現在では、「一貫性」をある規則やビジョンの名のもとに足並みを揃え行動するものとして扱い理解している。または、それにより人を操ろうとする族が多いようだ。
規則という行動の単純化そして、規則を背景に持った心的な逃げ道。目標・目的(ビジョン)という基盤を持ちたがる常習的思考、これは我々が社会で生きるための法則を至極幼いころから教育の一環として、心に問われてきた課題のような気がする。
常習的思考には、抽象的な根拠といわれるものを持たせ、基盤(自我・自己)というものを独立したものとし、自身と社会と戦うための、または、説明するための知識を必要とする。
そして、記憶として残したその知識は、身体と心と脳が一体化しないために規則やビジョンを切望する。
さらに根拠と基盤を求め、戦いと説明のために「一貫性」のない自我を形成することになる。
しかしそれは、絶望や失望などを恐れるがための、高い代償を払う保険(規則・ビジョン・根拠・基盤)として受け入れているだけなのだ。
たとえその自我で、成功・完成・的中したとしても、次なる保険が必要となるだろう・・・・・?
絶望や失望などなどの無い、身体と心と脳が一体化された「一貫性」とはどうあるべきなのか・・・・・?