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“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

民主党新代表の前原氏が、憲法9条改正、集団的自衛権行使容認派であることについての問題点は、若干触れました。今回、それについてもう少し、読売新聞の社説と絡めて書きたいと思います。


前原氏が、安全保障に関して自民党と同様の考えをもつことについて、読売新聞9月22日の社説は、この「基本認識の共有」により、「憲法や、最も重要な基本政策である安全保障を、与野党が大きな枠組みで推進する環境が整ってきたのではないか」と賞賛しています。


しかし、これは、誰の共通認識なのでしょうか。


前にも触れたとおり、少なくとも集団的自衛権行使については、国民に共通認識があるとは言えません。読売自身が実施した世論調査により、若干ながら集団的自衛権行使反対派が賛成派を上回ったことからも、また、イラク戦争、イラクへの自衛隊派遣についての世論動向からも、この自民・民主の共通認識は、国民の意識とは大きく食い違っているといえるのではないかと思います。


国民の認識とはあまりにも食い違う与野党の共通認識とは、何なのでしょうか。結局、集団的自衛権行使容認の与野党共通認識の存在とは、今回の衆議院議員選挙の結果とともに、政治において、国民世論の反映という重大な部分に大きな欠陥があることを示すものなのではないでしょうか。


「『国の形』を定める憲法や、最も重要な基本政策である安全保障」について、国会がこうも世論から離れている状態で、読売の言うように「2大政党による建設的で実りある憲法と安保政策の議論ができる」と、本当に言えるのか、疑問に思えてなりません。

国勢調査をめぐる状況に、今の日本というものが反映されているような気がいたします。


質問事項や調査方法など、プライバシーに関わる問題点を、どれほどの人が感じているでしょう。


他方で、調査を拒否する人も多いとのことですが、国勢調査への回答は義務とされており、もはや死文化しているとはいえ「6箇月以下の懲役もしくは禁錮又は10万円以下の罰金」という罰則が定められていることを、どれほどの人が認識しているでしょうか。


日本に居住する者すべてが対象として義務付けられる大イベントにしては、国全体に問題意識がなさすぎるようにも思います。


日本は今、重大な転機を迎えています。今後、何度も重大な決断をしなければならないでしょう。その決断が、政府、国会、国民に何の問題意識のないままなされることほど不安なことはありません。

前回の記事で、小泉首相につき、「自分のプライド・名声が優先」という要素が強いように思えると分析しました。ふと思い、小泉首相というのは、ある面で、今の日本の社会を反映した人間ではないかという考えが頭をよぎりました。


以前、読売新聞の投書欄に、奉仕として近所の掃除をしていたら、「言えば表彰してもらえるんじゃない?」というような冷やかしのようなことを言われ憤慨したという投書が載っていました。「今の社会は、人の親切さえこんな風にしか受け取れないのか」と。


一方で、ボランティア活動への人々の関心は、高いといえるでしょう。参加者、参加経験をもつ人、団体、またボランティア関係のサイトもかなりの数になるように思います。公務員試験等でも、面接でボランティア経験を聞くことが増えてきたようです。


他方、ボランティアに理想を抱き参加した人が、現実とのギャップを感じすぐ辞めてしまうというケースもあるようです。先日も紹介した、香山リカ氏は、『就職がこわい』の中で、こういった、純粋すぎる理想ゆえに現実に過分の抵抗を感じてしまうことも、ニートを増加させる原因のひとつではないかと分析していたと思います。


私は、それとは若干違う角度から考えてみます。上記の投書の事例や、ギャップによるボランティアへの失望の根底には、ボランティア等の活動さえ、個人のステータスととらえてしまう雰囲気があるのではないだろうかと思うのです。だからこそ、嫉妬心から冷やかしたり、思うようなステータスが得られないことへの失望を感じたりしてしまうのではないでしょうか。「プライド・名声」のために改革の舵を取る小泉首相と通じるものがあるように思います。


そもそも、ボランティアの尊さは、どこにあるのでしょうか。私は、純粋な人への思いやりから生まれる奉仕の、まさに「純粋性」(上記の香山氏のいう純粋さとは違ったものだと思いますが)ではないかと思います。そうならば、ボランティアは、誰でも、どこでも、自分の日々の生活の中でもできることではないでしょうか。どんな人でも、どんな立場でも、その純粋な思いやりで行動すれば、等価値のボランティアとは言えないでしょうか。そんな人への思いやりの純粋性こそ、評価されるべきものと思うのです。


ボランティアをステータスとして評価する風潮があれば、人は自分の価値を保ち高めるため、それを得なければという強迫観念に駆られても不思議ではありません。一人一人が、それぞれの立場で行う善行はどれも同じく価値あるボランティアと認識し、ボランティアのその純粋性を評価することもに、それを行うことこそ、本当に世の中を良くしていくのではないでしょうか。

小泉総理の行動パターンについては、様々な分析が出来ると思いますが、やや批判的に見れば、「自分のプライド・名声が優先」という要素が強いように思えます。また、そんな自分の見栄えへの気配りが、劇場型政治での勝利につながったのかもしれません。


構造改革をスローガンとする小泉首相ですが、一番の念願は郵政民営化でした。そして、これは達成となるでしょう。これにより、小泉総理の名は、とりあえず政治史に残ることにはなるように思います。そうである以上、小泉総理が任期を延ばすメリットはないのかもしれません。今後、郵政民営化よりも大きな業績、歴史に名前を残せる業績は期待できないでしょうから。


一時、小泉総理には、もうひとつ歴史に名前を残すべく達成したい業績があったように思います。日朝国交正常化です。これができれば、郵政民営化に引けを取らない業績となったでしょうが、現時点で、もはや現実的な話ではなくなってしまいました。


このような小泉総理の性格からすると、ポスト小泉は、ある程度のカリスマ性を持ち小泉総理の方針を踏襲しつつも、党を落ち着ける意味でも自分のプライドを保つためにも、小泉総理よりは和を重んじあまりにも目立った行動はしない人という気がします。福田康夫前官房長官、麻生太郎総務相では、小泉方針の追い風となるべき国民大衆の支持を集めるカリスマ性という点で疑問があり、そうするとやはり安倍晋三幹事長代理あたりが無難な線かもしれません。


いずれにせよ、私は、ポスト小泉には期待はしておりません。政治の主役は国民であり、世の中をよくするカギは国民が握っているのです。その国民が、劇場型政治の観客としての熱狂の後、眠ってしまっては、政治をいい方向に向かわせる風が吹くことはないでしょう。

近時、自分への固執に悩む人が増えているのではないでしょうか。「自己実現」という言葉が強調され、自分の理想像をむやみに追い求め、それとのギャップに苦しみ、かえって自分を肯定できず何も出来なくなってしまう。そんな状況があるように思います。


自分への執着から苦しみ何も出来ない状況を、夜回り先生として知られている水谷修氏は、「自分病」と呼び、精神科医の香山リカ氏は、確か著書の『就職がこわい』だったかと思いますが、夏目漱石の「我執地獄」という言葉を引用しておりました。


水谷氏は、「もう悩まず、まずは外に出て、誰かに優しさをあげよう」というようなことを、香山氏は「もっと軽い気持ちで」というようなアドバイスをしていたかと思います。


結局、自分の中に自分を探しても、泥沼にはまるだけのような気がします。人は、他者や自然と触れ合うことで幸せになれる生き物ではないかと思うのです。そして、そもそも、一人一人の人間は、他の人々や自然を含めた世界の一部であり、今の自分があるのも、そのおかげと言えるのではないでしょうか。


自分への固執は苦しみを増すだけに思います。自分の今いる場所で、日々の生活で、小さなことでも思いやりをもってやりたいものです。




香山 リカ
就職がこわい

何を信条に生きるかは人それぞれだと思います。私が最近考えているのが、自分をとりまく世界を常に思い、そこから自分のやるべきことを導き出すというものです。


人間は一人では生きられません。自然の中、社会の中、沢山の人々の中、すなわち世界の中で世界に育てられて生きてきました。自分のことに躍起になって生きるより、そういった世界について思いをめぐらし、世界のために何が出来るか考えながら生きていくほうが、気持ちよくいられる気がするのです。


世界について知り、感じることで、自分の世界への働きかけ方、責務が見つかれば幸いです。そういった心持でいられればいいと思います。

今の国会の状況が、ゲームのように見えて仕方ありません。どうやって勢力を伸ばし、政権を維持ないし奪取し、自分の望む政策を通すか、そればかりを目標にしたゲームのようです。


小泉自民党は、政策の妥当性よりも、単純明快で感情面に訴えるアピールにより選挙に大勝しました。前にも書きましたが、小泉自民党の方針や政策自体が実際どれほど支持されているのかは、必ずしもはっきりしません。


そして、前原氏のもと再スタートする民主党ですが、民主党の建直しや躍進ばかりが目標とされ、日本をどのようにしていきたいのか、世の中のために何をしてくれるのかがよく分かりません。


このような状況で、国会が適切に世論をすくい上げ、国民の福祉を真に考えた政策が実現されるでしょうか。


例を挙げます。自民党は憲法改正により集団的自衛権の行使を認めることに前向きです。そして、前原氏もその点は同じようです。反対の人間も民主党内に少なからずいることが考えられるので単純にはいえないかもしれませんが、衆院480議席中、自民296議席+民主113議席=409議席が集団的自衛権行使に前向きという想定もできるでしょう。では、世論もそうなのでしょうか。


以前読売新聞が実施した世論調査では、集団的自衛権行使賛成30%に対して反対32%と若干ながら反対が上回っていた記憶があります。読売は改憲を主張する新聞で、そこの世論調査では、他紙と比べても改憲の%が高い印象があるのですが、それでも、このような結果が出たのです。少なくとも、409/480=85.2%の賛成という状況では決してないと言えるでしょう。


果たして今後、政治はどのように動いてゆくのか、期待よりも不安のほうがはるかい大きい状況ですが、市民の一人として冷静な目で見ていきたいと思います。

昨日、「日本の歴史」という番組があり、興味深く見ましたが、織田信長の最期である本能寺の変についても、当然のことながら取り上げられていました。


「あの時、信長が死ななかったら、日本の歴史は・・・」という考えは、多くの人が一度くらい抱いたことがあるのではないでしょうか。


歴史のif(もし~だったら)を語っても仕方ないと言います。私は、この信長に関しては、このことはより強く言えるのではないかと思います。


感覚的なことで恐縮ですが、信長は、あの時点で死ぬ運命にあったのではないかと思えるのです。なるべくしてなったという歴史の必然ということが言われることもままありますが、これもそうだったのではないでしょうか。歴史においての信長の使命は、あの時点で終わっていたように感じます。


今回は、感覚的で何の根拠もない話でした。

最近では、競争教育かゆとり教育かという論議をよく聞きます。しかし、ふと疑問に思いました。ゆとり教育はまだしも、競争教育とはどのような教育を意味しているのでしょうか。


「競争」の要素を取り入れた教育でしょうか? それでは、どの程度どのように取り入れるかしだいで、内容が全く変わってしまいます。これでは、どのような教育なのか具体的には分かりません。


競争教育肯定派ないしは否定派が、競争教育をどのような意味合いでとらえているのかは分かりません。しかし、もし、競争教育を「競争で勝つことを最重要の目標とした教育」とするのなら、とうてい競争教育に賛成など出来ません。


競争は、競う合うことでそれぞれ切磋琢磨し、自分をそして社会を活性化する要素にもなりえます。そして、それこそ競争の要素を取り入れる意義だと思います。逆にいえば、このような趣旨に反する形での競争の取り入れは、有害無益というべきでしょう。


相手を蹴落とし自分が勝者となるという価値観を根本に据えたとしたら、どうなるでしょうか。自分も他人も傷つけ、社会も活性化などするわけがありません。


競争教育かゆとり教育かという論争がすでに役割を終えているような気がします。まずは、子供たちと子供たちが将来作る社会が幸福なものとなるような人間教育をしっかりとし、その手段あるいは上乗せとして、様々な要素を取り入れていくべきでしょう。その中には競争の要素も含まれているかもしれません。問題は、どれをどのような形で行うのがよいのかを深く考えることであり、そういう時期になりつつあるのではないかとも思います。

衆議院議員選挙は、ご存知の通り自民党の圧勝となりました。しかし、この状況は、喜ぶべきことなのか、むしろ悲観的な要素が強い気がします。


悲観的な要素としては、二つの点を挙げることが出来ましょう。ひとつは、自民党勢力の強大化した中での政治の方向、そしてふたつめは、政治をめぐる国民意識のあり方です。


まず、ひとつめですが、自民圧勝の下、当然郵政民営化はなされるでしょう。これは国民の多くが支持したこと、それはそれでいいかもしれません。しかし、多くの人が指摘するように、政治課題は山積しています。今回の選挙で自民党は郵政のみに争点を絞って戦い勝ちました。よって、小泉流改革が、全ての分野において今回の選挙で支持されたわけではないといえます。しかし、この状況では、自民党が、他の分野でも、やろうと思えば、自民党が望む改革を押し切れる可能性が高いでしょう。小泉流改革の基本的な流れは、悪く言えば、極端な話、弱者切捨てによる効率化にもつながりかねません。今後の動向が気になるところです。


ふたつめは、今回のような結果を導いた国民の投票行動です。さて、現在の政治状況下で、自民党は大勝できる、大勝すべき政党だったのでしょうか。確かに、民主党はやや頼りなく、代わる政党もないのなら、自民が勝つことはあったにせよ、ここまで実際支持されてよいものでしょうか。そんなに、自民党は評価され期待されているのでしょうか。


今回の自民党大勝の理由として、小泉純一郎のカリスマと主張のわかりやすさが挙げられています。しかし、この理由から大勝したとすると、これも微妙なところです。個人のカリスマが政治をよい方向へ向かわせるとは限りません。また、確かに主張が分かりやすいに越したことはありませんが、本当に現実の問題が、そんなに分かりやすい単純な方法で解決されるのでしょうか。分かりやすい主張が、実際良い主張であるともいえないでしょう。すると極論、今回の大勝について、自民党の主張内容や実績がどれほど考慮されているのかという不安も感じます。


小泉首相の解散に端を発し、造反・刺客といった言葉が踊り、多くの国民を投票に向かわせた今回の劇場型選挙ですが、今後に不安を残すものです。国民は、劇場型政治の単なる観客ではありませんし、あってはなりません。国民は、選挙を通じて国のあり方を決める権利があり、それはやがて自分に返ってきます。国政のあり方を自分たちが決めるというプライドを持って、政治を考えるところから始める必要があるように思います。