いくら頑張っても成績が上がらない?^^

気にすることねぇ~んじゃねぇ^^っていうか、

焦ることはねぇ~んじゃねぇ^^

そして年齢層のそういった平均は『もっと』気にすることはないよ^^

 

動物には(部分的にも)異時性による遅滞や促進があるからね^^

 

つまり、発育や成長は停止・促進・遅滞・一時停止・コマ送り・早送り・巻き戻しをしていて、

その人が請け負った『生活史戦略』に叶うように身体や脳が応えているんだよ^^

記憶や理解(脳)自体の細部でも同じことをしているだろうね^^

 

大切と思えることは、

お前の『生活史戦略』は何か!それだと思うよ^^

 

つまり、結果論を用いて後悔や反省やあきらめを導くのではなく、

過程を見つめ自分を試せる分野を知ることだよ^^

 

 

「僕らは口で言うほど結果を求めるわけじゃない。

その都度ある予測にヒットした感動を味わっているだけだよ。」

by と~ちゃん^^

『生態系が崩れる』

輸入によって持ち込まれた木材などに、

そこでは今まで存在できなかった『種』がまぎれていたとしよう^^

あるいは『観賞用』として持ち込まれた『種』がいるとしよう^^

それは輸入者の『利益や目的』のもとに行われたことだろう。

 

そしてそこに『利益』がなければ『用不用の原理』を利用して排除してしまう・・・・・

つまり、融通を利用した『利益』が新しい環境をつくるんだ^^

 

そのことによって『生態系が崩れる』

 

それでもね^^

偶然にも運ばれた『種』は分布域の拡大に成功した『種』なんだよ^^

天変地異や気候の変動、災害などによって命懸けの移動をするのではなく、

その色彩や形態、仕草や特性という本来進化してきた適応的意義とは別の『選抜』という、

『前敵応』の効果で成功し、また変化しているんだ^^

 

何億年もの間、自然環境の変化のもとで生態系は移り変わった。

恐竜がこの世界に存在しないのもその過程のせいだと思うよ^^

生態系や環境が変わっていくのは当たり前の話で、

遠い昔に憧れるのは・・・・・・。

 

だから、

と~ちゃんは自分を根本とは思わない^^

ただ単に社会に馴染もうとも思わない^^

でも、お前のことが気になるのは本当だよ^^

「あいつは生理的に受け付つけない!」と、時々聞くが、その感覚は、いつから芽生えたのだろうか?その感覚は、なぜ生じるのだろうか?


きっと、経験の中でかかった病に対し、常識、一般が包み込まれた処方箋を飲み込んだ効果だろう。


そしてそれは、他者も自分にも自己・自我そのものではないことを、この「五蘊」から聞き取れる。習慣か、執着か、一時の作用の組み合わせか・・・・・それだけであると・・・・・。


幼いころ、自分に影響を及ぼすものを、怖いとも(お化け、ゲンコツ、雷、火事・・・・)、心地良いとも(マンガ、おもちゃ、テレビ、母親・・・・)、苦しいとも(物の取り合い、比べられる、甘えたい、親の喧嘩・・・・)色々と、あっという間に吸収してきたはずだ。しかし、今はどうだろう?習慣・執着・一時の作用にまかせっきりではないだろうか・・・・・?


幼いころ、ある影響に対しそれを理解するまでの静寂な時間が在ったとは感じないだろうか?

つまり、その静寂な時間を耐え、ある方向に向けられる「感」を理解していた。そう、・・・・・吸収していたのではないだろうか?

私たちは、静寂にならなくてはならない時間を忘れている。


知識の備わった私たちにとって、取って代わるものは、「忍耐」だ!

少しの「忍耐」で幼き頃の吸収力は、今の私たちに、また、働きかけるのではないだろうか・・・・・?

その頃の記憶は、決して消えてはいない!


ただ、記憶の上に塗り重ねられた知識という記憶が邪魔をしているだけだ!


その経験を分解してみよう!


どうせ、バラバラな身体と心と脳なら、分解しやすいだろう・・・・・。

私たちは自動的に身分(学生・専門職・管理職・親であると)を主張することを自身に強制されている。しかしそれは、決して悪いことではない。だって理解し易いから。

が、自動的になりすぎると「強制」が「執着」になってしまう。つまり、自身の身分を理解することを忘れ、自身より身分を主張するのである。心から主張したものは心に帰らなくてはならない(フィードバック)。心から主張したものを、身分に積み重ねてはならない。

配線を傷つけられたり、間違えれば

  • 漏電-あらゆる危険の可能性
  • 短絡-衝突
  • 不点-無感覚・無視

いろいろなことが生じる。電気は正直だ。

実は、心も正直な故にあらゆる表現をするのだ。

親が子供を叱る。

子供は反省をし「ごめんなさい」と謝る。

その心を親としての身分に返してはならない。

それは自身の心に帰らなくてはならない。

だから、両者とも成長があるのだ。

【行蘊 : 意志作用・形成作用】


この蘊は、行動するときにともなう自信、欲心、怠慢、不安などに関すし、性格特性(持ち味)と言われているものである。私たちはここに関する特性(持ち味)を守り、入れ込み、育てることを最大の関心事としている。批判されたり、褒められたりすれば自分自身のこととして感じられるものだ。つまり、私たちが感情的になり反応するのは、この最大の関心事を自己や自我と見ていることを示している。

「自己・自我の発見」のように思われるが、人の性向は動機や情緒とともに変化をする。重要なのは、ここにある感心事は私たちが普段から考えている、ただの習慣であることということだ。つまり、この特性(持ち味)は最大の関心事ゆえに、思考を繰り返し時とともに変化をする。それでも、私たちは自己・自我が、ずっとあるかのように感覚的に留める・・・・・。

だとしたら、

この感覚はどこから起きているのか?この関心事が自己・自我でないのなら、この感覚は何なのか?

仏教の聖典「論蔵」の教えのカテゴリーにある「五蘊」を心身に聞かせ教えることは、日常生活であれ社会生活であれ起業しそのビジネスで成功し続けてゆくには、最大の教えの一つであろう。なぜなら、私たちは個人であれ社会であれ世界であれ何かとの関連の中に常に在るからである。関連なくしては生活もビジネスもなく、もちろんあらゆる選択肢も存在できないのである。

独りでないから、怒ることもできる

独りでないから、喜ぶことができる

独りでないから、悲しむことができる

独りでないから、楽しみがある

独りでないから、反省がある

独りでないから・・・・・・

ここで、終わらせるようなことはしてはいけない。大雑把な理解はできるが、もっと深く追求しなくてはいけない。だからこそ、関連を大切にできるのだ。

では、その「感情」はどこに関連しているのだろう?その「感情」に影響を与えているのは何なのか?

【想蘊 : 表象作用(識別・衝動)】


この蘊は、何かが起きていることの認識・識別そして、行為への基本的な反応のことを語る。その中には三つの衝動があると言われている。 それは、自分の所に来てくれるように働きかけるものへの「情熱や欲望」、自分から遠ざけるようとするものへの「攻撃や怒り」、自分とは関係がないものへの「幻滅や無視」であるという。物事をとらえる瞬間に習慣的に自分に関連して識別されるというのだ。つまり、その識別されるものに即して自動的な(心を含まぬ、記憶だけを含んだ)衝動がある。この基本衝動が自己・自我を語る執着という行為に駆り立てているということなのだ。

だから私たちは、自動的なことに気づかぬまま(心で気づいていたとしても)、言語を操る人間として生き、それすらも自動的に繰り返していることも知らぬまま、僕が(私が)僕で(私で)あるためにと(個性であると)執着しているのである。

しかし、「感情」は芽生えることもある。得意としていなかった感覚器官に種を植え水を与え発芽するように・・・・・。その時にも私たちはそれを自己・自我があるかのように判断する。しかし、それは私にも「こんなところがあった」と、いうだけで、自己・自我とはだれも言えないだろう・・・・・。

では、自動的の中に組み込まれた自己・自我執着は誰なのか・・・・・?

知覚とは、心的意識を有し感覚器官を通して事物や身体の状態を知る働きである。つまり、感覚器官により身体は空間的に関連づけられ一体の独立した人間として心的意識を通し知覚する。それでは、「心的意識」とは何か?仏教の聖典「論蔵」から引用してみよう。

個人を構成し、経験の各瞬間を構成する心身の複合体には、「五蘊」といわれる五つの「蘊(人間の存在を構成する要素)」がある。

  1. 色蘊 : 身体・肉体
  2. 受蘊 : 感受作用
  3. 想蘊 : 表象作用(識別・衝動)
  4. 行蘊 : 意志作用・形成作用
  5. 識蘊 : 認識作用

この「五蘊」の一番初めの「色蘊」が物質的なことに基づくと考えられるのに対し、残り四つは心的作用である。



【色蘊 : 身体・肉体】


身体・肉体と物質的・物理的なことである。厳密には、感覚器官とその目標や目的(対象物)という感覚にいいおよぶ。それは、目と視界、耳と音、鼻と香り、舌と味、身体・肉体と触れるもの、心と思考である。つまり、知覚の物理的装置のことである。ここで心の器官と思考が感覚とその目標や目的(対象物)として認められるのは、経験においてそのように現れ、感じることができるからだ。見えるものを目で知覚するのと同じように、思考を心で知覚すると感じる。


【受蘊 : 感受作用】

経験には、こころよい、ふゆかい、そのどちらでのないものとして区分けすることができる。心身の感じ方があるのだ。つまり何かにより生起する感情は、自分の得意とする感覚器官をくすぐるため非常に気になるものだ。そして、心と思考は絶えず楽な方向を求め(自分の得意とする感覚器官を磨くために鍛える苦痛の行為も、満足という快楽を求めための行為と判断しえる)苦を避けようとする。しかし、心身が苦に出会うとき激しい感情(怒りや悲しみ、脱落感や失望感など)と共に感情の塊として自身を扱い、知ってか知らぬか刻々と変化をする。

とりあえず、ここまで・・・・・。


つまり、感覚器官には自分自身であるための、生きている証の、もっともな物理的な関係が存在している。身体を感覚づける場としてあり、そこから世界を見て世界に関連付けているのである。そしてそこのある感情は、他者から見て本性にも見えるが、個人的には感情の塊は個人に多少なりとも反省的影響を与えるが、感情の塊自体に自己・自分自身であるとはだれも言わない。いったとしても、「そういうところが、私にはある」と、言うだけだ。ある程度の性向は認めつつも、自己の知覚は認められないのである。

では、感情に影響しているのは何なのか・・・・・?

感覚、感情、知覚、思考、欲望などの各部分に任せた主張は、知識人のように幾つかの各部分の様々な経験を語り、馴染みある経験世界へ逃げ込み、心的娯楽を求め、新たに落ち着きなく襲ってくる経験という感覚の中に、執着・不安・多重人格・不満足感という絶えざる「苦」を噛みしめる。


そしてそれは、悪循環を繰り返し耐えざるを得ない「苦」という、考えることも疑うことも説明することもない、習慣として自身の中にバラバラに存在している。




それでも私たちは、確かな「自己」の感覚とともに理解する。



しかし、明晰で馴染みある世界で楽に理解したいと・・・・・望むのである。



そしてその「自己」は、独立した一つの基盤のように表現し、それを守り育てることを目下の関心事としている。


ある指導者は、こう言う・・・・・

「利己と利他、喜悦と苦痛が生じるのは、我々がこの曖昧な自己性の感覚とあまりに強く結びついているからだ。「自己」と感情的に関わり、執着するあまり、それを当然と認めてしまう。」

と・・・・・・。

この性向は、いつからあるのだろう・・・・・?

身体と心と脳が一体化した【一貫性】



我々はあらゆるところに自己といわれる縄張りと、生活世界といわれる領土に境界線を引く。



分離された世界をさらに分解し、恣意的な思考と言語を使い身体と心と脳が別々に存在しているかのように暮らしている。



身体と心と脳が、バラバラであっても一個人であり、その中には確実に自我・個性というものを持ち、状態的には一体化しているように見える。




しかし、深く「身体としての自分」「心の中の自分」「脳の記憶の中にある自分」という三者と交わると、理不尽(脳)で無秩序(心)でわがまま(身体)な生命体を表現する。



ある時は、組織の中の行動と、日常生活との行動の中に。



ある時は、一般常識と、日常常識との中に。



ある時は、不況と政治との中に。



ある時は、男性と女性との中に。



ある時は、この中に・・・・・。




我々はこんなにも体の中がバラバラなのに、どうやって秩序や根拠を求め何故、執着するのか・・・・・?