他者と関わり合うということ | 砂上の賃貸

他者と関わり合うということ

いきなり結論から書いてしまうと、他者と積極的に関わり合いたいと思う人は、極めて少ないのだろうと思う。

こと日本においてはそうだし、欧米の都市部のように人種、国籍が異なる人間同士の交わりが比較的多い地域にしても変わらないだろう。ただ、彼らは日常生活の上でそういった他者との交流をこなす必要があるゆえに、他者とのコミュニケーションのスキルも備えていれば必要性も実感しているのかもしれない。

まあ、外国のことはよくわからないから置いておく。日本を母国とし、日本語を話し、日本に生まれ育った一人の人間として実感を持って考えられるのは日本における状況くらいだ。たとえ海外に移住したとしても、strangerとしてしかその国、都市のことは考えられないだろうから。いくら想像力を働かせて相手の身になったとしても。

順序が前後してしまったが、ここで言う他者とは単に自分以外の人間を指しているのではない。共通の基盤が希薄で相互理解が必ずしも予期できない相手が他者だ。そして、これは同じ言語を使っていても当然存在する。同じ言語だからと言って一つ一つの言葉から双方がイメージするものが近しいとは限らないのだから。むしろかけ離れていて当然と思った方がいいかもしれない。

年齢や地域によって差はあるかもしれないが、30年近く前に都内のやや西に生まれた僕にとって、地域の身近なコミュニティは、かつてあった存在だ。人によっては今もそういったコミュニティの存在を実感しているかもしれないし、人によっては一度も実感したことがないかもしれない。

核家族化が問題視されたり、ワンルームマンションの建設に反対する運動があったりしたものの、時代の要請は地域のコミュニティを解体する方向に向かい、そしてそれは大部分において実現した。互いに没交渉、不干渉となる生活が訪れた。ともすれば、それこそが人を束縛しない正しい自由のあり方かのように喧伝された。

しかし、果たしてそれが本当の自由なのだろうか。結局のところ、かつてこの国にあったコミュニズムや父家長制からの短絡な反動に過ぎなかったのではなかろうか。だからこそ、本来ならコミュニティが消失して必然と他者との関わり合いが増え、コミュニケーションスキルが磨かれるはずにもかかわらず、大半の人はそのスキルを獲得していない。コミュニケーションスキルの代わりに便利なテクノロジーを使いこなすことで、他者との関わりから逃れることに成功してしまった。そして、人々は自分の居場所を求めて極小のコミュニティに属するか、国家全体を覆う巨大な価値基盤を夢見るしかなくなってしまった。

先に書いたように、他者とは相互理解が予期できない。だから、他者と接することはわずらわしく困難を伴う。互いの言葉の間に生じる齟齬を埋める努力が必要だし、そのために互いに違和感をぶつけ合い、双方の基盤としている価値観を少しずつ理解していく必要が生じる。しかし、たとえわずらわしくとも、それを行うことでしか互いの隙間を埋めていくことはできない。他者との関わり合いの中では避けて通れないことだ。

だが、現代の日本において、他者の価値観を理解することは、関わり合わないことと同義になってしまっている。例えば切込隊長は「各論全員否定」の社会学の中でこう書いている。

誰しもが違う価値観を持ち、それを認め合うのが社会の礼儀だとするなら、その礼儀を突き詰めると「なるだけ違う価値観の人たちとは付き合わない」という結論になる。

この考えを批判するつもりはない。実際のところこの考えが今の世の中の現実だ。例えば、電車の中で化粧をする女性に対し、それを非難する声がある。
「常識外れだ」
しかし、この言葉は彼女たちには届かない。彼女たちのコミュニティの常識では電車内での化粧は許されるからだ。そして、「価値観を認める」という考えのもと、その行為は現実には許容されている。直接とがめる人など皆無だ。

しかし、それが本当に「価値観を認める」ということなのだろうか。電車という一つの閉じられた空間の中で化粧をするという行為は、人によってはとても下品で不快な行為だ。だからこそ彼女たちを侮蔑するような本まで出版されて、話題にまでなった。本来なら、そのような不快感もまた、一つの価値観として尊重されなければならないはずだ。

もちろん、一方の価値観が尊重されればもう一方の価値観はこの場では我慢を強いられることとなるが、「価値観を認める=関わり合わない」という理屈によって片方に服従を迫るのではなく、対話によって収まるべきところに収まるのが望ましい。対話をすることで少なからず感情は和らぎ、相手を理解する気持ちが芽生えるからだ。もし相手を理解する気があればだが。

しょせん理想論にすぎないという気持ちはある。昨今のネット上の風潮を見ても、2ちゃんねるに対する反動からか、人のサイトやブログにおもむいて違和感一つ投げかけることすらはばかられる雰囲気が少なからずある。トラックバックを飛ばして批判などもってのほか。うかつにレスポンスを発したら過剰な警戒からかとても低姿勢な態度を取られて、レスポンスを発した人が悪いことをしたような妙な気持ちになっているところを目にしたこともある。

しかし、そのようにして他者との関わり合いを皆が皆で避け続けて、ただひたすら自分に合う小さなムラ(ともすれば一人きりかもしれない)にこもって生き続けていけるのだろうか。とてもそうは思えない。

この長々と書いた言葉も、あるいはただの道徳的な物言いとして回収されてしまい、届かないのかもしれない。しかしそれでも、今こうやって言葉を書き連ねて発信することが可能なのだから、せめてそれくらいのことはやっておこう、そんな気持ちでこのエントリを書きました。最後まで読んでくれた人、ありがとうございます。

参考:このエントリを書くにあたって直接インスピレーションを受けたエントリ
記識の外 差別と他者性。
若隠居の徒然日記 異質なものを受け入れる努力
切込隊長BLOG(ブログ) 「各論全員否定」の社会学