“迷い”と“願い”の街角で -36ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

先週の土曜日、出身高校の同窓会の60周年記念行事に幹事として参加いたしました。多くの先輩幹事の活躍、そして天候などにも恵まれたこともあり、会は大成功となりました。素晴らしい会の成功に少しでも貢献できたこと、また、たくさんの魅力的な方々と接することが出来て、本当によかったと思います。


ところで、今回の行事に関わって頭にあったのは、同窓会というもののコミュニティーとしての魅力と、今後のあり方への雑考でした。


高校創立後60年以上も経てば、数え切れないほどの卒業生が巣立ちます。そして、その人々は、社会のあらゆる分野で活躍しています。そういった多種多様な人々が、出身高校というつながりによって親交を結ぶことは非常に有意義であるように思います。私も、人生経験豊富な諸先輩方から、沢山の貴重な話を聞かせていただきました。


しかし、どうしても、同窓会の主要な担い手は、生活に余裕のできた年配の方々が多くなります。それはそれでよいことなのですが、問題は、反面として、若い世代の参加が非常に少ないということなのです。確かに、若いうちは、こういったことに興味がなかなか湧かないのかもしれませんが、それにしても、やや少なすぎるきらいがあります。今回も、20代の参加者は、私を含めて数人といったところでした。


ひとつの不安は、このような状態で、今後、同窓会というコミュニティーが、世代交代によって受け継がれてゆくか、です。今現在の主要な参加者が退いた後、今はほとんど参加が見られない世代に果たして同窓会が緊密なコミュニティーとして継承されてゆくのでしょうか。悲観的に考えることも可能な一方で、往々にして多くの人が年配になってから同窓会に参加し始めることを考慮すると、案外うまく継承されてゆくのではないかと楽観的に考えることもできるでしょう。


また、たとえ同窓会コミュニティーの継承がうまくいったとしても、若い世代の参加が極端に少ない場合、その魅力が十分に発揮できないということもあります。沢山の諸先輩方とのタテのつながりは、若い世代にこそ貴重な財産であるように思います。地域コミュニティーが希薄となった現在、その価値は高まってゆくといっていいのではないでしょうか。若い世代、とりわけ若い社会人世代の同窓会への関与が皆無に近い現状を、近時まま見られる、物質的繁栄を至上とする競争社会に警鐘を鳴らし、連帯と互助の精神による豊かな社会へ転換せよという主張と重ねて見るのは、私の考えすぎでしょうか。


いずれにせよ、若い世代と同窓会とのつながりを作る、あるいは、せめて将来に向けてその種を撒く試みが重要になるように思います。


色々と思うところを書きましたが、それは置いておくことにして、最後に、もう一度、今回お世話になった諸先輩方には、心より感謝いたします。

戦争を扱ったドラマやアニメは多くありますが、私が今まで観た中で最も好きなのが『凧になったお母さん』というアニメです。一昨年の終戦記念日に観たように思います。


原作者は、スタジオジブリで映画化され誰もが知っているといっても過言ではない『火垂るの墓』と同じ野坂昭如氏です。


この『凧になったお母さん』は、『火垂るの墓』とトーンが異なり、全般的には、明るくほのぼのとした雰囲気が漂っています。残虐さを感じさせる場面も、あまりありません。主人公のカッちゃんとそのお母さんの朗らかさが印象的ですが、一方で、悲劇のラストへの暗示が、心のどこかに引っかかります。


戦争の残酷さを描くものでありながら、イデオロギー性もほとんど無いといえるのではないでしょうか。いかに評価するかは人それぞれだと思いますが、劇中、戦争批判のメッセージが直接的に訴えかけられることもありません。戦争を描いた話というより、カッちゃんとお母さんの話というべきなのかもしれません。


決してハッピーエンドではありません。悲劇と呼ぶべき終わり方です。にもかかわらず、とても爽やかなのです。やはり、しかし、心に引っかかります。


そもそも戦争の「悪性」は、どこにあるのでしょうか。多くの人間の命を奪い、その人生という時間の流れに悲劇的な終止符を打つことにあるとするならば、専らカッちゃんとお母さんという人間の営みを通して戦争を描いたこの作品は、戦争の悪たる本質を、純粋に描いた作品といえるような気もします。


凧になったお母さん

¥2,646


2007年度より、全ての都立高校で「奉仕」が必修化されます。期待する意見が多い一方で、奉仕は自発的であるべきという反対意見も聞かれます。


私は、反対意見には納得すべき理由があると思いつつも、これからの社会においてボランティアというものが果たす重要な役割を考えると、この「奉仕」という教科は、やり方いかんで、大きな希望の種となるのではないかという気もしております。


「奉仕の義務化」あるいは「奉仕の強制」と捉えるならば、確かにおかしいという感じもします。しかし、奉仕の機会を広く提供することで、それを通して、生徒の心にあるボランティア精神を引き出し、育み、伸ばすという考え方をすれば、それほど捨てたものではないようにも思います。


ただし、そのためには、必修科目として生徒に奉仕活動をやらせるという発想からなるべく離れ、あくまで奉仕の機会を通じて生徒の自主的なボランティア精神を引き出すという観点から、企画・実施されねばならないでしょう。


では、そのためには、どうしたらよいでしょうか。ひとつの私の思いつきとしては、教科としての「奉仕」を自己完結的にしないというものです。どういう意味かといいますと、授業時間の中で奉仕活動を経験させて、それで終わりというのでは、生徒の自主性をそこまで育てることにもならないように思うのです。


なので、奉仕活動を行わせてもらう相手先と、学校が継続的な結びつきを作り上げ、授業で、ある場所でのボランティア活動に魅力を感じた生徒が、今度は自分から授業時間外にその場所でのボランティア活動に参加しやすい環境を整備するというのは、いかがでしょうか。そうすることで、ボランティア精神を持った、あるいは授業でボランティア精神が芽生えた生徒が、それを自主的に伸ばしつつ、相手側とも、継続的な深い人間関係を築ける可能性もあるように思います。


「奉仕の必修化」を自己目的化せず、あくまで自主的なボランティア精神を育むための「きっかけ」と捉える必要があるように思います。

「少年よ、大志をいだけ」は、誰もが知っているクラーク博士の有名な言葉です。そして、私の好きな言葉の一つであります。しかし、クラーク博士が意図したニュアンスは、あまり広く認識されてはいないように思います。単に「子供は大きな夢を持て」くらいの意味合いで使われることも多いのではないでしょうか。


しかし、私も、出身高校の校長先生が、進路指導の冊子で紹介されるまで知らなかったのですが、この「少年よ、大志をいだけ」には続きがあり、それを読んでこそ、この言葉のニュアンスをより深く知ることができるものと思います。



少年よ、大志をいだけ

それは金銭に対してではなく、また、世人が名声と呼ぶあの

むなしいものに対してでもない。

人間が、人間として、当然身につけるべき全てのものを

身につけることに対して

少年たちよ、大志をいだけ



いかがでしょうか。「少年よ、大志をいだけ」のイメージが多少なりとも変わって見えませんか。クラーク博士は、単に「大きな夢を持て」というよりも、「人間として大きくなれ」ということが伝えたかったように思います。


「自己実現」という言葉が広がり始めたのは、いつ頃からだったでしょうか。しかし、近時、多方面から、この言葉に疑問が呈されてきています。理想の自分のイメージに固執するあまり、何もできなくなったり、諦めたり逃げたりしてしまうというようなこともあるようです。


「自己実現」を、「金銭や地位が目的でなく、やりたいことをやる」とすれば、聞こえはいいかもしれません。しかし、やりたいこと、やって楽しいことをやることへの欲求と考えるなら、クラーク博士の言う、金銭や「世人が名声と呼ぶあのむなしいもの」と、実はそこまで大差はないようにも考えることはできないでしょうか。


社会にまだ出ていない私の言うこと、奇麗事に過ぎないのかもしれませんが、「人間が、人間として、当然身につけるべき全てのものを身につけること」は、今現在まさに人間として生きている以上、誰でもできることであり、かつ、すべきことなのではないでしょうか。人間それぞれ、内と外に多くの事情を抱えていますが、どんな状況下でも、「人間として生きる覚悟」を持って行動すれば、その具体的な行動は人それぞれ異なっていても、等しく価値あるものなのではないでしょうか。


自分の内面の弱さや醜さ、あるいは外部からの妨害や攻撃に苦しみ、思い描いた通りにいかないことは多々あると思います。しかし、「人間として、当然身につけるべきものを身につける大志」があるのなら、そのような表面的な問題くらいで自分で自分を否定することなく、人としてゆくべき道が見えてくるように思います。まだあまりに未熟な私ですが、少しでもそれに近づきたいと思っています。


「自己実現」の問題については、私の記事よりもずっと有益な記事を、2つ紹介したいと思います。


http://ameblo.jp/ryora/entry-10005200628.html

こちらの記事は、ケースワーカーの仕事をなさっている方が、自分の体験を基に書かれたものです。その体験における著者の姿勢は感嘆すべきものであり、記事も極めて説得力があります。


http://ameblo.jp/j-igarashi/entry-10002626643.html

こちらの記事は、公務員試験塾の講師をなさっている方が、官庁訪問に絡めて論じられているものです。冷静な、かつ、深い見識から書かれた非常に有意義な記事です。


今回のこの記事、私にはこのような記事を書く資格は無いのかもしれません。「人間として、当然身につけるべきものを身につける大志」を欠き、それを最も必要としているのは他ならない私自身のような気がします。自分のためにこの記事を書きますが、それがもし、偶然にも他の方に、どこかで益することもあれば、それこそ幸いだと思います。

自民党の憲法改正案の中でも、この9条の問題が最も注目されていたといってよいでしょう。小泉首相の判断で、9条1項はそのまま残されたものの、9条2項の改正で「自衛隊」は「自衛軍」となり、集団的自衛権の行使も容認されるようです。


しかし、政界についても、市井についても、議論の煮え切らなさをどうしても感じてしまいます。「『隊』を『軍』に変えるだけ」あるいは「官僚の無理な解釈によって行われている現実を法制化するだけ」という意見も聞かれます。確かに、一面、納得できる点もありますが、長期的に考えた場合、それだけのとどまらない影響を及ぼす「重み」もまた、9条2項は持っているようにも思います。


まず、この改正が実際になされた場合、「世界に誇れる平和憲法」というフレーズは、もはや使えないでしょう。「戦争の放棄」という概念自体は既にはるか昔から存在していたからです。フランスは、すでに1791年制定の憲法で「戦争の放棄」を定め、現憲法に受け継がれています。第二次大戦前の1928年には、「戦争の放棄」を内容とする不戦条約が締結され、その後日本も加入していたのです。憲法については、イタリアやドイツでも戦争の放棄が定められています。2項を失った日本国憲法9条は、そのレベルを超えるものではないでしょう。


そうなった日本を世界が見る目は、いずれにしろ、だんだんと変わってゆくのではないでしょうか。短期的な影響は小さくても、世界の中で日本のおかれる立場は少しずつ変化し、将来的には日本の姿を大きく変える可能性があるように思います。しかし、とりわけ政界での議論に、将来の日本そして世界のあり方まで思いめぐらせた「重さ」は感じられません。


理念の重さが感じられない一方で、現状分析や理論の緻密さもあまり感じられません。安全保障は、様々な背景を持つ国同士が利害をぶつけ合うなどの難しい問題を、各種の犠牲を最小に抑えることを求められる極めて重要かつデリケートなものです。軍隊や戦争への考え方はそれぞれでしょうが、そこに潜む大きな危険性を無視・軽視することは許されないというべきでしょう。守るべき利益、各々の手段、そしてその影響や、危険の程度、それらを冷静に分析した上で物事を決めていかなければならないように思います。


自己の立場を押し通すことに専念したイデオロギー論争の末、「やったもん勝ち」的な無理な決着を見れば、いずれにせよ、いい結果はないでしょう。国の方向性にかかわる理念を、国民の十分な議論と意思にのっとり、かつ冷静な現状分析を活用しながら、きちんと定めること、そして、それが絵に描いた餅に終わったり、意図しない方向へ向かったりしないように、理論や技術を駆使したプロセスで現実化してゆくことが必要であるように思います。

最近、このブログを含めて、自分が分からなくなってきています。世の中のことの分析や自分の意見を語ってきましたが、果たして私が偉そうにそのようなことをする資格があるのでしょうか。


他の人のブログで、読んで素晴らしいと思うものは当然、沢山あります。その中でも、大きなウェイトを占めているのは、社会等で苦労なさっている方が、その実体験に基づいて書かれたブログです。それに出会うたび、感動すると同時に、頭の中の観念のみで書く自分のブログに情けなさを感じます。


私のブログを褒めて下さった方もいます。「尊敬」という過分な言葉までいただいたことがあります。しかし、その一方で、現実の私はといえば、実社会の中で大きな責任を果たすどころか、身のまわりの方々との関係でさえ、ろくに責任を果たせず、期待に応えられていない状況です。自分の至らなさが身につまされる一方で、人に迷惑ばかりかけておきながら絶望にも落ちきれない自分への恥ずかしさもあります。


そんな中で、最近の自分の記事にも疑問を感じてきました。読んでいただいた方はお分かりになるでしょうが、「長い」です。それだけのことかもしれませんが、最近の記事の内容とも相まって、「読み手への意識」よりも「自己満足」の要素が強くなってきているのではないかという気もするのです。もちろん、このブログを人様のために書いているなどと傲慢なことは言えません。しかし、公開されている以上、「自己満足」をある程度抑え、「読み手への意識」を持つことは求められているように思います。


さらに、ブログに割く時間が徒に増えてしまったこともあります。もっと他にやるべきことがあるのではないかと感じることがあります。自分は、ブログという自己満足に内向しているのではないか、と。


ブログの閉鎖も頭を過りましたが、多少なりとも読んでくださっている方々がいる以上、このブログは続けていきたいと思います。


しかし、少なくともしばらくの間、若干更新頻度は落とそうかと考えています。ブログに専念する時間を減らし、その分、内容や書くスタンスを見直すことで、このような自分にでも書く意義のある記事を考えたいと思います。


果たして、読者の皆様に納得していただける記事が書けるのか分かりませんが、今後ともご愛顧いただければ幸いです。



*以下は後日付け加えた文章です。


ある読者の方からのコメントにはっとさせられましたので、付け加えておきます。


この記事が、特に「頭の中の観念のみで書く自分のブログに情けなさを感じます」という部分において、思うことをかきつづる記事を否定するニュアンスを帯びてしまっていることに気づきました。思うことをかきつづるブログにも当然、素晴らしいものは沢山ありますし、私もそういったブログを多く読んでいます。


また、「長文」を否定的に捉えたくだりもございました。しかし、これについても、「長文」が決して悪いわけではなく、他の事情と重なって、私の現在の記事において、「長文化」が自己満足への「兆候」に思われたものです。


いずれにせよ、今回の私の自分のブログへの疑念は、個人的な事情によるところが多く、思うことをかきつづるブログや長文というスタイルを否定するものではありません。そういった否定を行った場合、自分の行為だけでなく他人の行為まで貶めることになることについて、配慮が足りませんでした。


上記の記事をお読みになって気分を害されたブロガーの方など、いらっしゃいましたら、謹んでお詫び申し上げます。

哲学というものにはどこか、「何の役にも立たない言葉遊び」というイメージがついて回るように思います。そして、そのような要素が全くないとは言えませんが、それが全てでないこともまた確かなのではないでしょうか。


私も、以前から哲学には興味があったのですが、上述したような言葉遊び的なイメージもまた持っていました。しかし、大学1年生のときに受けたある哲学の講義が、そのような私の哲学に対するイメージを変えてくれました。


一般的には学生からの評価はそこまで高くない講義でしたが、教授は、現実世界と哲学との接点を意識して話されることが多かった印象で、私は非常に好きな講義でした。


私の受講した年から内容を変えるつもりだったとのことですが、本が間に合わなかった関係からだったか、予定していた内容にはならず、かといって従来の内容には戻すことなく、その年1回きりの特別な内容のものとなりました。そんな意味では、とても幸運だったと思います。


ウルフ〔ほか〕共著/梶田昭訳『人間と医学』という本を用いた講義でしたが、この本は、デンマークの胃腸科医・哲学者・精神科医の3人の共著であり、医療現場と哲学問題との密接な関係にも触れられています。


その本の中でも、教授が最も強調した部分、これさえ分かってもらえれば1年間の講義の甲斐があった、という部分があります。


それが、「基礎的な哲学問題に関する意見の相違は、臨床的な結果を伴う」という部分です。


人は時に、特定できる原因を持たない、説明できない「不安」に襲われることがあります。これへの対処として、医学的治療を施すことも当然考えられますが、他方で、異なる見地からそれを批判する意見もあります。


デンマークの思想家セーレン・キルケゴールは、不安は、人間が人間であるために不可欠なものとします。そもそも、行動に選択の余地がなければ、不安など起こりません。不安は、自分を省みて、自由に行動する人間ゆえの特質であるといいます。また、ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーは、不安を、従来の世界観の崩壊とします。すると、人間は新たな世界観を画定すべく強いられることとなります。そのような意味では、不安は新しい可能性を開くものであり、「自己知への特権的な接近」を許す状態であるというのです。いずれにせよ、「不安」というのは、人格にとって重要なものであり、いつでも病気として治療してしまうことは望ましくないとするのです。


するとここに、「臨床的な結果」が伴うことになるのです。専ら自然科学を重視するならば、説明できない「不安」に襲われる患者を前にした医師は、投薬等の医学的治療で対処すべきとなるでしょう。しかし、「不安」というものに関して、人間にとっての重要な意味を見出すのであれば、それを徒に投薬等で治療するのは望ましくないとなるでしょう。「不安」をめぐる哲学的な意見の違いが、現実の「不安」への対処の有り様に影響を及ぼしているのです。


人間として生きている以上、それぞれの世界観・人生観は、その人の行動を通じて現実世界に少なからず影響を与えるでしょう。ならば、世界観・人生観を省察する哲学は、決して、単なる「言葉遊び」とは言えないように思います。


哲学は、そこまで専門的に深く勉強したわけではないので、とりわけキルケゴールやハイデガーの見解の部分など、きちんと正確に説明できているか若干不安があるのですが、その点、ご了承ください。


最後に、このウルフ〔ほか〕共著/梶田昭訳『人間と医学』を紹介したいところですが、2001年に講義を受けた際、すでにこの本を出版した博品社が解散し影も形もなくなっていたそうなので、残念ながらご紹介できません。「こんな哲学の本とかを出してたら、そりゃあ潰れますよね」と教授が一言。確かに、ただ、残念なことではありますね。

山田昌弘著『希望格差社会ー「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』関連のシリーズも5回目ですが、今回で最終回にしたいと思います。


前回は、古沢広祐著『地球文明ビジョン―「環境」が語る脱成長社会』という本を取り上げ、希望格差社会を産む原因となっている国際的な競争経済が、いずれは環境を破壊し資源を枯渇させ、人類文明の破局すら招きかねないこと、そして、それを乗り越えるためには社会・経済システムを大転換して、共生社会を実現する必要があるという主張を論じました。


しかし、そういった大転換が困難であることは間違いないでしょう。そして、前回の最後に書いたとおり、今回は、それが失敗し破局へとつながる「最悪のシナリオ」を、大げさに言えばシュミレーションしてみたいと思います。


経済の成長と物質的豊かさを至上とする競争経済から、多様な価値基準のもと人間や自然が豊かに結びつく共生の社会・世界へと転換するには、当然、国内外での連帯、すなわち、国内での市民の結びつき、国家間の結びつき、国境を越えた市民の結びつきが不可欠です。


しかし、経済の成長と物質的豊かさを至上とする競争経済によって生み出された希望格差社会が、その連帯を大きく阻む要因を持っているように思えるのです。


ここで、もう1冊、本を紹介したいと思います。香山リカ著『ぷちナショナリズム症候群―若者たちのニッポン主義』です。この本も、一見、希望格差社会とは関係が無いようにも見えますが、希望格差社会における勝ち組・負け組の二極化を背景とした記述が見られます。


この本の中で、フランスにおいて、生活に不安を抱える底辺層・失業層の不満が、「すべては移民が悪い」という極端な回答を用意した国民戦線という極右政党を躍進させたということが紹介されています。これは、香山氏が今の日本に存在しているという「ぷちナショナリズム」とは違う性質の愛国状況ということですが、今後、日本社会の格差拡大による二極化において、それまでは「中間層」だった人々が「負け組」に地盤沈下するとともに、その層を中心にラディカルなナショナリズムへとなだれ込む可能性も指摘されています。


そうして、ナショナリズムが勃興した場合、共生の世界を築くのに必要な国内外の連帯はどうなるのでしょう。


自国至上の考えが無思慮のまま押し出されれば、国家間連帯どころか、国家間の対立を助長するのではないでしょうか。それだけではなく、環境資源の枯渇の懸念ゆえの連帯のはずが、その枯渇しかかった資源の奪い合いにより、国家間の対立を激化させ、紛争を頻発させる危険も感じられます。


また、国家の枠組みでの協働には限界があるとして、『地球文明ビジョン』の古沢氏は、NGOやボランティアの活動にこそ期待していました。しかし、それとて、ナショナリズムにより「国」の枠組みが極端に押し出された状況では、十分な活躍をできるかが心配です。


地球規模に展開し始めた競争経済が、国内においては、勝ち組と負け組の二極化・希望格差を生み、社会不安を助長する。そして、それによって勃興したナショナリズムが国家間連帯を阻害し、対立と紛争を招く。それが、さらなる国内での社会不安を煽る悪循環に陥り、国内外の秩序が崩壊するとともに、もはや手のうちようが無いほど、環境を破壊し資源を枯渇させ、人間の生存に必要なあらゆる基盤を失ってしまう。極端な意見ではあると思いますが、これが、私の思う、「最悪のシナリオ」です。


では、実際はどうでしょうか。楽観は出来ませんが、絶望する必要もないようにも思えます。さすがに、「破滅への道」を簡単に選んでしまえるほど人間は愚かではなく、その兆候を垣間見た際に立ち止まれるのではないかというように思うのです。今現在フランスで起きている暴動は、移民への強硬策が大きな原因であると言われていますが、それを受けて、フランスも移民への懐柔策を検討しているという話を聞きます。差し迫った現実を目の前に突きつけられたとき、動き出す英知と勇気をさすがに人間は有しているように思います。ただ、もはや、現実が突きつけられた際に手遅れでないことを祈るばかりですが。


では、私達に何ができるのでしょうか。今後求められる社会・経済システムが、多様な価値基準のもと人間や自然が豊かに結びつく、共生と共創の原理であるというのなら、基本は身近な人間関係だと思います。月並みかもしれませんが、この問題においても、地域コミュニティーの再生がポイントのような気がします。身近な人間関係から、豊かな思いやりや優しさを実感として学び、それをもとにグローバルなイメージを膨らませる必要があるように思います。


とくに、前回、今回と、私の思い付き的な私見が大分混ざってしまったかもしれません。その点、若干自信のないところもあるのですが、ご了承いただくとともに、一見解として受け取っていただければ幸いです。


最後に、2冊は重複となりますが、今回使った本を紹介して終わりとさせていただきたいと思います。



山田 昌弘
希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く
香山 リカ
ぷちナショナリズム症候群―若者たちのニッポン主義
古沢 広祐
地球文明ビジョン―「環境」が語る脱成長社会

親知らずが生えてきて、とても痛いです。口を大きく開けない上、しっかりと噛めません。と、こんなことを愚痴っても仕方ないですね・・・


さて、山田昌弘著『希望格差社会ー「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』に関連して書いてきたシリーズも今回で4回目ですが、実は1回目を書いた当初は、このシリーズは、前回の「『あたりまえ』の価値」で終わるつもりでした。しかし、古本屋で偶然手に取った本がヒントになり、今回そして次回と5回のシリーズとなることになりました。


そこで、その本というのが、古沢広祐著『地球文明ビジョン―「環境」が語る脱成長社会』です。環境問題が主要なテーマの本であり、『希望格差社会』とは接点がないようにも思われますが、背景としての世界規模での競争経済の展開という点で同一の根を持っており、それを乗り越えようとする本書の視点は、同時に希望格差社会を乗り越えるビジョンとも考えうるように思います。


近代文明のもと、産業と経済の爆発的な拡大・発展により、人間社会は物質的に極めて豊かなものとなりました。しかし、一方で、経済的に評価されにくい自然や地域に根ざした多様な文化は破壊されてきています。さらに、総じて物質的に豊かになったとはいえ、南北問題などに表されているように、貧富の差は拡大し、より豊かになる富める者の一方で、より過酷な状況に追い込まれている国や人々も存在します。


そして、増えすぎ発展しすぎた物質的な人間社会を、もはや地球環境が支えきれなくなり始めており、資源や食糧生産は減少、汚染は拡大、このままでは遠くない未来、人間の文明が破局を迎えることもありうるという分析が出されてきているのです。


『希望格差社会』において、希望の格差そして「負け組」の絶望を生み出す背景とされていたのが、地球規模に展開し始めた競争経済ですが、国際的な視点に立てば、この競争経済は、上述したような問題を引き起こし、破局すら招くというのが、大まかな本書の現状分析です。


では、どうすればいいのか。本書は、もはや、経済の成長と物質的豊かさを至上とする現在の社会・経済システムを大転換せざるをえないと主張します。そして、不十分ながらも現在取り組まれている環境保護についての国家間連帯、そしてより注目すべきボランティアやNGO・NPOの活動や、デンマーク、オランダ、アメリカ・カリフォルニア州などの先進的な取り組み等を紹介しています。


また、消費者倫理などの重視や、物質的豊かさから精神的豊かさへの価値観のシフトなども取り上げられています。http://ameblo.jp/j-igarashi/entry-10005527045.html で紹介されているロハスは、まさにその代表例といえるでしょう。ただ、上記のブログでも、著者自身や来訪者のコメントの中で、「ロハスが広く社会に開かれたものにはならず、むしろ私的領域への退行に陥」ったり、「一部の恵まれた人々の自己満足」となってしまう危険性が指摘されています。市場原理と利潤追求を目標とする資本主義社会において、こういった価値観の転換というような動きを取り込めるのかという問題を本書も指摘しています。そして、そこでこそ、多様な価値基準のもと人間や自然が豊かに結びつく、共生と共創の原理のため、社会・経済構造の組換えを主張しているといえるでしょう。


確かに、そういった社会・経済構造の転換がなされれば、希望格差社会の打開ともなりうるでしょう。しかし、そううまくいくものでしょうか。『希望格差社会』の中で山田氏は、こういった主張への意見は展開してはいませんが、ただ、地球規模に展開し始めた競争経済を不可避のものとする記述はあった思います。


いずれにせよ、このような大転換が簡単に行くものではないことは確かでしょう。そこで、次回は、こういった動きを阻む要因を自分なりに取り上げて、私の考える、それこそ「最悪のシナリオ」を描いてみようかと思っています。



古沢 広祐
地球文明ビジョン―「環境」が語る脱成長社会

今回から、中断しておりました、山田昌弘著『希望格差社会ー「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』に関しての記事を再開したいと思います。今回を含めて、あと3回ほど書きたいと思いますが、どうぞお付き合いのほどをお願いいたします。


さて、将来の見通しがつかず努力しても報われないと感じた多数の「負け組」から希望が消えてゆく希望格差社会。しかし、そんな中でも、人はやはり、希望を持った人生を望まずにはいられないでしょう。そして、その「希望」の模索が所々で行われているように思います。


ふと感じることに、「あたりまえ」の価値やありがたみを再認識させるようなドラマや本などが、最近増えているのではないでしょうか。


「あたりまえ」の価値とは、普段あって当然のように思っているものの価値、典型は、「生命」、「健康」、「家族」といったところでしょう。


10月10日にフジテレビ系列で放映された『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』は、病気と闘いながらも家族を愛し真摯に生きた医師を描いたもので、正面から、そういった価値を扱っているものと思います。その他にも、昨年だったと思いますが、日本テレビ系列のドラマで、ダウン症の子供の生涯と親の愛を描いた『たったひとつのたからもの』や、同じく日本テレビ系列今年3月1日放映の、アルコール中毒との闘い、そして家族の絆を描いた『溺れる人』、テレビ朝日系列で院内学級について扱った連続ドラマ『電池が切れるまで』などがあるでしょう。また、今現在放映中のものでは、フジテレビ系列火曜夜9時『1リットルの涙』がそれに当てはまると思います。


以上は、ノンフィクションの本や詩集などを原作としたもので、原作のほうも、最後に紹介したいと思いますが、それぞれ大きな反響を呼んだものと言えるのではないでしょうか。


でも、こういった作品は昔からあった、とおっしゃるかもしれません。その通りだと思います。現に、原作本『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』は1980年の出版です。しかし、以前と比べても、様々な形で、こういった作品の登場する頻度が高くなっている印象を受けるのです。


私は、これが希望格差社会の中、希望を見出す試みのひとつに思えるのです。あって当たり前だと思われているものが、本当は、何ものにも代えがたい素晴らしいもの。そういったものに、生きていること自体に感謝し喜ぶ。希望のない社会で希望を取り戻す、ひとつの答えかもしれません。


しかし、こう言ってしまうと、原作者やドラマのスタッフの方々に対して失礼に当たるかも知れず、やや気が引けるのですが、これらの本やドラマが、それのみで希望のない社会自体を変革する力は持ち得ないと思います。


確かに、これらの作品は、非常に素晴らしく、示唆するところも多い意義深いものだと思います。それによって、多くの人を感動させ勇気付けることでしょう。そして、中には、人生観・価値観を決定的に揺さぶられる人もいるのではないでしょうか。


しかし、多数の人は、ドラマを見終わり、本を読み終わりしばらくすれば、その魔法が解け、まわりには相も変わらない社会、希望が失われてゆく社会、「あたりまえ」のことなど気にかけず感謝などしない社会が見えてくるのではないでしょうか。それが実体験ではないことの限界のように思います。



みんなあたりまえのこと

こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない

そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ

なぜでしょう

あたりまえ

                          『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』より



上述の原作やドラマには、確かに人の心に訴えかけ感動させる力があると思います。しかし、何らかの方法で社会自体を変えていかなければ、多くの人の心に宿ったその光の力も、その人を取り巻く現実社会の重苦しさの中、しぼんでいってしまうのではないでしょうか。


私達一人一人が、何かをしなければなりません。小さなことでも、何らかの実体験や実際の行動があれば、社会を変える一歩にはなるのではないでしょうか。そんな中でこそ、上述の作品は、多くの人の心を通して、その光の力を最大限社会の中に解き放てるようにも思います。


最後に謝罪をひとつ。上述の作品、原作本は読んだものがありません(図書館の予約数のあまりの多さに挫折したものもあります)。ドラマについては、完全に見たものが2本、最後だけ見たのが1本、全く見ていないのが2本です。作品内容の評論をしたわけではありませんが、鑑賞もせずに取り上げてしまいました点、申し訳ありません。今後、折をみて触れたいと思います。


次回は、違った見地から、希望格差社会の打開策を検討してみたいと思います。


最後に、今日取り上げた作品の原作本を提示します。



井村 和清

飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ―若き医師が死の直前まで綴った愛の手記


加藤 浩美

たったひとつのたからもの


藤崎 麻里, 高橋 和子, カウマイヤー 香代子, 八木沼 笙子, 竹内 みや子

溺れる人―第3回Woman’s Beat大賞受賞作品集


すずらんの会

電池が切れるまで―子ども病院からのメッセージ


宮本 雅史

「電池が切れるまで」の仲間たち―子ども病院物語


木藤 亜也

1リットルの涙―難病と闘い続ける少女亜也の日記


木藤 潮香

いのちのハードル―「1リットルの涙」母の手記