「インターネットは民主主義の敵か」を読んで(2) | 砂上の賃貸

「インターネットは民主主義の敵か」を読んで(2)

さて、本書では「デーリーミー(Daily Me 日刊の『私』)」という概念が最初に出てきます。これは、個人用にカスタマイズされた、見たいものだけを見ることができる完全なフィルタリングのなされた情報パッケージのことで、サンスティーンはそのようなフィルタリングが進んだ結果、人々の視野が狭くなり、思いがけない情報との遭遇機会を失ったり、社会的な共通体験を失っていくことを危惧しています。

例えば、少し前に日本語に訳されて話題になっている「EPIC 2014」が描く未来像などはまさに「デーリーミー」の世界そのものです。

EPICでは、彼らが選んだ記事を好きなように組み合わせることができる。最高の状態では、EPICは、見識のある読者に向けて編集された、より深く、より幅広く、より詳細にこだわった世界の要約といえる。 しかし、最悪の場合、多くの人にとって、EPICはささいな情報の単なる寄せ集めになる。 その多くが真実ではなく、狭く浅く、そして扇情的な内容となる。しかし、EPICは、私たちが求めたものであり、選んだものである。

このような情報の個人化が進むと、同じ考え方の人々が集まる一方で対立する意見には耳を貸さなくなり、集団分極化が進むことになるとサンスティーンは懸念しています。そして、集団分極化した空間で同じような意見を交わすことで、より過激な方向へと意見がシフトしてしまうと論を展開しています。

ただし、サンスティーンはこのような集団分極化やエンクレーブ(「閉じこめられた地」の意味)型討議を悪だと言っているわけではありません。むしろ、違う考え方のグループ同士がお互いに議論し合えば社会全体として意見の幅が広がり、豊かになると考えています。危険なのはある特定のグループ内での議論自体ではなく、グループの孤立だという考えです。

また、このような分極化は、特定の人々に対して強い反応を促す情報を、その真偽を確かめることなく爆発的なスピードで広く流布させてしまう危険を伴います。これを、サイバー・カスケードと呼びます。その善し悪しは別として、最近の事象で言えば仙台の少女捜索ブログに大量のトラックバックがついて「善意の洪水」が広がった事象がまさしくサイバー・カスケード現象と呼べるでしょう。この仙台の少女捜索ブログにおける事象については真性引き篭もりある大学院生の日記で違和感が表明されていましたが、その行動が果たして適切かどうかの考察が加えられないままに「善意」の名の下に情報が爆発的に広がっていくというのはやはり危険と言わざるを得ないでしょう。結果的に過ちでなかった、というのは、結果的に過ちだった可能性も十分にあったということに他ならないのですから。

集団分極化やサイバー・カスケードに関連して、「沈黙の螺旋」(参照)という言葉が本書に出てきますが、圧倒的な多数の「善意」の前に、違和感や疑問を抱いた人が沈黙せざるを得なくなり、賛同する人々の言葉だけが反響し合って広がり続けた姿は「沈黙の螺旋」そのものでした。月ナル者での分析(リンク先エントリ第四段落)がそのまま「沈黙の螺旋」とは何かを言い当てていますが、このようにして集団分極化が発生し、サイバー・カスケードを引き起こすという一つの例だったと思います。

サンスティーンは、これらの危険に対して、人々により広範な思いがけない意見と遭遇させる機会を与えるための公開フォーラム原理や、マスメディアを通じた共有体験の確保が必要だと考えます。また、ウェブサイトには特定の重要な情報へのリンクや、反対意見へのリンクが必要だと述べています。これらの考えが単なる理想に過ぎないのではないか、現実にリンクを張っても多くの人はそれを見ないのではないか、という疑問はあります。例えば、ブログ間でトラックバックを送り合って議論を繰り広げたとしても、大半の人は元から見ているブログを見るだけにとどまり、リンクを踏んで相手先の議論を読む人は少数だという話もあります。しかし、そのような具体論はさておくにしても、一つの考えとして本書は非常に示唆に富むと言えるでしょう。