一つ前の記事↓で、、



この本に「編集・執筆」として関わった、、、と書いた。


編集はともかく、、「執筆」って何? っていうのが、もしかしたらわかりにくいかもしれない。




これは文字通りそのままで、文章を書く役割、ってことです。

 

 

以前は、「ゴーストライター」というちょっと日陰者的な言い方で呼ばれたりもしたんだけど、、、


最近は、「ブックライティング」という明快な呼び名が、かなり普通に使われるようになってきた。

 

 

参考:wikipwdia ブックライター

 

 

 

 

 

僕は、ジャーナリストという立場で、自分名義の文章(取材をして、記事にする)を書くこともあるし、、


ブックライターとして、著者が別にいる書籍を、著者に成り代わって書く仕事をすることもある。

 

 

一時期はブックライターの仕事の方が多いぐらいだったんだけど、最近はずっとやっていなくて、、


今回の「ヒモトレ介護術」は、かなり久しぶりのブックライティングだった。

 

 

自分名義の執筆と、ブックライティング。同じ「文章を書く」という仕事でも、中身は全然違う。

 

自分名義の時は、自分の意見や解釈を書けるのに対して、ブックライティングは、あくまでも著者の見解を表現するのが目的だ。


自由度や、スタンスに、大きな隔たりがある、、、





、、、と、今まで僕はそんなふうに思っていたんだけど、、


今回の「ヒモトレ介護術」のライティングを通じて、、

 

 

実は、自分名義の執筆とライティング、本質的には見かけほどの違いはない、と感じるようになった。


 

 

 

自分名義で書く時は、「自分の意見や解釈が書ける」と先ほど書いたけれど、、、


ここで、「自分の意見」なるものが、どこから生まれてくるのか、という問題がある。


実は、自分が、我ながらこれはいい文章になったな〜と思う時、主観的な感覚としては、その文章は、自分の頭の中で考えて構築した、というよりは、まるで「どこかから降ってきた」ように感じられることが、ままあるのだ。

 

 

文章の神様みたいな存在がいて、そこから何か啓示的なものがツルツル降りてきて、、

 

 

その流れに乗ってするすると文字を連ねていったら、あら自分でもびっくり、こんな展開になっちゃって、、そして、へー次はこっちか、、それで最後は、ホホォー、なんと、いい感じにまとまったんじゃなーい? 

 

 

、、のように感じられる流れで進んでいくことが、少なからず、あるのだ。

 

 

とても自分が考えたとは、思えない。


自分は、メッセージの通り道。いたこ。語り部。

 

 

そんなふうに思えるとこが、少なからず、ある。

 

 

で、、この感覚は、、、ブックライティングのときに感じる感覚と、実は、そんなに違わない。

 

 

自分が“通り道”になって、メッセージが出ていく、というところは、共通なのだ。

 

 

 

 

 

これはたぶん、スポーツの世界で言われる「ゾーン」の感覚と通じるものなんだろう、と、個人的にはそんなふうに思っている。

 

たぶん、その領域まで行けば、名義の自分なのか他に著者がいるのか、という違いは、それほど大きな差ではないのだろう。

 

 

 

 

 

ただ、、、僕の感覚では、こういう“通り道”感覚で代行執筆ができる相手は、たぶん、かなり限られる。

 

 

誰が相手でもできるというわけじゃない。

 

 

今回は、著者が浜島さん(と藤田さん、小関さん)だったから、そんなに苦労なく、すんなりできた。

 

 

たぶん、根底にあるものが共通だから、無理せず“通り道”になれる。

 

 

そこに食い違いがあると、、努力しても、できない気がする。





まあいずれにしても、、今回のこの本は、書き手という立場からしても、今までの自分のスタンスを超えたところに踏み込めた気がする。自分にとっては、そんな記念碑的な本だ。