偽PJのネタ記事に神保哲生氏から真面目なトラックバックがついちゃった件について
えー、さっき書いたこのエントリは、犬にかぶらせろ!で募集していた偽パブリックジャーナリストとしてのパロディ記事のつもりだったんですが、ライブドアPJニュースっぽさを出そうとするあまり、人によってはネタなのかマジなのか分かりにくかったかもしれません。ここで改めて宣言しておきます。
ネタに決まっているじゃないですか!
……で、ジャーナリストの神保哲生氏から真面目なトラックバックがついちゃっているんですがどうしましょう。これはネタのクオリティが高かったと喜ぶべきなのでしょうか。「釣れた!wwwwwwww」と高らかに誇るべきなのでしょうか。正直な気持ちを言うと、笑っていいのか悪いのかわからない複雑な心境です。いやー、ネタにマジレス喰らうのってなかなか焦りますね。しかもプロのジャーナリストからだなんて。ひょっとして俺が釣られているだけだったりして。
……で、ジャーナリストの神保哲生氏から真面目なトラックバックがついちゃっているんですがどうしましょう。これはネタのクオリティが高かったと喜ぶべきなのでしょうか。「釣れた!wwwwwwww」と高らかに誇るべきなのでしょうか。正直な気持ちを言うと、笑っていいのか悪いのかわからない複雑な心境です。いやー、ネタにマジレス喰らうのってなかなか焦りますね。しかもプロのジャーナリストからだなんて。ひょっとして俺が釣られているだけだったりして。
ライブドアPJニュースはマスコミの権威を壊す逆説的な鏡だ!【東京都】
【偽PJニュース 03月25日 東京都】- ライブドア・PJニュースが今インターネット上で注目されている。私利私欲で動く巨大メディアのどうしようもない閉塞感に嫌気が差した21世紀の市民にとって、ライブドア・PJニュースはまさに一筋の光明と言える。
しかし一部ではパブリックジャーナルとはこども新聞との声も聞こえる。確かにまだ歩き出したばかりのパブリックジャーナリストたちの書く文章はややぎこちなく映る。中には普段ブログにかいている日記のようなってしまったという大胆極まりない書き出しで始まる記事もある。
「妄想」かもしれないが、ライブドアPJニュースはこのような記事を連発することで既成のマスコミの権威を壊しているようにも見える。つまり、マスコミの記事も権威にとらわれずに読めばこの程度にしか過ぎないということだ。新聞の社説、テレビのコメンテイター、どれも権威の皮を一枚剥げばライブドア・PJニュースと同じだ。むしろ賃金の違いを考えたらそれ以下と言ってもいい。つまり、ライブドア・PJニュースとはマスコミの鏡であり、逆説的なマスコミ批判なのだ。
21世紀のメディア社会では、マスコミではなく市民がパブリックジャーナリストとして権威にとらわれない自由かつ素朴な感情に基づいた意見を発信することができるようになる。そのときマスコミはどうなるのか。ダーウィンの進化論を持ち出すまでもなく、
『勝ち残るのは、強いものでも、大きいものでの、まして智慧あるものでもない。時代を読み変化に対応していけるものだけが生き残れるのだ。』
だから若者よ、マスコミを信じるな。金の勉強を始めよう!!【了】
ライブドア 非公認パブリック・ジャーナリスト にっく
2005年03月25日22時20分
偽パブリックジャーナリスト募集
しかし一部ではパブリックジャーナルとはこども新聞との声も聞こえる。確かにまだ歩き出したばかりのパブリックジャーナリストたちの書く文章はややぎこちなく映る。中には普段ブログにかいている日記のようなってしまったという大胆極まりない書き出しで始まる記事もある。
「妄想」かもしれないが、ライブドアPJニュースはこのような記事を連発することで既成のマスコミの権威を壊しているようにも見える。つまり、マスコミの記事も権威にとらわれずに読めばこの程度にしか過ぎないということだ。新聞の社説、テレビのコメンテイター、どれも権威の皮を一枚剥げばライブドア・PJニュースと同じだ。むしろ賃金の違いを考えたらそれ以下と言ってもいい。つまり、ライブドア・PJニュースとはマスコミの鏡であり、逆説的なマスコミ批判なのだ。
21世紀のメディア社会では、マスコミではなく市民がパブリックジャーナリストとして権威にとらわれない自由かつ素朴な感情に基づいた意見を発信することができるようになる。そのときマスコミはどうなるのか。ダーウィンの進化論を持ち出すまでもなく、
『勝ち残るのは、強いものでも、大きいものでの、まして智慧あるものでもない。時代を読み変化に対応していけるものだけが生き残れるのだ。』
だから若者よ、マスコミを信じるな。金の勉強を始めよう!!【了】
ライブドア 非公認パブリック・ジャーナリスト にっく
2005年03月25日22時20分
アーケードゲーマーにとっての背伸び(後編)
(前編はこちら)
前回、アーケードに対戦格闘が登場したことによって各地のゲーセンに常連同士のコミュニティが生まれるようになったというところまで書いたが、その続き。
ゲーセンでの常連同士のコミュニティというのは、何も対戦格闘に限ったことではなく、それ以前からもコミュニケーションノートなどを介して形成されることはあったが、決して活発とは言えず、あくまでごくごく一部だった。しかし、対戦格闘においては対人戦という性質上互いを意識しやすく、コミュニティの形成は必然的とも言えた。
しかし、こうしたコミュニティの形成はある意味で、ゲームを介したヒエラルキーの形成とも言えた。始めこそお互いに顔見知りとなって一対一の関係から友好を築くが、この人数が増えれば、自然とコミュニティ内に秩序が生まれていく。はっきり言ってしまえば部活のコミュニティと大差がない。それが悪いこととは言わないが、一人用のゲームで味わえたカタルシスを得るには厳しい環境なのは確かだ。対人戦というのは結局どこまで言っても他人との相対評価だし、コミュニティの中にいるということは自然と自分のポジションを思い知ることでもあるのだから。
そして、最も不幸なのが一般プレイヤーなのは言うまでもないだろう。常連プレイヤーにとって大半の一般プレイヤーは手軽にカタルシスを得るための絶好のカモと言える。ブームのころは一般プレイヤーの比率も高かったからまだマシだったが、時間がたてばたつに従いピラミッドの下層部分にあたるプレイヤーの人口は減り、彼らは腕を磨くにふさわしい同じくらいの実力の人間にあうこともできず強いプレイヤーに負け続け、そしてゲームから離れていくこととなった。もちろんそのことに危機感を持って、初心者狩りなどの行為を嫌うモラルのあるプレイヤーもいることは付け加えておくが、プレイヤーの平均レベルが上がれば上がるほど下の人間にとって酷な環境になることは避けがたく、初心者を始めとする下級プレイヤーにとって楽しみづらい環境であることには変わりがない。
上を目指すプレイヤーたちはコミュニティ内で互いに腕を磨き合い、ときには強いプレイヤーがいると評判の地域に腕試しの遠征に行き、ときには大会に出場して競い合い、同時に各地域同士の交流も深めて大きなコミュニティを作り上げていった。彼らが求めるのは強さだが、上手さの伴った強さが求められた。ゲーム的にローリスクでハイリターンな手段は嫌われ、自粛する不文律が生まれた。いわゆるローカルルールだ。戦い方が汚いという理由で身内からも嫌われてコミュニティを追放されたプレイヤーもいた。単に強いだけではなく、周囲からも認められないとやっていけない世界なのだ。そこで孤高を保てればそれに越したことはないが、コミュニティが形成されている中で孤高を保つというのはそう簡単にできることではない。だからほとんどの人たちはオピニオンを作り出す一部の人たちの顔色を気にしつつ「正しい」プレイを心がけなくてはならなかった。その不文律を正しいと信じる人たちにとっては秩序ある空間だが、そうでない人にとっては窮屈であることは言うまでもないだろう。
また、お金の問題も極めて深刻だ。一人用のゲームは上手くなれば必然的に長時間のプレイが可能で、1日ワンプレイでもじっくりと上達を図れたが、対戦格闘ではプレイ時間が短くなり、腕の上達を目指すには大量の資金が必要となる。通算投入資金数万円どころか十万円以上のプレイヤーも珍しくない。センスのいいプレイヤーは少ないプレイでも上達が早いが、そんなプレイヤーはごく一部でしかなく、大半の上位プレイヤーは廃人と呼ばれるまでに金を注ぎ込んだ。借金だらけと噂されるプレイヤーや、友人の金を盗んだ挙げ句逃げていったプレイヤーまでいた。
こうして、対戦格闘が主流になったアーケードは、かつてと違って気楽に背伸びが望める環境ではなくなってしまった。対戦格闘はインカムのよさもあってアーケードを席捲したが、背伸びのカタルシスを得るには酷な環境を作り上げてしまい、人々をゲーセンから遠ざける結果ともなった。僕自身も、スト2シリーズとバーチャシリーズで今書いた世界にどっぷり浸かっていたのだが、最終的には疲れ果ててやめてしまった。特に、通常の人間関係にゲームの腕がプラスされた形で作られる人間関係にはうんざりだった。そうは言ってもちょっと前にはZガンダムで久々に本格的にやり込んで常連の輪に入り、同じ風景を見てきたのだが。
人は同じ過ちを繰り返す、まったく。
前回、アーケードに対戦格闘が登場したことによって各地のゲーセンに常連同士のコミュニティが生まれるようになったというところまで書いたが、その続き。
ゲーセンでの常連同士のコミュニティというのは、何も対戦格闘に限ったことではなく、それ以前からもコミュニケーションノートなどを介して形成されることはあったが、決して活発とは言えず、あくまでごくごく一部だった。しかし、対戦格闘においては対人戦という性質上互いを意識しやすく、コミュニティの形成は必然的とも言えた。
しかし、こうしたコミュニティの形成はある意味で、ゲームを介したヒエラルキーの形成とも言えた。始めこそお互いに顔見知りとなって一対一の関係から友好を築くが、この人数が増えれば、自然とコミュニティ内に秩序が生まれていく。はっきり言ってしまえば部活のコミュニティと大差がない。それが悪いこととは言わないが、一人用のゲームで味わえたカタルシスを得るには厳しい環境なのは確かだ。対人戦というのは結局どこまで言っても他人との相対評価だし、コミュニティの中にいるということは自然と自分のポジションを思い知ることでもあるのだから。
そして、最も不幸なのが一般プレイヤーなのは言うまでもないだろう。常連プレイヤーにとって大半の一般プレイヤーは手軽にカタルシスを得るための絶好のカモと言える。ブームのころは一般プレイヤーの比率も高かったからまだマシだったが、時間がたてばたつに従いピラミッドの下層部分にあたるプレイヤーの人口は減り、彼らは腕を磨くにふさわしい同じくらいの実力の人間にあうこともできず強いプレイヤーに負け続け、そしてゲームから離れていくこととなった。もちろんそのことに危機感を持って、初心者狩りなどの行為を嫌うモラルのあるプレイヤーもいることは付け加えておくが、プレイヤーの平均レベルが上がれば上がるほど下の人間にとって酷な環境になることは避けがたく、初心者を始めとする下級プレイヤーにとって楽しみづらい環境であることには変わりがない。
上を目指すプレイヤーたちはコミュニティ内で互いに腕を磨き合い、ときには強いプレイヤーがいると評判の地域に腕試しの遠征に行き、ときには大会に出場して競い合い、同時に各地域同士の交流も深めて大きなコミュニティを作り上げていった。彼らが求めるのは強さだが、上手さの伴った強さが求められた。ゲーム的にローリスクでハイリターンな手段は嫌われ、自粛する不文律が生まれた。いわゆるローカルルールだ。戦い方が汚いという理由で身内からも嫌われてコミュニティを追放されたプレイヤーもいた。単に強いだけではなく、周囲からも認められないとやっていけない世界なのだ。そこで孤高を保てればそれに越したことはないが、コミュニティが形成されている中で孤高を保つというのはそう簡単にできることではない。だからほとんどの人たちはオピニオンを作り出す一部の人たちの顔色を気にしつつ「正しい」プレイを心がけなくてはならなかった。その不文律を正しいと信じる人たちにとっては秩序ある空間だが、そうでない人にとっては窮屈であることは言うまでもないだろう。
また、お金の問題も極めて深刻だ。一人用のゲームは上手くなれば必然的に長時間のプレイが可能で、1日ワンプレイでもじっくりと上達を図れたが、対戦格闘ではプレイ時間が短くなり、腕の上達を目指すには大量の資金が必要となる。通算投入資金数万円どころか十万円以上のプレイヤーも珍しくない。センスのいいプレイヤーは少ないプレイでも上達が早いが、そんなプレイヤーはごく一部でしかなく、大半の上位プレイヤーは廃人と呼ばれるまでに金を注ぎ込んだ。借金だらけと噂されるプレイヤーや、友人の金を盗んだ挙げ句逃げていったプレイヤーまでいた。
こうして、対戦格闘が主流になったアーケードは、かつてと違って気楽に背伸びが望める環境ではなくなってしまった。対戦格闘はインカムのよさもあってアーケードを席捲したが、背伸びのカタルシスを得るには酷な環境を作り上げてしまい、人々をゲーセンから遠ざける結果ともなった。僕自身も、スト2シリーズとバーチャシリーズで今書いた世界にどっぷり浸かっていたのだが、最終的には疲れ果ててやめてしまった。特に、通常の人間関係にゲームの腕がプラスされた形で作られる人間関係にはうんざりだった。そうは言ってもちょっと前にはZガンダムで久々に本格的にやり込んで常連の輪に入り、同じ風景を見てきたのだが。
人は同じ過ちを繰り返す、まったく。
アーケードゲーマーにとっての背伸び(前編)
昨日書いた中二病や高二病の話にやや関連して、アーケードゲーマーにとっての背伸びの話を書いてみたい。オタクにも様々な種類があるが、僕が十代のころ何のオタクだったかと自己申告するなら、熱中度と金額の投入量から見て間違いなくゲームオタクだった。そしてゲームにも家庭用ゲーム、パソゲー、アーケードゲームと色々あるが、その中でどれに一番ハマってたかと言うとアーケードだった。
1990年以前のアーケードゲーマーにとって自分と周りを差異化するための手段はシンプルだ。いかにワンコインで先へ進むか、高得点を得るか、速いタイムを出すか、それだけで十分だ。もちろんゲーム自体が好きだから遊んでいるのだが、やるからには上を目指すのがアーケードゲーマーの性というものだ。
僕自身は明らかに才能の劣るゲーマーであったが、それでもいくつかのゲームでは一つの到達点であるワンコインクリアを達成できた。達成したのはオーダイン、XEXEX、極上パロディウスというアーケードゲーマーにとっては比較的易しいものばかりだし、クリアの仕方も一部ゴリ押しだったり一部安地(安全地帯の略)利用だったり残機潰しによる難易度下げ利用だったりと決して美しくはなかったが、B級ゲーマーとしてはよく頑張ったと思っている。もちろん自己満足だけど。
一人用ゲームのいいところは、上を目指すと言ってもあくまでも基本は自分との戦いであって、他の人との競争は間接的でしかないところだ。自分より上手い人間はプレイを見ているだけでわかるし見ていて勉強になるから素直に尊敬できたし(かつては人に攻略法を盗まれないようにプレイを隠す奴もいたらしいが)、自分と同じくらいの腕の人間はライバルとしていい刺激を与えてくれた。そんじょそこらの一般人よりはよっぽど上手いぜ、という自負だけでも十分満足できたわけだ。今になって振り返れば、いい時代だったと思う。
しかし、そんな時代も対戦格闘の登場によって変わっていくことになる。対戦格闘は間接的ではなく直接戦い、プレイヤーを勝者と敗者に分ける。今までなら敗北感を覚える相手はゲーム内の敵にすぎなかったのに、対戦格闘ではその対象が生きた人間だ。悔しさは通常の三倍どころの騒ぎではない。
一応補足しておくと、対戦格闘が登場したからと言って今までの一人用がメインのゲームからすぐに人がいなくなったわけではない(先に書いた極上パロディウスとかは対戦格闘が出てからずいぶん後だしね)。しかし、最初は一人用アクションゲームとして台にコインが何枚も積まれるほどの人気を博したスト2が対戦ゲームとして少しずつ認知されるにつれて、多くのアーケードゲーマーはその快感を知り、魅力に取り憑かれていった。そして、各地のゲーセンで顔見知りのプレイヤーたちが常連となり、コミュニティを形成していった。その話は次回に。
(後編につづく)
1990年以前のアーケードゲーマーにとって自分と周りを差異化するための手段はシンプルだ。いかにワンコインで先へ進むか、高得点を得るか、速いタイムを出すか、それだけで十分だ。もちろんゲーム自体が好きだから遊んでいるのだが、やるからには上を目指すのがアーケードゲーマーの性というものだ。
僕自身は明らかに才能の劣るゲーマーであったが、それでもいくつかのゲームでは一つの到達点であるワンコインクリアを達成できた。達成したのはオーダイン、XEXEX、極上パロディウスというアーケードゲーマーにとっては比較的易しいものばかりだし、クリアの仕方も一部ゴリ押しだったり一部安地(安全地帯の略)利用だったり残機潰しによる難易度下げ利用だったりと決して美しくはなかったが、B級ゲーマーとしてはよく頑張ったと思っている。もちろん自己満足だけど。
一人用ゲームのいいところは、上を目指すと言ってもあくまでも基本は自分との戦いであって、他の人との競争は間接的でしかないところだ。自分より上手い人間はプレイを見ているだけでわかるし見ていて勉強になるから素直に尊敬できたし(かつては人に攻略法を盗まれないようにプレイを隠す奴もいたらしいが)、自分と同じくらいの腕の人間はライバルとしていい刺激を与えてくれた。そんじょそこらの一般人よりはよっぽど上手いぜ、という自負だけでも十分満足できたわけだ。今になって振り返れば、いい時代だったと思う。
しかし、そんな時代も対戦格闘の登場によって変わっていくことになる。対戦格闘は間接的ではなく直接戦い、プレイヤーを勝者と敗者に分ける。今までなら敗北感を覚える相手はゲーム内の敵にすぎなかったのに、対戦格闘ではその対象が生きた人間だ。悔しさは通常の三倍どころの騒ぎではない。
一応補足しておくと、対戦格闘が登場したからと言って今までの一人用がメインのゲームからすぐに人がいなくなったわけではない(先に書いた極上パロディウスとかは対戦格闘が出てからずいぶん後だしね)。しかし、最初は一人用アクションゲームとして台にコインが何枚も積まれるほどの人気を博したスト2が対戦ゲームとして少しずつ認知されるにつれて、多くのアーケードゲーマーはその快感を知り、魅力に取り憑かれていった。そして、各地のゲーセンで顔見知りのプレイヤーたちが常連となり、コミュニティを形成していった。その話は次回に。
(後編につづく)
中二病を過剰に嫌悪する病を高二病と呼びたい
ARTIFACT@ハテナ系でこのエントリあたりからずっと盛り上がっている中二病(参照)とか背伸びアイテムの話がすごく面白い。誰もがお世話になりますね、思春期の背伸びアイテム。俺は中学のころ川村かおりや東京少年が好きでした。東京少年解散後のささのみちるの1stソロアルバムに入っていた「イキテイコウ」とか今でも好きです。この世にJASRACがなかったらここに歌詞全文掲載していたところです。
で、私感なんですが、背伸びアイテムの中でも中二病の人向けの物と、そこから一歩進んで中二病を過剰に嫌悪する人、言うならば高二病の人向けの物がある感じがします。青臭いのが中二病なら、その青臭さを近親憎悪で過剰に嫌悪するのが高二病。メタゲームに過ぎないかもしれないですが、自分が通り過ぎてきた道を近親憎悪で反発する部分があるかないかってのは大きく違うと思うので。
音楽、特にロック方面のオタの世界だと高二病患者はかなり多いです。中二病患者のバイブルとも言えるロッキングオン系の雑誌を恥ずかしいと思うようになって、ロッキングオン系雑誌によく取り上げられるアーティストを馬鹿にするようになる人たち。重症患者の場合、最初は好きだったアーティストでもロッキングオン系で大々的に取り上げられるようになった途端に嫌いはじめて「今ごろ○○?あんなのもう終わってるし」とかのたまったりします。
以下、思いつくままに中二病アイテムとそれに対応する高二病アイテムを列挙。思いつきなので人によって認識のズレがあるかもしれませんがそこはご容赦を。
中二病:ロッキングオン→高二病:ミュージックマガジン(知識量、枚数派クラスチェンジ)
→高二病:リラックス、スタジオボイス(オサレ派クラスチェンジ)
中二病:サマーソニック→高二病:フジロック
中二病:テクノを聴き始める→高二病:ターンテーブルを買ってDJの真似を始める
中二病:村上春樹、太宰治、サリンジャー→高二病:ドストエフスキー、ブコウスキー
中二病:単館系映画→高二病:芸術系古典映画
中二病;ソニー全般→高二病:セガ全般
中二病:FFシリーズ→高二病:サガシリーズ
中二病:IKKI、コミックビーム→高二病:手塚、つげ、萩尾等の古典ビッグネーム
中二病:エヴァンゲリオン→高二病:イデオン(もちろん後追い)
んー、わりと大枠で列挙したらあまり思いつかなかったな。ていうか、マンガ界における現在の中二病雑誌が果たしてIKKI、コミックビームあたりなのか微妙な気もする。この辺ってすでに高二病にさしかかっている気もするし。でもそうすると中二病にあたる雑誌がよくわからない。今の中高生くらいの人たちって、ジャンプからどこに進むんだろう?俺が中高生だった頃だと、中二病にかかるとともに「ドラゴンボールいいかげん終わらせろよ!編集部引き延ばしやがって!」みたいなこと言い出したりして一応ジャンプは読みつつもサンデー、マガジンに流れ出して、さらにスピリッツ、ヤンマガ、ヤンサン、アフタヌーンに進むのがわりと王道だったんだけど、今の各誌見てるとそれほど背伸び感を感じさせないしなあ。一応マガジンがそれに近いのかな?背伸びアイテムとしてのヤンキーマンガと社会派マンガってことで。
あとついでに加野瀬さんがここで書いている「過剰な自意識の受け皿になる漫画作品」に反応しておくと、最近だったら日本橋ヨヲコ、古谷実、新井英樹、冬目景、魚喃キリコ、ひぐちアサあたりのマンガが当てはまるんじゃないかと思います。80年代後半から90年代初頭と比べてもそれほどスポイルされている印象はないです。ていうかあの頃のメジャー誌のマンガでそういった類の作品がほとんど思い浮かばない。「キラキラ!」も痛いマンガだなんて全く思わずに読んでいたしなあ……ってこれが自覚がないってことだったのか、そうなのか。
で、私感なんですが、背伸びアイテムの中でも中二病の人向けの物と、そこから一歩進んで中二病を過剰に嫌悪する人、言うならば高二病の人向けの物がある感じがします。青臭いのが中二病なら、その青臭さを近親憎悪で過剰に嫌悪するのが高二病。メタゲームに過ぎないかもしれないですが、自分が通り過ぎてきた道を近親憎悪で反発する部分があるかないかってのは大きく違うと思うので。
音楽、特にロック方面のオタの世界だと高二病患者はかなり多いです。中二病患者のバイブルとも言えるロッキングオン系の雑誌を恥ずかしいと思うようになって、ロッキングオン系雑誌によく取り上げられるアーティストを馬鹿にするようになる人たち。重症患者の場合、最初は好きだったアーティストでもロッキングオン系で大々的に取り上げられるようになった途端に嫌いはじめて「今ごろ○○?あんなのもう終わってるし」とかのたまったりします。
以下、思いつくままに中二病アイテムとそれに対応する高二病アイテムを列挙。思いつきなので人によって認識のズレがあるかもしれませんがそこはご容赦を。
中二病:ロッキングオン→高二病:ミュージックマガジン(知識量、枚数派クラスチェンジ)
→高二病:リラックス、スタジオボイス(オサレ派クラスチェンジ)
中二病:サマーソニック→高二病:フジロック
中二病:テクノを聴き始める→高二病:ターンテーブルを買ってDJの真似を始める
中二病:村上春樹、太宰治、サリンジャー→高二病:ドストエフスキー、ブコウスキー
中二病:単館系映画→高二病:芸術系古典映画
中二病;ソニー全般→高二病:セガ全般
中二病:FFシリーズ→高二病:サガシリーズ
中二病:IKKI、コミックビーム→高二病:手塚、つげ、萩尾等の古典ビッグネーム
中二病:エヴァンゲリオン→高二病:イデオン(もちろん後追い)
んー、わりと大枠で列挙したらあまり思いつかなかったな。ていうか、マンガ界における現在の中二病雑誌が果たしてIKKI、コミックビームあたりなのか微妙な気もする。この辺ってすでに高二病にさしかかっている気もするし。でもそうすると中二病にあたる雑誌がよくわからない。今の中高生くらいの人たちって、ジャンプからどこに進むんだろう?俺が中高生だった頃だと、中二病にかかるとともに「ドラゴンボールいいかげん終わらせろよ!編集部引き延ばしやがって!」みたいなこと言い出したりして一応ジャンプは読みつつもサンデー、マガジンに流れ出して、さらにスピリッツ、ヤンマガ、ヤンサン、アフタヌーンに進むのがわりと王道だったんだけど、今の各誌見てるとそれほど背伸び感を感じさせないしなあ。一応マガジンがそれに近いのかな?背伸びアイテムとしてのヤンキーマンガと社会派マンガってことで。
あとついでに加野瀬さんがここで書いている「過剰な自意識の受け皿になる漫画作品」に反応しておくと、最近だったら日本橋ヨヲコ、古谷実、新井英樹、冬目景、魚喃キリコ、ひぐちアサあたりのマンガが当てはまるんじゃないかと思います。80年代後半から90年代初頭と比べてもそれほどスポイルされている印象はないです。ていうかあの頃のメジャー誌のマンガでそういった類の作品がほとんど思い浮かばない。「キラキラ!」も痛いマンガだなんて全く思わずに読んでいたしなあ……ってこれが自覚がないってことだったのか、そうなのか。