私たちは自動的に身分(学生・専門職・管理職・親であると)を主張することを自身に強制されている。しかしそれは、決して悪いことではない。だって理解し易いから。

が、自動的になりすぎると「強制」が「執着」になってしまう。つまり、自身の身分を理解することを忘れ、自身より身分を主張するのである。心から主張したものは心に帰らなくてはならない(フィードバック)。心から主張したものを、身分に積み重ねてはならない。

配線を傷つけられたり、間違えれば

  • 漏電-あらゆる危険の可能性
  • 短絡-衝突
  • 不点-無感覚・無視

いろいろなことが生じる。電気は正直だ。

実は、心も正直な故にあらゆる表現をするのだ。

親が子供を叱る。

子供は反省をし「ごめんなさい」と謝る。

その心を親としての身分に返してはならない。

それは自身の心に帰らなくてはならない。

だから、両者とも成長があるのだ。

【行蘊 : 意志作用・形成作用】


この蘊は、行動するときにともなう自信、欲心、怠慢、不安などに関すし、性格特性(持ち味)と言われているものである。私たちはここに関する特性(持ち味)を守り、入れ込み、育てることを最大の関心事としている。批判されたり、褒められたりすれば自分自身のこととして感じられるものだ。つまり、私たちが感情的になり反応するのは、この最大の関心事を自己や自我と見ていることを示している。

「自己・自我の発見」のように思われるが、人の性向は動機や情緒とともに変化をする。重要なのは、ここにある感心事は私たちが普段から考えている、ただの習慣であることということだ。つまり、この特性(持ち味)は最大の関心事ゆえに、思考を繰り返し時とともに変化をする。それでも、私たちは自己・自我が、ずっとあるかのように感覚的に留める・・・・・。

だとしたら、

この感覚はどこから起きているのか?この関心事が自己・自我でないのなら、この感覚は何なのか?