「あいつは生理的に受け付つけない!」と、時々聞くが、その感覚は、いつから芽生えたのだろうか?その感覚は、なぜ生じるのだろうか?


きっと、経験の中でかかった病に対し、常識、一般が包み込まれた処方箋を飲み込んだ効果だろう。


そしてそれは、他者も自分にも自己・自我そのものではないことを、この「五蘊」から聞き取れる。習慣か、執着か、一時の作用の組み合わせか・・・・・それだけであると・・・・・。


幼いころ、自分に影響を及ぼすものを、怖いとも(お化け、ゲンコツ、雷、火事・・・・)、心地良いとも(マンガ、おもちゃ、テレビ、母親・・・・)、苦しいとも(物の取り合い、比べられる、甘えたい、親の喧嘩・・・・)色々と、あっという間に吸収してきたはずだ。しかし、今はどうだろう?習慣・執着・一時の作用にまかせっきりではないだろうか・・・・・?


幼いころ、ある影響に対しそれを理解するまでの静寂な時間が在ったとは感じないだろうか?

つまり、その静寂な時間を耐え、ある方向に向けられる「感」を理解していた。そう、・・・・・吸収していたのではないだろうか?

私たちは、静寂にならなくてはならない時間を忘れている。


知識の備わった私たちにとって、取って代わるものは、「忍耐」だ!

少しの「忍耐」で幼き頃の吸収力は、今の私たちに、また、働きかけるのではないだろうか・・・・・?

その頃の記憶は、決して消えてはいない!


ただ、記憶の上に塗り重ねられた知識という記憶が邪魔をしているだけだ!


その経験を分解してみよう!


どうせ、バラバラな身体と心と脳なら、分解しやすいだろう・・・・・。