暗黒の時代 自分史② | ハッピーライフクリエイター ナースセラピストにゃおこのブログ

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こちらの続きですニコニコ

幸せだった幼少期 自分史①

 

https://ameblo.jp/nursetherapistnyao/entry-12689111053.html

 

自殺願望


前回に少し書きましたが、

 

小学校5年生頃から自殺願望がありました。

 

私なんていなくて大丈夫

 

という思いが常にありました。

 

学校も楽しいと思えないし、学年にも馴染めないし、つまらない。

 

この先楽しいことあるんだろうか。

 

そんな思いは中学校になっても続きます。

 

 

田舎というのは基本小学校から中学校はそのまま持ち上がりです。

(何なら保育園から笑い泣き

私立の幼稚園や小学校、中学校はありません。)

 

中学生になっても同じような人間関係は続きます。

 

そして中学生になると、面倒くさい先輩が出てきます。

 

先輩に目を付けられるのはどちらかというと目立つグループの人たちなのですが

 

私の場合は理不尽に「○○○(姉)の妹だからってエラそうなんだよ」と言われたりねゲッソリ

 

中学校に入ると強制的に部活動に入らなくてはいけなくて

(中学生には帰宅部なんて概念は無い)

 

なんとなくバスケ部に入ったけど、スタメンになるほどの熱意も無く。

(運動の習慣があったのは良いけどね)

 

書きながらも嫌になるのですが、

 

とことん自分に自信が無く、卑下しまくり、

自己肯定感なんて皆無でした。

 

 

 

 

私は生きていかなくちゃいけないんだ

 

それでも表面上はそれなりに楽しく過ごしていたと思います。

 

休み時間とかは雑談する友達はいたし、

 

仲良くしてくれる友人もいた。

 

軟式テニスの壁打ちとかして遊んだり。

 

 

家では相変わらず、父は夜遅く、母はいつもいら立っているように感じました。

 

それでも父はお昼休憩は自宅に戻って少し休んでからまた出かける、という感じが多かったので

 

たまに早退すると笑い泣き父に会えました。

 

何を話すとかも無いんですけどね。

 

今思うともっと話しておけば良かったな。。。

 

 

中学3年生の5月28日。

 

いつものようにテニスの壁打ちをして遊んでいました。

 

でも何となく違和感を感じていました。

 

胸騒ぎというのか、虫の知らせというのか。

 

 

この頃はすっかり鍵っこだったので、家に帰るのはたいてい中学生の私が一番でした。

 

家に帰ってからも、家の違和感を感じました。

 

何かをふき取ったような跡。

 

なんとなくの違和感を感じつつもいつも通り過ごしていました。

 

そのうち姉も帰ってきていつも通り過ごし、

 

夜7時頃母から電話があり

 

「お父さんが入院したからお母さんちょっと今夜帰れんで、家のことよろしくね。」

とごく普通に(聴こえた)電話があって

「は~い」って答えた。

 

というのも、父はその何か月か前に、車で居眠り運転で単独事故を起こして入院してたのだけど、

入院指示されていたよりかなり早くに退院し、仕事復帰していたので

ちょっと体調崩したのかな、くらいにしか思わなかった。

 

その後お風呂に入ってる時に誰かが来た気配があったけど

普通にお客さんが来て玄関で話してるだけだと思ったら

 

お風呂から出たら姉が泣いてた。

「今警察が来た。お父さん自殺したの?」って。

 

姉がすごい泣いてたから私は妙に冷静になるしかなくて

(今思うと高校1年生の女子が警察に事情聴取されるのも怖いけど

しかもそんな内容だと、恐怖と不安でしかないよね)

 

それでも

私の頭の中は妙に冷静で、ああそっかぁだから家に違和感があったんだ。。。くらいでした。

 

夜中に大学進学で単身愛知で暮らしてた兄も帰ってきて。

 

次の日の朝にも母から電話があり、

「お父さん、大丈夫やであんたら(あなたたち)はちゃんと学校行きないよ。」

 

って言われて素直に学校行った。

 

3時間目の途中くらいに先生に

「今から親戚の人が迎えに来るらしいから、準備して玄関で待ってなさい」

と言われた。

 

その時も泣けなかった。

 

親戚の伯母さんが姉を高校で拾った後、私を迎えに来てくれた。

 

病院へ着くと

 

母は少し驚いた顔した。

 

私たちに見せたくなかったのかもしれない。

けど事情を知ってた伯父(母の兄)が伯母に言って私たちをつれてきてくれたのかな?

(兄は自分で車で来た)

 

父はもう機械に生かされているだけだった。

 

でも表情はこの上なく穏やかで笑っているようにさえ見えた。

 

3時間くらいしてからだろうか、父は息を止めた。

 

お父さん、やっと楽になったんやな、と思った。

 

 

家に連れて帰るときは雨降りだった。

 

母は私が知り限りずっと泣かなかった。

人前で一切泣かなかった。

 

私はお葬式でやっと泣けたけど、

母はどのタイミングで泣けたんやろう。

 

人前で泣かなかったけど陰では泣いてたんだろうな。

なんの力にもなれなかったけど。

 

そして私は決めた。

 

私は生きていこう

 

自分で死を選ぶと周りにこんな風に悲しむ人がいるんだ、ということにやっと気が付いた。

 

 

 

 

勧めるわけではないけれど

 

自殺というのは

 

周りからするととても悲しいことです。
(場合によっては周りに多大な迷惑をかけてしまうこともあります)

 

でも私は、

 

本人が最期を自分で選べたとも思うのです。

 

この世で、この肉体で、生き続けることが

 

本人にとってはあまりにも辛すぎる。

 

それだけではなく

 

本当に突発的に、なんとなく選んでしまうということも

 

病気によってはあり得るのですよね

 

 

父の最後の表情の穏やかさは

 

その頃普段見ることのできない、本当に穏やかなものでした。

 

幼いころのお父さんの笑顔そのものでした。

 

 

 

父の年齢を超えるようになってこの話をしたときに、

 

本当は悲しかったのにそう思うようにしてるんだね、と言われたことがあったけれど

 

そうではなく

 

 

本人が最期を選ぶことが出来た、

 

そしてそれによって楽になれたのであれば良かったな、と思います。

 

 

人は必ずいつか死にます。

 

人に平等に与えられたもの。

 

死は悲しいかもしれないけれど、

 

怖いものでも恐ろしいものでも無い。

 

いつ最期が来てもいいように、日々の暮らしをしていくことが大切だと思っているし

 

人と少し違う死生観は、

 

この時の経験からきているのだろうなと思う。

 

 

 

 

他人のやさしさに触れる

 

今思うと

 

その頃、そんな事情の私に声かけるのも勇気がいっただろうに

 

忌引きを明けてから、話しかけてくれた友達の優しさや

 

身内の死を私より先に経験してる友達の心遣いや

 

いつも通りの環境を作ってくれてた学校には感謝だなあ

 

ありがとうございました。

 

 

そしてその後の私の進路は、このことが機になって変化していきます。

 

 

まだまだ続きます。

 

 

お読みいただきありがとうございます♥