砂上の賃貸 -9ページ目

他者と関わり合うということ

いきなり結論から書いてしまうと、他者と積極的に関わり合いたいと思う人は、極めて少ないのだろうと思う。

こと日本においてはそうだし、欧米の都市部のように人種、国籍が異なる人間同士の交わりが比較的多い地域にしても変わらないだろう。ただ、彼らは日常生活の上でそういった他者との交流をこなす必要があるゆえに、他者とのコミュニケーションのスキルも備えていれば必要性も実感しているのかもしれない。

まあ、外国のことはよくわからないから置いておく。日本を母国とし、日本語を話し、日本に生まれ育った一人の人間として実感を持って考えられるのは日本における状況くらいだ。たとえ海外に移住したとしても、strangerとしてしかその国、都市のことは考えられないだろうから。いくら想像力を働かせて相手の身になったとしても。

順序が前後してしまったが、ここで言う他者とは単に自分以外の人間を指しているのではない。共通の基盤が希薄で相互理解が必ずしも予期できない相手が他者だ。そして、これは同じ言語を使っていても当然存在する。同じ言語だからと言って一つ一つの言葉から双方がイメージするものが近しいとは限らないのだから。むしろかけ離れていて当然と思った方がいいかもしれない。

年齢や地域によって差はあるかもしれないが、30年近く前に都内のやや西に生まれた僕にとって、地域の身近なコミュニティは、かつてあった存在だ。人によっては今もそういったコミュニティの存在を実感しているかもしれないし、人によっては一度も実感したことがないかもしれない。

核家族化が問題視されたり、ワンルームマンションの建設に反対する運動があったりしたものの、時代の要請は地域のコミュニティを解体する方向に向かい、そしてそれは大部分において実現した。互いに没交渉、不干渉となる生活が訪れた。ともすれば、それこそが人を束縛しない正しい自由のあり方かのように喧伝された。

しかし、果たしてそれが本当の自由なのだろうか。結局のところ、かつてこの国にあったコミュニズムや父家長制からの短絡な反動に過ぎなかったのではなかろうか。だからこそ、本来ならコミュニティが消失して必然と他者との関わり合いが増え、コミュニケーションスキルが磨かれるはずにもかかわらず、大半の人はそのスキルを獲得していない。コミュニケーションスキルの代わりに便利なテクノロジーを使いこなすことで、他者との関わりから逃れることに成功してしまった。そして、人々は自分の居場所を求めて極小のコミュニティに属するか、国家全体を覆う巨大な価値基盤を夢見るしかなくなってしまった。

先に書いたように、他者とは相互理解が予期できない。だから、他者と接することはわずらわしく困難を伴う。互いの言葉の間に生じる齟齬を埋める努力が必要だし、そのために互いに違和感をぶつけ合い、双方の基盤としている価値観を少しずつ理解していく必要が生じる。しかし、たとえわずらわしくとも、それを行うことでしか互いの隙間を埋めていくことはできない。他者との関わり合いの中では避けて通れないことだ。

だが、現代の日本において、他者の価値観を理解することは、関わり合わないことと同義になってしまっている。例えば切込隊長は「各論全員否定」の社会学の中でこう書いている。

誰しもが違う価値観を持ち、それを認め合うのが社会の礼儀だとするなら、その礼儀を突き詰めると「なるだけ違う価値観の人たちとは付き合わない」という結論になる。

この考えを批判するつもりはない。実際のところこの考えが今の世の中の現実だ。例えば、電車の中で化粧をする女性に対し、それを非難する声がある。
「常識外れだ」
しかし、この言葉は彼女たちには届かない。彼女たちのコミュニティの常識では電車内での化粧は許されるからだ。そして、「価値観を認める」という考えのもと、その行為は現実には許容されている。直接とがめる人など皆無だ。

しかし、それが本当に「価値観を認める」ということなのだろうか。電車という一つの閉じられた空間の中で化粧をするという行為は、人によってはとても下品で不快な行為だ。だからこそ彼女たちを侮蔑するような本まで出版されて、話題にまでなった。本来なら、そのような不快感もまた、一つの価値観として尊重されなければならないはずだ。

もちろん、一方の価値観が尊重されればもう一方の価値観はこの場では我慢を強いられることとなるが、「価値観を認める=関わり合わない」という理屈によって片方に服従を迫るのではなく、対話によって収まるべきところに収まるのが望ましい。対話をすることで少なからず感情は和らぎ、相手を理解する気持ちが芽生えるからだ。もし相手を理解する気があればだが。

しょせん理想論にすぎないという気持ちはある。昨今のネット上の風潮を見ても、2ちゃんねるに対する反動からか、人のサイトやブログにおもむいて違和感一つ投げかけることすらはばかられる雰囲気が少なからずある。トラックバックを飛ばして批判などもってのほか。うかつにレスポンスを発したら過剰な警戒からかとても低姿勢な態度を取られて、レスポンスを発した人が悪いことをしたような妙な気持ちになっているところを目にしたこともある。

しかし、そのようにして他者との関わり合いを皆が皆で避け続けて、ただひたすら自分に合う小さなムラ(ともすれば一人きりかもしれない)にこもって生き続けていけるのだろうか。とてもそうは思えない。

この長々と書いた言葉も、あるいはただの道徳的な物言いとして回収されてしまい、届かないのかもしれない。しかしそれでも、今こうやって言葉を書き連ねて発信することが可能なのだから、せめてそれくらいのことはやっておこう、そんな気持ちでこのエントリを書きました。最後まで読んでくれた人、ありがとうございます。

参考:このエントリを書くにあたって直接インスピレーションを受けたエントリ
記識の外 差別と他者性。
若隠居の徒然日記 異質なものを受け入れる努力
切込隊長BLOG(ブログ) 「各論全員否定」の社会学

パクリとかパクられるとか

最初に言い出したのは誰なのかしら~。

とまあ某超有名ギャルゲーの主題歌風な書き出しで始めてみましたが、何のゲームだかさっぱりな方は気になさらないでけっこうです。あ、ギャルゲーって書くとひょっとしたら怒る人がいるかもしれないから訂正しておきます。恋愛シミュレーションゲームでした。別にギャルゲーでいいじゃねえかとか思っても、「ギャルゲーじゃない!」って言い張る人もいるみたいなので、念のため。

いきなり話がそれまくってしまったんですが、最近ネット上でパクリ論争が多いじゃないですか。特によく言われてるのが、オレンジとかレンジとかの人たち。批判派と擁護派があちこちですさまじい局地戦を繰り広げているのを見ると、若いっていいなあと思わずにはいられません。ここなんてすごいですよ。ヨミウリウィークリーでオレンジレンジのパクリ疑惑の記事が取り上げられた、ということを書いただけなのにコメント300オーバー(笑)

まあ、オレンジレンジについては興味もないし論じるつもりはないんですが、一般論として、どうもちょっと似ている、同じモチーフを使っているというだけでパクリ、パクリ言い出すのはさすがにどうなのかと。もちろん、これはあまりに似すぎじゃないのかと追及した結果作者が盗作を認めたような件もありますし(例えば、3年ほど前に吉野朔実の「恋愛的瞬間」の中の一話がほぼそのままと言っていいくらいの形で別の漫画にパクられたことがあった。当時その検証サイトを見たが言い訳不可能なレベルの露骨なパクリで、のちに盗作した作者が全面的に非を認めて謝罪した)、パクリを肯定するつもりはないのですが、いくら何でもそれをパクリと言ったらキリがないだろうと言いたくなるようなこともしばしばあるのが正直なところです。

ただ、そう言ったパクリ探し、というか似たもの探しというのは人はつい反射的にやってしまうもので、新しいものに触れたときには自分の知識のデータベースの中から「これは○○と似てるな」ということをやらずにはいられないものです。宮沢章夫氏が2003年12月5日の日記で「人は似たものを探す」という話を書いていますが、もっともな内容です。そして、ここの文中に「ただ、「似たものを探す解釈」において試されるのは、評者の教養である。」という言葉があるのですが、これこそが重要なのではないでしょうか。

ネット上で散見する安易なパクリ指摘には教養の欠落が見られるのではないか、とまで書くと言い過ぎかもしれませんが、特にサブカルチャー方面では教養体系が存在しない、もしくは貧弱であるし、世代間で知識や認識が断絶しがちなために、的外れなパクリ指摘が行われやすいという側面があるのではないかと思います。

かと言って、映画、音楽、漫画、小説、アニメ、テレビ番組等の過去のコンテンツ量は極めて膨大で、それぞれのジャンルのその中の一つの小ジャンルですら、一つの体系を作り出すのは大変な作業だし、人によって歴史認識が異なるから「これが正しい!」と言える体系はまずあり得ないわけで、近代文学やロックのように比較的教養体系が整備されているものならともかく、そうでないものに関しては、過去から現在への文脈の糸が共有されずに、てんでばらばらに知識が散乱して、「これは○○のパクリだ!」という叫びが繰り返されていくのかなあと。せめて、パクリだと言うのではなく、「これは○○の影響を受けている」と指摘することで点と点を結びつけて教養の糸を伸ばしていくようになればいいとは思いますが。そうやって好奇心の幅を広げていくのはとても楽しいことですから。そう言えば不勉強にして知らなかったのですが、山下和美の「不思議な少年」はマーク・トウェインの同名の小説をモチーフにしていたんですね。今度読んでみようと思います。

まあ、脊髄反射でパクリを叫ぶ前に、一つその辺を冷静に考えてみるのもいいんじゃないでしょうかってことで。いや、オレンジレンジについてはどうなのか知らないですが。

今週のモーニング&マンガ関連ニュース

2005 4/7発売 19号

巻頭カラーは2ヶ月ぶり登場の不思議な少年。インパクトでは前回に劣るものの、今回もとても面白い。説明過剰にならずに読み手に深読みさせる余地を与えて、物語としての完成度も高い。今の山下和美は円熟の域ですな。

島耕作、最後のページの「そして新たな女性の出現!!」のアオリに笑った。世界を股にかける出会い系常務島耕作は出会いのチャンスを逃さない!その前に、女を突き飛ばした奴のこと気にしろよとツッコミたいけど。襲われたらどうすんだ。そういえば某所での未確認情報ですが、アンケート1位っていつも島コーらしいですね。まだ、専務、社長、会長とあるから数年は安泰かな。

団塊の世代が大量に退職したら通勤電車の購読がなくなってピンチという話もあるけど。 はるか17は恋愛シリーズ最終話。物足りなかった。もっと女社長に大人のエグさとかいやらしさを発揮して欲しかった。個人的にこのマンガに期待しているのはそういうドロドロした部分なので。

蒼天航路は関羽が矢ガモ状態。兵が一瞬絶句した状態から無言で動き出す関羽はちょっと笑えた。セリフの文字フォントも変わったし、矢が刺さった影響がこの先に出るという伏線なのか気になるところ。関羽の体から謎の物体みたいなのが現れて奇妙な技を使ったりってそれはジョj(ry

ドラゴン桜は先週に引き続きホメ方実践講座。ふと思ったけど、この書きかえたい言葉一覧と併用すれば効果抜群かも。今週はめんどくさいのでホメる練習しませんが。
以下、マンガ関連ニュース。

「プラネテス」の幸村誠、週刊少年マガジン20号(4/13発売)より新連載。 (ARTIFACT@ハテナ系経由)
モーニング愛読者としては微妙に複雑な、マガジンでの新連載開始。とは言え幸村誠好きとしてはまさに待望。リンク先で特別予告編のフラッシュ見れます。ハァハァものです。ロマサガ好きな人は脳内BGMをロマサガ2のオープニング曲とかにするといいです。タイトルロゴもめちゃくちゃカッコいい。



USEN、無料ブロードバンド放送の試験放送開始
どんなもんだろうと思って覗いてみたら、なんとあしたのジョーが無料放送中でした。途中でCMがちょっとだけ入るけど全然気にならない程度。オススメです。アニメは他にクリィミーマミなど、大人向けの布陣。広告収入でペイできるのか気になるけど無料ブロードバンド放送としてはリキ入っているので頑張って欲しいところ。

ITmediaビジネスモバイル:コミックは携帯で楽しむ時代に
とりあえず第一弾が人間交差点という時点でどうなのか。さらに第二弾がバブルの遺物と言うべき東京ラブストーリーなのはもっとどうなのか。最初のラインナップを見る限りでは、中高年と女子中高生がメインターゲットのように見える。女子中高生の生態はイマイチわからないが、中高年はあまり見ないような。いくら頑張っても紙の利便性にはかなわないし。ただ、「まずは、本屋に行ってもないタイトルを提供する」というコメントが気になるところ。

「インターネットは民主主義の敵か」を読んで(2)

さて、本書では「デーリーミー(Daily Me 日刊の『私』)」という概念が最初に出てきます。これは、個人用にカスタマイズされた、見たいものだけを見ることができる完全なフィルタリングのなされた情報パッケージのことで、サンスティーンはそのようなフィルタリングが進んだ結果、人々の視野が狭くなり、思いがけない情報との遭遇機会を失ったり、社会的な共通体験を失っていくことを危惧しています。

例えば、少し前に日本語に訳されて話題になっている「EPIC 2014」が描く未来像などはまさに「デーリーミー」の世界そのものです。

EPICでは、彼らが選んだ記事を好きなように組み合わせることができる。最高の状態では、EPICは、見識のある読者に向けて編集された、より深く、より幅広く、より詳細にこだわった世界の要約といえる。 しかし、最悪の場合、多くの人にとって、EPICはささいな情報の単なる寄せ集めになる。 その多くが真実ではなく、狭く浅く、そして扇情的な内容となる。しかし、EPICは、私たちが求めたものであり、選んだものである。

このような情報の個人化が進むと、同じ考え方の人々が集まる一方で対立する意見には耳を貸さなくなり、集団分極化が進むことになるとサンスティーンは懸念しています。そして、集団分極化した空間で同じような意見を交わすことで、より過激な方向へと意見がシフトしてしまうと論を展開しています。

ただし、サンスティーンはこのような集団分極化やエンクレーブ(「閉じこめられた地」の意味)型討議を悪だと言っているわけではありません。むしろ、違う考え方のグループ同士がお互いに議論し合えば社会全体として意見の幅が広がり、豊かになると考えています。危険なのはある特定のグループ内での議論自体ではなく、グループの孤立だという考えです。

また、このような分極化は、特定の人々に対して強い反応を促す情報を、その真偽を確かめることなく爆発的なスピードで広く流布させてしまう危険を伴います。これを、サイバー・カスケードと呼びます。その善し悪しは別として、最近の事象で言えば仙台の少女捜索ブログに大量のトラックバックがついて「善意の洪水」が広がった事象がまさしくサイバー・カスケード現象と呼べるでしょう。この仙台の少女捜索ブログにおける事象については真性引き篭もりある大学院生の日記で違和感が表明されていましたが、その行動が果たして適切かどうかの考察が加えられないままに「善意」の名の下に情報が爆発的に広がっていくというのはやはり危険と言わざるを得ないでしょう。結果的に過ちでなかった、というのは、結果的に過ちだった可能性も十分にあったということに他ならないのですから。

集団分極化やサイバー・カスケードに関連して、「沈黙の螺旋」(参照)という言葉が本書に出てきますが、圧倒的な多数の「善意」の前に、違和感や疑問を抱いた人が沈黙せざるを得なくなり、賛同する人々の言葉だけが反響し合って広がり続けた姿は「沈黙の螺旋」そのものでした。月ナル者での分析(リンク先エントリ第四段落)がそのまま「沈黙の螺旋」とは何かを言い当てていますが、このようにして集団分極化が発生し、サイバー・カスケードを引き起こすという一つの例だったと思います。

サンスティーンは、これらの危険に対して、人々により広範な思いがけない意見と遭遇させる機会を与えるための公開フォーラム原理や、マスメディアを通じた共有体験の確保が必要だと考えます。また、ウェブサイトには特定の重要な情報へのリンクや、反対意見へのリンクが必要だと述べています。これらの考えが単なる理想に過ぎないのではないか、現実にリンクを張っても多くの人はそれを見ないのではないか、という疑問はあります。例えば、ブログ間でトラックバックを送り合って議論を繰り広げたとしても、大半の人は元から見ているブログを見るだけにとどまり、リンクを踏んで相手先の議論を読む人は少数だという話もあります。しかし、そのような具体論はさておくにしても、一つの考えとして本書は非常に示唆に富むと言えるでしょう。

「インターネットは民主主義の敵か」を読んで(1)

ちょっと前にキャス・サンスティーンの「インターネットは民主主義の敵か」(原題:Republic.com)を読んで、その後も読み直しているのですが、その概略と感想について、回を分けて書こうかと思います。
 

まず、この本の概要についてですが、扇情的なタイトルのせいで誤解を招いていますが、主題は「インターネット時代における、アメリカの民主主義のあり方について」であって、日本版への序文でも著者が


私の主な目的は、「デーリーミー(Daily Me 日刊の『私』)」という概念を使って民主的自己統治の前提条件を明らかにすることだ。インターネットは民主主義にマイナスになるとか、新しい情報通信技術は世の中を進化させるよりも退化させるとか主張するつもりはない。

と書いてあるとおりで、インターネットが普及し情報通信技術が発達した世の中における懸念点は示していても、それ自体を目的としているのではなく、そのような懸念事項が起こりうる世界で、あるべき民主主義の形を実現するためにはどのようにするべきかが主題であるということを理解する必要があります。そして、アマゾンのカスタマーレビューに「インターネットと民主主義との関係について論じながら、実は米国の民主主義の制度や考え方についてのオーソドックスかつ最良の参考書になっています」とあるように、アメリカの民主主義について丁寧に説明がなされています。本来適切な邦題は原題をそのまま訳した「共和制ドットコム」だと思いますが、まあ、編集者的な角度から考えれば仕方ないんでしょうね。
  

さて、まずは全体を読み通しての大まかな感想ですが、読みやすくて内容も理解できるが、ある意味で難しいです。なにが難しいのか?というと、先に書いたとおり、これはあくまでもアメリカの民主主義の考え方に沿ってインターネット時代の民主主義のあるべき姿を論じている本であって、日本に暮らす日本人である自分がそのままにすんなり受け取ることはできないというところです。文脈を理解し、自分たちの身に置き換えて、照らし合わせなければならないでしょう。そして、そうやって考えてみると大きく突き当たるのは、日本における民主主義とはなんぞや?という当たり前のようでおざなりにされてきた部分です。
 
しかし、そういう意味では、この本はとても勉強になります。インターネットの善し悪し以前の問題として、例えば


私が一貫して強調しているのは、共和制は直接民主制ではないことと、優れた民主的システムとは――人々の好き勝手な発言にいつでもすぐに反応するのではなく――適度の熟考と討議を確保するシステムを内包しているということだ」
(本書第九章「結論 リパブリック・コム」より引用)


というサンスティーンの提言はとても本質的な問いかけであり、民主主義を考えるきっかけとして面白かったです。
  

とりあえず今回はここまでにして、次回は本書のインターネットに関する各論について取り上げてみようと思います。(続きはこちら