“迷い”と“願い”の街角で -39ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

http://www.sanspo.com/sokuho/0908sokuho045.html


このような記事がありました。どのようにお考えになるでしょうか。


車掌が電車内で携帯電話を使う人を注意しないのが気に入らずに、ダイナマイトに似せた物を7本、紙袋に入れ電車2両目のトイレに置いたというのですが、何とも微妙な構図です。


私は、これを見て、マナーというものを問い直す必要があるのではないかと感じました。


電車内での携帯電話の使用はマナー違反でしょう。車掌も注意すべきだったのかもしれません。しかし、それに憤慨して行われたこの行為は、より悪質です。マナー違反への憤慨で犯罪を行うというのは、一体どういうことなのでしょうか。


思うのですが、マナーというものが、自分の都合だけを基準に考えられてはいないでしょうか。自分が迷惑するから、マナー違反が許せない、という感覚が広がってはいないでしょうか。


マナーは、皆が皆のために守るものだと思います。決して、自分が気に入らないことを攻撃する口実としてあるのではないでしょう。それを履き違えると、今回のようなおかしなことになるようにも思えます。


マナーやルール、守られるべきものです。しかし、それは皆が幸せであるためのものです。まずはわが身を振り返り、自分のなすべきことを冷静に問わねばならないでしょう。

さて、「広島・昭和20年8月6日」を見て思う二つの示唆のふたつめです。


一人一人の市民などの目から戦争を描いているという点が顕著で、登場人物の生き方、生き様をかなり念入りに描いているという点を特徴として挙げましたが、これにより、イデオロギー対立を超えた反戦の訴えをすることができる可能性があるように思うのです。


現在の日本、特に昨今では、平和の主張=左翼という図式がやや強固に定着しつつあります。これは、戦後日本において、反戦平和運動が、主に左翼勢力を中心に行われてきたと同時に、左翼勢力の中心的主張が特に現在では、この反戦平和にあるからのように思えます。


しかし、このことは、ある深刻な事態を呼び起こしているように思えます。ありとあらゆる反戦・平和の訴えを左翼イデオロギーの主張として、排斥される可能性です。極端な話、反戦平和にとどまらず、人権や人間、命の尊厳を語ることさえ、左翼と一蹴されてしまうこともありうるでしょう。


ですが、人間の生命の尊厳、平和に生き幸福に暮らすことの大切さは、少なくとも単純なイデオロギーのひとつではなく、普遍的な価値を持つもののように思えます。政治的イデオロギーを通してでなく、出来る限り純粋にこれらの価値を語ること、それが今大きく欠けていると同時に最も求められているのではないでしょうか。


では、出来る限りイデオロギーを排して生命の尊厳を語るにはどうしたらよいのでしょうか。ひとつの答えが、この「広島・昭和20年8月6日」をはじめとしたドラマがよく使う、一人一人の市民などの視点ではないかと思います。誰もが送るような普通の日々を生きる人間の視点から描くことで、政治的対立を介せず、その価値をとらえることが、少なからず可能となりうるのではないでしょうか。

前回紹介した「広島・昭和20年8月6日」を見て思う二つの示唆のうちのひとつめですが、登場人物の生き方、生き様をかなり念入りに描くことで、死を、それまで歩んできた人生の断絶と見て、その重さをとらえる点です。


毎日ニュースでは誰かが亡くなったという話を必ず聞きます。しかし、そこから死の重さを感じ取ることは容易ではありません。


亡くなった人たちには、それぞれ、生きていた時間、人生というかけがえのない時間がありました。それぞれ、泣き、笑い、考え、思い、生きてきた時間がありました。それが、「死」によって断絶するのです。今まで歩んできた人生が、「死」をもって途切れてしまうのです。


生きていた時間、それが「死」によって断絶する、生きていたらさらに流れるはずだった時間は、そこで止まります。そんな時間の重さこそ「死」の重さのようにも思えます。


亡くなった人、それぞれの人生、それぞれの時間。その重さを感じ取ることは容易ではありません。しかし、少しでも理解する試みは不可欠だと思います。


そういった観点から、非常に興味深いイベントがあります。「生命(いのち)のメッセージ展」というものです。それぞれの人生、時間、死の重さをほんの少しでも理解する一助になってくれると思います。

http://www.inochi-message.com/

先日、TBSで「広島・昭和20年8月6日」というドラマをやっていました。非常に出来のいいものだったように思います。


さて、戦後60年ということもあり、戦争を扱ったドキュメンタリーやドラマをよく目にします。そして、特にドラマついて、この「広島・昭和20年8月6日」もそうなのですが、思うところがあります。それは、一人一人の市民などの目から戦争を描いているという点が顕著で、登場人物の生き方、生き様をかなり念入りに描いているところです。


ここから、考えることの出来る点は二つあるのではないでしょうか。


ひとつめは、死を、それまで歩んできた人生の断絶と見て、その重さをとらえる点です。


ふたつめは、イデオロギー対立を超えた反戦の考えの可能性です。


今日はここまでとして、そのふたつを、次回と次々回に書きたいと思います。

南京大虐殺については、周知の事項であると思いますが、依然、南京大虐殺が実際にあったか、なかったかが問題となり、議論されております。


私自身に判断は出来ません。資料もなければ、専門的に研究したわけでもありません。


しかし、不謹慎に思われるかもしれませんが、私には、南京大虐殺の有無は、そこまで重要な問題には思えません。なぜなら、戦争というのはそもそも、多くの人命を奪う行為です。先の戦争では、どれだけの命が失われたか。南京大虐殺の有無に関わらず、戦争のもたらす悲劇に変わりはありません。南京大虐殺の有無ばかりに拘泥しすぎると、本質的なことを見失う恐れがあると思います。


命の尊さ、戦争のもたらすもの、そういった重いテーマと直接に向き合う必要があるのではないでしょうか。

古代エジプトにおいてエジプト人とはどういう人とされていたのでしょうか。


エジプト人とは、「ナイル川の水を飲む人」だったそうです。古代エジプトにおいては、人種というものにさほどこだわりがなかったようです。


今日、民族紛争や国籍の問題をよく耳にします。先日も、東京都の管理職試験において、国籍の有無が問題とされました。そして、判決を支持する論評において、国民主権のもと国籍を非常に重視する意見が見られました。


国籍の重視も、法理論的には当然といえるかもしえません。そして、無数の国民国家からなる現代の国際情勢は決して簡単なことでは割り切れません。


しかし、数千年前のエジプトにおける、人種を問わずナイルの川の水を飲む人はエジプト人だという明快な発想、そんな発想を少なくとも、心のどこかにはおいておきたいものだと思います。

バッシングという言葉と同時に耳慣れたのが「自己責任」でしょう。


ところで、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050818-00000401-yom-soci によると、この度、横浜市教育委員会が、「児童や生徒が学校の窓ガラスやドアなどを故意に破損させた場合、原則として保護者らに修繕費用の負担を求めることを決めた」そうです。理由は、「自己責任を認識させ、規範意識を育てるのが狙い」とのことです。


従来は、多くの小・中学校では、児童・生徒や保護者らに負担を求めていなかったようです。


どう思われるでしょうか。むしろ、保護者に弁償させることが当然といえるかもしれません。しかし同時に、子供の行為の全てにつき、親が悪いとも言えないような気もします。


しかし、私が気になったのは、横浜市教委の「自己責任を認識させ、規範意識を育てるのが狙い」という説明です。


いかがでしょう。親に弁償させれば、子供に「自己責任を認識させ、規範意識を育てる」ことになるのでしょうか。「事務的に弁済を求めるのではなく、家庭との連携を図りながら児童・生徒に自覚を促していきたい」とは言っておりますが、弁償自体が非常に事務的な手段であり、子供の自己責任や規範意識の自覚を目的とするなら、他にやるべきことはあるように思います。


法律上も、子供の不法行為の責任を親が負う制度があり、親に責任ありと認められる場合には、親に賠償を請求するのも当然といえる場合があるでしょう。しかし、それに、子供に「自己責任を認識させ、規範意識を育てる」効果を期待するのは無理があるように思えます。


どうも、「自己責任」という言葉を都合よく使っている気がしてなりません。「自己責任」という言葉は、「お前の自己責任だ、私の責任ではない」といった形で、自分の責任を免れる手段ともなりえます。


子供の問題行動に、いかにして立ち向かうのか。何が子供にとって、子供の将来にとって一番よいことなのか。子供にはこの国の、世界の未来がかかっています。親、教師、行政は必死に考えなくてはならないでしょう。容易なことではありません。しかし、やらなければなりません。「自己責任」という簡単な言葉のもと、親への賠償請求という簡単な手段だけで済ましてほしくはないものです。

現代社会では、確実に心の荒廃といったものが進んでいると思います。


私の通っていた高校は、都立高校でしたが、当時の学区制のもと、トップとはいかないまでも学区2番手につく高校でした。集まってくるのも基本的には問題のない「いい人」たちでした。


先日、担任だった先生に会いに行ったところ、信じ難い話を聞きました。「いい人」の高校、1人でも留年を出せば大問題だった高校のはずが、荒れてしまい、かなりの留年(自主退学等も含まれていると思いますが)を出してしまったというのです。


「君たちのころが、この高校の黄金期だった。もうこの高校は伸びない」


もうこの高校から転出するその元担任の先生の言葉に、何ともやりきれないものを感じました。


心の荒廃というと、心の教育や、場合によっては愛国心教育が主張されることがあります。こういった深刻な問題を、もっけの幸いと利用し自身の政治的主張押し通すことだけはやめていただきたいと思いますが、いずれにせよ、こういった文脈での「教育」で問題の解決は見込めないと思います。


内容が何であれ、教科書を使って教師が授業をするような「勉強」では、やり方にもよるかもしれませんが、心の豊かさをはぐくむことなど出来ないでしょう。出来たとしても、それは教師がよほどの人だからだと思います。


心をはぐくむのは、「実感」ではないでしょうか。人との交流、自然との接触、そういったことから得られる言葉にならない実感こそが、心を育むものであり、同時に現代社会に不足しているもののように思えます。

扶桑社の「新しい歴史教科書」問題は、今なお続いています。最近では、杉並区の教育委員会が採択を決定したようです。その際には、採択賛成の委員からは「日本民族としての意識高揚のため有益」、反対の委員からは「戦争賛美の教科書」といったような意見が出たようです。


この問題、もはや、戦前戦中の記述の是非というレベルでは議論の仕様がなくなっているのではないでしょうか。というのも、気になるのが、賛成派の「日本民族としての意識高揚」といったあたりのくだりです。民族意識の高揚それ自体にも問題はあると思いますが、教育との関係で、もっと深い考察が必要とされていることがうかがえるのです。


そもそも、歴史教育とは何のためになされるのでしょうか。いえ、歴史とは、何のために研究され学ばれているのでしょうか。愛国心や民族意識の高揚が歴史研究の目的なのでしょうか。歴史を学ぶ意義、それ自体を議論しない限り、この教科書問題は表面的な水掛論争になってしまう危険があるように思います。


色々意見もあるでしょうが、歴史を学ぶ主たる目的は純粋に歴史の中で起きてきた出来事などを知識として吸収することでしょう。もしそうなら、「素晴らしい」教科書など期待しないことだと思います。純粋な事実の記述にすぎないなら、分かりやすさや読みやすさなどで「出来がいい」ものはあっても、価値判断の伴う「素晴らしい」教科書などは、あまり考えられません。事実認識において激しい衝突があるなら、いっそのこと記述を外すか両論併記にしておくのが無難でしょう。


話を戻しますが、教科書問題がこじれたままになっているひとつの原因が、この歴史教育の意義の議論がないことだと思うのです。そこにギャップがあるから、いくら表面的な議論をしても有益な結果が伴わないのではないでしょうか。望む教科書を「とにかく採択させてしまえ」では、それこそ有害無益であり、教育現場を混乱させるのみです。教科書問題を、教育や教師、生徒までを巻き込んだ政治闘争にしてはならないでしょう。

バッシングという言葉に耳慣れた感があります。社会不安や先行き不透明な現状への不満も一因かもしれません。


バッシングに限らず、昨今、自分とは考え方の違うものに対する強権的な態度が目に付くような気がします。小泉首相の衆議院解散にも、若干そのような要素が見られるのではないでしょうか。


私は、愛国心問題に関心があり、いずれ詳しく書きたいと思いますが、最近有名なところでは、教育委員会による国旗・国歌の問題や扶桑社の「新しい歴史教科書」の問題があります。


これらの問題についての教育委員会のやり方は、愛国心教育を肯定するとしても、私は問題があるものと思っています。思想や意見の相違の問題を、乱暴に取り扱いすぎだと思うのです。自分と意見の違う人間を無理やりねじ伏せて、見かけだけ強引に目的を達成したところで、何ら価値あるものは生まれません。問題をまっすぐに見つめ、相違する意見と議論を深めることなしには、進歩などありえません。


今の日本は、相違する意見と向き合う姿勢が欠けているように思えます。それが、自分とは考え方の違うものに対する強権的な態度へとつながっているように思えます。


まずは、相違する意見の人間と、共通する認識や価値観を見つけることが重要だと思います。そこから、どこに考え方、認識の違いがあるのかを冷静に分析すべきです。共通の土台の上にたってこそ、相違する意見を認め合うとともに、その議論に価値が生まれ、より高い見識へと人間をいざなってくれるように思うのです。