現在では、「一貫性」をある規則やビジョンの名のもとに足並みを揃え行動するものとして扱い理解している。または、それにより人を操ろうとする族が多いようだ。


規則という行動の単純化そして、規則を背景に持った心的な逃げ道。目標・目的(ビジョン)という基盤を持ちたがる常習的思考、これは我々が社会で生きるための法則を至極幼いころから教育の一環として、心に問われてきた課題のような気がする。



常習的思考には、抽象的な根拠といわれるものを持たせ、基盤(自我・自己)というものを独立したものとし、自身と社会と戦うための、または、説明するための知識を必要とする。


そして、記憶として残したその知識は、身体と心と脳が一体化しないために規則やビジョンを切望する。


さらに根拠と基盤を求め、戦いと説明のために「一貫性」のない自我を形成することになる。


しかしそれは、絶望や失望などを恐れるがための、高い代償を払う保険(規則・ビジョン・根拠・基盤)として受け入れているだけなのだ。


たとえその自我で、成功・完成・的中したとしても、次なる保険が必要となるだろう・・・・・?


絶望や失望などなどの無い、身体と心と脳が一体化された「一貫性」とはどうあるべきなのか・・・・・?

私の求める「愛」との出会いとは、男女関係ではなく、戦略術や攻略術を学ぶことでもなく、人間という生命が「共存・共依存」しているものの価値と出会うためである。

ただの見て取れる「共存・共依存」の表象的価値ではない。

そしてこれは、挑戦でもない。実験でもない。そしてもはや、ジャウォースキーによる影響も消えつつある。

戦後の日本は、高度成長期を迎え多方面の社会で独立的活躍をした。その活躍の信念はどうだったであろう?きっと一貫性のある何かを持ち一丸となって信念を貫いたのであろう・・・・・。

その一貫性とは何か?と、考えたときに浮かぶのが、戦時中に覚えた理不尽な感覚だ。親・兄弟が戦争に奪われ、残されたものが家庭を守る。国のため、私たちのために闘っているのだと・・・・・。

戦うべき者は、この国を守るために出土し、または、この国を守るために死を志願し、守るべきもののために必死になった・・・・・。

そう、生命を守るために・・・・・。

その信念は戦後にも根付き、高度成長期を迎える。それは意識に深く結びつき引き続くこととなった。戦争・戦後を知るものは、一貫性のあり方を無意識の中に理解し迷うことはなかったはずだ。しかし、その一貫性の外側には信念をくみ取れずさらに更新した概念や、もっと古き時代の概念にしがみつく族もいたはずだ・・・・・。

つまり、一貫性の中にあったのは、「互いの生命を守る」「愛するべきもののための守る」、「だから成長する」というものだろう・・・・・。

私の行っている、この実践内容は変わりつつある・・・・・。

今、その一貫性はあるだろうか・・・・・?現在、共存・共依存は絶えたのだろうか・・・・・?この時代、生命の価値は「どう」あるべきものなのだろうか・・・・・?という、私の実践に変わってきている・・・・・。

清らかさとは何か?(実践 十八日目より)それは、利己的でも利他的でもない「空っぽ」の状態のことではないだろうか。

愛を感じるとは、品物や言葉(利己的)ではなく、何かを与えた満足感という優越感に浸るため(利他的、心身に満足感を与えるという意味で利己的と同一視もできる)ではない。

もちろん人を好きになることでもない。

双方向で、心に至高の寛大さ、穏やかさそして心を強くする、心を和ませる「力」である

私を悩ませ、私を突き動かしているもの、それはただ単に頑なな基盤となる「モノ」に執着し維持し、なくなれば絶望するというギャンブラー的な日常だ。

また、そこから這い上がれば強くなれるという、あるはずのない方程式の型にはまっていただけだったみたいだ・・・・・。

目的も目標のない他人には優柔不断に見える自分、根拠もない何かを感じ憧れる自分。つまり「空っぽ」の自分。

汚れも根拠も疑うことも知らない空虚な「空っぽ」の心・・・・・

その瞬間が、その状態が、その始まりの状態が、最高に清らかで(無知と思われるかもしれないが)最高に暖かみのある無条件な心の清らかさ、

と言えるのではないだろうか・・・・・。

受け入れるものはあっても、失うものはない状態のことであろう・・・・・・。

清らかさとは何か?(実践 十八日目より)それは、利己的でも利他的でもない「空っぽ」の状態のことではないだろうか。

愛を感じるとは、品物や言葉(利己的)ではなく、何かを与えた満足感という優越感に浸るため(利他的、心身に満足感を与えるという意味で利己的と同一視もできる)ではない。

もちろん人を好きになることでもない。

双方向で、心に至高の寛大さ、穏やかさそして心を強くする、心を和ませる「力」である

私を悩ませ、私を突き動かしているもの、それはただ単に頑なな基盤となる「モノ」に執着し維持し、なくなれば絶望するというギャンブラー的な日常だ。

また、そこから這い上がれば強くなれるという、あるはずのない方程式の型にはまっていただけだったみたいだ・・・・・。

目的も目標のない他人には優柔不断に見える自分、根拠もない何かを感じ憧れる自分。つまり「空っぽ」の自分。

汚れも根拠も疑うことも知らない空虚な「空っぽ」の心・・・・・

その瞬間が、その状態が、その始まりの状態が、最高に清らかで(無知と思われるかもしれないが)最高に暖かみのある無条件な心の清らかさ、

と言えるのではないだろうか・・・・・。

受け入れるものはあっても、失うものはない状態のことであろう・・・・・・。

清らかさとは何か?(実践 十八日目より)それは、利己的でも利他的でもない「空っぽ」の状態のことではないだろうか。

愛を感じるとは、品物や言葉(利己的)ではなく、何かを与えた満足感という優越感に浸るため(利他的、心身に満足感を与えるという意味で利己的と同一視もできる)ではない。

もちろん人を好きになることでもない。

双方向で、心に至高の寛大さ、穏やかさそして心を強くする、心を和ませる「力」である

私を悩ませ、私を突き動かしているもの、それはただ単に頑なな基盤となる「モノ」に執着し維持し、なくなれば絶望するというギャンブラー的な日常だ。

また、そこから這い上がれば強くなれるという、あるはずのない方程式の型にはまっていただけだったみたいだ・・・・・。

目的も目標のない他人には優柔不断に見える自分、根拠もない何かを感じ憧れる自分。つまり「空っぽ」の自分。

汚れも根拠も疑うことも知らない空虚な「空っぽ」の心・・・・・

その瞬間が、その状態が、その始まりの状態が、最高に清らかで(無知と思われるかもしれないが)最高に暖かみのある無条件な心の清らかさ、

と言えるのではないだろうか・・・・・。

受け入れるものはあっても、失うものはない状態のことであろう・・・・・・。

「専門」とは、極限られた知識(やりかた)を持つ一方向で熟練された者をいう。


例えば、家族を持つあなたが一戸建ての注文住宅を買ったとしよう。


間取り・キッチン・照明・外観など理想通りのマイホームを想像する。



が、細部までは及ばない・・・・・。



及ぶはずがないのである。




あなたからの情報を取り入れ対応するどんな建築家・設計士・住宅会社でも、つまり「エージェンシー」はあなたのイメージを「びったり」に重ねることは不可能だからだ。




人の色感覚にみられるように、「青」にも多種多様な「独自色」があり、それは生得的な感覚なのである。



ただ単に反射が表した鏡面状の「色」ではなくそれぞれの系統の経験と生命により表される「独自の色」であり「エージェンシー」により理解されるものではないのである。



そして又聞きによる「エージェンシー」からの注文による専門家、つまり「エージェント」は細部に触れるが、








細部は「エージェント」より決定づけられた情報により細部の細部まで専門の知識を働かせるのである。




だから




完成し、いざ住んでみると、不満な部分が残るものだ(心当たりの人もいるだろう)。



それはなぜか?



そこに住んだ人が全体を知る者(外観を含めた内部(一貫性)の観察者であり、



オーナーも「エージェンシー」なのである。



外観を観察するのが「エイジェンシー」であり、

「エージェント」は、 機能を観察するのである。



つまりあなたは、社会的交換理論の中でただ単に、入力と出力の計算、支払いと受け取り、という利己的主義と利他的主義が入り混じった混沌とした世界の中で暮らしているだけのことなのである。






つまり、不満とは混沌とした世界での「やりかた(専門)」の中で独立した利己的・利他的な手段を選択してるにすぎないのである。

直観とは、我々の経験とDNAにより誘導される感覚能力と仮定しよう。


するとさまざまな専門分野で否定の理論が生じる。



しかし、専門はあくまで専門であり全体を知った上の解釈ではないことに気付かされる。




それはある実験装置の中での結果であり、まだ創造されない実験手段を用いれば



新しい結果が生じるという、可能性があることに気付く。

つまり、執着心(専門)と規則性の習慣(社会生活・日常生活の二面性)がある限り「新しい出会いはない」ものなであると仮定した場合、




そこにはある実験装置(執着・習慣)の中に存在している身体・心身があり、



結果は予測しやすい状態へと常習的に身体・心身を導いているのである。



この考えが仮定的であったとしても、的当であるなら



「執着心(専門)と規則性の習慣(社会生活・日常生活の二面性)」



の固定的概念からは抜け出せるはずだ。


しかし、既成の知識・経験・入りまじり影響を与え合った記憶が邪魔をし、



区別するもの、



同一として扱うもの、



様々な強制する何かが身体・心身のどこかに存在している。



強制はされるが根拠のない表象であることはわかっている。



しかし、強制するものは根拠づけるなにかを訴えているようだ・・・・・。





出会う感情や性向を否定するわけではなく、



ただ清らかな「愛」を探しているのである・・・・・。



人間として・・・・・



人種関係なく・・・・・。

時間に関する思考習慣は実に様々だ。




また、状況・精神状態・明暗・生活習慣などにより多色多用に変異する。




時間という概念を持ち始めたのは、いつなのか・なぜなのか?




時間に縛られているという感覚は、なぜおこ起こるのか?そんなことを考えているともう一つの疑問が持ち上がる。




時間を削るとは、どんな状態のことを言うのか?どの疑問も経験の上で成り立つ疑問だ。




しかし、経験という事実をを脇に置いたとき、時間そのものの意味を失うことになることに気付いた。




「時間に対して環境は依存しえない」関連的なものであり実は環境にとっては「空っぽ」の状態だと・・・・・。





例えば、「この問題を○○分以内に解きなさい」という課題を与えられたとしよう。私は○○分以内では解けず、解くために必死になって解こうとする。しかし、それが解けたのが一ヵ月後だとしても解答は変わらないものだとしたらどうだろう・・・・・?「解答」自体、与えられた時間に依存するだけの結果でしかなく、平均的な数字・記号を求めるためだけの法則でしかないものということだ。その時間内に解くという、環境を作り出しているのは、その時間内という概念をもつ人の、平均的な抽象物を取り出すための常習的な思考であり、解答自体は時間には依存していないのである。




解を求めるのか、水準を満たすための解を求めるのか?




区別を「○○時間・一ヵ月」という値に取り決めるのは、我々が取り決めた法則での中で、平均も不安定になっていることすら、解答の意味は解答を出しているのに気付いていない。




実は「空っぽ」で解すら知らぬ「モノ」を雇っているにすぎないのであろう・・・・・。




【私事】

今日、遅行をしてきた社員と出会い「お前の布団はそんなに良い布団なのか?」と聞いたら、「すみません!何も言えないです・・・・・」と答えていた。彼には皮肉に聞こえたかもしれない。しかしそれは、時間に縛られた習慣的に執着する概念そのものであろう・・・・・。

関係上の付き合いの場合、表面だけで振る舞い個人を主張する。


もちろんそうでない方々もいるだろう。


しかし、両者とも心に問い詰められ経験してきたことの事実に直面すると、経験の中の仮説(予測)の理論へと逃げ込んでゆく。



思考の持つ選択肢は経験に依存しそれに対して仮説(予測)を立てるものだ・・・・・。



例えば、「○○は、○○で○○だろう・・・・・?」。良くも悪くも自身は経験と仮説(予測)の中に感情の塊として自身を扱うことができるのだ。つまり、閉ざされた心の中であるものを選択している・・・・・。






私の求める、「開かれた心」とは、経験と仮説(予測)の中間に位置する「空っぽ」の状態のことをいうのではなかろうか?



私は思う・・・・・。無関心ではなく、悩む理由もなく、迷う意味すらない、何でも吸収できる指向の状態なのではなかろうか?



瞬間的に芽生える自己・自我はあっても、根本的に存在する「自己・自我のない状態」のことではなかろうか・・・・・?



これが確かなら、そんなことで心の扉が開くのなら、試してみる価値は十分にある(しかし、また私は感情の塊として仮説(予測)立てている)。



しかしながら、非常に困難で経験と文化と系統がそれを邪魔する作業である。








そして、それも私の経験の一部となり、一時的に成功しても次の機会には、きっとまた邪魔をするだろう・・・・・。

過去を知ることも、



現在を知ることも、



疑い(過去も現在も)を持つことも、



それに対し「知る」こと自体に出会いがある。



心を揺さぶることにより、



ほんの少し心の扉が開き瞬間でも覗くことができ、



感覚にとどめることが出来るなら、



私はこんなにも迷うことはなっかっただろう・・・・・。