「個人主義」というものが、槍玉に上がることの多い最近ですが、「個人主義」の意味がそもそも、非常にあいまいなものに思えます。むしろ、使われる場面に応じて、意味が大きく変わる言葉といえるのではないでしょうか。
「個人主義」が批判される場面においては、「個人主義」は、公徳心や思いやりの心を欠いた利己的な態度を指して使われることが多いでしょう。そして、「個人主義」を掲げた現在の憲法や教育基本法を改正すべきという主張へと発展していくことも多く見られます。
しかし、批判の対象とされるような前者の「個人主義」と、憲法・教育基本法の掲げる「個人主義」とでは、かなりニュアンスに違いがあるのではないでしょうか。
公徳心の欠如や利己主義を意味するような「個人主義」は、高度資本主義社会、高度大衆消費社会の中、人と人とのつながりが希薄になり、あるいは、公の物事が自分にはどうにもならないものだという無力感から国政等に関心を失い自分自身の消費・娯楽にのみ専念すること等によって、国家、社会、他者への無関心に陥るような状態を意味しているように思います。
一方で、憲法や教育基本法における「個人主義」は、それらの法の意義・趣旨を考えるならば、一人一人の国民・子供を尊重して、ないがしろにすることなく国政や教育の運営をすべきことを定めたものと解釈すべきではないでしょうか。
そう考えるならば、ふたつの「個人主義」はニュアンスの差どころか、場合によっては矛盾・対立することさえありうるように思います。
人が利己主義に走り他者を思いやらない社会では、中には、いえ、場合によっては多数の人間がないがしろにされ、結果として、多くの人が「個人として尊重されていない」状況に追い込まれることにもなりかねません。そのような状態で、一人一人が尊重された「個人主義」の国家・教育が実現されているとは到底言えないでしょう。
また、もし「個人主義」の打破ということで、一人一人の国民の声が届かない国政、一人一人の国民を軽視した国政を始めたならば、より多くの国民に無力感や絶望感を与え、さらに利己主義的な他者を思いやらない社会にしてしまう可能性もあるように思います。
現在問題とされているような、人のつながりの希薄化、公徳心や思いやる心の欠如は、現代の大衆社会のもつ大きな負の部分であり、憲法改正や多少のシステムの変化で簡単に解決できるような根の浅い問題ではないように思います。
「個人主義」をめぐるイデオロギー対立に振り回されることなく、現実の社会の問題を真っ直ぐ見据えて、その解決を模索することが求められているのではないでしょうか。

