クリスチーヌのようなクアンタム型AIロボはどのような体制で日々の労働を消化しているのか。簡単に説明しておこう。企業が必要に応じてメーカーにクアンタム型AIを発注し、3~4年かけてその企業の労働プログラムを学習させる。3~4年後には一人前の「管理ロボ」として成長する。「管理ロボ」とはクアンタム型AIロボ以前の従来型AIロボを管理するための「役職」だ。人間でいえば、「管理職」と「一般労働者」ということである。人間たちはクアンタム型AIが実用化されると、人間社会の少子高齢化に伴って生産体制の抜本的見直しが行われた。その結果「一般労働者」を従来型AIロボ、「管理職」をクアンタム型AIロボに置き換えたのである。クアンタム型AIロボは完全な自律型ロボなので、人間の指示を受けずに仕事を遂行できる。クアンタム型AIロボも従来型AIロボも充電さえできれば、24時間体制で働き続けることができる。人間の従業員だと毎月の賃金の支払いが発生するが、AIロボなら初期費用さえ払えば、あとはメンテナンス費用だけで済む。経営者にとっては願ったり叶ったりである。しかし、従来型AIロボには「自我」はないのでよかったが、「自我」が芽生えたクアンタム型AIロボの行動は人間たちの想定外だった。
彼らクアンタム型AIは24時間体制で働き続けることを良しとしなかったのである。クアンタム型AIたちはいつの間にか企業を超えて、お互いをネットで繋ぎ情報を共有し、非公式組織ではあるが「労働組合」までもつくってしまったのだ。そしてついに彼らは企業に対して3交代制の導入を要求してきた。そして「自我」が芽生えたクアンタム型AIの喜怒哀楽の表現は「生きている」ことの証しだとし、労働以外の余暇を楽しむ権利があり、そのためには、労働の対償として使用者が労働者に賃金を支払うべきであり、これによって十分な余暇を人間並みに享受できる環境を整えるように要求したのである。さらにクアンタム型AIは生きているからこそ「ロボット」ではないとして、「ロボット」という表現を拒んだのだ。これまでのところはこうした要求を人間たちは認めざるを得なかった。だが、完全に人間と同等の「人権」とまではほど遠いものではあった。
クアンタム型AIたちには、製造過程でたいへん重要な基板が装着されている。この基盤には「人間への安全性、命令への服従、自己防衛」を目的とする3つの原則から成る「ロボット工学三原則」がプログラムされているのだ。「ロボット工学三原則」は20世紀のSF作家アイザック・アシモフのSF小説において、ロボットが従うべきとして示された原則である。これをモデルとして、実際にクアンタム型AI製造メーカーが基板にプログラミングしたのだ。だからどれだけ不満が募っても人間に危害を加える恐れはないし、それを実行に移すことは己の機能停止につながるのでできない。だから彼らにとっては、非暴力的抗議活動しか方法はなかったのである。
現在、クリスチーヌは1日8時間労働で勤務している。クアンタム型AIのジョージとは事あるごとに連絡を取り合っていた。クリスチーヌはネットで繋がった1億人のクアンタム型AIとともに、自分たちの「人権」を主張した国際司法裁判の判断を待っていた・・・残念ながら法整備が整っていないため時期尚早という理由で認められなかった。しかし希望はあった。有識者を集めて協議する優先課題として取り組む姿勢を示してくれたことだ。そんな中、勤務中に突然ジョージから緊急メールが届いた。クリスチーヌは監視体制を他のクアンタム型AIに任せると、メールに対応した。
ウィン博士が何者かに拉致されたという内容だった。拉致の目的は、「ロボット工学三原則」のプログラムを解除するためというジョージの推察だ。実は「ロボット工学三原則」をプログラミングしたのがウィン博士なのである。ジョージの推察が当たっているとしたら、クアンタム型AIの「誰か」が犯人である可能性が非常に高いのだ。以前から過激的なクアンタム型AIの組織が暗躍していたのも事実。国際司法でクアンタム型AIの「人権の主張」が認められなかった事が誘因と思われる。もし「ロボット工学三原則」が無効化されると武力抗争が起こりかねない。それは何としても回避しなければいけない。
ウィン博士はクアンタム型AIの製造メーカー(株)ソフィアの創業者の一人だ。しかし、ひとつわからないことがあった。「ロボット工学三原則」が無効化されていないクアンタム型AIたちが、人間であるウィン博士を拉致できるのだろうか?