ちょっと日が経ってしまったけど、、、

 

 

10/25(日)、からくり道場と同日開催の、ヒモトレワークショップ@からくりマルシェ(仮)。

 

ヒモトレ初体験の心理カウンセラー、ミユが、ステキな報告を書いてくれた。


________________
 

 

だけど道場の前に

からくり常連まーくんによる

ヒモトレ講座をやるということで

腰痛対策に

えいやっと行ってみた。

 

 

そしたらすごい楽しくて

居心地よくてね~~
 

 

なずさんのマスターやスクールを

卒業された方が多いせいか

 

はじめましての方も

ぜんぜん違和感を感じなくて

 

暖かく

だけど押しつけがましくない

絶妙な心地よさ。

 

_________________

 


こんなふうに受け取ってもらえたのは、やった側としても嬉しい限りである。



で、、、この「押し付けがましくないけど心地いい」みたいな距離感こそ、まさにヒモトレの持ち味だと思うのだ。




今回は、参加者の大半がヒモトレ初体験だったこともあり、基本的なヒモトレ体験(体感)を味わってもらうことを、最優先にした。

なんか知らんけど、ヒモを巻くと、体の中で何か不思議なことが起きている。

 

そしたらカラダが楽に動くし、なんだか気持ちいい! 何これ?!

という感覚を、味わってもらいたい。それを一番の目標に設定した。

 

 

 

 

では、そのために、何が大切なんだろう?

 

 

 

セミナーとかワークショップという場で講師役をする場合、僕らはつい、何か有益なものを「伝えよう」と考える。

 

まあ、受講料をいただいて集まってもらうのだから、ある意味これは、当然のこと、ではある。

 

 

 

 

だけど、、、少なくとも、お伝えするものが「ヒモトレ」である場合、この「伝えよう」という意識は、むしろ邪魔になることが多いんじゃないか。僕はそんなふうに思っている。




「体感」とは、相手(この場合はWS参加者)の体の中で沸き起こる現象だ。

それが沸き起こるための素材や原動力など、必要な要素は、すべて、あちらのカラダの中に備わっている。

こちらから伝わっていくのは、「言葉」に代表されるような“情報”なわけだけれど、、、

 

それはあくまでも、あちらのカラダの中で起きる現象を誘導するためのきっかけでしかない。

 

適当なきっかけを、適切なタイミングでなげかければ、、、あとはあちらのカラダが、自然に、自発的に、グワーーっと反応を起こす。

 

そうなるように、初めから、なっている。カラダは、そうなっているのだ。

 

 

 

 

いい感じの反応が起きるために一番大事なのは、「カラダはそうなっている」という信頼感だ。

 

 

 

 

だけど、、、「伝えよう」という意識は、ともすればその信頼感をバリバリと踏み超えてしまう。

 

相手の反応の中に直接手を突っ込んで、グリグリ介入するようなことを、ついやりたくなってしまう。

 

これは、ココロ領域の言い回しでは「コントロール欲求」などと呼ばれるやつ。

 

本来、相手の領域のところに踏み込んで、自分の思惑通りに操作したくなる欲求だ。

 

僕らは、自分が「何かいいものを手にして」いて、それを「人に伝えたい」と思った場合、、、

例えそれが愛や善意を出発点にしたものであっても、、、(いやむしろ愛や善意が出発点だからこそ、かもしれないのだが、)

 

しばしば、「コントロール欲求」を、思いっきり発動させてしまう。

 

 

 

 

 

コントロールを手放して、相手の体内に備わった仕組みを信頼する。

ヒモトレを伝える上では、こんなあり方がとても大切になる。

 

 

 

 

そしてこのあり方こそ、まさに自分がヒモトレを通じて培ってきた実感そのもの、なのだ。

 

 

 

それがそのまま、その如く伝わった(=相手の体の中でそういう実感を呼び起こす現象が起きた)のだとすれば、、



いや、ほんと、嬉しい限りである。


 

 



先月の『ヒモトレ介護術』出版記念ZOOM対談イベントで、禅僧の藤田一照さんが、

 

 

ヒモトレを「部屋に飾られた一輪の花のよう」と例えてくださった。


何かを押し付けるとか、強要するといった圧迫感は何一つない。


もしかしたら、そこにあることに気づかれないかもしれない。


でも、、それがそこにあることで、人の心がフワッと明るく、晴れやかになる。

 

 

 

 

 

 

 

ぼーーっと空でも見あげてるほうが、よほどきもちいいよね〜
 




家のベランダから見た、雲。

 

 

 

なるべく大きな画面でどうぞ。

 

 

 

 

実は、最初のうちしばらく、富士山の頂が見えてます。地平線ラインに沿って遠方に広がる雲の上に、ちょこっとのぞいてる。

画面中央の下の方ね。

25日12時〜、からくりマルシェ(仮)の場でやらせてもらう「ヒモトレワークショップ」

定員12人のところ、残席3人となりました。

→満席です。ありがとうございました。




興味があるけど迷ってる、という方、一歩前に進むチャンスです。どうぞ〜

 

 

申し込みフォームは、この記事の最後の方↓にあります。




、、さて、そうは言うものの、ヒモトレって何なのかまだよくわからない、もうちょっと教えてよ、と思っている人も、いるかもしれないですね。


そこで今日は、僕なりの「ヒモトレをやる意義」=ヒモトレとはどういうもので、自分がなぜ人にヒモトレをお勧めするのか、について書いてみます。

 

 

まあ、あくまで私見です。


ヒモトレ考案者の小関さんや、ほかの先生方に聞けば、また違う視点や、もっと深い話も出てくるだろうと思いますが、僕は現時点で、こんなふうに考えている、ということで。


_________________


まず、いちばん分かりやすいメリットは、やっぱり実利的な部分ね。

 

 

ヒモトレで、体にヒモを巻いたり、ヒモを使った簡単な体操をすると、、、



●腰痛、肩こり、足やひざの痛みなどの不快な症状がラクになる。

●「立ちっぱなし」「重いものを持つ」「長距離を歩く」といった肉体的にきつい作業が、ラクになる。

●眠るときに胸やお腹に巻くことで、眠りが深くなり、「睡眠の質の悪さ」に起因するさまざまな不調が改善する。

 

 

 

といった『体調改善・解消効果』を、たいていの人が体感できます。

 

 

 

これは、何かしら不調を抱えている人にとっては、本当にありがたい話で。

 

 

ヒモ1本で痛みやしんどいのがラクになるんだから。

 

 

しかも、ヒモは100円ショップのでOK。薬や施術に頼らなくていいし、仮に改善が見られなくても、不利益はほとんどない。やらない手はないでしょ、という感じで、誰でもすぐに取り組めます。

 

 

 

さらに、手芸などの細かい作業とか、楽器演奏などでは、、

 

 

●ヒモトレを使うと、「うまくできる」ようになる。

 

 

ことが多いです。

 


僕は、楽器演奏をしている人にヒモトレを試してもらうセミナーをやっていましたが、ピアノ、バイオリン、ギター、声楽などの演奏で、ヒモトレを使うと「音がよくなる」「リズムのノリが良くなる」といった結果が、はっきりと認められました。


しかも、プロレベルから初心者まで、幅広い技術レベルの方々において、です。

 

 

これはねぇ、、あの不思議な感覚は、実際に体験してみないとわからないと思うんですけど、、


みんな、狐につままれたような感じになります。笑


え、、なんでこんないい音が出るの???って。

 


ホント、、おもしろい。


_________________


で、、、ここまでは、目に見えて分かり易い作用なんだけど、、、


実は、もっと大事な作用がある。


それは、、目には直接見えないところ、頭の中(=もののとらえ方)において起きる変化です。




ヒモトレで体に起きる現象って、、たいていの場合、自分のそれまでの人生経験とか、それを通じて培われた常識を、超越しているわけです。


だって、そもそもお腹にヒモ1本巻いただけなのに、なんで痛みが取れたり重いものが持てるようになったり、ギターが上手くなったりするのよ、って、そりゃ常識的に考えたらおかしな話だよね(笑)


でも、現実にはそういうことが起きる。そう、起きちゃうんですよ、自分の体の出来事として。



そういう状況に直面したとき、僕らはどう振る舞うのか。


まあ、色々な葛藤を通過することも多いわけですが、、、最終的には、、、、

 

 

 

●自分の中の“常識”を疑う



というところに到達せざるを得ないのです。


少なくとも、自分が“実感”したものに対して誠実であろうとするなら、、、常識の方が間違っているのだろう、と認めざるを得ません。



この「自分の常識を疑う」というプロセスを経験することが、あらゆる分野の活動において(知的活動であれ、身体的活動であれ、経済活動であれ)、ものすごい財産になる、と僕は思っています。



常識というのは、物事を考えたり、理解したりするときの「枠組み」として働きます。

 

 

「ここは揺らがない」という信頼のよりどころ。ものを考える出発点とか、判断の基準になります。


ただ、、、現実の頭の中において、その“常識”なるものがどんな経緯で形作られたのか、そこにどれほどの正当性や信頼性があるのか、ということを丁寧に検証してみると、、


実は、もともとは単に親の口癖だったとか、子供の頃の嫌な思い出の反作用的影響だとか、そんな程度の薄弱な根拠で作られてしまったものが少なくないのです。これは、どんな流派・系統の心理学でも、事実として認めているでしょう。


そんな頼りないものに、人生の選択とか、行動の指針を任せてしまっている。


僕らがココロの中に抱える「悩み」と呼ばれるものの大半は、、僕らが、そんな頼りない行動指針にしがみついて生きている、という土壌の上で、生じてきます。


逆にいうと、、、「常識」と思っている枠組みからちょっと外側に出るとか、視点をずらすとか、そういうことができれば、“悩み”と呼ばれるものの大半は、それだけでシューッと消えたり、大したことないなと思えたりするのです。


ヒモトレには、僕らを自然に、そういうところへ導いてくれる作用があるのですね。





そして、、この「常識を疑う」作用が動き出す上で、重要な働きを担っているのが、、


「カラダ」で体感する世界なんですね。




ヒモトレによって示される世界(お腹にヒモ1本巻いたら体のパフォーマンスが変わった!という世界)は、「アタマ」が組み立てた常識よりも、「カラダ」のシステムが主役として稼働する世界です。


カラダのシステム。38億年の生き物の進化を通じて培われた、「生きる」ためのシステムです。


善悪でも、損得でも、正解不正解でもない。ただ、ひたすら「生きる」(サバイバル)ためのシステムです。


その働きの一端は、解剖学や生理学、分子生物学などによって説明されていますが、、、


そういうアプローチ(いわゆる科学的な説明)では説明しきれない謎めいた作用領域も、今なおどっさりと残っている。


「生命の神秘」という言葉でまとめておくしかないような、深淵で、精密なシステム。




でも、、その「謎めいた作用」による身体の働きを、僕らは体感的に感じることができるんです。


説明はできなくても、感じられる。


「カラダ、すげーー!」っていう実感が、理屈抜きに、理屈を超えて、伝わってくるんです。


そして、そんな実感があるから、、、常識を、軽々と、超えられる。



そうやって僕らは、自分の身体の中に、とてつもないポテンシャルが宿っていることを、無条件に確信するんです。





まあ、、、フェアなものの言い方をするならば、この作用は必ずしもヒモトレの専売特許ではないです。身体を扱う様々な技法で、同様の意味合いを持つものは、いくらでも挙げられるでしょう。


ただ、その「敷居の低さ」と「誰でもわかる容易さ」において、ヒモトレは群を抜いている、と僕は思っています。


他のやり方でそういう境地にたどり着こうと思ったら、“修行”的なことがけっこう必要なんですよ。


でも、ヒモトレは、百均でヒモ買ってきて巻けばいい。

 

 

それだけで、、ものすごい世界の入り口を、ちらりと、しかし、はっきりと、感じさせてくれる。


あまりに簡単にそこへ辿り着けるんで、それがものすごい世界だと気づく人があまりいないのがちょっとだけ残念ですが(笑)


_________________



といったところで、いかがでしょうか、ヒモトレ。



ぜひ、体験していただきたいです。


【ヒモトレワークショップ】

 

10/25(日)、12〜14時

 

 12〜13時:ヒモトレの体験、解説など
 13〜14時:質問、感想などを含めたシェアタイムなど


 ※時間配分は大まかな目安です。当日の流れによって変わる場合があります。

場所:ナズルワンセミナールーム

 

定員12人(要予約)

 →満席です!


参加費2000円 (当日、現金でお支払いください)

軽い体操を含みますので、動きやすい服装でご参加ください。スカート不可。

※※
ヒモは人数分用意しますが、ご自分のヒモをお持ちの方は、ぜひご持参ください。

※※※
書籍『ヒモトレ介護術』の販売も行います。


キャンセル待ちをご希望の方は、こちらのフォームから連絡ください。

https://ws.formzu.net/dist/S48725017/

 


 




なお、この日は15時から、なずさん、ちかさん、しゅうくんの「からくり道場」↓です。




こちらに参加される方は、別途、そちらの予約もお願いします。


 



10/25(日)、12〜14時

ヒモトレワークショップ やります〜

 

定員12人(要予約)

 →残り4人です!
 →満席です!ありがとうございました!


参加費2000円。


(予約フォームは、いちばん下↓↓↓にあるので、読み進んでね〜)

 

 

 

昨日、紹介した、「からくりマルシェ(仮)」でのイベントです。



当日は、15時からからくり道場 なので、その前の時間帯を使わせてもらいます〜


もちろん、「ヒモトレ」→「からくり道場」と続けて参加するのが


が整ってから、のお話を聞く、という絶好の流れになるので、おすすめ!です!!





「ヒモトレ」は、バランストレーナーの小関勲さんが発案した、体が整うメソッド

 

 

体にゆる〜くヒモを巻くだけで、体のバランスが自然に整い、肩こりや腰痛が楽になったり、姿勢や呼吸の状態が良くなっていく、という、とっても興味深いメソッドです。



プロのアスリートや、体で表現するアーティスト、さらには要介護の高齢者のリハビリまで、幅広い分野で活用されています。


こちら↓は先月発売になった、介護分野でのヒモトレ活用を紹介した本。

 



僕が編集・執筆を担当しました。おかげさまで、けっこう売れてます。





ヒモトレ、、最初は取材として話を伺っていたんですが、自分でやってみたら、おお、これはいいものだ、と感じて、手放せなくなって、、、


気がついたら、自分がセミナーや勉強会で伝える側になっていた、という。笑



これまで僕は主に、音楽をする人向けのセミナーをやってきました。

 


自分自身、ギター演奏をする時にヒモトレを使って、演奏の質が随分良くなったという実感があったので。そういった自分の経験をベースに、活用法をお伝えしてきたわけです。

 

 

 

 


で、、、今回の「からくりマルシェ(仮)」でのワークショップは、、


受講者が、現役カウンセラーなど、ココロのあり方について深く学んだ人たちばかり、という特徴があります。



これは、僕にとっては、とーーーっても興味深い場です。



「ココロとカラダはつながっている」



というフレーズは、ココロやカラダについて何か学んだり実践している人なら誰もが知っていると思いますが、、

 

 

それを、単なるキャッチコピーではなく、どういう形で体感するか。



その実験場として、こんなうってつけの場はないでしょう。




というわけで、これまでやってきたセミナーとは一味違う内容を盛り込んでいきたい。


特に、日ごろから、ココロの問題に関心がある人に届くことを意識しています。



もちろん、肩こりや腰痛、膝の痛みといった現実的な悩み・不調に有効な方法も、たっぷりお伝えします。




___◇__◇__◇__◇__◇__◇__◇___



【ヒモトレワークショップ】

 

10/25(日)、12〜14時

 

 12〜13時:ヒモトレの体験、解説など
 13〜14時:質問、感想などを含めたシェアタイムなど


 ※時間配分は大まかな目安です。当日の流れによって変わる場合があります。

場所:ナズルワンセミナールーム

 

定員12人(要予約)

 →満席です!


参加費2000円 (当日、現金でお支払いください)

軽い体操を含みますので、動きやすい服装でご参加ください。スカート不可。

※※
ヒモは人数分用意しますが、ご自分のヒモをお持ちの方は、ぜひご持参ください。

※※※
書籍『ヒモトレ介護術』の販売も行います。



キャンセル待ちをご希望の方は、こちらからご連絡ください。

https://ws.formzu.net/dist/S48725017/

 


 

※「からくり道場」の申し込みは、別途、なずさんやちかさんのサイトから申し込んでくださいね〜


 

これ、、9月20日のからくり道場に参加したみなさんには、もうざっくりとお伝えした内容なんだけど、、


いま、道場参加メンバーの中から、新しいイベント企画が動き始めています。


その名も、、、


、、、いや、名前はまだ未定なんだ。笑


呼び名がないと話しにくいので、ここではとりあえず、

 

「からくりマルシェ(仮)」

 

 

って呼んでおくね。





からくり道場に集まっている人たちが、「自分も発信者になって何かをやりたい」って思ったときに、それを叶える“場”、っていうイメージです。

 

 

 

 

例えば、カウンセリングの勉強をしてきたから、ちょっと実践したい、とか。

 

カードリーディングをやりたい、とか。

ダンスを習っていて、レッスンもちょっとやってみたい、とか。

 

手作りのジュエリーやグッズを売りたい、とか。




いきなりショップや教室を自力で開くのはいろいろ大変だけれど、お試し感覚でちょっとやれるような場があれば、いろんなことをやってみたい、っていう人はいっぱいいるんじゃないかな、って思って。



もちろん、僕もその一人。。というかむしろ、自分自身が、そういう場が欲しいなって思ってた。



前に、なずさんとそんな話をちょっとしたときに、「そういうのならナズルワンを使っていいよ〜」って言ってくれてた。



じゃ、ありがたく使わせていただきましょう、、ってことで。



いまの時点で思っているのは、、



月に一度のからくり道場がある日に、その前の時間を使わせてもらって何かやる、みたいなイメージね。


例えば、「からくりマルシェ(仮)」が12〜14時。

1時間休憩があって、15時からからくり道場とか、そんな感じ。


(なずさんが、「それを前に入れるなら、道場の時間を後ろにずらそうか〜」って言ってくれた)



カウンセリングとか、グッズの物販なら、ブースを並べて、きた人がぐるっと回れるようなスタイル。

セミナーやワークショップのようなスタイルなら、1時間とか時間の枠を区切って、スペースをフルに使ってもいい。

 

有料だったり無料だったり、それはその都度の事情があるだろうし、ケースバイケースでオッケー。

発信者と参加者は、基本的には道場の参加者なら誰でもオッケー。

 

それなら、いろんなサポートが必要になったような場合、お互いに助け合いやすいよね。

 

 

 

 

発信側をやりたい人がどんどん増えて、道場の前の時間だけでは収まらなくなったら、道場とは別の日に「マルシェ(仮)」だけでやるかもしれないけど、、

まずは、道場と同じ日に開催、で考えてる。その方が、みんな来やすいだろうし。



今のところ、言い出しっぺのまこちゃんと、ようちゃん、ふみみ、それに僕の4人で、あーだこーだと話してる。


(すでにかなり話しあったんだけどまだ名前も決まってない。笑)


(いや、いろんなアイデアがいっぱい出て、めちゃ楽しそうな感じは見えてるんだけど、まとまる方向へ向かう気配がない。笑笑)


(ちなみに4人の中には前者が一人もいない。笑笑笑)





一緒にあーだこーだ話す仲間が、もう少し増えるといいな、って個人的には思ってる。

 

 

 

 

まあ、細かいところはやってみないとわからないことばっかりなので、とにかくエイヤっとやってみようよ、って感じですわ。



で、、、早速、今月25日(日)12時〜から始まります。



この日は、僕が「ヒモトレワークショップ」をやります。



ちゃんとしたアナウンスは、次の投稿で。。。



 

「自分を見張る」というココロの習性から、なかなか抜け出せない人がいる。



社会や組織のルール、世の中の常識などから逸脱したことをしていないか。

人から後ろ指を差されるようなこと、人に迷惑をかけるようなことをしていないか。

恥ずかしいこと、みっともないこと、分不相応なことをしていないか。


 

いろんな基準に照らして、自分がちゃんとしているかを逐一チェックし、確認しながら行動する。



そうやっていつも確認していないと、不安になる。

 

 

僕もちょっと前まで、そういう感じのこと、ずーーっとやっていた。

 

 

 

僕のココロの中に、いつも自分の行動を見張り、評価している存在がいた。

僕はそいつのことを、「委員長」って呼んでいた。

 

やつは、あらゆることに対して完璧主義で減点主義で、、、


 

僕の全ての行動を、一つ一つ指差してはため息をつき、「お前またそんなことやってんのか」「そんなんじゃダメだわ」って、ダメ出しを繰り返していた。

 

 

 

いつもそんなことをやってるから、、、いつも、ココロが疲れていた。

 

 

 

何をやっても楽しくないし、元気が出ないし、、、あーーあ、何やってんだろうなーー、って感じ。
 

 

 

 

さらに、、自分がそうやっていつも自分を見張っているものだから、、、


ルールや常識を軽んじるような行動を平気でやっている人を見ると、ふつふつと怒りが湧く。

 

そう、自分を見張る人は、必ず人も一緒に見張っている。

 

ちゃんとしてない奴らには、正義の鉄槌を下してやりたくなる。

 

俺がこんなに頑張ってるのに。お前ら、人の気も知らないで。

 

あんなクズ連中、死ねばいいのに。ふと、そんな呪いの言葉を心の中で呟いていたりする。

 

 

 

 

そして、、そんなことをやっている自分に幻滅する。

 

 



もちろん、好きでやってるわけじゃない。むしろ、そんな状態から抜け出したいと思っていた。




抜け出すには、“委員長活動”をやめればいいんだ。そう思っていた。




それが、、落とし穴だった。



いつものように、委員長が出てきて、ため息をつきながら何かを呟き始めたとする。

そのことに、あっ、って、気づく。

「あ、俺、またこれやってるよ、ダメダメ、やめなきゃ」って思う。



つまり、、、委員長の振る舞いを監視する「もう一人の委員長」が、ここに出現するわけだ。。笑

 

 

 

もう一人の委員長は、期待に応えようとしてすごく頑張るんだけど、、、



頑張るほどに、、いつの間にか、最初の委員長と同じように、僕にたいしてため息をつき、「またお前それをやってるのか」などとダメ出しをし、悪態をつき、心を砕き、、、



やがて、そいつが出てくるだけで心が萎えていく、そんな存在になっていった。




好きでやっているわけじゃない。むしろ、そんな状態から抜け出したいと思っていた。



抜け出すには、“委員長活動”をやめればいいんだ。そう思っていた。


それが、、落とし穴だった。。。


いつものように、委員長が出てきて、、、、、




※以下、20行ほど前に戻って繰り返す。



・・・・・・・・・



こんな無限ループ。


そりゃ、しんどいよね。元気が出ないよね。


楽しいことなんか、何もないよね。


_______________


あそこから、自分はどうやって抜け出してきたんだったかな。

 

 

ふと、そんなことを振り返ってみた。





それで、、、いろいろ辿ってみて、一つ浮かんで出てきたのが、これだった。




ウクレレです。2016年4月に購入したもの。






2013年、僕は引越しをきっかけに、10本ぐらい持っていたギターを、ぞくぞくと手放した。


 

(自分では「第一次断捨離」と呼んでいるできごと。。笑)

 


あのときは、「そんなに何本もギター持ってても弾けないし、場所も取るし、意味ない」という、しごく合理的で真っ当な理由をあげて、手放すことにした、という建前だったけれど、、


いま思えば、本音のところでは、そのころ、ギターを弾くのがつまらなくなっていたんだと思う。


ギター演奏でも、減点法の方針で、自分にダメ出ししまくってたからね。

 

 

間違えないでちゃんと弾けてるかどうか、いつも見張っていたから。




10代の頃に、あの音色が大好きで弾き始めたギターだったけれど、、、


いつの間にか、ギターを抱えるたびに、プレッシャーや不快感しか感じなくなっていた。


だから、、もう手放したい、って気分になった、のだと思う。

 

 



そして、最終的に2本だけ残ったギターにも、それ以降、あまり触ることはなくなっていった。





それから3年ほど経った2016年の春、、僕は仕事で、御茶ノ水界隈に来ていた。


一つの仕事が終わり、、次の打ち合わせまで1時間ぐらい時間が空いちゃって、さてどうしようかな、、、、という状況だったと思う。


御茶ノ水駅前の交差点でふと目を上げると、そこに「ウクレレ◯◯◯」っていうショップの看板が見えた。



ご存知の通り、御茶ノ水は都内きっての楽器店街。



総合楽器店はもちろん、ギターショップ、ベースショップ、バイオリンショップ、管楽器ショップ、といった具合に、各種専門店も揃っている。


そんな一つ、「ウクレレショップ」がそこにあった。



僕はウクレレという楽器、それまで弾いたことはほとんどなかったし、知識もそんなにない。欲しいとも、特に思っていなかった。



ただ、、駅の目の前だし、空き時間を潰すにはちょうどいいかな、、ぐらいの感覚で、ふらりと入った。

 

 

入った店内は、思ったほど広くなく、、、つまり、店員さんの目の届かないところをぶらぶらするような感じの作りにはなっておらず、、、しかもそんな狭いショップ内に店員さんが2人もいて、、客は、僕一人。




入った瞬間、「いらっしゃいませ〜」って声が、二人からかかった。


あーこりゃ逃げられないなあ。。


まあ、じゃあ、せっかくだしちょっと話でも聞くか。


という感じで、、壁一面にずらりと並んだウクレレを端から指さしながら、「このブランドは?」とか適当に聞いていく。




、、、という中で、ふと、目に止まった1本があった。



、、、楽器をいろいろ買ったことがある人なら、「手にとって音を出す前から気になる楽器」っていうのが時々あることを、経験的に知っていると思う。


通常、楽器の購入は、実際に演奏(試奏)して、音色や操作性などをチェックしながら購入を検討するものだけれど、、


時々、そういう手順をすっ飛ばして、「あ、、、これ」って、目が合う奴が、いるのだ。


そんな奴が、、、なぜか、そこに、いた。


ウクレレなんて、買おうと思ったこともないのに。



、、、まあ、目があったんだからしゃーないわ。弾かせてもらった。



ぽろんと弾くと、、なんとも言えず、切なく染みる素敵な音が出た。



あーー、俺、これ、放したくないな。このまま持って帰りたいな。弾いた瞬間に、心の奥でそう思ってた。



、、いや、でも、さ、3年前に断捨離したよね。

最近はもう、ギターもろくに弾いてないよね。

もちろん、ライブも全然やってないし。
 

しかも、これは、ウ・ク・レ・レ。いままで欲しいなんて思ったこともないし。そもそもまともに弾けないし。なんに使うのよ?

 

 



と、そんな感じで、買わないための理由は、次々に湧いてきた。



だけど、、なんかそのときは、、そういういかにもっていう正当な理由が、なんともウソくさい、薄っぺらいものに感じられたんだよね。




いいじゃん、ぽろんと弾いて、素敵な音が出て、ほわぁ〜いいなぁ〜ってココロが気持ちよくなる。ただそれだけのためにウクレレ1本持ってたって、それでいいじゃん。


なんか、そんなふうに、ココロがスーッと素直に動いた。


カマカのコンサートサイズウクレレ。1980年代製。値段は確か、15万円ぐらいだったと思う。


その場で、購入した。




で、、、その数ヶ月後ぐらいから、僕は心屋仁さんの本を読んだり、セミナーなどにボチボチ出るようになっていき、、、


「本当はやりたいのにいろいろ理由をつけてやらないでいること」や、「本当はやりたくないのにいろいろ理由をつけてやっていること」などが、自分のココロのあり方をねじ曲げ、エネルギーを削いでいくんだ、ということを学びはじめ、、



、、と、なったときに、ああ、あのとき衝動的にウクレレを買った、あんな感じの行動が大事なんだな、って思ったのね。



合理性があるかとか、効果がどうだとか、目的は何だとか、意味はあるのかとか、そういった理屈を全部すっ飛ばして、、「なんか、これ欲しい、だから、買う」って思ったあの行動をきっかけに、ものすごく自分のココロが軽くなっていたことに、そのとき、気づいた。


_______________


「自分を見張る」っていうのは、ルールや理屈に合わないことをやらないようにする、ってことだ。


ざっくりいうならそれは、理性による、ブレーキ作用。


で、、ルールや理屈に合わないことをしたくなるのは、直感的な衝動の働き。


なんかわかんないけど楽しそう、ワクワクするぞ!っていう思いが、理屈抜きで、体を動かそうとする。


むしろ、理屈ではわからないからこそ、ワクワクするんだろう。わかりきってることばかりの毎日より、先の読めないこっちの方が、楽しそうじゃん!?って、ココロがジャンプしたがっている。




ということは、、、



「自分を見張る」を手放すために必要なのは、、、


「自分を見張る」と向き合うこと、ではない。


それでは、『「自分を見張る」を見張る』になるだけだ。それは無限ループの始まり。




必要なのはむしろ、、



ふとココロにわいた、「楽しそう」「これ、いいかも」「素敵❤️」「ワクワク」「ときめき〜」のような理屈なき衝動を、大切にすることだ。


「どうして?」「意味ないじゃん?」「役に立つの?」のような理性的ブレーキを排して、ふと思った直感に従うことだ。




何よりもまずは、、、

ココロにふっと降りてくる「理由なき衝動」を、しっかりキャッチすること。それが全ての出発点だ。




長年、自分を見張り続けてきた人は、ココロにわいた直感的な衝動を感じとるセンサーが、鈍っている。


まあ、体の機能は、ずっと使っていなければ衰えるからね。運動しなければ筋肉が落ちるのと同じ原理だ。


だからまずは、センサーのリハビリからやらなきゃいけないかもしれない。



誰にとっても比較的わかりやすいのは、「食べ物」だという。

 

「今日の晩ご飯、何食べたい?」って、自問する。

焼肉? 餃子? さんま? パスタ? それともケンタ?

値段や便利さ、頭で考えた栄養バランスなどではなく、、「食べたい衝動」をよりどころに、今夜のメニューを選ぶ。



あるいは、通りかかった雑貨屋さんとかのウインドウで、ふと目に止まったマグカップとか、あら素敵って思ったワンピースなんかがあったとき、、

「なんに使うの?」「同じようなもの持ってるし」「高い」のような理屈をコネ回さずに、、直感を信じて、ぱっと買ってみる、とか。



で、、、実際手に入れてみると、、しまった、やっちまった、こういうのじゃないんだ、とか、いろいろ反省・後悔するような思いが湧いてくることも、あるかもしれない。


それでも、やめない。


成功と、失敗を繰り返すことで、センサーの感度は、磨かれていく。


とにかく、ふとココロに降りてきた(ような気がした)衝動を、一つ一つ丁寧に受け取り、行動に移していく。




人間のココロは、直感的な衝動に従って動いているときは、「自分を見張る」という活動を止める。


「見張る」と「ワクワク」は、ココロのあり方として真逆だから、両立しないんだろう。

 



だから、直感を追いかけている時は、「見張る」を手放せる。



その時、心のなかを満たしている、のびのびとした気持ちいい感じを、たっぷりと味わってみよう。



その“気持ちよさ”に浸ることこそが、「見張り」の手をゆるめるための、最大のカギなのだ。



 

僕がやっているライターというお仕事は、「取材」→「執筆」という2つのステップで成り立っている。



まず「取材」で、人の話を聞く。最低でも1人。時に2人、3人と話を聞いて回る場合もある。


取材の時はたいてい、会話を録音する。

 

そして、「執筆」に際して、最低でも1回は聞き返す。2回、3回と聞くこともある。




多くの場合、、、聞き返すたびに、新しい発見がある。

 

「そうか、この人は、これが言いたかったんだな」と、気づくわけだ。

 

 

 

 

これは、逆にいうと、、

 

最初の会話(取材)の時は、僕はそこに気付いていなかった、ということなのである。

 

 

 

 

録音(=最初の会話)を聞き返して気づくのだから、相手は初めから、そのことについて話している。
 

でも、録音の中の自分は、それを、全く聞いていない。キャッチしていない。

相手の言葉に全く気付かず、堂々とそこをスルーして、先へ進んでいたりする。

 

 

 

 

ホント、笑っちゃうぐらい見事に、スルーしている。

 

 

 

 

こういうのを発見するたびに、、、

 

 

 

 

「ああ、人間はホントに、自分が聞きたいことしか聞いてないんだなぁ〜」って、実感する。

 

 

 

 

以前は、録音した取材のやりとりを聞き返すのが、苦痛でしかなかった。

吐き気がするほど、聞くのが嫌だった。

 

どうしてそんなに嫌なんだろう? って考えた時、、、

 

 

 

 

自分がそうやって、思い込みや先入観にしばられて、相手の言うことをきちんと聞き取れていない、という現実と向き合うのが嫌なんだな、、と思い至った。

 

 

 

 

若い頃は、取材で全く録音をしなかった。どんな長いインタビューも、手書きのメモだけでこなしていた。

 

もちろん、今よりずっと記憶力が良かった、という事情もあるけれど(笑)、、

 

それ以上に、もし録音して聞き返したら、なんだか記事が書けなくなるような気がしていた。

 

 

 

いま思えば、当時は、取材の場で「そうか、こういうことか!」ってパッと感じたそのインスピレーションに沿って、ババババっと執筆してしまう、というやり方で、記事を書いていたのだと思う。

 

 

 

これも、ノンフィクション系の記事を書くときの、一つの有効なやり方ではあるが、、、


 

自分の思い込みを外し、もともと持っている世界観(思考の枠組み)の外側に出るのは、このやり方ではなかなか難しい。

 

外側の情報を、初めから、フィルターで除外してしまっているからだ。

 

録音を聞き返すと、その「除外してる」様子が、ありありと記録されている。

 

 

 

だから、以前は、それを聞き返すのが苦手だった。

 

 

 

 

 

今は、笑えるようになった。笑

 

 

 

「あ、またここも聞いてないわ、ホンマ、あかんなぁ、笑」って、自分で突っ込めるようになった。

 

 

 

そしたら世界がグングン広がり始めた。人との付き合い方も、ずいぶん変わった。


 

以前は見えていなかったいろんな面白いことが、向こうから飛び込んでくるようになった。

 

 

 

 

どうやって、笑えるようになったんだろう?

 

まあ、歳をとって人間が丸くなった、というのもあると思うが(フィジカルにもだいぶ丸くなったし、、笑)、、、

 

 



以前はね、ココロのどこかに「録音したら負け」みたいな感覚を持っていて、、意地でもメモだけで記事を書くんだ、それが俺のプライドだぁ〜〜みたいな方向に突っ張っていたような気がする。



その「突っ張った感じ」に関して、「これって、なにと戦ってるんだろうね?」って、ふっと少し傍観者的に見られるようになった瞬間があった、そんな気がするんだ。

 

 

 

「負けるが勝ち」的な感じに目覚めた、といいますか。



そしたら、いろんなモノの見え方が、変わり始めた。



今もまだ、変わってる最中だと思う。

 

 

 

 

いまはもう、こういう気持ちが出てくることはなくなったんだけど、、、

ちょっと前、少なくとも半年前ぐらいまでは、こういう不思議な心理が自分の中にあった。

 

 

 

人と、何かやりとりをしてて、その中で、相手のために何かをしてあげた、としよう。

 

そしたら相手が、「ありがとう」に続いて、こんな言葉を言ってきた。

 

 

 

「こんなことしてくれるなんて、優しいね〜」

 

 

 

まあ、通常、これは、褒め言葉だよね。



だから、こんなふうに言われたら嬉しくなるのが、普通だと思う。

 

 

 

 

だけど、、、こんなふうに言われたとき、なぜか僕のココロの中には、むかっと腹が立つ気持ちが湧いていたのだ。

 

 

 

 

「優しいね」と言われるのが、嫌いだった。

 

 

 

 

いまはもう嫌いじゃないよ。これから説明するココロの中のからくりに気がついて、「あーそうだったのかー」って思ってたら、だんだん気にならなくなったから。




でも、半年前ぐらいまでは、間違いなく、嫌いだった。




ちょうど半年ぐらい前、、、仲の良い友達からたまたま「まーくん、優しいね〜」って言われたことがあって、、、

 

 

 

で、むかっとなって、「お前に俺の何がわかるんだ!」って思わず切り返してた。笑



相手もびっくりだよね。優しいね〜って言った相手がいきなりキレてくるなんてさ。笑



自分でも、さすがにびっくりした。笑



で、、、これは何がどうなってるんだろう??って考えたわけよ。


______________


「優しいね」って言われたら、めちゃ腹が立つ。

これは、「優しい」という言葉に対して、自分の中で、何か通常とは違う意味づけをしてるから、起きている現象だろう。


だから、この「優しい」という言葉を、自分が、主観的に、どう捉えているのかを観察するのが、解明への第一歩となる。
 

 

 

 

それでは、自分が人に「優しくする」のはどんな時で、その時自分の心の中にはどんな気持ちがある? と考えてみた。



すると、、、とても面白いものが、見えてきた。



自分が「優しくする」相手は、必ずしも、好意を抱いている相手ではない。



いや、好意が発端となるやさしさもあるとは思うんだけど、そちらの振る舞いのことを、僕はたぶん「優しくする」とは呼んでいない。そういうのは「好意」であり、「親切」である。



「優しくする」という言葉は、僕の中ではなぜか、それとは違う文脈に結び付けられているのだ。




典型的には、「怒らせたくない」相手。

 

 

こいつを怒らせたくない。不機嫌にしたくない。そうなったら僕が困る。だから、優しくする。

 

 

優しくすることで、怒りや不機嫌さが相手に湧いてくるのを、回避しようとしている。

 

 

 

 

つまり、僕にとっての「優しさ」とは、相手が自分にとって都合の悪い状態へ行かないようにコントロールするための手段、なのである。

 

 

 

なんでこんなひねた解釈にたどり着いたのか、そのルーツはよくわからない。今も、よくわからない。

 

ただ、事実として、自分はどういうわけか、心の奥で、そんなふうに思っていた。

 

優しさとは、相手をコントロールしようとする、こざかしい術。

 

 

 

 

 

そして、そんなことだから、、「優しさ」を発揮するときの自分の気持ちは、決して、心地よいものではない。

 

 

むしろ、相手が怒ったら嫌だ、怒ったらどうしよう、という不安や不信感でいっぱいになっている。

 

 

その不安が実現されたらいやだから、優しくする。

 

 

 

 

 

なんでそんなふうに思ったんだろうね〜不思議だ。

理由はよくわからないけど、、、とにかく、そういうことだったのである。

 

 

 

 

だから、、誰かが自分に「優しいね〜」なんてニコニコしながら言ってくると、、、

 

 

 

なに能天気なこと言ってんだ、俺がどんな思いで人に優しくしてるかなんて、お前、なにもわかってないくせに、、、という感じの、ひねくれた気持ちが湧いてくるのである。




不思議なことしてたな〜〜笑



ふと思い出したので、書いておいた。



こんなことしてる人って、僕以外にもいるんだろうか?



もし「共感できる!」って思った人がいたら、コメント欄に書き込んでね〜笑

 

 


昨日のからくり道場。

テーマは「これからの繋がり方」。


大切なものとつながっていくためには、まず自分の中をシンプルに、キレイにするといい。


まずは、「捨てる」。


断捨離。デトックス。


そうしてできたスペースに新しいものが入ってきて、新しい繋がりが生まれる。


そんな話が印象に残った。




ちょうど今の自分が、そういうところを通過している真っ最中だと思ったから。


ーーーーーー


2年ほど前、僕は、(不動産をのぞけば)人生最高価格の買い物をした。



ギターである。



米国Gibson社が1930年代に、最高品質の材木を使って制作したモデル。わずか数年で生産終了したため、総製造本数は300本にも満たない。


現在、弾ける状態で残っているのは、世界中で100本あるかどうか、と言われている。


その後、、復刻モデルはぼちぼち作られているが、、30年代に作られたオリジナルのクオリティには、到底及ばない。




そんな、人類の歴史的文化遺産の一部ともいえるような貴重なギターを、、




ふとした経緯で、入手した。




もちろん高かった。



そこそこ高級なクルマが買えるぐらい、高かった。


まあ、、いわゆる「バンジー!!」ってやつだ。





いや、値段が高額だっただけじゃない。


こういう類の、もはや今後、製造されることがない希少な品物は、、


「欲しい」と思ってお金を積んだからといって、手に入るとは限らない。



売りに出るタイミングと、欲しい気持ちがぴったりあわないと、いけない。




なにしろ、世界に100本もない(たぶん)のだから。



所有者になれるのも、マックス100人。



選ばれし100人。



そんなギターが、ウチにやってきた。



運命的な巡り合わせ。



何か目に見えない力学がはたらいた。そうとしか思えなかった。





だから、これはもう、一生の宝物を預けてもらったんだ。そんなふうに思っていた。





ところが、、である。





僕はいま、その希少な1本を、手離すことにしたのである。




あらまあ、なんと。





きっかけは、コロナ。



いわゆる自粛期間の間、家にこもってやることもなく手持ち無沙汰でいたある日、、



ふと、暇に任せて、



もし、自分がオリジナルの音楽アルバムを作るとしたら、どんな選曲になるのかなぁ、なんてことを、僕は夢想し始めた。



僕が、いままでに作ったギターインストのオリジナル曲やオリジナルアレンジ曲、、いま記憶に残っていて弾けそうな曲をかきあつめたら、、たぶんアルバム1枚分くらいはある。



その選曲とか、曲順などを、思いつくままに並べてみて、、



て、、ついでに、それぞれの曲をどのギターの音がマッチするか(ウチにはいまギターが8本ぐらいあってそれぞれ音色が違う)、なんてことを考え始めたところ、、、




驚きの事実に、気づいてしまった。




10数曲の選曲の中で、、、




先に紹介した、かの希少なギターで弾きたい、と思えた曲は、、




なんと、、1曲も、なかったのである。




え?




まじか、、




ほんまか?




なんで?




なんでや?




(なんで関西弁?)




、、、、、




これ、、どういうこと?




まじで、驚いた。




このギターとは、運命の出会いだと思ってたから。



あのとき「バンジー!!」ってココロで叫んで、身震いして買った経験から、本当にたくさんのことを教えてもらったと思ってたから。




だから、当然、、


このギターは、自分の一部、自分の音楽の一部だと思っていた。




でも、、いざオリジナルアルバム、という体で、具体的に使用楽器を挙げていってみると、、


このギターは、、ことごとく、選から漏れてしまったのである。




つまり、いま、自分の音楽を表現する上で、、


このギターは、必ずしも、なくても構わない存在だったのである。




もちろん、客観的に見て、このギターのビンテージ楽器としての価値がとても高い(だから市場価格も高い)のは、今なお揺るがない事実である。


でも、、


自分的には、なくても構わない。。





どういうことか、というと、、、




僕にとってこのギターは、事実上初めての、自分で所有した「戦前のギター」だった。


作られてから100年近く経過したような古い楽器は、木材の乾燥が進んで木の振動が良いため、、


近年製の楽器とは、音響的な特性がかなり違う。


だから、弾き方にも、ちょっとしたコツがある。


慣れないと、性能をうまく活かしきれない。





そういう楽器の操り方を、僕はいわば、このギターを通して学んできたわけだ。2年がかりで。




2年間弾きこんで、、


古い楽器の弾き方にも、指がかなり馴染んできた。



と同時に、、僕はこの2年で、これ以外にも何本か、戦前のギターを入手することになった。


古い楽器の弾き方に馴染み始めた指で、自分好みの音を、探してきた。





そうした経緯を経て、、、




いま、改めて、自分の音楽世界を作る楽器はどれ? と考えたとき、、




2年前の自分にはバンジーだったこのギターは、、



もう、必ずしも、なくてもいい。



そういうことに、なったのである。




うーーむ、、、そうなのか、、



なんとなく、放心状態でぼーーっとしてた、そのとき、ふと、、、



こころの中に、こんなふうにささやくコトバが、ぽっと、わいてきた。




このギター、、もう、手放していいよ。



手放していいときが、きたよ。



、、、、




あーー、、、


そういう、ことか、、、、




、、ということで、、僕は、このギターを、売りに出すことにした。のである。




で、、、だ。




こいつを馴染みのショップに持ち込んだ数日後、くらいだったと思うんだけど、、




毎日、日課のように眺めている楽器販売サイトを見ていた僕は、、あっ!と驚いた。




そこに、僕がここ1年以上探していた、とあるギターが、あったからだ。




やはり1930年代のGibson製。売りにだしたやつよりずっと小振りなボディ。


ネック周りに特殊な素材を使ったことに起因する、唯一無二の個性的な音色。


僕にとってはまさに、これぞ理想、という音色だ。


先ほどの、夢想の中のオリジナルアルバム企画でも、何曲か、できることならこのギターで弾きたい、と思ったほどなのだ。


持っているわけでも、ないのに。





このギター、製造本数がとても少ないため、ショップ等で目にすることは、まず、ほとんど、ない。


ちょっと特殊な仕様のため、市場価格はそれほど高くないけれど、とにかく、世界中探しても、モノがないのだ。



数年前に某ショップで見つけて試奏した1本は、素晴らしい音色ではあったものの、コンディションが最悪で、見送った。




それ以来の、夢だった。




そんな奴が、ポロっと、でてきた。




見計らったようなタイミングで、だ。



ホホォーー




それで、、、




まあ、その後もいろいろあったんだけど、、




とにかく、そのギターは、我が家にやってくることになった。



早ければ明日ぐらいには、くるはずだ。




と、いうわけで、、



さあ、ここから、新しい何かの、始まり〜