■東京交響楽団 第734回定期演奏会(25/9/27サントリーホール)
J.S.バッハ/マタイ受難曲
[指揮]ジョナサン・ノット
[ソプラノ]カタリナ・コンラディ
[メゾ・ソプラノ]アンナ・ルチア・リヒター
[エヴァンゲリスト(テノール)]ヴェルナー・ギューラ
[イエス(バリトン)]ミヒャエル・ナジ
[テノール]櫻田 亮
[バリトン]萩原 潤
[バス]加藤宏隆
[チェロ]伊藤文嗣
[ヴィオラ・ダ・ガンバ]福澤 宏
[オルガン]大木麻理、栗田麻子、安井 歩
[合唱]東響コーラス
[児童合唱]東京少年少女合唱隊
今季の東響定期は重量級の宗教曲が続く。ロッシーニ「スターバト・マーテル」、ブリテン「戦争レクイエム」と来て、いよいよバッハ「マタイ受難曲」である。この曲を実演で聴くのも、全曲通して聴くのも、これがようやく2回目。前回聴いたのは2001年1月の東響定期(指揮・若杉弘)で、つまり定期会員でなければ積極的に聴きに行きたい演目ではない。前回はろくに予習もせずに聴いたので、ただ聴いたということしか覚えておらず、指揮者も忘れていたほど。ノットが指揮する今回を逃したら、この曲とは一生縁が薄いままになりそうなので、しかと聴いておきたい。
事前に参考にしたのは、音楽之友社刊「もっときわめる!1曲1冊シリーズ」の「マタイ受難曲」(矢澤孝樹・著)。これが非常に有効で、歌詞対訳を読むだけでは把握が難しい作品の概要・構造がコンパクトにまとめられ、レチタティーヴォ、アリア、コラールなどこの曲の重層的なレイヤーを的確に解き明かしてくれる。今年7月に出たばかりだから、まるで今回の公演に合わせた私のためのような1冊。予習用に初めて購入した同曲のCDは、ミシェル・コルボ&ローザンヌ声楽・器楽アンサンブルによる1982年の録音。この本とCDで、この夏こつこつと聴き進めた。
舞台上のレイアウトは、指揮者の左翼側に第1オケ、右翼側に第2オケ、真ん中の境目付近に通奏低音のチェロ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、2台のポジティフ・オルガン、下手袖にパイプオルガンのコンソール。舞台奥に第1&第2合唱、Pブロック後方に児童合唱、独唱陣は主要4人が指揮台近くに並び、残り3人は左右の袖付近に待機、出番が来ると中央に移動して歌う。ソプラノとメゾ・ソプラノも伴奏するオケに合わせて立ち位置を入れ替えていた。18時10分頃開演し、第1部が約80分、休憩20分、第2部が約100分で、終演は21時30分頃だった。
初めて意識的に全曲を聴いて、今さらながらに音楽史上比類なき金字塔であることを実感。まさに蒙を啓かれた3時間半。確かに感動はしているのだが、その感動の質がオペラともシンフォニーとも全く異なる。福音史家が客観的に語り、アリアやコラールで感情的に補完するというシステムが、ほかでは味わえない独特の「乳化」作用を聴き手にもたらすのだ。比較の対象が現時点ではコルボ盤しか無いので、当夜の演奏について云々するのは難しいけれど、ノットらしく彫りが深く情感豊かで、コルボ盤よりずっと「こってり」した聴き応えがあった。
有名な第39曲のアリアでは、立奏する小林コンマスのオブリガートと共にアンナ・ルチア・リヒターが滋味深い歌唱を披露。第42曲のバスのアリアでは第2オケの景山コンマスが立奏し、この辺りが視覚的にも全編のハイライトを形成する。個人的に最も印象深かったのは第49曲のアリアで、コンラディの澄み切ったソプラノと、フルート、オーボエ・ダモーレ2のみで紡がれるミニマムなアンサンブルがしみじみ沁みる。思い入れたっぷりにメリハリを利かせたリヒターによる第52曲のアリアもまた然り。リヒターは第59曲のゴルゴタのレチタティーヴォも味わい深かった。
ちなみにノットは、聖歌隊時代に児童合唱としてこの曲を何度も歌ったことはあるが、指揮をするのはこれが初挑戦なのだとか。ノット監督時代の12シーズン、忘れがたい名演は数あれど、自分にとっての最大のレガシーは、「マタイ受難曲」と初めて正面から向き合わせてくれたことかもしれない。
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ところで、私が初めて「マタイ受難曲」という作品の存在を知ったのは、昔読んだバッハの伝記だった。音楽之友社刊の「ジュニア音楽図書館」シリーズの第1巻「音楽の父 バッハ」。実家の書棚に眠っていたこの本を数十年ぶりに読み返してみたら、この巻、やなせたかし氏が絵だけでなく文も担当しているのですね。主人公の少年が、やなせ氏を思わせる漫画家の「いねむりおじさん」から、バッハの生涯の物語を聴くという設定で、冒頭で少年が初めて耳にするのが「マタイ受難曲」なのだ。
「その時、そのヘッドフォーンからぼくの耳に、いや、からだのなかに流れこんできた音楽について、ぼくはなんといっていいのか分かりません。聞いているうちに、ぼくは思わず「あ!」とさけんでしまいました。「あ! あ! あ! あ! あ!」 胸がドキドキし、指先もドキドキしてきて、背中がカーッとあつくなったのです」
このくだりが強く印象に残っていて、長らく「マタイ受難曲」と言えばまずこれを思い出すのだった。そして今年、やなせたかし夫妻をモデルにした朝ドラ「あんぱん」の放送と前後して、初めてマタイ全曲の魅力に触れることになるとは、ちょっとした奇遇ではある。