“迷い”と“願い”の街角で -37ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

「個人主義」というものが、槍玉に上がることの多い最近ですが、「個人主義」の意味がそもそも、非常にあいまいなものに思えます。むしろ、使われる場面に応じて、意味が大きく変わる言葉といえるのではないでしょうか。


「個人主義」が批判される場面においては、「個人主義」は、公徳心や思いやりの心を欠いた利己的な態度を指して使われることが多いでしょう。そして、「個人主義」を掲げた現在の憲法や教育基本法を改正すべきという主張へと発展していくことも多く見られます。


しかし、批判の対象とされるような前者の「個人主義」と、憲法・教育基本法の掲げる「個人主義」とでは、かなりニュアンスに違いがあるのではないでしょうか。


公徳心の欠如や利己主義を意味するような「個人主義」は、高度資本主義社会、高度大衆消費社会の中、人と人とのつながりが希薄になり、あるいは、公の物事が自分にはどうにもならないものだという無力感から国政等に関心を失い自分自身の消費・娯楽にのみ専念すること等によって、国家、社会、他者への無関心に陥るような状態を意味しているように思います。


一方で、憲法や教育基本法における「個人主義」は、それらの法の意義・趣旨を考えるならば、一人一人の国民・子供を尊重して、ないがしろにすることなく国政や教育の運営をすべきことを定めたものと解釈すべきではないでしょうか。


そう考えるならば、ふたつの「個人主義」はニュアンスの差どころか、場合によっては矛盾・対立することさえありうるように思います。


人が利己主義に走り他者を思いやらない社会では、中には、いえ、場合によっては多数の人間がないがしろにされ、結果として、多くの人が「個人として尊重されていない」状況に追い込まれることにもなりかねません。そのような状態で、一人一人が尊重された「個人主義」の国家・教育が実現されているとは到底言えないでしょう。


また、もし「個人主義」の打破ということで、一人一人の国民の声が届かない国政、一人一人の国民を軽視した国政を始めたならば、より多くの国民に無力感や絶望感を与え、さらに利己主義的な他者を思いやらない社会にしてしまう可能性もあるように思います。


現在問題とされているような、人のつながりの希薄化、公徳心や思いやる心の欠如は、現代の大衆社会のもつ大きな負の部分であり、憲法改正や多少のシステムの変化で簡単に解決できるような根の浅い問題ではないように思います。


「個人主義」をめぐるイデオロギー対立に振り回されることなく、現実の社会の問題を真っ直ぐ見据えて、その解決を模索することが求められているのではないでしょうか。

10月29日から31日までの3日間に渡り、読売新聞は、「動き出すか憲法改正」という連載をしました。そして、10月30日の(中)においては、自民党の新憲法草案に関して、小泉首相が実現可能性に重きを置いた決断をして、「戦争放棄」をうたった9条1項は、丸ごと残ることになった、という内容から始まっています。


この記事の内容については深くは触れません。というのも、私が気になったのは、全体的な内容というよりも、「憲法改正の必要性を認める国民は多数派となったが、9条改正に対する世論のアレルギーが払しょくされた、とは言い切れない」という一文なのです。


今年4月のNHKの世論調査によれば、憲法9条の改正については、必要あり26%、必要なし36%、どちらともいえない31%という結果が出ています。再三になりますが、集団的自衛権については、読売自身の以前の世論調査でも、若干ながら反対が賛成を上回っています。


この状態を示すのに、「9条改正に対する世論のアレルギーが払しょくされた、とは言い切れない」という表現は適当なのでしょうか。NHKの調査では、過半数は取っていないにしろ、必要なしが必要ありを10ポイントも上回っています。これを、果たして「アレルギー」という言葉で片付けることができるのでしょうか。


もちろん、マスコミは世論に迎合すべきとは言いません。時に、自身の信念を持って、世論に対し挑戦をすることは極めて重要であると思います。しかし、世論の動向を軽視してはならないのではないでしょうか。世論が常に正しいとは限らないとしても、それにはそれなりの「重み」があるはずです。世論に挑戦するマスコミは、その「重み」を受け止め尊重しつつ、それに対抗しうる確固たる論理を組み立て、しっかりとした説明をすることが求められるように思います。

ある川辺を歩いていて、興味深い場面に遭遇しました。


小学生2人が、道に座り込み、何かを見ているのです。そこに、片方の母親らしき人が自転車で通りかかりました。


小学生の一人が、その母親らしき人に言いました。「どうしよう。助けてあげたい」


どうやら、カマキリか何かが道端で瀕死の状態になっており、2人の小学生はそれを見ていたようなのです。


母親らしき人は、「えー、やだよ。嫌いだもん」と言って、走っていきました。


それから、その小学生は、「本当は僕も嫌いなんだけどね・・・」と言いながらも、相変わらず、そのカマキリらしき虫を見ていました。



私が見聞きしたのはここまでです。どう思われますでしょうか。私は、その小学生の心には、非常に大切で尊い気持ちがあったように思うのです。


「本当は嫌い」と言いながら「助けてあげたい」ということ、なぜでしょうか。


たとえ、たまたま姿かたちは嫌いなものであっても、「生きているもの」として、その命を尊ぶ心がそこにはあったのではないでしょうか。


一方で社会に目を転じれば、「命」「生き物」「人間」といった根源的なテーマが軽んじられ、場合によっては、「嫌いなもの」はとことん否定するという風潮さえ見られるときさえあります。


奇麗事ばかりで世の中が動かないことはわかります。しかし、「命の大切さ」といったような根源的な価値、それを大切に思う心を忘れ去った社会はどうなるのでしょうか。


子供の心に芽生える、そういった明快で純粋な気持ち、それを尊重するとともに、多くの人が、そんな純粋さだけで生きていけるわけではないにせよ、それを心のどこかには無くさずに持っておかねばならないのではないでしょうか。

『希望格差社会』に関連した話は、あと3回ほど書きたいのですが、そのためには読んでおきたい本があり、かつ若干立て込んでおりますので、日を改めさせていただきたいと思います。


そこで、今日は、そこそこ軽いテーマの話にしようと思います。


弁当屋の弁当を食べる機会は、皆さんそれぞれ、それなりにあると思うのですが、私もしばしば利用します。前は、外で食べることが多かったのですが、最近では買ってきた弁当を家で食べることも増えました。


そこで、外で食べていたこれまでは感じたことのない実感がわきました。


外で食べれば、そのつど、弁当の空き箱は、外の大きなゴミ箱に捨てます。しかし、家で食べた場合は、週1回の分別ごみの日までは、空き箱を家の中に置いておかねばなりません。


そこで気づきました。弁当の空き箱も3食分にもなれば、かなりの量のごみになります。ここまで多いとは、正直、実感としてありませんでした。そして、少し自己嫌悪に陥りました。


そこそこ軽いテーマの話と最初に言ってしまいましたが、地球の自然や環境資源が、増えすぎた人間、豊か過ぎる社会を支えきれず、減退していく現在、ごみ問題は非常に重要です。


今までは気にしていませんでしたが、3食分の弁当殻を見せ付けられると、どうも自分の功罪を心のどこかで感じてしまいます。社会的な問題、地球規模の問題も、還元すれば一人一人の人間の行動に必ずつながっているように思います。ただそれが、実感とならないだけで。


そうであるならば、一人一人の行動なくして、改善もありえないとも言えるのではないでしょうか。


ところで、弁当屋が使い捨てでない弁当箱を販売し、それを持ってくればそれに弁当を詰めるというサービスをしたら、ちょっと良いのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

今回は、『希望格差社会』に関する記事の3回目を書くつもりだったのですが、予定を変更して小泉首相の靖国神社参拝問題について書きたいと思います。

まず、この靖国参拝の問題を正面から解決・決着をするのは不可能だと思います。というのも、靖国神社が、「民族性」や「宗教」といったものと関わっているからです。すなわち、人の「精神性」や「心」といったものと最終的にはつながり、この問題を考えようとすると、極めて「主観的な」要素が出てきてしまうと思うのです。

賛成派、反対派がお互い「理解できない」と言うのは、まさにこの「主観性」ゆえに思います。ある程度、理屈などにより客観的な解決を期待できる他の問題と比べても、それぞれが極めて自分の価値観、人生観を意見に反映してしまうこの問題は、段違いに難しくかつ深刻なものといえるのではないでしょうか。それぞれの論者が、ある程度明快に当否の判断・主張は可能ではあるでしょう。しかし、社会的な合意の形成や外交上の共通認識の形成といった意味での「解決」は、何らかの方策により一朝一夕でなされるものではありません。

しかし、何回か後で『希望格差社会』に絡めて触れることになると思いますが、民族紛争や宗教的対立などが世界的に問題とされ、社会内部や国家間の矛盾や不安が顕在化し、また地球の環境資源が人間世界を支えきれなくなるのが目前である現在、このような状態が続けば、「危機」どころの騒ぎではなくなるようにさえ思われます。何とかしなければなりません。

そこで、私の意見を申しますが、首相の靖国神社参拝は、政教分離違反として禁ぜられるべきものと思っています。憲法の解釈の立場から、政教分離に反するか反しないかという議論もあるでしょうが、理論的な解釈の当否はさておいても、政教分離原則、それが無理なら何らかの別のルールで靖国参拝を禁止する必要があると思います。

もはや、靖国参拝の当否を国家レベル、政治レベルで問題としてはならないと思うのです。先ほども言いましたが、当否は各々それなりに明快に判断できるものの、決着は不可能と思われます。だとすれば、当否を政治レベルで問うこと自体が、問題を泥沼化させ多大な不利益をもたらします。だからこそ、その不利益ゆえに、当否を問うことなく、政教分離ないし別のルールで禁じてしまうべきだと思うのです。

賛成派の方、反対派の方、納得できないことでしょう。私のこの方法は、「靖国問題」の何ら根本的な解決にはなりません。言うなれば問題を「棚上げ」にする方法です。

とはいえ、先ほども書きましたが、今後の世界において、民族性や精神性が正面からぶつかるような対立・紛争は極めて危険です。個々人が、それぞれ深く思い巡らし議論するのは有益でしょうが、政治問題化したときの不利益は非常に大きいといえるでしょう。政治を介した民族性・精神性の全面衝突だけは何とか避ける手立てが必要であるように思います。

中途半端な主張でしかないでしょうが、今回はここまでとして、先ほども言ったとおり、これに絡んだ問題を何回か後で、もう一度触れたいと思います。

さて、山田昌弘著『希望格差社会ー「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』に関しての記事、2回目ですが、教育に絡んだ問題を書きたいと思います。


山田氏は、希望格差を引き起こすことになった日本社会の安定の崩壊について、職業世界、家族生活と並び、教育の分野を重視しています。以前は、小・中学校から始まり、あるいは商業高校、工業高校を経て、あるいは普通高校へ行き、大学・短大、人によっては大学院まで進み、それぞれ効率的に特定の職業に就職してゆくというパイプラインがうまく機能していました。


しかし、現在、このパイプラインに「漏れ」ともいうべき現象が起きているというのです。大学院博士課程を出ても大学教員になれない人が増え、工業高校を出ても上場企業の工場に正社員として勤務できるのはごく少数、一般文科系の大学を出て中堅企業のホワイトカラーにも採用されない人が出てきているのです。


こういった現象が、多くの青少年に、将来への不安感を抱かせたり、一方では諦める機会を失し過大な期待をもたせたり、努力が無駄になる可能性によりやる気をなくさせたりという現象がおきるといいます。


以上が『希望格差社会』の教育に関する内容の大筋です。しかし、私は、以上のような要因が主だとしても、生徒・学生の不安感ややる気喪失を助長する要素が今の教育システムには散在されている気がするのです。


ひとつ、無責任な話で恐縮ですが、「今、受験生じゃなくてよかった」と思ってしまうときがあります。私が大学に入学してしばらくしたことからでしょうか、教育改革ということで、国が、各種機関が、そして学校が、以前よりも急速に様々なことをやり始めたという印象を持ちました。大きなところでは、「ゆとり教育」に基づいたカリキュラム変更、完全週休二日制、国公立大学入試におけるセンター試験での科目増加、受験生を多面的に見るための入試での選抜方法の工夫など、大小数え上げたらきりがないのではないでしょうか。


それで、なぜ、「今、受験生じゃなくてよかった」と思うかというと、このような度重なる変革がなされる状況では、それに翻弄されて、一体何をすればいいのか、自分の望む道へ行くにはどうしたらいいのか、またそもそも望む道に進めるのか、判断がつかないように思うからです。


「ゆとり教育」でカリキュラムが減ったと思えば、「学力低下」という言葉が飛び交い騒がれ、今度は「脱ゆとり教育」が叫ばれます。自分達に関して「ゆとり教育」の世代、学力低下と言われる子供達はどう思うでしょう。カリキュラムが変わったり学年により違ったり、公立と私立の違いが取りざたされたり、学校によってまちまちの学力対策が行われたりもします。このような状況では、自分の現在の状態・学力、そして将来に不安を持たず、落ち着いて勉強することなどできるのでしょうか。


入試の選考方法の工夫もされているようですが、入試科目が変更されれば当然受験生も慌てるでしょう。また、選考方法の工夫が、「思考力」や「人間性」といった曖昧なものを見るというものだったら、どう対応したらいいかさえ分からなくなりかねません。工夫は悪いことではないかもしれませんが、やみくもになされれば混乱を招く危険性もあるのではないでしょうか。


昨今の教育改革、当の子供の視点が欠けているようにも思えます。生徒自身が、腰を落ち着け安心して努力できる環境なしに、いい教育はないのではないでしょうか。大人の思いつきや思惑が子供達を翻弄している気さえします。


大人には、まさに子供を教え育てる義務があると思います。今度の教育改革は失敗した、今回の生徒は失敗作だ、などということは許されるはずがありません。子供達一人一人を一人前の立派な人間に育て上げる責任を自覚し、それが子供達に伝わる施策こそ必要ではないかと思うのです。

6ヶ月前に区立図書館に予約した山田昌弘著『希望格差社会ー「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』が、今月、ようやく手元に届き、読むことが出来ました。しかし、4月に予約した際には、70件ほど、今でも30件以上の予約が、このような本に入っているということ自体、どこか不気味なものを感じます。


非常に怖い内容です。今後、将来に希望をもつことの出来る「勝ち組」と、将来に希望をもつことのできない「負け組」に社会が二極化していき、その「負け組」の絶望感が、様々な社会問題を引き起こし、日本社会の存立基盤を蝕んでゆく、といったようなものでした。


この本で強調されている点の一つに、ここでいう「格差」というのが、多く金を稼ぐ、持っている人と、そんなに稼げない、持っていない人という、財産の多寡に留まるものではなく、努力が報われるという希望を持てるか持てないかという心理的な格差へと及んでいる、ということがあります。だからこそ、深刻な種々の社会問題を引き起こすのです。


このブログでは、この有名な本につき述べるというよりは、これに関連させる形で、いくつかの問題を、今後何回かに渡り論じていきたいと思います。


さて、「負け組」の絶望感から引き起こされる問題のひとつに、非合理的な犯罪が挙げられています。そういった犯罪が、絶望感から他人の幸福をうらやみ、「不幸の道連れ」として行われているというのです。


前回、今の日本の社会は、内面教育も難しく、また厳罰化による外面的な抑止もままならないほど、少年を、人を犯罪に駆り立てる温床があると申し上げました。このような絶望感に陥り、そもそも人生を捨てている人間の犯罪に対しては、厳罰さえもそれほどの意味を持たないでしょう。大阪教育大学附属池田小学校の事件において、少なくとも事件を防止する観点からは、死刑さえ無意味でした。


犯罪について、社会正義の観点から適正な処罰がなされるべきは当然です。しかし、その温床となる社会の問題を放置すれば、とりわけ二極化による絶望が拡大してゆくといわれる今後、第二、第三の宅間守元死刑囚のような人間を生んでしまう危険性があります。


社会の生んだ絶望が増殖し不幸を生んでゆく、そのような連鎖を何としてでも断ち切らねばなりません。


山田 昌弘
希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く

最近では、マスコミでの議論こそ下火になってきましたが、少年犯罪へいかに対処するかは大きな問題であり続けているように思えます。


そして、この対処に関して、大きく分ければ二つの方向性があります。ひとつが、厳罰化であり、もうひとつが、保護・更生支援の充実です。前者は、少年に自分の犯した罪の重さを自覚させ、また厳しい刑を定めることで少年を犯罪から遠ざけることを目的としています。後者は、少年が未熟で弱いこと、そして更生する可能性が高いことを理由としています。


厳罰化は、非常に分かりやすく、一見、犯罪を抑止する最も効果的な方法にも思えます。そして、実際、その効果もそれなりに期待できるかもしれません。しかし、これが、根本的な解決を導くものではないように思います。


厳罰化は、イメージとすれば、犯罪へと向かう少年を、重い罰という壁で阻もうというような感じだと思います。しかし、それで、犯罪へと向かおうとする少年の内面的な感情や動機といったものが変わるわけではないでしょう。罰という壁で阻まれつつも、内面において犯罪へと向かうエネルギーが蓄積されれば、もはやコントロールできない形で爆発したり、罰せられないよう抜け穴を見つけ出すことで成就させたりということにもなりかねないのではないでしょうか。


「罰せられるから、やらない」という考えを、罰という外面的な対処で与えるだけではなく、少年自身が是非善悪の判断をする能力をつけ「悪いことだから、やらない」という考えをもつようにする内面的な対処をしなければ、問題は解消されず、一度は解消されたかに見えたとしても、いずれ息を吹き返すように思います。


ただし、今の日本の社会は、内面教育も難しく、また厳罰化による外面的な抑止もままならないほど、少年を、人を犯罪に駆り立てる温床があるようです。その点も含め、次回以降、山田昌弘著『希望格差社会-「負け組」の絶望感が日本を引き裂く-』と絡めて、いくつかの問題について触れたいと思います。

憲法改正への歩みが若干加速しているように見える今日この頃です。これに対して私たち国民は、どのように見ればよいのでしょうか。


憲法に精通している人が最も強調する点の一つとして、「憲法は本来権力者を縛るものである」というものがあります。歴史的に、そして法理論的に全くその通りなのですが、しかし、このワン・フレーズに、どれほどの人が納得するのかという不安があります。


そこで、今日は、この「憲法は本来権力者を縛るものである」というフレーズを自分なりに解釈・具体化したいと思います。どれほど納得のいく説明になるかは分かりませんが、お付き合いをお願いします。


そもそも、国家というものは、土地と、人と、それを統治する権力があって成り立ちます。しかし、歴史が示すように、権力の座についた者は、往々にして私益に走り横暴をやるものです。そこで、それを打開するシステムとして憲法が生まれました。


憲法は、まず、人間が人間らしく生きていくために必要な利益を、人権として保障し、権力者がこれを侵害することを禁止しました。そして、それを確保するために適切な政治システムを定め、権力の行使は、それに従って行われるべきものとしたのです。すなわち、主権者であり、国のあり方を最終的に決定する権利を持つ国民は、憲法というルールを仲介に、特定の人々に権力を貸し与え、そのルールの範囲内での権力の行使を許しているのです。


憲法は、国民みなが、自分たちの利益の維持・発展のため、権力を貸し与え、使わせるルールといえるのではないでしょうか。


憲法を改正するのであれば、それこそ、通常の政策とは比べ物にならないほど、国民自身の主体性・主導性が求められるのではないでしょうか。政治家主導の憲法改正は、権力を借りている者が、自らその権力の貸し借りのルールを変えるという意味で、かなり矛盾があるように思えるからです。


憲法について考える場合、国民一人一人が、自分のこと、人のこと、社会のこと、世界のことを想像豊かに思い巡らし、判断しなければならないでしょう。それに失敗し、政治家主導の憲法改正が成立した後の世の中を考えたときには、どうしても悲観的にならざるを得ません。

死刑制度については、世界的に、その是非を問われる時代となっています。日本では、死刑の存続を支持する意見がかなり多い一方、死刑を廃止する国も多く、ポルトガル、オランダ、スイス、ノルウェー、スウェーデン、メキシコ、デンマーク、スペイン、ニュージーランド、イタリア、ドイツ、フィンランド、オーストリア、イギリス、フランスなどです。またアメリカでも、11の州で廃止されています。


死刑を支持する理由としては、死刑という重い刑罰で威嚇することによって犯罪を予防する効果、更生不能な犯罪者について二度と犯罪を犯させないようにする効果、そして、残虐な犯罪に対する応報としての効果が言われています。


上記の3点の理由につき、実際最もネックになっているのは、最後の応報としての効果ではないでしょうか。残虐な事件については、死刑という刑罰をもってしなくては、遺族、社会も納得せず、正義は果たされない。そういった考え方が、一番死刑の存在を支えているように思います。


しかし、遺族の気持ち、社会の感情、そして社会正義、これらは、一概にこうだと言ってしまえるような単純なものではないように思えます。人はそれぞれ、異なる価値観を持ち、様々なことを思い、感じ、それぞれの人生を生きています。死刑をめぐる感情も、深く考察すれば、もっと複雑かつ多様なのではないでしょうか。


これに関して、非常に有意義な本があります。 坂上香『癒しと和解への旅―犯罪被害者と死刑囚の家族たち』というものです。この本は、アメリカで行われている、犯罪被害者の遺族と死刑囚の家族とが一緒になって死刑廃止を訴える「ジャーニー」というイベントを中心に、それに関わる人たちの思いや生き方が描かれたものです。巧みかつ謙虚な描写により、その人々と交流した著者の見聞きしたこと感じたことが、とてもよく伝わってくる気がします。


犯罪被害者の遺族、あるいは死刑囚の家族といっても、感じ方、考え方、生き方はそれぞれであり、単純には割り切れないことがよく分かります。また、この本は、基本的に死刑反対の立場で書かれているようですが、死刑を支持する立場にも配慮がなされており、死刑肯定派の方が読んでも、有意義な本ではないかと思います。


死刑の存廃は、賛成反対それぞれの立場がしのぎを削る激しい論点ですが、それはさておき、まさにそれに人生を左右された人々の思いを、謙虚な気持ちでまっすぐに見つめることの大切さを教えてくれる本であるように思います。


坂上 香
癒しと和解への旅―犯罪被害者と死刑囚の家族たち