。その別の何かを探し出すのも大いなる勉強ですよ」
しかし、この言葉に対して建石氏は言います。そして、以下の記述こそ、私にとって、この本で最も印象深いものなのです。
この言葉には誰もが納得するものがあります。私も以前はそう思っていました。だが、一歩ふみこんで子どもたちとふれ合ったとき、
「そうではないのです」
と言わなければならないことに気がついたのです。
伸子をはじめとして、私たちは多くの子どもたちに出会いました。どの子どもたちも、同級生と同じく高校へ進学したい希望を持ちながら、学力の低さと、いわれなき貧困に心底苦しんでいたのです。
上記の中学校の校長先生の言葉、一般論としては、必ずしも間違っているとは言えないと思います。しかし、具体的な種々の問題を、そのような一つの基準のみで解決できるとは限らないということなのではないでしょうか。この場合、高校進学に関する子どもたちの真意や、子どもたちを取り巻く社会状況も併せ考える必要があったのでしょう。
一般論は、それはそれで大切だと思います。しかし、とりわけ私のようにまだ社会に出てはいない人間は、ともすれば、それが全てと思ってしまう危険性もあるように思うのです。現実は複雑で、様々な考慮、種々の基準による必要があるのでしょう。柔軟な発想を心がけたいと思います。
- 建石 一郎
- 福祉が人を生かすとき―ドキュメント「落ちこぼれ」たちの勉強会