今日のお題はこれ


「うまくやろう」を手放したら、なんかうまくいくようになった

 

 

 

大事なことなので、大きく書いておくね。


これは、僕がいろんなジャンルで実感してきた、経験則。


物書きのお仕事でも、ギタリストとしての活動でも。

 

 

人間関係もそう。そういえば、「逆立ちがうまくなりたい」のような状況でも、そうだったな。




「うまくやろうと思う意識」っていうのが、何においても、驚くほど足を引っ張ってるんだよね。いやホントに。




例えば、ライブハウスでギターを演奏する機会があるとしよう。

 

 

そりゃあ、せっかくの機会だし、いい演奏がしたいと思う。だから、当日に向けて練習する。


それ自体は、まあ、誰でもやることなんだけど。


だけど、、、演奏日が近づくにつれて、緊張感がどんどん高まっていき、、


当日は、朝起きた時から吐き気を感じるほど、ガチガチになってる、、、なんてことが、以前の僕は、よくあった。

 

取り立てて大きなステージではなくとも、だ。せいぜいキャパ10人ぐらいのライブハウスの、ちょっとしたイベント的ステージでの演奏でも、ものすごく緊張していた。

 

 

実は、けっこう最近まで、そんな感じだった。




去年のある日。ライブ直前に、やっぱりそんな感じでガッチガチになって指が震えてきたりして、、


あぁ、こりゃあまともな演奏ができそうにないなぁ、、、みたいな気分になった時、、


ふと思いついて、カウンセラーをやってる友人にメッセを送った。めちゃガチガチだ、もうダメ、、みたいな感じで。


そしたら、こんな返事がきた。

 

 

 

 

「うまくやろう、は他人軸。

 

 今のまーくんは、人目を気にしてるんだよ。

 お客さんはどうでもいい。自分の中の心地よさに、意識を集中して。」



 

あ、そうか、オレはいま、人目を気にしてるのか。


この言葉が、ストンとふに落ちた。




音楽をやってる人(プロの演奏家)は、よく、「お客さんに喜んでもらえるようないい演奏をしたい」みたいなことを口にする。


これは、料金をもらって人前で演奏するのだから、ある意味当然のことなんだけど、、


「ココロのあり方」という観点から見た場合、、こういう考え方は、他人軸=「人目を気にする」というスタンスと、容易に混線してしまう。

 

 

 


特に、、普段から他人軸的なものの考え方でを採用しがちな人が、「うまくやろう」「喜んでもらいたい」などと考えると、、、
 

 

まあ、ほぼ確実に、自分を見失う。




はい、僕もずーっと、そこにいたわけですね。


 

 

「いい演奏をしたい」「喜んでもらいたい」といった表現では気づけなかったその落とし穴が、、


「人目を気にしてるんだよ」ってはっきり言われたら、「ああそうか」と、ストンと、見えた。



 

で、、そしたらね、、笑っちゃうほど肩が楽になって、、、

 

 

その日はとてもいい演奏ができた。

 

 

まあ、ミスもあったけど、ノリが抜群に良かった。何より、自分がとても、楽しめた。

 

 

そして、、、その日以降、ライブに向けて、以前のように極端に緊張することは、なくなった。

 

 

 

 

つまり、、

 

 

 

「うまくやろう」を手放したら、「人目を気にする気持ち」が抜けていった

 

 

 

ってことなんですわ。

 

 

 


最初にも書いたけど、、これ、、ほんと、いろんなことに当てはまる。




もう一つ例を挙げようか、、、




我が家に、ボディバランスボードっていうものがあるのね。

 

 




小さなシーソーみたいなものの上に両足で立って、バランスを取る。

 

 

これはもう、10年ぐらい前に撮った動画だな。。


で、、、これに、時計を見ながら、乗るわけですよ。


何分乗ってられるかな、って感じで。


すると、、、秒針がもうちょっとで一回り、っていうあたり、50秒〜55秒ぐらいになってくると、、バランスがグラグラして倒れそうになる。


で、、まあそこはなんとか乗り越えて、仮に、1分は無事クリアできたとするでしょ。そしたら、そこからしばらくは平安なのね。


でも、、、1分50〜55秒ぐらいになると、、、またぐらつきだす。。


そして、うまく2分をクリアできるとまた落ち着いて、、、、2分55秒ぐらいから、またグラグラ、、、



、、、みたいなことを、笑っちゃうぐらい見事に、繰り返す。

 

 

これは、どう考えても、、



「もうちょっとで大台だ、うまくやれよ!」

 

 

 

っていうココロの声に反応して、、バランスを崩しているのね。



うまくやろうとすると、うまくいかなくなる。


カラダに任せておけばいいのに、、つい、うまくやりたくなる。


都合よくコントロールしたくなる。いい結果を出したくなる。


そうやって、、、自分軸を見失うから、、バランスが崩れる。




「うまくやろう」から遠ざかるほど、結果として、うまくいく。



心に留めておいてね〜

 




 

 


ちかさんのブログに、「依存」の話が出ていて、、


依存のことを「これがないとダメという沼」と表現していて、あーうまいこと言うなあと思いながら読んでいた。



で、、!そしたらふと、これと真逆の表現の沼もある、ということに気づいた。



「これさえなければいいのに、という沼」だ。



病気さえなければ幸せなのに

あの親さえいなければ幸せなのに

デブでさえなければ幸せなのに

低学歴でさえなければ幸せなのに

貧乏でさえなければ幸せなのに

コミュ障でさえなければ幸せなのに




まあ、いろいろあるわなぁ。



表現する文章の構造がピタッと重なるのたから、、たぶんココロの中の構造も、よく似てるんだろう。


だから、こういうのも、一種の依存なんだろうな。


「これさえなければ」を握りしめてる。

そこに寄りかかって、それがよりどころになってしまって、、自分の足で立てない。立とうとしない。




例えば、タバコがやめたいのにやめられない人がいたとして、、


その人がタバコ(ニコチン)に依存してるのは、ほぼ間違いないわけだが、、、


それだけじゃなく、さらに、「タバコさえなければ幸せなのに」にも依存してる、なんていうパターンも、あるのかもしれない。








一つ前の記事↓で、、



この本に「編集・執筆」として関わった、、、と書いた。


編集はともかく、、「執筆」って何? っていうのが、もしかしたらわかりにくいかもしれない。




これは文字通りそのままで、文章を書く役割、ってことです。

 

 

以前は、「ゴーストライター」というちょっと日陰者的な言い方で呼ばれたりもしたんだけど、、、


最近は、「ブックライティング」という明快な呼び名が、かなり普通に使われるようになってきた。

 

 

参考:wikipwdia ブックライター

 

 

 

 

 

僕は、ジャーナリストという立場で、自分名義の文章(取材をして、記事にする)を書くこともあるし、、


ブックライターとして、著者が別にいる書籍を、著者に成り代わって書く仕事をすることもある。

 

 

一時期はブックライターの仕事の方が多いぐらいだったんだけど、最近はずっとやっていなくて、、


今回の「ヒモトレ介護術」は、かなり久しぶりのブックライティングだった。

 

 

自分名義の執筆と、ブックライティング。同じ「文章を書く」という仕事でも、中身は全然違う。

 

自分名義の時は、自分の意見や解釈を書けるのに対して、ブックライティングは、あくまでも著者の見解を表現するのが目的だ。


自由度や、スタンスに、大きな隔たりがある、、、





、、、と、今まで僕はそんなふうに思っていたんだけど、、


今回の「ヒモトレ介護術」のライティングを通じて、、

 

 

実は、自分名義の執筆とライティング、本質的には見かけほどの違いはない、と感じるようになった。


 

 

 

自分名義で書く時は、「自分の意見や解釈が書ける」と先ほど書いたけれど、、、


ここで、「自分の意見」なるものが、どこから生まれてくるのか、という問題がある。


実は、自分が、我ながらこれはいい文章になったな〜と思う時、主観的な感覚としては、その文章は、自分の頭の中で考えて構築した、というよりは、まるで「どこかから降ってきた」ように感じられることが、ままあるのだ。

 

 

文章の神様みたいな存在がいて、そこから何か啓示的なものがツルツル降りてきて、、

 

 

その流れに乗ってするすると文字を連ねていったら、あら自分でもびっくり、こんな展開になっちゃって、、そして、へー次はこっちか、、それで最後は、ホホォー、なんと、いい感じにまとまったんじゃなーい? 

 

 

、、のように感じられる流れで進んでいくことが、少なからず、あるのだ。

 

 

とても自分が考えたとは、思えない。


自分は、メッセージの通り道。いたこ。語り部。

 

 

そんなふうに思えるとこが、少なからず、ある。

 

 

で、、この感覚は、、、ブックライティングのときに感じる感覚と、実は、そんなに違わない。

 

 

自分が“通り道”になって、メッセージが出ていく、というところは、共通なのだ。

 

 

 

 

 

これはたぶん、スポーツの世界で言われる「ゾーン」の感覚と通じるものなんだろう、と、個人的にはそんなふうに思っている。

 

たぶん、その領域まで行けば、名義の自分なのか他に著者がいるのか、という違いは、それほど大きな差ではないのだろう。

 

 

 

 

 

ただ、、、僕の感覚では、こういう“通り道”感覚で代行執筆ができる相手は、たぶん、かなり限られる。

 

 

誰が相手でもできるというわけじゃない。

 

 

今回は、著者が浜島さん(と藤田さん、小関さん)だったから、そんなに苦労なく、すんなりできた。

 

 

たぶん、根底にあるものが共通だから、無理せず“通り道”になれる。

 

 

そこに食い違いがあると、、努力しても、できない気がする。





まあいずれにしても、、今回のこの本は、書き手という立場からしても、今までの自分のスタンスを超えたところに踏み込めた気がする。自分にとっては、そんな記念碑的な本だ。



 

 

「ヒモトレ介護術」(浜島貫著、小関勲監修、日貿出版社)が、いよいよ発売になった。
 

 

 

 

 

 

 

 

 


アマゾンのジャンル別ランキングを見ると、社会福祉関連カテゴリーでトップ、介護カテゴリーで2位。上場の滑り出しのようである。


この本、僕は、「編集・執筆」という立場で関わっている。
 

自分が携わった本が売れるのは、素直に嬉しい。

ぜひ、多くの人に読んで欲しいと思っている。



「介護術」と銘打っているように、本の具体的な内容は、高齢者や障害を持つ人の介護の現場における、ヒモトレ活用法の紹介が中心である。



寝たきりのおばあちゃんにこんなヒモトレをしたら、足が動くようになった、とか、ずっと口から食べられなかったのに嚥下ができるようになった、とか、そんな話。


ただ、、この本の一番の見どころは、そういった「ヒモトレが○○に効いた」的な部分ではなくて。


むしろ、ヒモトレを使うことを通じて、ご本人や家族の間で、その人たちの生き方、人生哲学のようなものがいろいろと浮き彫りになっていく、その辺りの醍醐味が、実に、感慨深いのである。


要介護状態にあるような人にとって、「生き方」という言葉は、「死に方」と言い換えてもほぼ同義である。


どのように死んでいくのか。

 

 

そこを見据えて、いま、どう生きるのか。

 

 

そんな姿が、どんどん、あらわになっていく。

 

 

そこにヒモトレが入ってくることによって、どう生きるかの純度、というか、“嘘のなさ”が、引き上がっていくのである。


カラダが整うことで、ココロの中の“嘘のなさ感度”のような部分も、鮮明になっていくのだろう。


この辺が、実に、面白い。

 

 

介護とか、いま直接関係ない人にとっても、たぶんすごく面白い話になっていると思う。


何しろ僕自身が、書いていてとても面白かった。

 

 


 

今日は、市内のコワーキングスペース「リゾフィス」で、仕事の原稿を書いていた。

 

こんなところね↓

 


※写真は、リゾフィスサイトからいただきました。

 

 

 

ここはフリーランサーや在宅勤務者が仕事をするための、会員制スペース。

藤沢市内にはこんな感じのところがいくつかある。たぶん、こういうスタイルで働く人が多い街なんだろう。

 

リゾフィスは、僕のお気に入り。すごく居心地がいいので、仕事がはかどる。疲れも残らない。

 

で、、、原稿が一通り終わって、まだちょっと時間があるので、じゃついでにブログも書こうか、と。笑

 

 

 

 

僕は東京にいた頃から、居心地の良い執筆場所を探して、カフェ、ネットカフェ、シェアオフィス、カラオケボックスなど、いろいろと彷徨っていた。

 

 

 

居心地の良いところで執筆すると、、

 

 

執筆がはかどるのはもちろん、、できたものが、読んで気持ちいい感じになる。

 

 

書き手が快適な状態で書いた文章は、行間に流れる“空気感”も、爽快になる。

 

 

 

 

で、、、たぶんそれは、読み手にも伝わるのね。

 

 

 

 

逆に、怒りだとか、欲求不満に満ちたような状態で書いた文章は、、、読むと、なんだか不快になる。

 

 

自分が以前書いたもの(雑誌の記事でも、ブログでも)を読み返すと、たまに、そんな感じの、すごい“荒れた”空気感がブワ〜って行間から溢れてくるものがあって、、、

 

 

ああ、この頃しんどかったんだなーって、いろんなことを思い出す。

 

 

たとえ、文章の中身はそれなりにいいことが書いてあったとしても、そういう文章はきっと、読んだ人をハッピーにしない。

 

 

むしろ、その嫌な感じの感情が、連鎖していくんだろうな。






ブログなんかだと、結果として同じような不満を抱いた人ばかりが集まってきて、変なコミュニティーになったりすることも。

 

 

なんでクレーマーみたいなのばっかり集まるんだろう?とかって思う人は、、、それは、自分の波長と共振する人が集まってるってことだからね。

 

 

 

 

こういうのが、「文章における非言語コミュニケーション」。

 

 

 


 

僕らが言葉を使って対話をしているときは、、



言葉以外にも、様々なコミュニケーションが飛び交っている。

 

 

表情とか、仕草、声のトーン、話すスピードや間合いなど、僕らは様々なチャンネルを使って、言葉の中身以外のメッセージを発信している。



こういうのを、非言語コミュニケーションという。

 

 

ほとんどの場合、それは無意識の行為だ。

 

 

同時に、相手が放つ無意識の非言語メッセージを、無意識のうちにちゃんとキャッチしてもいる。

 

 



 

 

で、、、そういう水面下の情報交換チャンネルは、対面のコミュニケーションだけじゃなくて、文字を介したやりとりでも起きているわけだ。

 

 

これが、文章における非言語コミュニケーション。いわゆる、「行間にあふれるもの」の世界だ。

 

 

 

 

 

これも、無意識のやり取り。

 

 

だから、自分が文章を書くとき、水面下の行間チャンネルでどんなメッセージを発信しているのか、自分ではなかなかよくわからない。


意識的にそれをコントロールすることも、難しい。。

 

 

まあ、村上春樹ぐらいのレベルの小説家なら、そういうところまでコントロールできるのかもしれないけど、、、

 

 

僕には、できない。

 

 

 

 

 

できることは、唯一。

 

 

自分が快適な状態で、文章を書くこと。

 

 

だから、快適な環境を探して、そこで、書く。

 

 

そしたらきっと、いい感じの空気が、行間から溢れていく。




というわけで、今日は、いい感じの空気が流れてるはずなんだけど、、、どう? 笑

 

 

先月、三浦半島に行ったとき、、

 

 
 
 
ホテルの隣り、「油壺マリンパーク」の売店が、ぬいぐるみ天国だった。
 
 
 
マリンパークで実際に飼育してる、人気者の生き物たちなんだよね。
 
 
 
カワウソなんかが、こんなふうに積んである
 

破壊力満点。
 
 
 
で、、、
 
 
 
いやこういうのは買ってもしょうがないでしょ、、、とかって呟きながら、なるべく目を合わせないようにしてたんだけど、、
 
 
 
最後、帰り間際、どうしても気になるのがいて、、、
 
 
 
連れて帰ってきた。。
 
 
 
それがこの子。
 
 
アオウミウシ
 

 
顔はこっち
 

お尻側も、顔っぽい感じだ
 

 
触り心地が、いい
 

弾力の“なさ”が、絶妙
 
ムギューってつまんで、、
 

ぱっと離すと、、
 
 
 
微妙に、戻りきらない、この感じ
 

 
 
青なので、、、
 
 
 
「ブルース」と名付けた
 
 
 
アオウミウシの、ブルース
 
 
 

 
以後、お見知りおきを。。
 
 

わけもなく、なんか今日は気分がイマイチだなぁ、とか、

 

 
 
なんだかココロが重くて何もやる気がしないなぁ、というようなとき。
 
 
 
まあ、そのままココロのおもむくままにゴロゴロしててもいいんだけど。
 
 
 
でも、ずーっとグダグダしてるのも飽きるし、そろそろ気分変えたいなぁ、、という気がしてきた。。
 
 
 
、、のようなとき、みなさんならどうしますか?
 
 
 
まさに今朝、僕はそんな気分で。
 
 
 
 
 
そんなとき、僕のイチオシ気分転換術は、、
 
 
ギターの弦を替えること。
 
 
 
 
ギターの弦は、消耗品。
 
スチール弦ギターなら、バリバリ弾けば1カ月ぐらいで音がヘタる。
 
交換すれば、フレッシュな音に戻る。
 
だから、基本的には、コンスタントに交換することが推奨されている。
 
 
 
 
僕は、ヘタってきた弦の音もけっこう好きなので、相当な期間、引っ張ることも多いんだけど、、、
 
それでも、弦を替えてからしばらくの、澄み渡ったキュートな音色は、、
 
 
 
やっぱりココロが洗われる思いがする。
 
 
 
替えるのは、それなりに面倒ではあるけど、、、
 
 
 
やればほぼ間違いなく、気分が明るくなる。
 
 
 
 
 
、、ということで、、こんな日だからこそ、さっそく、替えていきましょう。
 
 
ギターは、ギブソンのニックルーカスモデル。
 
 
まず、古い弦をはずす。
 
 

 
外したら、こんな感じ。
 
 
なんか、汚いよね、やっぱり。笑
 
 
新たに張るのは、これね。
 

今回はアーニーボールのアルミブロンズという弦。
 
繊細で、かわいい音色です
 
 
これを貼っていく、、
 

 
出来上がり
 

 
所要時間は、、、15分ぐらいかなぁ?
 
 
 
うん、、、いい音だ。
 
 
 
 
これ、、、僕にとっては「ギターの弦」なんだけど、同じような位置づけに当たるものが、人によってなにかしら、あると思うのね。
 
 
 
窓ガラスをきれいにするとか。
 
部屋を片付けてアロマを焚くとか。
 
自分のココロのあり方とダイレクトに繋がっている、身の回りの何かを見つけて、ちょっと一手間かけて、そこを整える。
 
 
 
 
まあ、、これを「義務」にしちゃうと、それはそれで、心の重しになって、かえってしんどくなりかねないんだけど、、
 
 
 
 
でも、いざ気分が盛り上がってきた、というときに、タイミングよく「一手間かける」という感覚なら、意識すれば、だれでも身につくとおもうんだ。
 
 
 
 
その「一手間」を、惜しまない。「あ、、いまだ!」って思い立った時に、シュッと、動く。
 
 
 
 
自分の気分を盛り上げるのに、けっこう役に立ちます。
 
 

親戚のおばちゃんで、ちょっと苦手な人がいたのね。

 

おしゃべりで世話好きで、気のいい人なのよ。

 

でも、なんか、相性が合わない。

 

その家へ遊びに行くと、もう大騒ぎで、いろいろ出してくれる。

 

さあこれも食べなさい、こっちも美味しいよ、遠慮しないで、ほらほら。

 

ありがたい、という気持ちもあるけど、本音で言うと、ちょっと鬱陶しい。

 

帰りにはお土産もいっぱい持たされたりして。

 

でも、、それも、なんというか、ちょっと、イマイチな感じのものが多いんだよね。笑

 

いや、もらっといてその言い方があんまりなのはわかってる。

 

でも、、まあ、せっかくだからありがとうって言ってもらうけど、正直、そんなに嬉しい感じではない。

 

 

 

、、、っていう感じで、悪い人じゃないのはわかるけど、なんだかなぁ、、って、ちょっと苦手意識があった。

 

 

 

それが、、、あるとき。 自分もけっこう大人になってからね。

 

どんなきっかけだったかは、よく覚えてないけど、、、

 

ふと、、こんな思いが、ふっと降りてきた。

 

 

 

 

あれ、、あのおばちゃん、、僕のことを、、大好き、なんじゃないか?

 

 

 

 

なんかね、、ふと、そう思ったのよ。

 

 

 

 

それで、、そう思ったら、それまで鬱陶しいとしか思えなかったいろんな行動が、

 

ああ、、大好きだからやってるんだ、そっかそっかぁ、、って、スーッと、見え方が変わったの。

 

まあ相変わらずめんどくさいとか、センス悪いなーとか、そういうのはあるんだけど、

 

でも、、そこまで嫌じゃない。

 

っていうか、、ああ、あのおばちゃんも、なんか可愛いなー(笑)、、みたいな感じ。

 

 

 

 

それまでは、そのおばちゃんの行動を、目に見える表面的な部分だけでしか捉えていなかった。

 

すると、うっとうしい、めんどくさい、かえって迷惑、、みたいな反応しか湧いてこなかった。

 

 

 

それが、何かの弾みで(笑)、目に見える行動の向こう側にある「気持ち」と、接点ができてしまったわけね。

 

そしたら、それだけで、、、目に見える行動の意味合いが、全く違って見えるようになってしまった。

 

 

 

これは、「そう思わなきゃ」って自分に言い聞かせたとか、動機を読み取る努力をしたとか、そんなのじゃなくて。

 

本当、何かのはずみで、ふと、そんなふうになってしまったのよ。

 

 

 

 

こういうのって、、面白いなーって思うのよ。

 

 

 

 

人間は、身の周りのあらゆる物ごとを、色眼鏡で見て、意味付けしてしまう生き物です。

 

「偏見」や「先入観」のオンパレード

 

偏見なしにモノを見ることは不可能、と言っていいほど。

 

 

 

 

そこには、ネガティブな偏見もあれば、ポジティブな偏見もある。

 

あらゆるものは、どちらかの方向に偏って、解釈されているんだろう、おそらく。

 

 

 

と、いうことは、、、

 

 

 

自分がいま、ネガティブな印象を抱いて見ているものは、、

 

おそらく、本当のところは、そこまでネガティブじゃない。

 

実際はたぶん、もっとニュートラル。もしかしたら案外ポジティブかもしれない。

 

でも、ネガティブさをうんと増幅する色眼鏡で見ているから、ネガティブに見えてる。

 

 

 

 

何かのはずみで違う色眼鏡に付け替えたら、全く違って見えるはず。

 

 

 

 

もし、色眼鏡を付け替えたら、どんなふうに見えるんだろう?

 

そんな仮定をした上で、少し想像してみる。

 

 

 

 

もし、あの人が実は私のことを好きなのだとしたら。

 

もし、私がみんなから愛されているのだとしたら。

 

もし、私がいるだけで、みんなが幸せになるのだとしたら。

 

 

 

そう、仮定の上の妄想でいいので。

 

っていうか、どうせどっちにしたって、偏見なんだから。

 

だったら、仮定してもいいじゃん、別に。

 

 

 

、、ぐらいの気楽さで、もしもそうだったらどんな感じになるんだろう、って、ちょっとだけ、イメージしてみる。

 

 

 

 

もしかしたら、いま自分がいるのとは全く違う世界の空気が、ふっと感じられる、かもしれない。

 

 

 

 

お伊勢参り。


この前の書き込み↓は、帰りの新幹線の中で、ビール飲みながら(半分寝ながら)書き込んだので、自分としては、なんかちょっと物足りない気がしてて。


 

いや、あんまりごちゃごちゃ書かないで、これぐらいの方が読みやすいわ、っていう声もあるかもしれないけど、、笑

 

 

自分の頭の整理でもあるので、、改めて、振り返っておきます。

 

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最近はだいたい年に2回ぐらい、行ってるのね、伊勢神宮。

 

年の初めと、夏の暑い頃。

 

 

 

で、、ブログやFaceBookの過去記事表示機能が、「1年前のあなたはこんなことしてました」的なお知らせをくれるので、、

 

そういうのを見てると、ああ去年の今頃、お伊勢さんに行ってたのかぁ、、とか、思い出したわけ。

 

そしたら、、、、ふと、今年もそろそろ行きたいな、って思った。

 

 

 

あと、もう一つ。

 

今、我が家の一室には、簡易型の神棚(というか、壁掛け式お札ケース、ぐらいのもの)が設えてあって、僕は朝晩、そこに向かって参拝したり、その部屋で瞑想的なことをしている。

 

そこに向かうと、自分の中の心身のバランス的なものが、ピタッと整う。そんな気がしてね。

 

 

ケースの一番表には、お伊勢さんのお札が収まっている。

 

だから気分的には、毎日お伊勢さんにご挨拶しているのね。

 

 

 

 

で、、、毎日のご挨拶に伴うやり取りの中で、思ったこととか、気づいたこととか、引き寄せてもらったこととか、いろいろあって、、、

 

そうした一連のできごとのお礼に行きたいな、と、そんな気持ちもあった。

 

 

 

、、、といったような経緯があって、8/31~9/1の一泊で、行ってきましたお伊勢参り。

 

突然、思いついたこともあり、今回は完全に一人旅ね。

 

 

 

31日は夜に現地入りして、ご飯食べて、お風呂入って、寝る。それだけ。

 

1日。5時半ぐらいに目が覚めた。

 

カーテンを開けたらちょうど陽がのぼるところだった。

 

 

 

さて、出かけよう。6時半にはチェックアウトして、外に出た。

 

 

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伊勢神宮は、「外宮」と「内宮」という二つの敷地に分かれている。

 

ホテルからは、外宮の方が近くて、歩いて行ける距離。なのでまずは外宮に向かう。

 

 

 

 

外宮、内宮とも、敷地内に、本宮以外の別宮がいくつもある。

 

「伊勢参り」といえば、基本的には、それらのお宮を順番にお参りして歩くことを指すのだろう。

 

もちろん僕も、基本的にはそうしているのだが、、、

 

それ以外にも、個人的に、そこに行く(会う)のをとても楽しみにしているものが、いくつかある。

 

 

 

敷地内の木々だ。

 

 

 

 

僕が初めてお伊勢参りに行ったのは、2016年の11月。

 

この時、、内宮の本宮に至るちょっと手前あたりで、、、1本の樹と出会った。

 


2016年11月撮影

 

 

立派な木々が立ち並ぶ中において、、、ひときわ凛々しく、力強くそそり立つ(ように見えた)この1本が、あたかも自分に何か語りかけてきたような気がして、、特別な親近感を感じた。

 

まるで旧知の友人のように、親しく交わることができたような気がした。

 

しばらくの間、ただ側にたたずみ、、、そこを離れるときには、「またこいよ」って言われた、そんな感じだったのだ。

 

 

 

それから、、年に1、2度のペースで訪れるたびに、この木が「やあ、よくきたな」と迎えてくれる(ような気がする)、、そんな不思議な“交流”が続いた。

 

自分の気持ちとしては、伊勢参り=この木に会いに行く。そんな感覚だった。

 

 

 

やがて、外宮の方でも、そんなふうなつながりを感じる木が現れた。

 

 

内宮でも、まあいろいろあって、、これ以外にも、特別なつながりを感じる木が出てきた。

 

 

さらに、川(五十鈴川)の流れや、そこで見られる生き物たちも、僕にとっては神社の“カミ”的な存在感の一部と感じられるようになっていった。

 

 

 

、、、といった感じで、僕にとってのお伊勢参りは、「お宮に参拝する」というお参り本来の行為以外に、敷地内の木々や各種自然物と“交感”する、という部分でもいろいろなことを感じる、そんな営みになっていったのである。

 

 

____________

 

 

さて、、外宮についた。

 

橋を渡り、奥へと続く砂利道を歩く。

 

朝の空気は静かに澄んでいて、砂利を踏みしめる「ザク、ザク、ザク」という足音だけが、心地よく響く。

 

右手へゆるくカーブしながら伸びる道をゆっくりと進み、一番奥の本宮へ。

 

一礼して鳥居をくぐり、二礼二拍。パンと打ち鳴らす柏手の音が、静けさの中に響き渡る。

 

ふー、、朝一番の参拝は、なんと気持ちのいいことか。

 

 

 

 

本宮を後にし、池の向こう、別宮があるエリアへ進もうと思った、、そのときだ。

 

 

 

 

池のほとり、多くの参拝者が通るところからちょっと脇へ外れたあたりに、数本の樹木に囲まれて少し物陰っぽくなった空間がある。

 

木に囲まれて日差しが遮られ、足元もやや湿っぽい感じ。

 

参拝路を覆う明るく掃き清められた白い砂利は、その辺りではもう途切れている。

 

やや淀んだ印象に見えるそのわずかな空間。僕は今まで、参拝のたびに何度もその脇を通過してきたはずだ。

 

 

 

だけど、そんな空間があると意識してそこを見たことは、おそらくなかった。

 

 

 

そのあたりを通過するとき、おそらく自分の意識は主に、明るい砂利で覆われた通路や、池と反対側に立ち並ぶ見事な樹木の並木、建物の方などに向けられていて、、

 

 

その、暗く沈んだ小さな空間からは、むしろどちらかというと、視線を逸らしていたような気がする。

 

 

 

そんな、淀みのような狭い空間が、なぜか、妙に気になった。

 

擬人的にいうなら、、、それに、呼ばれたような気がした。

 

 

 

 

砂利の通路から脇に外れ、、木々の間のちょっとした広場のようになったその空間へ、足を踏み入れてみた。

 

 

 

おもしろいことに、、、明るい通路からは“物陰の淀み”のように見えたその空間は、中に身を置いてみると、なかなかどうして居心地が良く、静けさの中に、ほっこりくつろげる気持ちのいいスペースに感じられた。

 

 

樹木と、腐葉土の香りを、風が運んでくる。

 

 

ふーっと息をつく。みぞおちがゆるみ、息が深く、ゆるやかにながれるのが感じられた。

 

 

淀み? いやむしろ、木(気)のエネルギーがそこで力をため、密度を高めているんじゃないか、そんな感覚さえ覚えた。

 

 

 

へーー、こりゃおもしろい。

 

 

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、、、と、こんなふうに始まった今回のお伊勢参り。

 

 

 

ここで紹介したこの“出会い”が、まさにそのまま、今回の全体の雰囲気を表しているように思う。

 

 

 

これまで訪れたときはほとんど目に止めることがなかった、「暗い場所」や、「奥まったところに生えた目立たない木(巨木であっても通路からは目に留まりにくい)」、「コブやコケだらけのグネグネした木」などが、なぜか今回はやたらと目に留まり、、、

 

 

そういった、どちらかといえば陰性の性質を帯びた存在と、ずーーっと“交感”し続ける、そんな1日だったのである。

 

 

 

 

もちろん、これまで“交流”のあった、眩いばかりの明るいオーラを放ちながら堂々とそそり立つ木々たちとも、一通り接触はしたのだが、、

 

今回、こっちの彼らは、ずっと黙っているように感じられた。

 

拒否されているわけではない。ニコニコ親しげにはしている。でも、言葉は何も発さない。あたかもそんなイメージの雰囲気。

 

 

 

 

つまり、、、今回の伊勢参りにおける僕の“お題”は、どうやら、「陰陽の“隠”と交わること」だったようだ。

 

 

 

 

陰陽とは、「陰」と「陽」がそれぞれ存在しているわけではない。

 

一つの物事、一つの存在の中に、陰的側面と陽的側面が共存している。

 

光があるから、影ができる。光のないところには、影もできない。

 

光から影だけを切り離すことはできないし、光のない“純粋な影”というものも、存在しえない。

 

光あっての影であり、影あっての光、である。

 

 

 

 

今まで僕は、お伊勢参りにおいて、神社の中に宿る主に陽的な「もの」や「こと」(明るく、力強く、清々しく感じられるものごと)に目を向け、それらと交感し、そこからいろいろな刺激を受け取る、そういう体験を積み上げてきた。

 

 

要は、そこを訪れることで、心がスッキリして、清々しい気分になる、ということだ。

 

 

それは、「神社」という場の一般的なイメージ=「清々しい、気がいい、清められている」とも概ね合致するわけで、、

 

 

お伊勢参りのあり方として、それはそれで良かったと思うのだけれど、、、

 

 

 

神社が祀っている「カミ」というもの(超越的なもの、全体性を宿すもの)をどう捉え、どう交わるか、と、目線を一段階あげて「お参り」という課題をそういうふうに捉えるなら、、

 

 

 

“それ”の陽的側面だけ見ているのでは、もの足りない。陰の側にも目を向け、味わい、感じ、交わることが大切になってくる。

 

 

 

なぜなら、それを両面合わせた全体で、初めて「カミ」になるのだから。

 

 

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内宮までのお参りが全て終わり、さて、外に出ようか、、と思ったそのとき

 

 

雨が、降り始めた。

 

 

最初はポツポツぽつ。。それが、徐々に強まり、、

 

 

やがて、バケツをひっくり返したような激しい土砂降りになった。

 

 

 

ずぶずぶになって歩きながら、、心の中からはむしろ、歌い出したくなるような爽快な気分が湧いてきた。

 

 

 

 

これまで、伊勢神宮を訪れて、天気に恵まれなかったことはない。

 

 

たいていは、晴天。曇りでも清々しい風が抜けていた。

 

 

あるいは、台風が来るかも、と言われていたのに、ギリギリ大丈夫だった、とか。

 

 

そんなふうに天気に恵まれていることが、これまで「自分はお伊勢さんから歓迎されている」と感じる一つのよりどころになっていたのは、たぶん間違いない。

 

 

 

そんな流れからの、、この土砂降り。

 

 

 

光あっての、影。影があっての、光。

 

 

 

まさに、これだよ。

 

 

 

 

 

全体を部分に分けて個別に捉え、それらを足し合わせても、それは全体にはならないという。

 

 

「全体」というまとまり感のある把握(感受)が起きたときに初めて、「おお、全体とはこういうことだったか」という実感が湧いてくる。

 

 

そして、どこまでの広がりを「全体」として把握できるか、は、その人の心身が持つ全体観(世界観)次第である。

 

 

より広い世界をひとつながりで捉えられるほどに、奥深くて豊かな「全体」を実感することができる。

 

 

 

 

どうやらお伊勢さんのカミさまは、今回、「そろそろ影になっているあたりとも交わっていいんじゃないかい?」っていうメッセージを、投げてきたみたいだ。

 

 

 

 

まあ、、きっと、それだけ仲良しになってきたってことだろう。よしよし。