今夜、ホールの片隅で -2ページ目

今夜、ホールの片隅で

東京在住クラシックファンのコンサート備忘録です。

2011年にBS朝日で放送されたテレビマンユニオン制作のドキュメンタリー番組を劇場版として再編集した作品。主人公のジュピター・カルテット・ジャパンは長らく活動休止中だったが、今年の東京春祭で再会公演が企画され、また続編番組「カルテットという名の青春が過ぎても(仮)」の制作決定を機に映画化されたとのこと。その先行上映を観に、初訪問の菊川の映画館へ。

 

ジュピター・カルテット・ジャパンは、桐朋学園の学生によって2004年に結成された(当初の名称はジュピター・ストリング・カルテットだったらしい)。メンバーはヴァイオリンの植村太郎、佐橘マドカ、ヴィオラの原麻理子、チェロの宮田大。原さんと宮田さんの演奏は個別に聴いたことがあったけれど、彼らがこんなカルテットをやっていたとは知らなかった。このカルテットが演奏活動を展開したのは主に2000年代後半で、テレビカメラが入ったのは2011年に活動を休止するまでの最後の3年間ほど。当初はミュンヘン国際音楽コンクールに挑戦する4人のサクセスストーリーを想定していたそうだが、一次審査での落選という予想外の結果を受けて、挫折から始まる物語へと切り替わった。

 

監督の浅野直広氏は元々クラシックを聴かない人で、この取材を通して自身が初めて触れるカルテットの世界を、一般の視聴者にも分かり易い言葉で、原田知世と監督自身のナレーションでかみ砕いて説明している。レッスンを通じてこのカルテットの課題として浮き彫りになる、ミスの無い正確性が重視される日本の音楽教育と、奏者自身の表現力を評価するヨーロッパのそれとの違いについては、やや類型的な図式という気がしないでもない。それでも4人それぞれの葛藤や苦悩は十分に伝わってくるし、4人が別々のヨーロッパの町に留学し、ソロ活動とカルテットを両立することが内包する矛盾から、カルテットの休止という選択に至る必然性にも説得力がある。

 

映画は冒頭、「僕は二十歳だった。それが人生で一番美しい年齢だなどとは誰にも言わせまい。」というポール・ニザンのエピグラフで始まる。「青春」はこの作品の大事なモチーフで、文字通り4人の若い音楽家たちの青春時代が描かれる訳だが、カルテットという共同体はとりわけ青春と相性が良いのかもしれない。彼らよりさらに若い世代の、エール弦楽四重奏団やクァルテット・インテグラの演奏を聴きながら思うのは、その音楽の充実度もさることながら、そこに賭ける彼らの情熱の美しさであり凛々しさである。それはかつて確かに自分も経験したはずの青春という時間の余熱を、束の間感じさせてくれる。その作用には間違いなく、カルテットという芸術のひとつの本質があるだろう。

 

この映画で強く印象に残るのは、4人がカルテットとして最後のレッスンで、ガボール・タカーチ=ナジの指導を受ける場面。課題曲はベートーヴェンの弦楽四重奏曲第12番変ホ長調で、その第2楽章アダージョを巡るやりとりに本作の核心があるように思える。その同じ曲をプログラムに据えたカルテットの再会公演が、今年の東京春祭で予定されている。映画を観る前からチケットは取っていたけれど、観終わってさらに楽しみになった。青春が過ぎても、カルテットという名の物語はまだ続いている。

 

■東京都交響楽団 第1035回定期演奏会Cシリーズ(26/2/8東京芸術劇場コンサートホール)

 

[指揮]ベン・グラスバーグ

[ピアノ]アンナ・ヴィニツカヤ*

 

メラニー・ボニス/クレオパトラの夢(日本初演)

ラヴェル/左手のためのピアノ協奏曲 ニ長調*

(アンコール)ラヴェル/「優雅で感傷的なワルツ」より 1.モデラート、亡き王女のためのパヴァーヌ*

バルトーク/管弦楽のための協奏曲

 

東京都心でも5cmの積雪を観測した衆議院選挙当日のマチネ。今回初めて聴く英国出身の指揮者ベン・グラスバーグは、2017年のブザンソン優勝者で、現在はルーアン・ノルマンディ・オペラの音楽監督を務める人。長身の長い手足をキビキビと動かす指揮ぶりは、いかにも有能な現場監督といった感じ。

 

1曲目の日本初演作品が聴きもの。まだまだ未知の作曲家はいるもので、メラニー・ボニス(メル・ボニス、メラニー・ボニとも)という名前は今回初めて知った。フランス近代の女性作曲家で、パリ音楽院ではドビュッシーやピエルネらと学友だったという。「クレオパトラの夢」は、伝説的な女性をテーマにした自作のピアノ曲をオーケストラ版に編曲した3曲のうちの1曲。私好みの和声に充ちた10分足らずの小品で、オケの鳴らし方を心得た巧みな書法が冴え、不意の素っ気ない終わり方も気を引かせる。NMLの音源で聴ける2台ピアノ版もまた違った味わいがある。近年再評価の気運もあるようだが、演奏機会があればもっと聴いてみたい作曲家。

 

ヴィニツカヤがオケと協演するのを聴くのは3回目で、過去2回も都響定期だった(インバルとのプロコフィエフ2番、尾高忠明とのパガニーニ狂詩曲)。左手1本でもオケに埋もれることなくクリアで、パワフルかつリッチな音色は健在で、この人のピアノやっぱり好きだなと思う。この日は聴きながら、ソロ・パートではラフマニノフやスクリャービンの仄暗さを思い出し、行進曲風のオケ・パートではショスタコ味を感じた。ピアノ協奏曲というよりも、オケ伴付きのピアノ曲のように聞こえたのも、このコンビの演奏ならではだろうか。アンコールにもラヴェルを2曲。今回は日程の都合でリサイタルを聴けないが、その渇きを多少なりとも癒してくれた。

 

休憩を挟み、後半はバルトークのオケコン(奇しくも、ヴィニツカヤがプロコ2番を弾いた時のメインもこの曲だった)。全楽章ほぼアタッカで、文字通り隙の無いパフォーマンス。どのパートもさすがに上手いのだが、最も魅力を感じるのは弦セクションの吸い付くような一体感だろうか。芸劇と言えば以前は銭湯みたいな残響が気になったものだが、いつの間にか随分解像度が上がったように思えるのは、改修工事の効果もあるのか、それともグラスバーグ&都響サウンドのなせる業だろうか。

フジコ・ヘミングの映像作品と言えば、ブームのきっかけとなった1999年のNHKのドキュメンタリーに始まり、2024年の訃報の後に放送された晩年のドキュメンタリーに至るまで、専らテレビで観てきた。だからこの映画もおそらく似たような路線で、今さらフジコ・ヘミングか…と思わなくもなかった。でも実際に観てみたら、これは一連のテレビ番組とは異なる文脈で構想された、第一級の伝記映画であることが分かった。

 

短いエピソードを重ねていくアンソロジー風の構成。各エピソードの冒頭には、筆記体のアルファベットで綴られた章題が付く。幼い頃、家族を日本に残したまま母国へと去った父親の記憶に始まり、フジコさんの辿ってきた人生の軌跡がほぼ時系列で語られる。それはこれまでにもテレビで何度か観てきて知っている物語ではあるけれど、そこからは漏れていた側面や細部が丁寧に取材され、掬い取られる。今も残るベルリンの生家の内部の様子や、俳優の弟・大月ウルフや、スウェーデンに暮らす異母妹エヴァの証言、菅野美穂が朗読するフジコさんの絵日記の飾らない心情、等々。どの部分を切り取っても愛が感じられ、映画全体がフジコさんへのラブレターになっている。

 

フジコさんが自らの人生を振り返って、「憂しと見し世ぞ今は恋しき」という百人一首の一節を引く場面があるが、まさにこの言葉に尽きる。フジコ・ヘミングという個人の物語が、あらゆる家族の、芸術家の、女性の、漂泊者たちの物語へとつながっていく。フジコさんの両手の指が意外なほどずんぐりむっくりしているのにも驚く。その指が奏でる「ラ・カンパネラ」全曲の演奏シーンが終盤に流れる。そしてリスト「ため息」の旋律に乗せた、フジコさんの生涯を凝縮したような自室でのラストシーンがあまりにも美しく、まるでイコンのように神々しい。

 

■NHK交響楽団 第2056回定期公演(26/1/29サントリーホール)

 

[指揮]トゥガン・ソヒエフ

[ピアノ]松田華音*

 

ムソルグスキー(ショスタコーヴィチ編)/歌劇「ホヴァンシチナ」より 前奏曲「モスクワ川の夜明け」

ショスタコーヴィチ/ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調*

(アンコール)シチェドリン/ユモレスク*

プロコフィエフ/交響曲第5番 変ロ長調

 

N響ソヒエフ定期のBプロはロシア/ソ連プロ。1曲目はムソルグスキーの未完のオペラの映画化に際し、ショスタコーヴィチがオーケストレーションを施したもの。ほんの5分ほどの瑞々しい音画で、郷愁を誘うクラリネットの旋律に、水滴のようなハープの爪弾きが撥ねる。

 

ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第2番は、これまで聴いた中では2018年5月のアレクサンドル・トラーゼ(パーヴォ&N響)の渋い抒情が記憶に残る。この日の松田さんは、至って真摯に真正面から弾き切ってみせた。それでも何かしら食い足りなさが残るのがこの曲の一筋縄ではいかないところだろうか。

 

プロコフィエフ5番をソヒエフがN響で振るのは13年ぶりとか。13年前はまだこの曲にもソヒエフにも馴染みが薄かったけれど、今となっては当代屈指のプロコ振り・ソヒエフの指揮でぜひ聴いてみたい1曲(未聴だが2023年のウィーン・フィル来日公演でもこの曲を代役指揮している)。

 

第1楽章の序盤から、「モスクワ川の夜明け」にも通じる黎明の気配が立ち込める。低弦や金管の深呼吸するような響きに、ホール全体が充たされる。音楽の流れに窮屈さや強引さが無く、あくまで自然体でリラックスしている。この楽章、どこまで行ってもなかなか本題が始まらず、「で、結局何が言いたいの?」と思わされることもあるのだが、なるほどこれは「本題の前の深呼吸」なのではなく、「深呼吸そのものが本題」だったんですね。

 

第3楽章の悠揚迫らざる歩みも然り。これまでプロコ5番と言えば、偶数楽章の軽妙な展開に断然魅力を感じていたけれど、むしろこの曲の真髄は奇数楽章にこそあり…と思わせてくれる。第2楽章も中間部のおっとりとしたスローダウンが印象的。第4楽章ではもはやソヒエフは拍で振らず、漂う「気」のようなものを撫でたり手繰ったり。トリッキーな楽想の仕掛けが悉くいい出汁となって、実に豊かでコクのあるサウンドが醸し出される。

 

まさに「交響楽」の醍醐味。これほど味わい深く多幸感あるプロコフィエフはなかなか聴けない。次は13年後と言わず、また近い将来に名シェフのスペシャリテを味わわせていただきたいもの。

■東京都交響楽団 第1034回定期演奏会Aシリーズ(26/1/23東京文化会館)

 

[指揮]ダニエーレ・ルスティオーニ

 

ヴェルディ/歌劇「運命の力」序曲

ヴェルディ/歌劇「マクベス」第3幕バレエ音楽

ヴェルディ/歌劇「オテロ」第3幕バレエ音楽

ヴェルディ/歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲

ワーグナー/歌劇「リエンツィ」序曲

ワーグナー/歌劇「タンホイザー」序曲

ワーグナー/歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲

ワーグナー/歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲

 

ルスティオーニの指揮は2016年に東響、2017年に都響で聴いて以来、久しぶりの3回目。今年4月から都響の首席客演指揮者への就任が決まっており、そのプレ披露公演でもある。かつて「三羽烏」と並び称されたイタリアの若手指揮者たちも、最近何かと話題のバッティストーニは東フィルとの関係が続いているし、ルスティオーニは都響にポストを得た。東響にはマリオッティとのコネクションを継続してほしいところ。

 

この日はヴェルディとワーグナーのオペラの序曲・前奏曲・バレエ音楽を集めた、定期演奏会としては珍しいプログラムで、ちょっと遅めのニューイヤー・コンサートといった趣向。前半にヴェルディの4作品、後半にワーグナーの4作品が演奏されたが、このうち実演で全曲を聴いたことがあるのは「オテロ」と「タンホイザー」のみ。いずれ「マクベス」と「ローエングリン」ぐらいは聴いておきたいと思っているけれど、8作品全部を全曲聴くことはないだろう。その一端に触れられる機会としても貴重。

 

1曲目の「運命の力」からフレッシュで歯切れの良い快演。このオペラ、本編の救いの無い筋書きを解説で初めて知った。「マクベス」のバレエ音楽を聴くのはおそらく初めてで、舞台上演ではしばしばカットされるとのこと。「オテロ」のバレエ音楽もそこだけ切り抜いて聴くとオペラとは別物のようだ。「シチリア島~」ではクレッシェンドにロッシーニ味が感じられ、なるほどイタリア・オペラの地続きの伝統が鮮やかに息衝いている。

 

続けて聴くと、ヴェルディよりむしろワーグナーのメロディメーカーぶりが際立つ。聴くまで忘れていたが、「リエンツィ」も名旋律の宝庫。演奏の熱量が楽曲構成の緊密さを浮き彫りにした「タンホイザー」は、当夜随一の秀演。「ローエングリン」第1幕への前奏曲は、改めて生音で聴くと冒頭部分の和音が「笙」のようにも聞こえる。締めくくりの「マイスタージンガー」も含め、重厚と言うよりはさっぱりとして見通しの良いワーグナー。

 

もっとも歌劇場経験の豊富なルスティオーニにとってこれはあくまで挨拶代わりで、真価を問うのは今秋に予定されているマーラー「復活」などを待ってからでも遅くはないだろう。

■NHK交響楽団 第2054回定期公演(26/1/18NHKホール)

 

[指揮]トゥガン・ソヒエフ

 

マーラー/交響曲第6番 イ短調「悲劇的」

 

N響の記念すべき創立100年イヤーの幕開けはソヒエフ月間。ほぼ毎年のように客演しているソヒエフだが、N響でマーラーを振るのはこれが初めてとか。公式サイトのインタビューで、「この交響曲の悲劇的な側面だけに光を当てるつもりはありません」と語っていたが、その言葉通り、この曲の従来のイメージとは一線を画す、多彩で豊饒な作品世界を引き出してみせた。

 

第1楽章で印象的なのは、トランペットのイ長調→イ短調のモチーフが念を押すように丁寧に演奏され、それに伴うティンパニの打撃が心持ちスローダウンする場面。提示部のくり返し、そして再現部と回数を重ねるごとにくっきりと耳に残る。大編成にもかかわらず各セクションが驚くほど分離よく聞こえ、特に遊軍のように立ち回るヴィオラ隊のザクザクとした刻みが際立つ。木管のベルアップと非ベルアップの違いがこれほどクリアに描き分けられたアンサンブルもなかなか聴けない。再現部の後半からコーダにかけて、音響的な迫力で押し切るのではない、音楽的な文脈の「持って行き方」の説得力には唸らされた。

 

中間楽章はアンダンテ→スケルツォの順。緩徐楽章は近年聴いた中では最も遅く、体感的にはアンダンテ・モデラートと言うよりアダージョに近い。そんな緩やかな弦の流れに浮かび上がる木管が、まるでフランス音楽(ドビュッシー?)を思わせる色彩感で聞こえてきたのには意表を突かれる。対照的にスケルツォはきりりと引き締まった快速テンポで、プロコやショスタコのソ連的スケルツォを彷彿させる。そしてこのメリハリの効いた構成で聴くと、スケルツォ→アンダンテで聴き慣れた耳にも、この楽章順にする必然性がいつになく腑に落ちる。

 

最終楽章で印象的なのは、金管セクションの繊細なフレージングを施されたアンサンブル。主部に入る手前の暗鬱さも、終盤のクライマックスでの豪壮さも、パワフル一辺倒ではなく、あくまで響きは柔らかく、優しさや奥ゆかしささえ感じさせる。ハンマーは2回。でも、これほど異物感なく、オケに溶け込んだ「楽音」として聞こえるハンマーも珍しい。陰の主役とも言うべきチェレスタやダブルハープの存在感も申し分ない。この長大な楽章が決してごった煮にはならず、素材ごとに丁寧に面取りされ適切に火を入れられた極上の煮物のようだ。最後の一撃に続くティンパニの、したたかに遅い足取りが雄弁な余韻を残す。

 

この曲、カタストロフの疑似体験装置のようなところがあって、絶叫系のアトラクションみたいな音響的刺激に充ちた演奏をつい期待しがち。それとはおよそ趣きを異にする演奏で、もう何度も乗ったはずのこのアトラクションの、これまで見逃していた風景がいくつも見えてくる。ソヒエフのマーラー、いいですね。少なくとも第6番に関しては、同じN響で聴いたパーヴォよりこちらの方が好み。新年早々「悲劇的」もどうかと思ったけれど、終わってみれば幸先の良いオーケストラの聴き初めでした。

 

この正月休みにふと思い立って、大好きな映画の1つ「過去へ旅した女」(原題:The Two Worlds of Jennie Logan)を観直してみた。1979年のアメリカ映画で、劇場公開ではなくテレビ放送用に製作されたものらしい。日本では1983年にNHKで放送されたようだが、私が観たのはその数年後にテレビ東京の昼間の時間帯に放送されたもの。一度観てすっかり気に入ってしまい、再放送の機会を狙ってビデオに録画し、ブルーレイに焼き直して永久保存版にしている。なお英語版は商品化されたが、日本語吹き替え版はニコニコ動画で視聴可能(※以下ネタバレ注意)。

 

物語は、ニューヨーク郊外の古い屋敷を夫婦が不動産屋の案内で内見している場面から始まる。夫(マイケル)の浮気が原因でぎくしゃくした夫婦関係を、田舎への引っ越しでやり直そうとしている。その屋敷の屋根裏部屋で古いドレスを発見した妻(ジェニー)が、それを身につけたところから不思議な現象が起こり始める。80年前の同じ町、同じ屋敷へタイムスリップしたような幻覚を見るのだ。しかし町の歴史博物館などで調べるうちに、それは幻覚ではなく、実際にあった過去そのものであることが分かってくる。その過去の世界で、ジェニーは屋敷に住む画家の男(デヴィッド)と出会い、惹かれ合うようになる。

 

ドレスを媒介として、現在と過去の2つの世界を行き来するようになったジェニー。マイケルではなくデヴィッドと共に生きることを決意したジェニーは、伝聞では決闘沙汰の末に殺されたとされるデヴィッドの運命をどうにかして変えようとする。そして迎えた決闘当日(新世紀=20世紀を迎える祝賀パーティーの夜)、ぎりぎりで事件の真相を掴んだジェニーは、阻止しようとするマイケルの手を逃れ、永遠に過去の世界へと旅立ってしまう。現在の世界でジェニーの葬儀を終えたマイケルは、因縁の屋敷を引き払うことに。その作業の最中、発見された数枚の絵には、過去のジェニーが幸せに暮らした「証拠」が刻印されていた…。

 

ミステリーやホラーテイストも交えた、ロマンチック時間SFの隠れた傑作。当時はまだタイムリープという言葉も一般的ではなかった。ジェニーと言えば、このジャンルの代表作とも言うべきロバート・ネイサンの小説「ジェニーの肖像」を思い出さずにはいられないが、この命名は意図したものだろうか(ちなみに映画の原作はデヴィッド・ウィリアムズの「セカンド・サイト」という小説)。そういえば「ジェニーの肖像」にも画家が登場し、描かれる絵が重要な役割を果たすことになるが、画布というメディアは、時をかけるロマンスと相性が良いのかもしれない。

 

ストーリーもさることながら、一度聴いたら忘れられない音楽が最高にエモい。様々な形にアレンジされ劇中で何度も流れるこのテーマ曲こそが、ノスタルジックで切ないこの映画の主役と言っても過言ではない。改めてクレジットを確認すると、音楽を担当したのはグレン・パクストン。監督・脚本はフランク・デ・フェリッタ。彼らのフィルモグラフィを検索してみると、今作も含めメジャーな話題作は見当たらない。ジェニー役の主演リンゼイ・ワグナーこそ知名度はあるようだが、どちらかと言えば地味なスタッフの確かな仕事が奇跡的に結実した、何度観ても(聴いても)色褪せない、私にとっては珠玉のファンタジー。

■東京交響楽団 特別演奏会「第九」2025(25/12/29サントリーホール)

 

ベートーヴェン/交響曲第9番 ニ短調「合唱付」

(アンコール)蛍の光(AULD LANG SYNE)

 

[指揮]ジョナサン・ノット

 

[ソプラノ]盛田麻央

[メゾ・ソプラノ]杉山由紀

[テノール]村上公太

[バスバリトン]河野鉄平

[合唱]東響コーラス

 

まだ大みそかのジルヴェスター・コンサートが残っているが、私がノット監督の任期中に聴くこのコンビの実演はこれで最後。ノット&東響による「第九」は、2019年に始まってから2022年まで4年連続のべ5回聴いてきた。一昨年と昨年は思うところあって年末の第九はテレビ視聴だけだったので、この曲の実演自体3年ぶりである。

 

過去4年の感想を読み返してみて、このコンビの第九についてはほぼ書き尽くしているかと思いきや、実際に聴いてみると、そのどれとも似ていないのがこのコンビらしい。弦8-8-6-5-4のコンパクトな編成から生み出される、室内楽的とも、オペラ的とも感じられる、極めて情報量の多いパフォーマンス。具体例を挙げ始めたらキリがないが、第1楽章冒頭の開放弦の透明感、第2楽章のスケルツォらしからぬ粘り腰、第3楽章の4番ホルンの神々しいまでの輝き、第4楽章のレチタティーヴォの生気溢れる低弦…などは特筆しておきたい。

 

この先、ノット&東響で第九を聴く機会があるのかは分からないが、次回もきっとまたこれとは違った印象を受けるのだろう。今回も含めこのコンビで第九を6回聴いたことになるけれど、同じ指揮者とオケで実演に接した回数としては最多であり、今後この記録が破られることも多分無いだろう。必ずしも毎回100%自分の理想の第九だった訳ではないけれど、これほど集中してこの曲と向き合えたのは本当に貴重な経験でした。

 

* * *

 

という訳で、今年も拙文をご覧いただき、ありがとうございました。来る年も素敵な音楽との出会いがありますように。そこに、ノット&東響の演奏が含まれないのは寂しいけれど…。

 

昨年末はお休みしたこのコーナーが2年ぶりに復活。今年聴いたコンサートで初めて出会い気に入った曲、その魅力に初めて開眼した曲、今後も聴き続けていきたいと思う曲を、聴いた順にふり返り、2025年のメモワールとしたい。

 

♪ウォルトン/ヴァイオリン協奏曲

20世紀英国のヴァイオリン協奏曲の名品。まるで極上のミステリー映画のサウンドトラックのようで、事件の舞台となるお屋敷を俯瞰で捉えたオープニングがありありと浮かんでくる。この音楽を使った映画「ウォルトン殺人事件」、誰か撮ってくれないかな。スラットキン&金川真弓(1/15サントリーホール)

 

♪ジャン・クラ/ハープ、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラとチェロのための五重奏曲

愛好する作曲家ジャン・クラの、初めて聴く「新曲」。クラにはピアノ五重奏曲もあるが、編成がフルートとハープに替わったことで音色に瑞々しさが増し、アンサンブルにクラ特有の海風が吹き抜ける。この曲も含め、もっと演奏されてほしい作曲家。新日フィルメンバー(2/17すみだトリフォニーホール小ホール)

 

♪ルクー/ヴァイオリン・ソナタ ト長調

名のみ知るばかりだったヴァイオリン・ソナタを初鑑賞。擬古典的と思われた曲想の思いのほか近代的な響きと、このジャンル史上唯一無二の緩徐楽章の浮遊感。シンプルな分、器量が丸見えになる誤魔化しの効かないレパートリーに、辻彩奈の真っ直ぐな美音が冴え渡る。辻彩奈&シュトロッセ(3/18紀尾井ホール)

 

♪ロッシーニ/スターバト・マーテル

ロッシーニの美メロが満載の「悲しみの聖母」。宗教曲にしてはオペラティックに過ぎる…という批判もあったようだが、美しいものは美しい。むしろ宗教曲という制約があればこそ、オペラよりも凝縮されたドラマ性が際立つ。今季東響定期屈指の好プロダクション。マリオッティ&東響(6/8サントリーホール)

 

♪フィールド/ノクターン集

ノクターンの創始者、ジョン・フィールドのノクターンと数十年ぶりに再会。記憶にあったのはわずかに2曲だが、今年はアリスさんの新譜で全18曲のノクターン集に親しみ、リサイタルで実演に接することもできた。大半は初めて聴くのに、どれも不思議と懐かしい。アリス=紗良・オット(6/29サントリーホール)

 

♪ブリテン/夏の夜の夢

セイジ・オザワ松本フェスティバルでブリテンのオペラを初体験。才気煥発なブリテンの音楽と、原作に忠実な英語のテキストが相まって、シェイクスピア原作の音楽作品としては最上級の成功例では。ロラン・ペリー演出のファンタジー溢れる舞台も素晴らしい。沖澤のどか&SKO(8/17まつもと市民芸術館)

 

♪プーランク/モンテカルロの夜

歌姫ナタリー・デセイがフェアウェル・コンサートで歌った1曲。コクトー&プーランクのエスプリがマリアージュした、フレンチ・ミステリの短編小説のような味わい。「モンテカルロ」という地名がこれほど甘く色っぽい響きを持っていたとは! デセイ&カサール(東京オペラシティコンサートホール)

 

♪プーランク/スターバト・マーテル

ロッシーニの同名曲とは全くタイプは異なるが、甲乙付け難い魅力がある。鮮やかな原色のサウンドの光と影が交錯する中、混声合唱がダイナミックに歌い続け、ソプラノ・ソロが大胆にアクセントを添える。ドラマチックな幕切れは、古い宗教映画の劇伴のようにも。山田和樹&日フィル(11/28サントリーホール)

 

* * *

 

初めてまともに全曲を聴いたという意味ではバッハ「マタイ受難曲」もそうなのだが、さすがにフェイバリットピースと呼ぶのは畏れ多いですね…。

■東京二期会コンチェルタンテ・シリーズ(25/12/14東京芸術劇場コンサートホール)

 

エクトル・ベルリオーズ/ファウストの劫罰

 

[指揮]マキシム・パスカル

[管弦楽]読売日本交響楽団

 

[マルグリート]池田香織

[ファウスト]山本耕平

[メフィストフェレス]友清 崇

[ブランデル]水島正樹

[合唱]二期会合唱団

[児童合唱]NHK東京児童合唱団

 

全曲演奏の機会が貴重なベルリオーズ「ファウストの劫罰」。個人的には2016年9月に高関&シティ・フィル、スダーン&東響で立て続けに聴いて以来、9年ぶりとなるこの機会に聴いておくべく、改修工事でしばらくご無沙汰だった池袋の芸劇へ。

 

セミ・ステージ形式の今回、特徴的なのは映像(上田大樹)と照明(喜多村貴)による演出である。ステージの後方中央にやや縦長の四角いスクリーンが設置され、冒頭の空を流れる雲の映像に始まり、場面に合わせた様々な映像が映し出される。映像はしばしばスクリーンをはみ出し、ステージ左右の壁面や天井まで占領する。映像は日本語字幕も兼ねており、最初は縦書きのテロップで歌詞対訳が出てくる。これがメフィストの登場シーンではSNSの対話型テキストに姿を変える。イイネの絵文字や顔マークが飛び交う。同様の趣向がオペラの演出にもあるのかは不明だが、なるほど当世風の見せ方。雑多な要素がコラージュされた映像は、ポップなミュージック・ビデオのようでもあり、キッシュなカラオケの映像みたいでもある。

 

それにしても、改めて聴いてみるとこの作品、台本にかなり問題があると思う。紆余曲折あった作品の成立過程については、簡にして要を得た成田麗奈氏の解説を興味深く読んだが、ストーリーをここまで都合よく改変するなら、そもそも原作がゲーテの「ファウスト」でなくてもよかったのでは…。オペラともカンタータともつかない形式の曖昧さもあって、全体的に説明不足だし、元ネタを知らない初見の客にも不親切だろう。聴きながらふと思ったのは、そうか、これは「講談」だと思えばいいのか…ということ。稀代の講談師・ベルリオーズが、独自の解釈で尾ひれ背びれをつけたり、大胆に端折ったりした「講談・ファウストの劫罰」なのだと。

 

それでも本作が名曲たり得ているのは、台本の弱さを補って余りある音楽があるからだ。「ラコッツィ行進曲」以外の曲はほぼ9年ぶりに聴いたけれど、前回聴き知った旋律がしっかりと脳裏に残っていて瞬時に蘇ってくる。どれもどこか懐かしくて、人懐っこくて、愛すべき曲ばかり。とりわけマルグリートに充てられた「トゥーレの歌」と「ロマンス」は全編中の白眉。池田香織さんの深みのある歌声に寄り添いながら、「トゥーレの歌」では鈴木さんのヴィオラ・ソロが二重唱のように朗々と歌い、「ロマンス」では北村さんの楚々としたコーラングレが泣かせる。後者はコーラングレの古今の名旋律の中でも随一と言っていいのでは。終曲では児童合唱が舞台手前に登場、天の声はどこで誰が歌っていたのか分からなかった。

 

音楽の魅力を堪能するなら、演奏会形式で十分だろう。しかし今回、映像付きの新プロダクションに接してみて、この作品の弱みも含めた新たな一面を知ることができた。次回は何年後にどんな形で聴くことができるだろうか。