仏教の聖典「論蔵」の教えのカテゴリーにある「五蘊」を心身に聞かせ教えることは、日常生活であれ社会生活であれ起業しそのビジネスで成功し続けてゆくには、最大の教えの一つであろう。なぜなら、私たちは個人であれ社会であれ世界であれ何かとの関連の中に常に在るからである。関連なくしては生活もビジネスもなく、もちろんあらゆる選択肢も存在できないのである。

独りでないから、怒ることもできる

独りでないから、喜ぶことができる

独りでないから、悲しむことができる

独りでないから、楽しみがある

独りでないから、反省がある

独りでないから・・・・・・

ここで、終わらせるようなことはしてはいけない。大雑把な理解はできるが、もっと深く追求しなくてはいけない。だからこそ、関連を大切にできるのだ。

では、その「感情」はどこに関連しているのだろう?その「感情」に影響を与えているのは何なのか?

【想蘊 : 表象作用(識別・衝動)】


この蘊は、何かが起きていることの認識・識別そして、行為への基本的な反応のことを語る。その中には三つの衝動があると言われている。 それは、自分の所に来てくれるように働きかけるものへの「情熱や欲望」、自分から遠ざけるようとするものへの「攻撃や怒り」、自分とは関係がないものへの「幻滅や無視」であるという。物事をとらえる瞬間に習慣的に自分に関連して識別されるというのだ。つまり、その識別されるものに即して自動的な(心を含まぬ、記憶だけを含んだ)衝動がある。この基本衝動が自己・自我を語る執着という行為に駆り立てているということなのだ。

だから私たちは、自動的なことに気づかぬまま(心で気づいていたとしても)、言語を操る人間として生き、それすらも自動的に繰り返していることも知らぬまま、僕が(私が)僕で(私で)あるためにと(個性であると)執着しているのである。

しかし、「感情」は芽生えることもある。得意としていなかった感覚器官に種を植え水を与え発芽するように・・・・・。その時にも私たちはそれを自己・自我があるかのように判断する。しかし、それは私にも「こんなところがあった」と、いうだけで、自己・自我とはだれも言えないだろう・・・・・。

では、自動的の中に組み込まれた自己・自我執着は誰なのか・・・・・?