お伊勢参り。


この前の書き込み↓は、帰りの新幹線の中で、ビール飲みながら(半分寝ながら)書き込んだので、自分としては、なんかちょっと物足りない気がしてて。


 

いや、あんまりごちゃごちゃ書かないで、これぐらいの方が読みやすいわ、っていう声もあるかもしれないけど、、笑

 

 

自分の頭の整理でもあるので、、改めて、振り返っておきます。

 

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最近はだいたい年に2回ぐらい、行ってるのね、伊勢神宮。

 

年の初めと、夏の暑い頃。

 

 

 

で、、ブログやFaceBookの過去記事表示機能が、「1年前のあなたはこんなことしてました」的なお知らせをくれるので、、

 

そういうのを見てると、ああ去年の今頃、お伊勢さんに行ってたのかぁ、、とか、思い出したわけ。

 

そしたら、、、、ふと、今年もそろそろ行きたいな、って思った。

 

 

 

あと、もう一つ。

 

今、我が家の一室には、簡易型の神棚(というか、壁掛け式お札ケース、ぐらいのもの)が設えてあって、僕は朝晩、そこに向かって参拝したり、その部屋で瞑想的なことをしている。

 

そこに向かうと、自分の中の心身のバランス的なものが、ピタッと整う。そんな気がしてね。

 

 

ケースの一番表には、お伊勢さんのお札が収まっている。

 

だから気分的には、毎日お伊勢さんにご挨拶しているのね。

 

 

 

 

で、、、毎日のご挨拶に伴うやり取りの中で、思ったこととか、気づいたこととか、引き寄せてもらったこととか、いろいろあって、、、

 

そうした一連のできごとのお礼に行きたいな、と、そんな気持ちもあった。

 

 

 

、、、といったような経緯があって、8/31~9/1の一泊で、行ってきましたお伊勢参り。

 

突然、思いついたこともあり、今回は完全に一人旅ね。

 

 

 

31日は夜に現地入りして、ご飯食べて、お風呂入って、寝る。それだけ。

 

1日。5時半ぐらいに目が覚めた。

 

カーテンを開けたらちょうど陽がのぼるところだった。

 

 

 

さて、出かけよう。6時半にはチェックアウトして、外に出た。

 

 

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伊勢神宮は、「外宮」と「内宮」という二つの敷地に分かれている。

 

ホテルからは、外宮の方が近くて、歩いて行ける距離。なのでまずは外宮に向かう。

 

 

 

 

外宮、内宮とも、敷地内に、本宮以外の別宮がいくつもある。

 

「伊勢参り」といえば、基本的には、それらのお宮を順番にお参りして歩くことを指すのだろう。

 

もちろん僕も、基本的にはそうしているのだが、、、

 

それ以外にも、個人的に、そこに行く(会う)のをとても楽しみにしているものが、いくつかある。

 

 

 

敷地内の木々だ。

 

 

 

 

僕が初めてお伊勢参りに行ったのは、2016年の11月。

 

この時、、内宮の本宮に至るちょっと手前あたりで、、、1本の樹と出会った。

 


2016年11月撮影

 

 

立派な木々が立ち並ぶ中において、、、ひときわ凛々しく、力強くそそり立つ(ように見えた)この1本が、あたかも自分に何か語りかけてきたような気がして、、特別な親近感を感じた。

 

まるで旧知の友人のように、親しく交わることができたような気がした。

 

しばらくの間、ただ側にたたずみ、、、そこを離れるときには、「またこいよ」って言われた、そんな感じだったのだ。

 

 

 

それから、、年に1、2度のペースで訪れるたびに、この木が「やあ、よくきたな」と迎えてくれる(ような気がする)、、そんな不思議な“交流”が続いた。

 

自分の気持ちとしては、伊勢参り=この木に会いに行く。そんな感覚だった。

 

 

 

やがて、外宮の方でも、そんなふうなつながりを感じる木が現れた。

 

 

内宮でも、まあいろいろあって、、これ以外にも、特別なつながりを感じる木が出てきた。

 

 

さらに、川(五十鈴川)の流れや、そこで見られる生き物たちも、僕にとっては神社の“カミ”的な存在感の一部と感じられるようになっていった。

 

 

 

、、、といった感じで、僕にとってのお伊勢参りは、「お宮に参拝する」というお参り本来の行為以外に、敷地内の木々や各種自然物と“交感”する、という部分でもいろいろなことを感じる、そんな営みになっていったのである。

 

 

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さて、、外宮についた。

 

橋を渡り、奥へと続く砂利道を歩く。

 

朝の空気は静かに澄んでいて、砂利を踏みしめる「ザク、ザク、ザク」という足音だけが、心地よく響く。

 

右手へゆるくカーブしながら伸びる道をゆっくりと進み、一番奥の本宮へ。

 

一礼して鳥居をくぐり、二礼二拍。パンと打ち鳴らす柏手の音が、静けさの中に響き渡る。

 

ふー、、朝一番の参拝は、なんと気持ちのいいことか。

 

 

 

 

本宮を後にし、池の向こう、別宮があるエリアへ進もうと思った、、そのときだ。

 

 

 

 

池のほとり、多くの参拝者が通るところからちょっと脇へ外れたあたりに、数本の樹木に囲まれて少し物陰っぽくなった空間がある。

 

木に囲まれて日差しが遮られ、足元もやや湿っぽい感じ。

 

参拝路を覆う明るく掃き清められた白い砂利は、その辺りではもう途切れている。

 

やや淀んだ印象に見えるそのわずかな空間。僕は今まで、参拝のたびに何度もその脇を通過してきたはずだ。

 

 

 

だけど、そんな空間があると意識してそこを見たことは、おそらくなかった。

 

 

 

そのあたりを通過するとき、おそらく自分の意識は主に、明るい砂利で覆われた通路や、池と反対側に立ち並ぶ見事な樹木の並木、建物の方などに向けられていて、、

 

 

その、暗く沈んだ小さな空間からは、むしろどちらかというと、視線を逸らしていたような気がする。

 

 

 

そんな、淀みのような狭い空間が、なぜか、妙に気になった。

 

擬人的にいうなら、、、それに、呼ばれたような気がした。

 

 

 

 

砂利の通路から脇に外れ、、木々の間のちょっとした広場のようになったその空間へ、足を踏み入れてみた。

 

 

 

おもしろいことに、、、明るい通路からは“物陰の淀み”のように見えたその空間は、中に身を置いてみると、なかなかどうして居心地が良く、静けさの中に、ほっこりくつろげる気持ちのいいスペースに感じられた。

 

 

樹木と、腐葉土の香りを、風が運んでくる。

 

 

ふーっと息をつく。みぞおちがゆるみ、息が深く、ゆるやかにながれるのが感じられた。

 

 

淀み? いやむしろ、木(気)のエネルギーがそこで力をため、密度を高めているんじゃないか、そんな感覚さえ覚えた。

 

 

 

へーー、こりゃおもしろい。

 

 

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、、、と、こんなふうに始まった今回のお伊勢参り。

 

 

 

ここで紹介したこの“出会い”が、まさにそのまま、今回の全体の雰囲気を表しているように思う。

 

 

 

これまで訪れたときはほとんど目に止めることがなかった、「暗い場所」や、「奥まったところに生えた目立たない木(巨木であっても通路からは目に留まりにくい)」、「コブやコケだらけのグネグネした木」などが、なぜか今回はやたらと目に留まり、、、

 

 

そういった、どちらかといえば陰性の性質を帯びた存在と、ずーーっと“交感”し続ける、そんな1日だったのである。

 

 

 

 

もちろん、これまで“交流”のあった、眩いばかりの明るいオーラを放ちながら堂々とそそり立つ木々たちとも、一通り接触はしたのだが、、

 

今回、こっちの彼らは、ずっと黙っているように感じられた。

 

拒否されているわけではない。ニコニコ親しげにはしている。でも、言葉は何も発さない。あたかもそんなイメージの雰囲気。

 

 

 

 

つまり、、、今回の伊勢参りにおける僕の“お題”は、どうやら、「陰陽の“隠”と交わること」だったようだ。

 

 

 

 

陰陽とは、「陰」と「陽」がそれぞれ存在しているわけではない。

 

一つの物事、一つの存在の中に、陰的側面と陽的側面が共存している。

 

光があるから、影ができる。光のないところには、影もできない。

 

光から影だけを切り離すことはできないし、光のない“純粋な影”というものも、存在しえない。

 

光あっての影であり、影あっての光、である。

 

 

 

 

今まで僕は、お伊勢参りにおいて、神社の中に宿る主に陽的な「もの」や「こと」(明るく、力強く、清々しく感じられるものごと)に目を向け、それらと交感し、そこからいろいろな刺激を受け取る、そういう体験を積み上げてきた。

 

 

要は、そこを訪れることで、心がスッキリして、清々しい気分になる、ということだ。

 

 

それは、「神社」という場の一般的なイメージ=「清々しい、気がいい、清められている」とも概ね合致するわけで、、

 

 

お伊勢参りのあり方として、それはそれで良かったと思うのだけれど、、、

 

 

 

神社が祀っている「カミ」というもの(超越的なもの、全体性を宿すもの)をどう捉え、どう交わるか、と、目線を一段階あげて「お参り」という課題をそういうふうに捉えるなら、、

 

 

 

“それ”の陽的側面だけ見ているのでは、もの足りない。陰の側にも目を向け、味わい、感じ、交わることが大切になってくる。

 

 

 

なぜなら、それを両面合わせた全体で、初めて「カミ」になるのだから。

 

 

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内宮までのお参りが全て終わり、さて、外に出ようか、、と思ったそのとき

 

 

雨が、降り始めた。

 

 

最初はポツポツぽつ。。それが、徐々に強まり、、

 

 

やがて、バケツをひっくり返したような激しい土砂降りになった。

 

 

 

ずぶずぶになって歩きながら、、心の中からはむしろ、歌い出したくなるような爽快な気分が湧いてきた。

 

 

 

 

これまで、伊勢神宮を訪れて、天気に恵まれなかったことはない。

 

 

たいていは、晴天。曇りでも清々しい風が抜けていた。

 

 

あるいは、台風が来るかも、と言われていたのに、ギリギリ大丈夫だった、とか。

 

 

そんなふうに天気に恵まれていることが、これまで「自分はお伊勢さんから歓迎されている」と感じる一つのよりどころになっていたのは、たぶん間違いない。

 

 

 

そんな流れからの、、この土砂降り。

 

 

 

光あっての、影。影があっての、光。

 

 

 

まさに、これだよ。

 

 

 

 

 

全体を部分に分けて個別に捉え、それらを足し合わせても、それは全体にはならないという。

 

 

「全体」というまとまり感のある把握(感受)が起きたときに初めて、「おお、全体とはこういうことだったか」という実感が湧いてくる。

 

 

そして、どこまでの広がりを「全体」として把握できるか、は、その人の心身が持つ全体観(世界観)次第である。

 

 

より広い世界をひとつながりで捉えられるほどに、奥深くて豊かな「全体」を実感することができる。

 

 

 

 

どうやらお伊勢さんのカミさまは、今回、「そろそろ影になっているあたりとも交わっていいんじゃないかい?」っていうメッセージを、投げてきたみたいだ。

 

 

 

 

まあ、、きっと、それだけ仲良しになってきたってことだろう。よしよし。