パクリとかパクられるとか | 砂上の賃貸

パクリとかパクられるとか

最初に言い出したのは誰なのかしら~。

とまあ某超有名ギャルゲーの主題歌風な書き出しで始めてみましたが、何のゲームだかさっぱりな方は気になさらないでけっこうです。あ、ギャルゲーって書くとひょっとしたら怒る人がいるかもしれないから訂正しておきます。恋愛シミュレーションゲームでした。別にギャルゲーでいいじゃねえかとか思っても、「ギャルゲーじゃない!」って言い張る人もいるみたいなので、念のため。

いきなり話がそれまくってしまったんですが、最近ネット上でパクリ論争が多いじゃないですか。特によく言われてるのが、オレンジとかレンジとかの人たち。批判派と擁護派があちこちですさまじい局地戦を繰り広げているのを見ると、若いっていいなあと思わずにはいられません。ここなんてすごいですよ。ヨミウリウィークリーでオレンジレンジのパクリ疑惑の記事が取り上げられた、ということを書いただけなのにコメント300オーバー(笑)

まあ、オレンジレンジについては興味もないし論じるつもりはないんですが、一般論として、どうもちょっと似ている、同じモチーフを使っているというだけでパクリ、パクリ言い出すのはさすがにどうなのかと。もちろん、これはあまりに似すぎじゃないのかと追及した結果作者が盗作を認めたような件もありますし(例えば、3年ほど前に吉野朔実の「恋愛的瞬間」の中の一話がほぼそのままと言っていいくらいの形で別の漫画にパクられたことがあった。当時その検証サイトを見たが言い訳不可能なレベルの露骨なパクリで、のちに盗作した作者が全面的に非を認めて謝罪した)、パクリを肯定するつもりはないのですが、いくら何でもそれをパクリと言ったらキリがないだろうと言いたくなるようなこともしばしばあるのが正直なところです。

ただ、そう言ったパクリ探し、というか似たもの探しというのは人はつい反射的にやってしまうもので、新しいものに触れたときには自分の知識のデータベースの中から「これは○○と似てるな」ということをやらずにはいられないものです。宮沢章夫氏が2003年12月5日の日記で「人は似たものを探す」という話を書いていますが、もっともな内容です。そして、ここの文中に「ただ、「似たものを探す解釈」において試されるのは、評者の教養である。」という言葉があるのですが、これこそが重要なのではないでしょうか。

ネット上で散見する安易なパクリ指摘には教養の欠落が見られるのではないか、とまで書くと言い過ぎかもしれませんが、特にサブカルチャー方面では教養体系が存在しない、もしくは貧弱であるし、世代間で知識や認識が断絶しがちなために、的外れなパクリ指摘が行われやすいという側面があるのではないかと思います。

かと言って、映画、音楽、漫画、小説、アニメ、テレビ番組等の過去のコンテンツ量は極めて膨大で、それぞれのジャンルのその中の一つの小ジャンルですら、一つの体系を作り出すのは大変な作業だし、人によって歴史認識が異なるから「これが正しい!」と言える体系はまずあり得ないわけで、近代文学やロックのように比較的教養体系が整備されているものならともかく、そうでないものに関しては、過去から現在への文脈の糸が共有されずに、てんでばらばらに知識が散乱して、「これは○○のパクリだ!」という叫びが繰り返されていくのかなあと。せめて、パクリだと言うのではなく、「これは○○の影響を受けている」と指摘することで点と点を結びつけて教養の糸を伸ばしていくようになればいいとは思いますが。そうやって好奇心の幅を広げていくのはとても楽しいことですから。そう言えば不勉強にして知らなかったのですが、山下和美の「不思議な少年」はマーク・トウェインの同名の小説をモチーフにしていたんですね。今度読んでみようと思います。

まあ、脊髄反射でパクリを叫ぶ前に、一つその辺を冷静に考えてみるのもいいんじゃないでしょうかってことで。いや、オレンジレンジについてはどうなのか知らないですが。