人生という時間と死の重さ~「広島・昭和20年8月6日」を見て思う二つの示唆②~ | “迷い”と“願い”の街角で

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確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

前回紹介した「広島・昭和20年8月6日」を見て思う二つの示唆のうちのひとつめですが、登場人物の生き方、生き様をかなり念入りに描くことで、死を、それまで歩んできた人生の断絶と見て、その重さをとらえる点です。


毎日ニュースでは誰かが亡くなったという話を必ず聞きます。しかし、そこから死の重さを感じ取ることは容易ではありません。


亡くなった人たちには、それぞれ、生きていた時間、人生というかけがえのない時間がありました。それぞれ、泣き、笑い、考え、思い、生きてきた時間がありました。それが、「死」によって断絶するのです。今まで歩んできた人生が、「死」をもって途切れてしまうのです。


生きていた時間、それが「死」によって断絶する、生きていたらさらに流れるはずだった時間は、そこで止まります。そんな時間の重さこそ「死」の重さのようにも思えます。


亡くなった人、それぞれの人生、それぞれの時間。その重さを感じ取ることは容易ではありません。しかし、少しでも理解する試みは不可欠だと思います。


そういった観点から、非常に興味深いイベントがあります。「生命(いのち)のメッセージ展」というものです。それぞれの人生、時間、死の重さをほんの少しでも理解する一助になってくれると思います。

http://www.inochi-message.com/