「自分を見張る」というココロの習性から、なかなか抜け出せない人がいる。
社会や組織のルール、世の中の常識などから逸脱したことをしていないか。
人から後ろ指を差されるようなこと、人に迷惑をかけるようなことをしていないか。
恥ずかしいこと、みっともないこと、分不相応なことをしていないか。
いろんな基準に照らして、自分がちゃんとしているかを逐一チェックし、確認しながら行動する。
そうやっていつも確認していないと、不安になる。
僕もちょっと前まで、そういう感じのこと、ずーーっとやっていた。
僕のココロの中に、いつも自分の行動を見張り、評価している存在がいた。
僕はそいつのことを、「委員長」って呼んでいた。
やつは、あらゆることに対して完璧主義で減点主義で、、、
僕の全ての行動を、一つ一つ指差してはため息をつき、「お前またそんなことやってんのか」「そんなんじゃダメだわ」って、ダメ出しを繰り返していた。
いつもそんなことをやってるから、、、いつも、ココロが疲れていた。
何をやっても楽しくないし、元気が出ないし、、、あーーあ、何やってんだろうなーー、って感じ。
さらに、、自分がそうやっていつも自分を見張っているものだから、、、
ルールや常識を軽んじるような行動を平気でやっている人を見ると、ふつふつと怒りが湧く。
そう、自分を見張る人は、必ず人も一緒に見張っている。
ちゃんとしてない奴らには、正義の鉄槌を下してやりたくなる。
俺がこんなに頑張ってるのに。お前ら、人の気も知らないで。
あんなクズ連中、死ねばいいのに。ふと、そんな呪いの言葉を心の中で呟いていたりする。
そして、、そんなことをやっている自分に幻滅する。
もちろん、好きでやってるわけじゃない。むしろ、そんな状態から抜け出したいと思っていた。
抜け出すには、“委員長活動”をやめればいいんだ。そう思っていた。
それが、、落とし穴だった。
いつものように、委員長が出てきて、ため息をつきながら何かを呟き始めたとする。
そのことに、あっ、って、気づく。
「あ、俺、またこれやってるよ、ダメダメ、やめなきゃ」って思う。
つまり、、、委員長の振る舞いを監視する「もう一人の委員長」が、ここに出現するわけだ。。笑
もう一人の委員長は、期待に応えようとしてすごく頑張るんだけど、、、
頑張るほどに、、いつの間にか、最初の委員長と同じように、僕にたいしてため息をつき、「またお前それをやってるのか」などとダメ出しをし、悪態をつき、心を砕き、、、
やがて、そいつが出てくるだけで心が萎えていく、そんな存在になっていった。
好きでやっているわけじゃない。むしろ、そんな状態から抜け出したいと思っていた。
抜け出すには、“委員長活動”をやめればいいんだ。そう思っていた。
それが、、落とし穴だった。。。
いつものように、委員長が出てきて、、、、、
※以下、20行ほど前に戻って繰り返す。
・・・・・・・・・
こんな無限ループ。
そりゃ、しんどいよね。元気が出ないよね。
楽しいことなんか、何もないよね。
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あそこから、自分はどうやって抜け出してきたんだったかな。
ふと、そんなことを振り返ってみた。
それで、、、いろいろ辿ってみて、一つ浮かんで出てきたのが、これだった。
ウクレレです。2016年4月に購入したもの。
2013年、僕は引越しをきっかけに、10本ぐらい持っていたギターを、ぞくぞくと手放した。
(自分では「第一次断捨離」と呼んでいるできごと。。笑)
あのときは、「そんなに何本もギター持ってても弾けないし、場所も取るし、意味ない」という、しごく合理的で真っ当な理由をあげて、手放すことにした、という建前だったけれど、、
いま思えば、本音のところでは、そのころ、ギターを弾くのがつまらなくなっていたんだと思う。
ギター演奏でも、減点法の方針で、自分にダメ出ししまくってたからね。
間違えないでちゃんと弾けてるかどうか、いつも見張っていたから。
10代の頃に、あの音色が大好きで弾き始めたギターだったけれど、、、
いつの間にか、ギターを抱えるたびに、プレッシャーや不快感しか感じなくなっていた。
だから、、もう手放したい、って気分になった、のだと思う。
そして、最終的に2本だけ残ったギターにも、それ以降、あまり触ることはなくなっていった。
それから3年ほど経った2016年の春、、僕は仕事で、御茶ノ水界隈に来ていた。
一つの仕事が終わり、、次の打ち合わせまで1時間ぐらい時間が空いちゃって、さてどうしようかな、、、、という状況だったと思う。
御茶ノ水駅前の交差点でふと目を上げると、そこに「ウクレレ◯◯◯」っていうショップの看板が見えた。
ご存知の通り、御茶ノ水は都内きっての楽器店街。
総合楽器店はもちろん、ギターショップ、ベースショップ、バイオリンショップ、管楽器ショップ、といった具合に、各種専門店も揃っている。
そんな一つ、「ウクレレショップ」がそこにあった。
僕はウクレレという楽器、それまで弾いたことはほとんどなかったし、知識もそんなにない。欲しいとも、特に思っていなかった。
ただ、、駅の目の前だし、空き時間を潰すにはちょうどいいかな、、ぐらいの感覚で、ふらりと入った。
入った店内は、思ったほど広くなく、、、つまり、店員さんの目の届かないところをぶらぶらするような感じの作りにはなっておらず、、、しかもそんな狭いショップ内に店員さんが2人もいて、、客は、僕一人。
入った瞬間、「いらっしゃいませ〜」って声が、二人からかかった。
あーこりゃ逃げられないなあ。。
まあ、じゃあ、せっかくだしちょっと話でも聞くか。
という感じで、、壁一面にずらりと並んだウクレレを端から指さしながら、「このブランドは?」とか適当に聞いていく。
、、、という中で、ふと、目に止まった1本があった。
、、、楽器をいろいろ買ったことがある人なら、「手にとって音を出す前から気になる楽器」っていうのが時々あることを、経験的に知っていると思う。
通常、楽器の購入は、実際に演奏(試奏)して、音色や操作性などをチェックしながら購入を検討するものだけれど、、
時々、そういう手順をすっ飛ばして、「あ、、、これ」って、目が合う奴が、いるのだ。
そんな奴が、、、なぜか、そこに、いた。
ウクレレなんて、買おうと思ったこともないのに。
、、、まあ、目があったんだからしゃーないわ。弾かせてもらった。
ぽろんと弾くと、、なんとも言えず、切なく染みる素敵な音が出た。
あーー、俺、これ、放したくないな。このまま持って帰りたいな。弾いた瞬間に、心の奥でそう思ってた。
、、いや、でも、さ、3年前に断捨離したよね。
最近はもう、ギターもろくに弾いてないよね。
もちろん、ライブも全然やってないし。
しかも、これは、ウ・ク・レ・レ。いままで欲しいなんて思ったこともないし。そもそもまともに弾けないし。なんに使うのよ?
と、そんな感じで、買わないための理由は、次々に湧いてきた。
だけど、、なんかそのときは、、そういういかにもっていう正当な理由が、なんともウソくさい、薄っぺらいものに感じられたんだよね。
いいじゃん、ぽろんと弾いて、素敵な音が出て、ほわぁ〜いいなぁ〜ってココロが気持ちよくなる。ただそれだけのためにウクレレ1本持ってたって、それでいいじゃん。
なんか、そんなふうに、ココロがスーッと素直に動いた。
カマカのコンサートサイズウクレレ。1980年代製。値段は確か、15万円ぐらいだったと思う。
その場で、購入した。
で、、、その数ヶ月後ぐらいから、僕は心屋仁さんの本を読んだり、セミナーなどにボチボチ出るようになっていき、、、
「本当はやりたいのにいろいろ理由をつけてやらないでいること」や、「本当はやりたくないのにいろいろ理由をつけてやっていること」などが、自分のココロのあり方をねじ曲げ、エネルギーを削いでいくんだ、ということを学びはじめ、、
、、と、なったときに、ああ、あのとき衝動的にウクレレを買った、あんな感じの行動が大事なんだな、って思ったのね。
合理性があるかとか、効果がどうだとか、目的は何だとか、意味はあるのかとか、そういった理屈を全部すっ飛ばして、、「なんか、これ欲しい、だから、買う」って思ったあの行動をきっかけに、ものすごく自分のココロが軽くなっていたことに、そのとき、気づいた。
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「自分を見張る」っていうのは、ルールや理屈に合わないことをやらないようにする、ってことだ。
ざっくりいうならそれは、理性による、ブレーキ作用。
で、、ルールや理屈に合わないことをしたくなるのは、直感的な衝動の働き。
なんかわかんないけど楽しそう、ワクワクするぞ!っていう思いが、理屈抜きで、体を動かそうとする。
むしろ、理屈ではわからないからこそ、ワクワクするんだろう。わかりきってることばかりの毎日より、先の読めないこっちの方が、楽しそうじゃん!?って、ココロがジャンプしたがっている。
ということは、、、
「自分を見張る」を手放すために必要なのは、、、
「自分を見張る」と向き合うこと、ではない。
それでは、『「自分を見張る」を見張る』になるだけだ。それは無限ループの始まり。
必要なのはむしろ、、
ふとココロにわいた、「楽しそう」「これ、いいかも」「素敵❤️」「ワクワク」「ときめき〜」のような理屈なき衝動を、大切にすることだ。
「どうして?」「意味ないじゃん?」「役に立つの?」のような理性的ブレーキを排して、ふと思った直感に従うことだ。
何よりもまずは、、、
ココロにふっと降りてくる「理由なき衝動」を、しっかりキャッチすること。それが全ての出発点だ。
長年、自分を見張り続けてきた人は、ココロにわいた直感的な衝動を感じとるセンサーが、鈍っている。
まあ、体の機能は、ずっと使っていなければ衰えるからね。運動しなければ筋肉が落ちるのと同じ原理だ。
だからまずは、センサーのリハビリからやらなきゃいけないかもしれない。
誰にとっても比較的わかりやすいのは、「食べ物」だという。
「今日の晩ご飯、何食べたい?」って、自問する。
焼肉? 餃子? さんま? パスタ? それともケンタ?
値段や便利さ、頭で考えた栄養バランスなどではなく、、「食べたい衝動」をよりどころに、今夜のメニューを選ぶ。
あるいは、通りかかった雑貨屋さんとかのウインドウで、ふと目に止まったマグカップとか、あら素敵って思ったワンピースなんかがあったとき、、
「なんに使うの?」「同じようなもの持ってるし」「高い」のような理屈をコネ回さずに、、直感を信じて、ぱっと買ってみる、とか。
で、、、実際手に入れてみると、、しまった、やっちまった、こういうのじゃないんだ、とか、いろいろ反省・後悔するような思いが湧いてくることも、あるかもしれない。
それでも、やめない。
成功と、失敗を繰り返すことで、センサーの感度は、磨かれていく。
とにかく、ふとココロに降りてきた(ような気がした)衝動を、一つ一つ丁寧に受け取り、行動に移していく。
人間のココロは、直感的な衝動に従って動いているときは、「自分を見張る」という活動を止める。
「見張る」と「ワクワク」は、ココロのあり方として真逆だから、両立しないんだろう。
だから、直感を追いかけている時は、「見張る」を手放せる。
その時、心のなかを満たしている、のびのびとした気持ちいい感じを、たっぷりと味わってみよう。
その“気持ちよさ”に浸ることこそが、「見張り」の手をゆるめるための、最大のカギなのだ。