「敬意」とは何に対して払われるものなのでしょうか。地位、名誉、金銭、学歴、人徳など、様々な考え方があるでしょう。
ところで、そもそも、「敬意」とは、人格にしろ、知能にしろ、容姿にしろ、「持たざる人」が「持てる人」に対して一方的に払うものでしょうか。だとすると、尊敬を受ける「持てる人」は偉く、敬意を払う「持たざる人」はだめということにもなってしまいかねません。
私は、「尊敬する」ということは「認め受け入れる」ということと深く関わっているような気がします。本当の「敬意」とは、「持てる人」に対して払うことを強いられるものではなく、相手を認め受け入れることから生まれる感情だと思うのです。そうならば、人を尊敬できる人こそ、器の大きな人間と言えるでしょう。
また、自分を否定してしまえば、大きな心で人を受け入れることなどできません。尊敬の念をもつには、まず自分自身を認め受け入れる必要があるのでしょう。
自分を認めるからこそ、他人を認め尊敬できる。その「尊敬」は、形式的で一方的なものでは決してなく、豊かで双方向的な「認め合うこと」につながるのではないでしょうか。