ホスピス、緩和ケア 自分史⑦ | ハッピーライフクリエイター ナースセラピストにゃおこのブログ

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みなさまこんにちはニコニコ

 

健やかで心地よい暮らしを提案するナースセラピストにゃおですニコニコ

 

自分史続きます。

 

 

 

ターミナルケアを学びたい!

 

母の体調も落ち着き

 

やっぱりターミナルケアやりたい!と思い立った私は東京へ行くことにしました。

 

ちょうどこのころは

 

山崎章郎先生の【病院で死ぬということ】という本が出版された後でもあり

(初版が1996年。私が東京に行ったのは1999年)

 

ホスピス病棟も広く知れ渡り

 

患者さんだけでなく、ナースにとってもホスピス病棟は《待ち》状態でした。

 

そのため外科整形外科混合の病棟に配属されます。

 

外科系の方が多く、ホスピス待ちしている患者さんもいらっしゃいました。

 

なので、一般の外科病棟に比べると、

 

何が何でも手術、という方は少なく、

 

働く看護師同士も目的が同じの人が多く、

 

とても楽しくて働きやすい職場でした。

 

一般病棟でもある程度ターミナルケアに関わることが出来ていたのです。

 

 

 

ホスピスでしかホスピスケアは出来ないのか?

 

約2年、一般病棟経験してから、ホスピスへ、という流れがあったのですが

 

ホスピス病棟は研修も多く、休みの日も出てくることが多いと聞いて

 

私、そこまでかけてまで本当に行きたいのだろうか、、、と迷いが出てくるようになりました。

 

患者さんがより良い最期、出来るだけ本人の望む最期を迎えられるようにケアしたい、という想いはあれど

 

本当に自分にそんなことが出来るのか??

 

と思うようになりました。

 

 

そんなころ、

 

ホスピス病棟待ちだった患者さんのケアを病棟でしていました。

 

そしてその方の意識があまりなくなった時点で、

 

空きが出たのでどうぞ、とホスピスから声がかかりました。

 

奥様は、ここでも良くしてもらってたからどうかなと思うのだけど、

主人も望んでここに来たのだから、、、と

 

ホスピス病棟に行くことになりました。

 

それから2,3日して亡くなられたのですが、

 

最期は看護師さんも先生も間に合わず一人だったの、と言われたんですね。

 

 

夜間は特に人員も少なくなりますし、

 

同じタイミングでほかの方に呼ばれると、なかなか別の方のところに向かうことはできません。

 

ある意味仕方ないと言えばそうなのですが、、、

 

 

奥様に

 

こちら(の病棟)でも本当に良くしていただいたから主人は幸せだったと思います

 

と言われ、

 

 

患者さんの最期を本人が望むように過ごす、ということが

 

ホスピスでしか出来ないって、おかしくないか??

 

と思うようになってしまったのです。

 

 

西洋医学の標準治療とされる

 

手術、放射線療法、抗がん剤

 

まだまだ一般的にはそういうところが多く、

 

治療しないと診療報酬で収入が入ってこない、という理由もありますが。。。

 

 

 

自分の中には違和感が溜まるようになってしまいました。

 

 

そして

 

私、ホスピス向いてないかも、、、と辞める決意をします。

 

次、呼ばれるはずだったのに。。。

 

 

やりたいと思ってたけど、挫折した、という何とも言えない自己嫌悪感に陥りました。

 

 

やりたいことが分からなくなってしまって

 

自分がどうしたいのか側からなくなってしまっていました。

 

 

迷走する日々

 

私は仕事を辞める理由の一つとして

 

そのころ放送大学で心理学を学んでいたので、

 

仕事を辞めた後は、夜間専門看護のパートで働くことにしました。

 

このころは夜勤専門も、準夜と深夜に分かれており、

 

準夜は16:15~1:00 深夜は0:15~9:00でした。(各1時間の休憩あり)

 

病棟勤務の時は早めに出勤して情報収集しなくてはいけなかったので

 

これよりも15~30分くらい前に出勤していました。真面目アップゲッソリ

 

 

私は生活のリズムが崩れるのが嫌だったので、

 

深夜専門にしてもらいました。

 

 

そのころの生活は

 

仕事終わり朝9:30頃には近くの放送大学の校舎に行って、

 

お昼頃まで頑張ってその後帰宅。

 

それからご飯食べたりお風呂入ったり自由時間で、15:00~21:00まで就寝。

 

その後起きて色々準備して23:00~23:30の間に家を出て仕事へ行く、という生活をしていました。

 

 

そのころは中央線の阿佐ヶ谷に住んでいたし、

 

夜勤専門の病院は三宿のあたりにあったので渋谷や中目黒から歩いたりできる距離で。

 

そのうちかわいい50㏄バイクTOMOSを購入し、楽しく生活していました。

 

夜勤専門なので月15日も働けば職場の社会保険にも入れたし、

 

夜勤専門しながら、単発で夜勤バイト入れたりしていたので

 

生活に困らない給料も得ることが出来ていました。

 

 

楽しく生活している反面、

 

私は何者なんだろう??何がしたいんだろう??

 

 

もうアラサーなのに、このままでいいのかな??という焦りもありました。

 

(アラサーという呼び名はこのころには無かったけどニヤニヤ

 

 

漠然と結婚は30歳過ぎてからでいいや、って思っていたけど、

 

決心もつかず、結局別れてしまったり。。。

 

 

今思えば、

 

どうでも良いことや、その場の楽しいことのみに現を抜かし、

 

見なきゃいけない部分にはふたをしていたんだろうな、って感じます。

 

 

夜間専門看護が1年も経ったころ

 

再び名古屋へ戻ることになります。

 

 

続きは次回

 

 

 


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◇◇◇自分史◇◇◇
幸せだった幼少期 自分史①
暗黒の時代 自分史②
やっと解放された時代 自分史③
看護師、やりたいんだったっけ? 自分史④
外へ外へ 自分史⑤

 

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