先月、三浦半島に行ったとき、、
先月、三浦半島に行ったとき、、
わけもなく、なんか今日は気分がイマイチだなぁ、とか、
親戚のおばちゃんで、ちょっと苦手な人がいたのね。
おしゃべりで世話好きで、気のいい人なのよ。
でも、なんか、相性が合わない。
その家へ遊びに行くと、もう大騒ぎで、いろいろ出してくれる。
さあこれも食べなさい、こっちも美味しいよ、遠慮しないで、ほらほら。
ありがたい、という気持ちもあるけど、本音で言うと、ちょっと鬱陶しい。
帰りにはお土産もいっぱい持たされたりして。
でも、、それも、なんというか、ちょっと、イマイチな感じのものが多いんだよね。笑
いや、もらっといてその言い方があんまりなのはわかってる。
でも、、まあ、せっかくだからありがとうって言ってもらうけど、正直、そんなに嬉しい感じではない。
、、、っていう感じで、悪い人じゃないのはわかるけど、なんだかなぁ、、って、ちょっと苦手意識があった。
それが、、、あるとき。 自分もけっこう大人になってからね。
どんなきっかけだったかは、よく覚えてないけど、、、
ふと、、こんな思いが、ふっと降りてきた。
あれ、、あのおばちゃん、、僕のことを、、大好き、なんじゃないか?
なんかね、、ふと、そう思ったのよ。
それで、、そう思ったら、それまで鬱陶しいとしか思えなかったいろんな行動が、
ああ、、大好きだからやってるんだ、そっかそっかぁ、、って、スーッと、見え方が変わったの。
まあ相変わらずめんどくさいとか、センス悪いなーとか、そういうのはあるんだけど、
でも、、そこまで嫌じゃない。
っていうか、、ああ、あのおばちゃんも、なんか可愛いなー(笑)、、みたいな感じ。
それまでは、そのおばちゃんの行動を、目に見える表面的な部分だけでしか捉えていなかった。
すると、うっとうしい、めんどくさい、かえって迷惑、、みたいな反応しか湧いてこなかった。
それが、何かの弾みで(笑)、目に見える行動の向こう側にある「気持ち」と、接点ができてしまったわけね。
そしたら、それだけで、、、目に見える行動の意味合いが、全く違って見えるようになってしまった。
これは、「そう思わなきゃ」って自分に言い聞かせたとか、動機を読み取る努力をしたとか、そんなのじゃなくて。
本当、何かのはずみで、ふと、そんなふうになってしまったのよ。
こういうのって、、面白いなーって思うのよ。
人間は、身の周りのあらゆる物ごとを、色眼鏡で見て、意味付けしてしまう生き物です。
「偏見」や「先入観」のオンパレード
偏見なしにモノを見ることは不可能、と言っていいほど。
そこには、ネガティブな偏見もあれば、ポジティブな偏見もある。
あらゆるものは、どちらかの方向に偏って、解釈されているんだろう、おそらく。
と、いうことは、、、
自分がいま、ネガティブな印象を抱いて見ているものは、、
おそらく、本当のところは、そこまでネガティブじゃない。
実際はたぶん、もっとニュートラル。もしかしたら案外ポジティブかもしれない。
でも、ネガティブさをうんと増幅する色眼鏡で見ているから、ネガティブに見えてる。
何かのはずみで違う色眼鏡に付け替えたら、全く違って見えるはず。
もし、色眼鏡を付け替えたら、どんなふうに見えるんだろう?
そんな仮定をした上で、少し想像してみる。
もし、あの人が実は私のことを好きなのだとしたら。
もし、私がみんなから愛されているのだとしたら。
もし、私がいるだけで、みんなが幸せになるのだとしたら。
そう、仮定の上の妄想でいいので。
っていうか、どうせどっちにしたって、偏見なんだから。
だったら、仮定してもいいじゃん、別に。
、、ぐらいの気楽さで、もしもそうだったらどんな感じになるんだろう、って、ちょっとだけ、イメージしてみる。
もしかしたら、いま自分がいるのとは全く違う世界の空気が、ふっと感じられる、かもしれない。
お伊勢参り。
この前の書き込み↓は、帰りの新幹線の中で、ビール飲みながら(半分寝ながら)書き込んだので、自分としては、なんかちょっと物足りない気がしてて。
いや、あんまりごちゃごちゃ書かないで、これぐらいの方が読みやすいわ、っていう声もあるかもしれないけど、、笑
自分の頭の整理でもあるので、、改めて、振り返っておきます。
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最近はだいたい年に2回ぐらい、行ってるのね、伊勢神宮。
年の初めと、夏の暑い頃。
で、、ブログやFaceBookの過去記事表示機能が、「1年前のあなたはこんなことしてました」的なお知らせをくれるので、、
そういうのを見てると、ああ去年の今頃、お伊勢さんに行ってたのかぁ、、とか、思い出したわけ。
そしたら、、、、ふと、今年もそろそろ行きたいな、って思った。
あと、もう一つ。
今、我が家の一室には、簡易型の神棚(というか、壁掛け式お札ケース、ぐらいのもの)が設えてあって、僕は朝晩、そこに向かって参拝したり、その部屋で瞑想的なことをしている。
そこに向かうと、自分の中の心身のバランス的なものが、ピタッと整う。そんな気がしてね。
ケースの一番表には、お伊勢さんのお札が収まっている。
だから気分的には、毎日お伊勢さんにご挨拶しているのね。
で、、、毎日のご挨拶に伴うやり取りの中で、思ったこととか、気づいたこととか、引き寄せてもらったこととか、いろいろあって、、、
そうした一連のできごとのお礼に行きたいな、と、そんな気持ちもあった。
、、、といったような経緯があって、8/31~9/1の一泊で、行ってきましたお伊勢参り。
突然、思いついたこともあり、今回は完全に一人旅ね。
31日は夜に現地入りして、ご飯食べて、お風呂入って、寝る。それだけ。
1日。5時半ぐらいに目が覚めた。
カーテンを開けたらちょうど陽がのぼるところだった。
さて、出かけよう。6時半にはチェックアウトして、外に出た。
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伊勢神宮は、「外宮」と「内宮」という二つの敷地に分かれている。
ホテルからは、外宮の方が近くて、歩いて行ける距離。なのでまずは外宮に向かう。
外宮、内宮とも、敷地内に、本宮以外の別宮がいくつもある。
「伊勢参り」といえば、基本的には、それらのお宮を順番にお参りして歩くことを指すのだろう。
もちろん僕も、基本的にはそうしているのだが、、、
それ以外にも、個人的に、そこに行く(会う)のをとても楽しみにしているものが、いくつかある。
敷地内の木々だ。
僕が初めてお伊勢参りに行ったのは、2016年の11月。
この時、、内宮の本宮に至るちょっと手前あたりで、、、1本の樹と出会った。
立派な木々が立ち並ぶ中において、、、ひときわ凛々しく、力強くそそり立つ(ように見えた)この1本が、あたかも自分に何か語りかけてきたような気がして、、特別な親近感を感じた。
まるで旧知の友人のように、親しく交わることができたような気がした。
しばらくの間、ただ側にたたずみ、、、そこを離れるときには、「またこいよ」って言われた、そんな感じだったのだ。
それから、、年に1、2度のペースで訪れるたびに、この木が「やあ、よくきたな」と迎えてくれる(ような気がする)、、そんな不思議な“交流”が続いた。
自分の気持ちとしては、伊勢参り=この木に会いに行く。そんな感覚だった。
やがて、外宮の方でも、そんなふうなつながりを感じる木が現れた。
内宮でも、まあいろいろあって、、これ以外にも、特別なつながりを感じる木が出てきた。
さらに、川(五十鈴川)の流れや、そこで見られる生き物たちも、僕にとっては神社の“カミ”的な存在感の一部と感じられるようになっていった。
、、、といった感じで、僕にとってのお伊勢参りは、「お宮に参拝する」というお参り本来の行為以外に、敷地内の木々や各種自然物と“交感”する、という部分でもいろいろなことを感じる、そんな営みになっていったのである。
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さて、、外宮についた。
橋を渡り、奥へと続く砂利道を歩く。
朝の空気は静かに澄んでいて、砂利を踏みしめる「ザク、ザク、ザク」という足音だけが、心地よく響く。
右手へゆるくカーブしながら伸びる道をゆっくりと進み、一番奥の本宮へ。
一礼して鳥居をくぐり、二礼二拍。パンと打ち鳴らす柏手の音が、静けさの中に響き渡る。
ふー、、朝一番の参拝は、なんと気持ちのいいことか。
本宮を後にし、池の向こう、別宮があるエリアへ進もうと思った、、そのときだ。
池のほとり、多くの参拝者が通るところからちょっと脇へ外れたあたりに、数本の樹木に囲まれて少し物陰っぽくなった空間がある。
木に囲まれて日差しが遮られ、足元もやや湿っぽい感じ。
参拝路を覆う明るく掃き清められた白い砂利は、その辺りではもう途切れている。
やや淀んだ印象に見えるそのわずかな空間。僕は今まで、参拝のたびに何度もその脇を通過してきたはずだ。
だけど、そんな空間があると意識してそこを見たことは、おそらくなかった。
そのあたりを通過するとき、おそらく自分の意識は主に、明るい砂利で覆われた通路や、池と反対側に立ち並ぶ見事な樹木の並木、建物の方などに向けられていて、、
その、暗く沈んだ小さな空間からは、むしろどちらかというと、視線を逸らしていたような気がする。
そんな、淀みのような狭い空間が、なぜか、妙に気になった。
擬人的にいうなら、、、それに、呼ばれたような気がした。
砂利の通路から脇に外れ、、木々の間のちょっとした広場のようになったその空間へ、足を踏み入れてみた。
おもしろいことに、、、明るい通路からは“物陰の淀み”のように見えたその空間は、中に身を置いてみると、なかなかどうして居心地が良く、静けさの中に、ほっこりくつろげる気持ちのいいスペースに感じられた。
樹木と、腐葉土の香りを、風が運んでくる。
ふーっと息をつく。みぞおちがゆるみ、息が深く、ゆるやかにながれるのが感じられた。
淀み? いやむしろ、木(気)のエネルギーがそこで力をため、密度を高めているんじゃないか、そんな感覚さえ覚えた。
へーー、こりゃおもしろい。
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、、、と、こんなふうに始まった今回のお伊勢参り。
ここで紹介したこの“出会い”が、まさにそのまま、今回の全体の雰囲気を表しているように思う。
これまで訪れたときはほとんど目に止めることがなかった、「暗い場所」や、「奥まったところに生えた目立たない木(巨木であっても通路からは目に留まりにくい)」、「コブやコケだらけのグネグネした木」などが、なぜか今回はやたらと目に留まり、、、
そういった、どちらかといえば陰性の性質を帯びた存在と、ずーーっと“交感”し続ける、そんな1日だったのである。
もちろん、これまで“交流”のあった、眩いばかりの明るいオーラを放ちながら堂々とそそり立つ木々たちとも、一通り接触はしたのだが、、
今回、こっちの彼らは、ずっと黙っているように感じられた。
拒否されているわけではない。ニコニコ親しげにはしている。でも、言葉は何も発さない。あたかもそんなイメージの雰囲気。
つまり、、、今回の伊勢参りにおける僕の“お題”は、どうやら、「陰陽の“隠”と交わること」だったようだ。
陰陽とは、「陰」と「陽」がそれぞれ存在しているわけではない。
一つの物事、一つの存在の中に、陰的側面と陽的側面が共存している。
光があるから、影ができる。光のないところには、影もできない。
光から影だけを切り離すことはできないし、光のない“純粋な影”というものも、存在しえない。
光あっての影であり、影あっての光、である。
今まで僕は、お伊勢参りにおいて、神社の中に宿る主に陽的な「もの」や「こと」(明るく、力強く、清々しく感じられるものごと)に目を向け、それらと交感し、そこからいろいろな刺激を受け取る、そういう体験を積み上げてきた。
要は、そこを訪れることで、心がスッキリして、清々しい気分になる、ということだ。
それは、「神社」という場の一般的なイメージ=「清々しい、気がいい、清められている」とも概ね合致するわけで、、
お伊勢参りのあり方として、それはそれで良かったと思うのだけれど、、、
神社が祀っている「カミ」というもの(超越的なもの、全体性を宿すもの)をどう捉え、どう交わるか、と、目線を一段階あげて「お参り」という課題をそういうふうに捉えるなら、、
“それ”の陽的側面だけ見ているのでは、もの足りない。陰の側にも目を向け、味わい、感じ、交わることが大切になってくる。
なぜなら、それを両面合わせた全体で、初めて「カミ」になるのだから。
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内宮までのお参りが全て終わり、さて、外に出ようか、、と思ったそのとき
雨が、降り始めた。
最初はポツポツぽつ。。それが、徐々に強まり、、
やがて、バケツをひっくり返したような激しい土砂降りになった。
ずぶずぶになって歩きながら、、心の中からはむしろ、歌い出したくなるような爽快な気分が湧いてきた。
これまで、伊勢神宮を訪れて、天気に恵まれなかったことはない。
たいていは、晴天。曇りでも清々しい風が抜けていた。
あるいは、台風が来るかも、と言われていたのに、ギリギリ大丈夫だった、とか。
そんなふうに天気に恵まれていることが、これまで「自分はお伊勢さんから歓迎されている」と感じる一つのよりどころになっていたのは、たぶん間違いない。
そんな流れからの、、この土砂降り。
光あっての、影。影があっての、光。
まさに、これだよ。
全体を部分に分けて個別に捉え、それらを足し合わせても、それは全体にはならないという。
「全体」というまとまり感のある把握(感受)が起きたときに初めて、「おお、全体とはこういうことだったか」という実感が湧いてくる。
そして、どこまでの広がりを「全体」として把握できるか、は、その人の心身が持つ全体観(世界観)次第である。
より広い世界をひとつながりで捉えられるほどに、奥深くて豊かな「全体」を実感することができる。
どうやらお伊勢さんのカミさまは、今回、「そろそろ影になっているあたりとも交わっていいんじゃないかい?」っていうメッセージを、投げてきたみたいだ。
まあ、、きっと、それだけ仲良しになってきたってことだろう。よしよし。
お伊勢さん。
ちょっと前に、ふと思いついた。
赤信号は、「止まれ」のサイン。万国共通の交通ルールだ。
道を歩いていて、交差点に差し掛かったとき、信号が赤だった、としよう。
ルール上はもちろん「渡るな」という意味である。
ただ、渡ろうとしているのは片道1車線の細い道だ。ものの3秒もあれば、向こうに行けるだろう。
交通量も少ない。左右を見渡しても、車はこない。
、、、さて、あなたならどうする?
____
もちろん、「正解」は、「信号が青になるまで待つ」である。
ルールは、そうなっている、当然だ。
ただ、、、人生の選択というものは、正解でなきゃいけないのか? と問うところから、始まったりする。
この場合も、そうだろう。
ルール上は、渡らないのが正解。。。を踏まえて、その上で、私はどっちを選ぶの? って話だ。
こういう問いかけにおいては、「正解」という概念はあまり意味がない。
自分はどっちを選ぶのか、、もっと大袈裟に言えば、自分はどう生きるのか、という人生哲学の話だからだ。
「渡らない」「渡る」
どちらを選んでも、その人の人生である。本人が納得できる方を選べば、それでいい。
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ただし、、である。
ここで「渡る」を選ぶ人は、「私は自分の意思で「渡る」を選択した」という立場を、納得しやすい。
ルール上は違反だけど、自分の判断で安全を確認したから、自己責任で渡る、と、たいていは自分でもそう思っているだろう。
それに対して、、、「渡らない」を選ぶ人は、「自分の意思でそれを選んだ」とは、あんがい思いにくいのである。
「だってルールがそうなんだから、渡らないのが当たり前でしょ」っていうスタンスになりやすいのである。
まあ、、もちろん、その主張は、間違ってはいない。おっしゃる通り、なのだ、、が、、
それだと、「ルール」が隠蓑になって、「自分が選んだ」という部分が見えにくくなるのだ。
これは、信号だけの話に止まらない。
身の回りのさまざまなことに関して、終始、「ルールなんだから当たり前」っていう発想で対応してしていると、、
「自分の人生を自分で生きる」という、生きる姿勢の根幹の部分を、見失いやすいのである。
誰からも後ろ指刺されないような正しい生き方をしているつもりなのだけれど、なんのために生きてるの? とか、何をやっている時が一番幸せ? などと問いかけられると、はたと困ってしまったりするのである。
思い当たる節は、ないだろうか?
だから、、、
自分の人生を生きる練習をする途中では、ちょっとしたルール違反行為をあえてやってみると、思いのほか、多くのことをそこから学べたりする。
心屋の初級セミナー(上級だったかな?)でも、マナー違反的なことをあえて勧めたりしてるよね。
普段は守っているルールやマナーを、あえて自分の意思で踏み越えてみて、、そのとき自分の心の中にどんな感情が起きるかを観察してみる。
そんなところから、「自分の人生を生きる」ための糸口が、見つかったりする、こともある。
我が家は、リビングのまどから、富士山が見える。
前にもちょっと書いたけど、、、
今、ドラクエウォークというスマホゲームにハマっている
ドラクエウォーク知らない人は、この辺を見てください
まあ、でも、今日の記事はたぶん、このゲームのことを知らなくても読めるものになると思うので、このまま読み進んでもらってもたぶん大丈夫。。
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僕は、パソコンやスマホのゲームは、普段は、そんなにのめり込む方ではない。
むしろ、どちらかと言えば、縁遠い方だと思う。
ただ、ときどき、ふと出会った特定のゲームに関して、がーーっと「マイブーム」が沸き起こって、
その間は、かなり集中的に埋没する。
で、、、大抵はまあ2、3ヶ月もすれば、麻疹のように抜けていく。今まではそんな感じだった。
ところが、今回のドラクエウオークは、もう半年ぐらいのめり込んでいるのね。
自分の流行期間としては、既にかなり長い部類に入る。もしかしたら、過去最長かもしれない。
今までと、何か違うんだろうか?
と考えたときに、「ああ、これか!」って思い当たることが一つあった。
先ほど、「自分の中でマイブームが来て、しばらく埋没する」って書いたけど、、
今まで、ゲームにハマっていたときは、確かにそれなりに埋没はしているのだけれど、、
心のどこかにちょっと“引っ掛かり”というか、軽い後ろめたさのような気持ちを抱えながら、やっていたような気がするのだ。
まるで、なにか“悪いこと”をやっているかのような感覚。
これ、もしかしたら、中学生の頃とかに学校で言われていた、「ゲームセンター禁止」的なルールの名残かもしれない。笑
というか、そもそも自分が子供のころ、家ではテレビゲーム的なものは実質、禁止状態だったからね。
だから、ファミコンとかプレステとか、全く触った経験がない。喫茶店のインベーダーゲームもやったことない。
大人になって、仕事でパソコン(マック)使うようになって、、、
そこに入っていた「にゃんこスイーパー」などが、電子ゲームの初体験だった。それほど、子どもの頃はこういうのと縁遠い生活だった。
で、、、そんな子ども時代だったことを残念に思う気持ちが、心のどこかにきっとあるんだな。
だから、、いまPCゲームなどに埋没しているときの「軽い後ろめたさ」というのは、、その動機のどこかに、、
「失われた青春を取り戻してやる!」的な気持ちとか、昔やりたくてもできなかったことをやってやったぜどうだザマアミロ、みたいな気持ちが混ざり込んでいるんだろう。
さらに掘り下げれば、そのもっと奥には、そんな子供時代、自分の管理者であった親への恨めしい気持ちがあるのだろう。
だから、そんな恨めしさに基づいた、ある種の「仕返し」として、ゲームにのめり込んでいた、という側面があるのだな。
いや、大人になった自分が自宅でゲームにのめり込むことが、どうして親への仕返しになるのか、って考えたら、そんなの現実にはなんの影響力もないんだけどさ。笑
でも、、気分的には、仕返し心理が働いている。
で、、それゆえにたぶん、これまでのゲームマイブーム中での自分の気持ちは、
「100%エンジョイ!」ではなかった、わけだ。
ところが、今回のドラクエウォークは、もう完全にメーターが振り切れてるのです。
やるからにはとことんやる! ノンブレーキでのめり込む! 攻略法も徹底的に考える! って感じになっている。
この辺りの振り切れた感じが、今までと随分違う気がするのだ。
この変化は、どこからきたんだろう。。
「身口意の法則」っていう本がある
自分を変える「身口意」の法則
Amazon(アマゾン)
604〜4,850円
「やること」(行動)
「いうこと」(言葉)
「思うこと」(意思)
の3つがピタッと一致した生き方をすれば、人生は思い通りにいく、という密教の教えを優しく説いた本だ。
※ちなみにこの「行動」「言葉」「意思」の三つのことを、密教で「三密」と呼ぶ。
いま三密っていう言葉はすっかり変な意味で定着してしまったけど、本来はこっちの意味。
「行動」「言葉」「意思」が一致、っていきなり言われてもピンとこないかもしれないけど、、、
「行動」「言葉」「意思」が一致していない例は、イメージしやすいと思う。
・本当はやりたくない(意思×)のに、上司の命令だから「はい、やります」と答えて(言葉○)、いやいややった(行動○)
・痩せたいと口では言いながら(言葉○)、心の中ではダイエットは辛いなー嫌だなーと思い(意思×)、実際には何もしない(行動×)
こういうことばかりやっていると、頭と体と心がバラバラになって、人生ままならなくなる。
この三つをピタッと一致させていけば、人生は思いのままに進み、充実していく。
、、ということなのだ。
この本を読んだのは、実は、もう1年以上前のこと。
さらに言えば、、、密教の三密の話を僕が初めて聞いたのは、たぶん、もう20年近く前だろう。
(だから、この本を読んだ時も、だいたい知っている話ばかり、という印象だった)
つまり知識としては、もうかなり長いこと、頭の中にあったわけである。
だけど、、、それが、実感を伴って「ああ、こういうことなんだなぁ」って思えるようになったのは、ごく最近のことなのだ。
その「実感を伴って思えるようになった」一つの実例が、、、ゲーム。
「後ろめたさ」を感じながらゲームに時間を費やす、というあり方に対して、ふと、「おおっ、「行動」「言葉」「意思」が一致していないって、こういうことか!」と、急に気づいたのだ。
そうか、ゲームでもなんでも、やるんだったら、とことん前のめりになって楽しむ方が、人生、充実するよな。
どうせやるなら、「あれ、面白いよな」って言葉に出しながら、行動もする。その方がいいよね。そりゃそうだ。
と、いきなりそんな感じで、頭の中がガチャンって切り替わった感じになって、、、
それから、もう半年ものめり込んでいる。
以前とは、頭の中の“素通し感”が、全く違うのだ。
ちなみに、もう一つ、とても身近なところで「これは「行動」「言葉」「意思」が一致していないんだな」と気づいた例があって、、
朝、起き抜けに、かみさんと二人分のコーヒーを淹れるのが、起き抜けの僕の習慣なのだけど、、
台所でコーヒーをポタポタ淹れているときに、かみさんが通りかかって「おはよう〜」って声をかけてきたとする。
そんなとき僕は今までたいてい、口では「おはよう」って返事するけど、目と手はコーヒーの作業を続ける、という形で答えることが多かった。
こういうのも、言葉と行動の解離。
ああ、これも、解離してるな、って、ふと気づいたのである。
それで、、「おはよう」って返事をするときに、、
その瞬間だけ、コーヒーを淹れる手をちょっと休めて、顔を上げて、目を合わせて、「おはよう」って言うようにしてみた。
そしたら、、、
なんか、すごく気分がいいのだ。
そうか、こういうことなんだな。
1週間ぐらい前に、しれっとブログのタイトルを変えた。
「思いのままに 生きてみる」
自分にとっての“お題”が、ピタッと定まったような気がして、気に入っている。
「思いのまま」
心の赴くままに、去来する想いにしたがって、生き方を決めていく。
そんなふうに自由に、何にもとらわれることなく、生きる道筋を決めていけたら気持ちいいだろうな、って、ずっと思っていた。
そういうあり方に憧れるのは、今の自分の生き方(生きる選択)が、いろいろなことにとらわれていることの裏返し。
例えば、人目を気にするとか。
世間体とか、常識とか。
見え、意地、嫉妬。優越感や劣等感。失敗したくない気持ち。称賛されたい気持ち。
いろんなものが「心の赴くまま」の中に紛れ込んでしまって、自分の“本当の気持ち”が見えなくなっている。
そういう囚われから抜け出して、純粋な、自分の気持ちに沿って生きられるようになりたい。
「思いのまま」って、そんな感じなんだろう。ずっと、そういうイメージを持っていた。
だけど、さ、、、
それも結局は、、
自分の気持ちの中身を、「ここは純粋な部分、これは不純な夾雑物」などと分類して、
不純なところだけを取り除こうとする行為であり、
自分の外側にある何らかの判断基準(正解、不正解)に則って、自分の心の中を評価する、というところへと、つながっていく。
それって、、そこまでいけばわかるよね。それはもう、「思いのまま」とは言わない。
全く別物だ。
何かの気持ちがココロに湧くたびに、「これって「思いのまま」だろうか? それともそれ以外の、何か間違ったやつ?」っていちいち自問し続けるような、、
端から見たら、ちょっと大丈夫か?って感じ。かなり、ヤバいよね。
でも、、、なまじ「ココロの仕組み」的な知識が少し頭に入ってくると、、
こういう妙なところに、大真面目で、ハマりやすい。
、、、というか、たぶん、そういう妙なところにハマるタイプの人がいる、ってことなんだな。僕みたいな人ね。笑
まあ、たぶん、このブログを読んでくれている人の中にも、そういう人が多いんじゃないかと思ってる。類は友、っていうし。
「思いのまま」って、そんな面倒くさいものじゃない。そんなはずは、ない。
人目だろうが、世間体だろうが、嫉妬や劣等感、さらには自分を卑下する気持ちでさえ、、、
自分のココロの中に湧いた気持ちは、全部、自分の「思い」だ。
それがどんな動機から出たものであろうと、どんなに不快な感情であろうと、
「私はいま、こう感じている」というところに、本当も、嘘も、ない。
何かそういうのが出てきたら、、
全部ひとまとめにして、ごっくんって飲み込んで、はい、これが私です。
飲み込んだ“それ”が、ズイズイズイっとお腹の下の方まで降りて行ったら、、、
お臍の下あたりをすりすりって軽くさすって、、はい、もうカラダの一部になりました。おしまい。
そんな感じで、受け入れる。
「思いのままに、生きてみる」
まずは、そんなところから始めよう。