感覚、感情、知覚、思考、欲望などの各部分に任せた主張は、知識人のように幾つかの各部分の様々な経験を語り、馴染みある経験世界へ逃げ込み、心的娯楽を求め、新たに落ち着きなく襲ってくる経験という感覚の中に、執着・不安・多重人格・不満足感という絶えざる「苦」を噛みしめる。
そしてそれは、悪循環を繰り返し耐えざるを得ない「苦」という、考えることも疑うことも説明することもない、習慣として自身の中にバラバラに存在している。
それでも私たちは、確かな「自己」の感覚とともに理解する。
しかし、明晰で馴染みある世界で楽に理解したいと・・・・・望むのである。
そしてその「自己」は、独立した一つの基盤のように表現し、それを守り育てることを目下の関心事としている。
ある指導者は、こう言う・・・・・
「利己と利他、喜悦と苦痛が生じるのは、我々がこの曖昧な自己性の感覚とあまりに強く結びついているからだ。「自己」と感情的に関わり、執着するあまり、それを当然と認めてしまう。」
と・・・・・・。
この性向は、いつからあるのだろう・・・・・?