“迷い”と“願い”の街角で -35ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

ピラミッド、誰もが知っている古代エジプトの建造物です。古代エジプトは、私達が最も魅力を感じる時代の一つ、まさに神秘の時代であるように思います。そしてまた、このピラミッドも私達の探究心をくすぐるように、多くの謎を秘めています。


その中でも、最も大きい二つの謎が、「どうやって造ったのか」と、「何のために造ったのか」でしょう。


そのうち、後者の謎、すなわち、ピラミッド建造の目的については、天文台だとする説や、神殿だとする説もありますが、最も一般的なのは王の墓であるとする見解でしょう。場合によっては、「ピラミッドは王の墓である」と断言されることさえあるのではないでしょうか。


しかし、エジプト考古学の権威、早稲田大学教授吉村作治氏は、その王墓説にも多くの矛盾があるとします。


しかしながら、ピラミッド建造の目的についての吉村氏の話で、私が最も興味を引かれたのは、ピラミッド建造の目的を考える際の思考方法に関するものです。


王の墓だ、いや天文台だ、というような議論を、吉村氏は「極めて現代人的発想」とおっしゃいました。ここでいう現代人的発想とは、つまり、「一つのものは、一つの目的のためにある」というようなものです。「古代人はそうではない、一つのものに多数の目的があっていい」という趣旨の主張をなさっていたと記憶しています。


現代社会は、複雑であると同時に、非常に合理化されています。そんな中、目の前の一つの目的にだけに気をとられ、知らず知らずのうちに思考や感性を小さくしているのではないでしょうか。


目の前の問題に対して役に立つ、いや立たないと小さくならず、大きなスケールで歴史や世界を見ることには、大きな意義があるように思います。

正直申しまして、小泉総理のこの「改革続行内閣」には、期待しておりません。小泉流のやり方には、やはり、どこか刹那的で個人趣味的なものを感じてしまうのです。


とりわけ、アジア外交に関して、それが象徴されている気がします。小泉総理のアジア外交への考え方については、さまざまな批判が可能でしょうが、ここでは、アジア外交に限らず、小泉政治全般に通ずる、「結果責任」の観点から論じたいと思います。


小泉総理の靖国神社参拝、そして、靖国神社参拝に関して積極的な、安倍晋三氏の内閣官房長官への、麻生太郎氏の外務大臣への任命について、中国・韓国の反発が必至であるのは間違いない状況であったにしては、何ともいえない「軽さ」を感じます。


グローバル化の中、特に近隣諸国との結びつきは強まっています。そして、そのような状況での、国同士の深刻な対立は、現在及び将来、様々な点で深刻な問題を生じさせかねません。そうであるならば、せめて、予想される問題への対応と、国内のコンセンサスを形成する努力は、最低限必要だったといえるのではないでしょうか。


しかし、そのような動きはありませんでした。内外に対する靖国神社参拝への理解の呼びかけは不十分に過ぎたでしょう。また、今後のアジア外交に関しての懸念についても、打開の具体策は示されず、小泉総理の口からは、確かな根拠に裏打ちされているとは思えない楽観論ばかりが発せられているように思います。


極論、小泉総理は、確かな具体的展望を描き、それに続くプロセスを練っての行動というものが、できていないのではないでしょうか。その時その時、自分の「好み」に合う行動を選ぶのみで、その結果については、あまり熟慮されていない気がします。しかし、当然、今後の日本を思うのであれば、そんなことが望ましいはずはありません。


ところで、以前 も、小泉総理は今の日本を反映したような存在と書いたことがありますが、これに関してもいえるような気がします。今の日本の社会では、将来の社会のあり方を思い描くことも、場合によっては、よりよい社会の実現を希求することさえなされなくなり、一時的な快楽や自己満足を求めた刹那的な判断・行動が目立ってきているとはいえないでしょうか。


どんなに困難でも、いえ、困難な時代こそ、理想の社会像を描き、それに一歩でも近づくことを放棄してはいけないでしょう。それなくして、よい社会の到来など期待できるはずもありません。政治と社会が相互に、そういった方向へ向かっていくことが必要だと思います。

読売新聞12月18日付の社説は、正直、納得のいかないものでした。前原氏が民主党代表となったことで、彼の外交や安全保障の考え方を支持する読売は、かなり浮き足立って論を展開しているようにも思えます。

「前原民主党 “抵抗勢力”との戦いはこれからだ」というタイトルが内容を端的に表しています。

前原氏の代表就任で、読売の主張するような外交・安全保障政策の実現が近づきました。それを読売は、当然ながら非常に歓迎しています。

しかし、自民党と民主党が、現在自民党及び前原氏のような考え方で一致することは、以前の記事 でも書いたように大きな問題があるように思います。外交・安全保障という国民一人一人にとって重大なテーマにつき、あまりにも国民不在の議論となってしまってはいないでしょうか。

にもかかわらず、この社説では、そのような問題には全く触れず、この動きを完全に支持した上、それに反対する民主党内の声を“抵抗勢力”と称しているのです。さすがに一面的過ぎるように感じます。


そもそも、マスコミの使命は、民衆の生活を左右し時には人間の生命・身体・財産に重大な影響を与えうる「権力」を監視・分析し、広く一般に伝えることで、世論形成、民主主義の適切な実現に寄与し、好ましい国家運営を企図するものではないでしょうか。だとすれば、政治の現状、問題点を多角的に分析したうえ、世論と政治を媒介することこそ、マスコミには求められているように思います。


マスコミには公共性が必要だといいますが、公共性を社会全体を見る広い視点とするならば、各々主張はあるにせよ、完全に片一方の側に立ち、相手を“抵抗勢力”と呼んでしまうことには疑問を感じざるをえません。

私はすでに大学を卒業しておりますが、図書館を利用できることもあり、時折行っております。


ところで、私の所属していた学部の建物は、私が2年になるときに取り壊され、私が卒業したと同時に、新しい建物となりました。釈然としませんが、仕方ありません。


先日、所用でその新しい建物に入ったのですが、やはり綺麗でした。しかし、同時に、「それだけ」という印象も感じたのです。「綺麗なだけ」、「新しいだけ」という感想を持ってしまいました。自分が利用できなかった負け惜しみという可能性も捨て切れませんが、しかし、それだけでないのは確かに思います。


少子化の中、大学全入時代が到来し、各大学は熾烈な競争に巻き込まれることが予想されます。そんな中、真新しい綺麗な施設を売りにする大学も多いように思います。そして、「真新しい施設」は、そこまで珍しいものではなくなったといえるのではないでしょうか。


私は、自分が通っていた大学に限らず、大学のキャンパスの雰囲気が好きです。各大学それぞれが培った独特の雰囲気があるように思うのです。私が、上記の新建物に、「それだけ」という印象を持ったのは、その独特の雰囲気を感じられなかったからかもしれません。


私の出身大学では、他のいくつかの建物についても、取り壊して新しいものにするということです。この状況に、とある教授は、「伝統ある建物を次々壊して、新しいものにするなんて、滅び行く大学のやることだ」と苦言を呈されていました。一理あると思います。


競争経済至上の社会においては、金銭評価できない価値が切り捨てられる傾向が問題とされます。競争時代の学生獲得のために、独特の雰囲気を持つ伝統ある建物を、真新しい綺麗なものに変えるというのなら、これもまた、その一例という側面があるのではないでしょうか。


確かに、古い体質に安住し、鈍感にも時代の流れから取り残されるということは、あってはならないと思います。しかし、他方で、新時代への安易な対応により、従来の伝統や価値をないがしろにするということも、決して好ましいことではないのではないでしょうか。腰をすえて社会を見つめ価値を探求することを使命とする大学ならば、なおさらに思います。


「温故知新」という言葉、座右の銘にする人も多いと思いますが、改めてこの言葉の意義が問われているべきようにも思います。

今やニートは、50万人を超えており、もはや楽観できる問題ではないといえましょう。いえ、フリーターや、また派遣社員という形で職業的に不安定な状況の若者を合計すれば、500万人とも言われています。これが、どれほどの数かといいますと、日本の全公務員数が400万人強であり、それを凌ぐものとなっているのです。


ニートやフリーターの問題について、「本人の責任だ」という意見も多くあります。ニートやフリーターに対して、特に社会で努力・苦労なさっている人の中には、しっくりこない思いを抱かれる方も多いことでしょう。そして、確かに、その言い分には、納得のできるところもあると思います。


しかし、社会的な要因でなしに純粋に個人的な事情が問題なら、今日のような爆発的な増加を説明できない部分があるようにも思います。ここで以前紹介した山田昌弘著『希望格差社会ー「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』においては、経済構造の変化が原因として挙げられています。また、50万人を超えるニート、200万人を超えるフリーターの各々の事情を推し量ることなど不可能であることを考えても、「本人の責任」と断じてしまうことには躊躇を覚えます。


また、「本人の責任」の一言で、この問題を終わらせてしまうことは、決していい結果をもたらさないことも確実でしょう。


フリーター・ニートの増加が、経済や社会保障制度を脅かすということはよく言われるところです。また、フリーター・ニートの絶望感が、社会に影響を及ぼすことも否定できません。


今、確実に言えることは、フリーター・ニート問題が存在し、それによる大きな不利益が予想されていること、したがって、当然それを何とかしなければならないということです。人それぞれ、この問題についての思いはあるでしょうが、この問題を直視することからは逃げられませんし、解決を図るより他に道はないように思います。

日曜日に『生命のメッセージ展 in 早稲田大学 2005』 に行ってまいりました。理不尽に命奪われた人の遺族やボランティアの方々が、その命奪われた方に関する展示等を通じて、命の尊さや、社会の矛盾などを訴えるイベントです。


このイベントは、亡くなった方の生きていた時間を感じさせ、その時間の断絶という、ある意味死の本質を感じさせてくれます。それが理不尽にもたらされたものだとしたら、その残酷さは、計り知れません。


法律の壁に阻まれて、司法の場に届かない被害者の声。しかし、一方で、その法律に、理由や事情があることも、それなりには知っています。また、しかし、「だから、あなたは間違っている」と、誰が遺族の方々に言えましょうか。言う資格があるでしょうか。


偽善化されてしまった被害者保護。しかし、偽善の要素の全く無い保護活動は、存在しうるのかも微妙なところに思います。また、しかし、「だから、これでいいんだ」と、誰が言えるでしょうか。


今回のイベントでは、重い、あまりにも重い、被害者遺族の方々の言葉を聞きました。しかし、一方で、時に聞く、加害者側の声も、また、非常に重いものがあります。


異なる、かつ、あまりに重い要請。開き直って、自分の正義に固執するわけにも行きません。目を背けて、考えることを放棄するわけにも行きません。では、どうすればいいのでしょうか。


正直言って、分かりません。ひとまずは、早急な結論を避け、その重い声に真摯に耳を傾けるより他にはないようにも思います。そして、さまざまな要請の前に、ただ、迷い悩み考えることを続けるしかないのかもしれません。しかし、これは、優柔不断というのかもしれません。これこそ、偽善なのかもしれません。


理不尽に失われた命を思えば、生きることに謙虚になれると、ある遺族の方はおっしゃいました。生きることに謙虚になれれば、何か見えるものもあるのでしょうか。

12月9日付の読売新聞の社説に、「[『防衛省』昇格―次期国会で関連法の成立を図れ」というものがありました。この社説につき、全体的な内容面でも賛否両論あるところでしょうが、ひとつ非常に違和感を覚えた部分があるので、今回はそれを取り上げたいと思います。


社説の中盤に差し掛かったあたり、「国内外には、省昇格が自衛隊の軍備増強につながり、周辺国と摩擦を起こす、といった懸念を呼ぶのではないかとする声もある」とした上で、「中国などにしても、国防「省」の下で、軍事体制の強化を図り、地域の最大の不安定要因となっている。防衛庁の省昇格を“懸念”する資格などない」と主張しています。


どう思われるでしょうか。主張自体について反対する意見もありうるでしょう。また、「周辺国との摩擦」の問題につき、中国についての論述のみというのも舌足らずな気がします。しかし、それ以上に気になった点があります。


「周辺国と摩擦を起こす、といった懸念を呼ぶのではないかとする声」に対して、「中国などにしても・・・“懸念”する資格などない」というのは「答え」になっているのでしょうか。言い換えれば、この問題の要点は、「“懸念”する資格」の有無なのでしょうか。


国際化の時代、国境を越えた交流は激増しています。そのような中、国同士の問題は、様々な方面に影響を及ぼすことになるでしょう。国と国との関係悪化は、想像以上の範囲に不利益を与えることも考えられます。そして、それこそが問題なのではないでしょうか。


とするならば、「周辺国と摩擦を起こす、といった懸念を呼ぶのではないかとする声」に対しては、「“懸念”する資格」の有無ではなく、そういった関係悪化による不利益への展望・対処について答えるべきところなのではないかと思うのです。「周辺国との摩擦」や「懸念」につき、読売新聞がどう評価するかは、ある程度自由と言えるかもしれませんが、その主張に沿った場合に起こるであろう「結果」につき言及しないことは、望ましいことではないように思います。通常の意味での結果責任をマスメディアは負わないとしても、この程度の「結果責任」は果たすべきだと思うのです。


結果を出すことが難しい時代であるのはその通りですが、よい結果を希求することの放棄など絶対にあってはなりません。それぞれ主義主張はあって当然ですが、「結果」の考慮を議論に含めてこそ、主義主張が硬直したものにならず、議論を建設的なものにするのではないでしょうか。


最後に余談を二つほど。


「周辺国と摩擦を起こす、といった懸念を呼ぶのではないかとする声」・・・私も文章を書くことにそこまで熟達しているわけではありませんが、微妙な構文で、若干意味がとりづらいように思います。新聞、特に社説は、文章が良質で、各種試験の論文にも役に立つということですが、このくだりは、むしろ悪い見本なのではないかという気もします。


また、この社説をお読みになった方で、公明党の「神崎代表は、省の名称を『防衛国際平和省』『防衛国際貢献省』などにするよう主張している」ということに対し、「略称が『防国省』となって、『亡国省』などを連想されたのでは、自衛隊の士気にもかかわる」ということを述べていることにつき、「冗談だろう」と思われた方もいるのではないでしょうか。


確かに、冗談にも聞こえかねない気もしますが、意外と馬鹿にもできません。裁判所の執行官は、何度か名称が変わってこうなったようなのですが、以前「執達吏(シッタツリ)」と呼ばれていたことがあるようです。そして、これが変更された理由に「ヒッタクリ」と揶揄されるから、という事情があったようなのです。なので、上記の記述に若干弁護を加えることとします。ただ、発音が酷似している後者の例と比べて、略称まで想定して言う読売は少しやり過ぎのようにも感じますが。

膨大な日本という国の抱える借金、その来し方行く末のいずれにも、この国の「未来を企図する眼差し」の欠如を感じてしまいます。

まず、この膨大な財政赤字の原因ですが、やはり、無駄な公共投資などによる「ばらまき政治」を指摘する声が大きいのではないでしょうか。右肩上がりの経済発展の中、その成長がいずれ鈍化・停滞することなど考えずに、いえ、鈍化・停滞の兆しが見えてもなお、とにかくその時の利潤を追い求めた結果なのではないかと思います。

一方、今現在の財政赤字につき、社会福祉関連の費用を挙げることもできるかもしれません。しかし、これもまた、順調に経済が発展していた時代に、ゆくゆくの少子高齢化の時代の到来を見据えることなく、目先の経済的利益ばかりを追い、社会福祉制度を充実させてこなかったためと言えるでしょう。

では、今後、どうすればよいのでしょうか。少子高齢化社会において、社会福祉費用の増大と以前のような経済成長は見込めない状況においては、従来の経済発展を前提とするような政治・社会システムを転換する必要が、やはりあるのではないでしょうか。それこそが、真の「改革」であるようにも思うのです。

しかし、現実の小泉流「改革」は、そうではないようです。小さな政府、自由競争は、一見、財政を健全化し、社会を活性化させるようにも見えますし、そういった側面もあるにはあると思います。しかし、それで問題が解決するかには、疑問を感じざるを得ません。

社会でパイを取り合う自由競争は、順調な経済成長下でパイが豊富に提供されれば問題はありませんが、経済が停滞しパイが減った中での競争は、えげつない奪い合いとなって、競争から脱落する人が多数出ることが予想されます。そして、福祉の切捨てによって、その脱落者を救うすべが無くなれば、多くの人を過酷な状況に追いやり、やがて日本社会の地盤沈下さえ引き起こす危険性があるように思うのです。

また、小泉総理は、こういった政治を、目先の政治抗争での勝利や権力欲の充足として行っているようにさえ見えるときがあります。よりよい未来のためというよりも、相手をぶっ潰し、自分の意向を押し通す、名誉や権力というパイの奪取に思えるのです。そのような状況が「未来を企図する眼差し」ある政治を生むでしょうか。

「未来を企図する眼差し」を欠いた視野の狭い政治は、視野の狭い社会を、そして、その社会がよりいっそう視野の狭い政治を生むというような悪循環を感じることがあります。それを断ち切るすべが、早急に求められているように思います。

私が、今まで読んだ本、とはいえ大した数ではありませんが、その中で、非常に感銘を受けたものが4冊あります。1冊は、以前紹介した坂上香『癒しと和解への旅―犯罪被害者と死刑囚の家族たち』です。今回は、残りの3冊のうちの1冊に関して書きたいと思います。残りの2冊も、追々、ここで紹介いたしたいと思います。


そこで、今回ご紹介する本ですが、建石一郎著『福祉が人を生かすとき―ドキュメント「落ちこぼれ」たちの勉強会』です。私は以前推理小説等を中心に読んでおりましたが、そんな読書からも離れていた数年前、この本を読んでから、再び本を、それもノンフィクション系のものを手にとるようになりました。


この本は、著者である建石氏が、ケースワーカーとして働いている時の、「ある取り組み」について書かれた本です。折りしも、ケースワーカーとして働き、その仕事をブログに綴っておられる方と相互に読者登録をしておりますが、重要な、かつ大変な仕事だと思います。しかし、この本は、若干、ケースワーカーの仕事の本筋からは、外れた内容といえるのかもしれません。


というのも、この本が描く建石氏が中心となってなされた「ある取り組み」というのは、この本のサブタイトルにあるように、「『落ちこぼれ』たちの勉強会」だからです。しかし、なぜ、生活保護制度に基づき金銭給付の決定をし、生活を支援していくことを任務とするケースワーカーの方が、「勉強会」をすることとなったのでしょうか。


高校に進学させるためです。建石氏は、貧困世帯の子どもが、その生活環境から低学力に陥り、中卒で社会に出るも、まともな仕事が保障されず、「貧困の継承」がおこなわれている状況を訴えます。そのため、建石氏らは、その「貧困の継承」を断ち切るために、高校への進学を勧め、それを阻む低学力から子どもたちを救おうと、勉強会を開いたというのです。


貧困世帯の子どもの低学力が取りざたされる場合、様々な反応・意見がありうるでしょう。


「貧しくても勉強のできる子もいる。勉強できないのは本人の責任なのだから仕方ない」というような厳しい意見も、たまに聞かれます。しかし、生活保護世帯の子どもの高校進学率と、一般のそれとの歴然とした差を見れば、できる子「も」いることを根拠に、簡単に「本人の責任」と言ってしまえることはできないように思います。


一方で、優しい意見としては、この本の「まえがき」で紹介されている、ある中学校の校長先生の言葉に類するものがあるように思います。



「あまり高校、高校と言わない方がいいと思いますよ。人それぞれ向き、不向きがありますからね。勉強ができなくても他の何かができる。その別の何かを探し出すのも大いなる勉強ですよ」



しかし、この言葉に対して建石氏は言います。そして、以下の記述こそ、私にとって、この本で最も印象深いものなのです。



 この言葉には誰もが納得するものがあります。私も以前はそう思っていました。だが、一歩ふみこんで子どもたちとふれ合ったとき、

「そうではないのです」

 と言わなければならないことに気がついたのです。

 伸子をはじめとして、私たちは多くの子どもたちに出会いました。どの子どもたちも、同級生と同じく高校へ進学したい希望を持ちながら、学力の低さと、いわれなき貧困に心底苦しんでいたのです。



上記の中学校の校長先生の言葉、一般論としては、必ずしも間違っているとは言えないと思います。しかし、具体的な種々の問題を、そのような一つの基準のみで解決できるとは限らないということなのではないでしょうか。この場合、高校進学に関する子どもたちの真意や、子どもたちを取り巻く社会状況も併せ考える必要があったのでしょう。


一般論は、それはそれで大切だと思います。しかし、とりわけ私のようにまだ社会に出てはいない人間は、ともすれば、それが全てと思ってしまう危険性もあるように思うのです。現実は複雑で、様々な考慮、種々の基準による必要があるのでしょう。柔軟な発想を心がけたいと思います。


建石 一郎
福祉が人を生かすとき―ドキュメント「落ちこぼれ」たちの勉強会

大学4年になる春のことでした。顔なじみにしていた魚屋さんが店を閉じることになったのです。大学へ通う道すがら、よく挨拶を交わしましたが、とても威勢のよく気持ちのいい方でした。その時、それまで意識していなかった「あること」を強く意識するようになったのです。


地域コミュニティーの希薄化ということが言われて久しいでしょう。しかし、私の周りは、会って挨拶を交わす程度とはいえ、ご近所の方々とのつながりは残っています。笑顔で挨拶を交わせば、何ともいえない楽しさや、居心地のよさを感じるものです。都心に近いにもかかわらず、大きな都立公園があり自然のある、誇れる故郷です。


しかし、最初に書いた魚屋さんの引退によって、この故郷が永遠ではないことを意識するようになりました。


私が会って挨拶するご近所の方々の平均年齢は70を超えているでしょう。この方々は、以前からここに住んでいる人たちです。それより下の世代も、近くには住んでいますが、比較的近時に引っ越してきて住み始めた人が多く、その方々との交流はありません。地域のつながりが継承されないでいるのです。


今まで、以前からのご近所の方々とのつながりをもって、私の周りに関しては、地域コミュニティーの希薄化とは比較的遠い状況にあると、どこかでそう思っていました。しかし、そんなことは決してありませんでした。20年後、30年後、ここの地域コミュニティーは、私の故郷は、どうなっているのでしょうか。


街並みも変わり、それぞれつながりを持たない人々が暮らすようになったとき、ここは果たして私の故郷というべき場所なのでしょうか。そんな複雑な思いを抱くことがあります。


今現在も、また一軒、よく見知った方の店が閉じられようとしています。