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今夜、ホールの片隅で

東京在住クラシックファンのコンサート備忘録です。

🔳日本フィルハーモニー交響楽団 第758回東京定期演奏会(3/23サントリーホール)

 

[指揮]アレクサンダー・リープライヒ

[ヴァイオリン]辻 彩奈*

 

三善 晃/魁響の譜

シマノフスキ/ヴァイオリン協奏曲第1番*

シューマン/交響曲第3番 変ホ長調「ライン」

 

アレクサンダー・リープライヒは初めて聴く指揮者。プロフィールを見ると日本のほか韓国、台湾、シンガポール等、アジア各国で振っているようだ。現在のポストはプラハ放送響首席指揮者、バレンシア管首席指揮者兼芸術監督。1曲目の三善作品はマニアックな選曲だが、これは日フィルからの提案とのこと。

 

お目当ては2曲目のシマノフスキ。この曲の実演は、イザベル・ファウスト(N響)と弓新(東響)で聴いた2021年以来。その時かなり聴き込んだので、細部は忘れても大枠は刷り込まれている。初挑戦のレパートリーだったという辻さんだが、全編艶やかな美音で、一筋縄ではいかない難曲にもかかわらず、技術的にも精神的にも余裕が感じられる。オケも含めさらに神秘的な妖しさが加われば…とも思うが、それは望み過ぎというものだろう。

 

後半のメインはシューマンの「ライン」。これはマエストロ意中の作品のようで、日フィルから滔々たる流れを引き出した好演。リープライヒはタクトを持たず、長い両腕をダイナミックに使って指揮する。その上着の裏地が真紅で、指揮台の上で躍動するたびに、翻った赤がちらちらと見える。それがいかにも嬉々として振っているようで印象的だった。

 

ところで「ライン」と言えば、先日最終回を迎えたドラマ「さよならマエストロ」でも重要な意味を持つ曲だった。このドラマ、始まった時は、1年前に放送されたばかりの「リバーサルオーケストラ」と設定が似すぎでは(存亡の危機に瀕した地方オケ、ヴァイオリンにトラウマのあるヒロイン等々)と思ったけれど、より人間ドラマに重点を置いた脚本で、これはこれで楽しめた。監修が広上淳一氏だけに、「ベートーヴェン先生」「シューマン先生」と「先生呼び」が頻出したのはご愛敬。

 

このドラマで最も印象に残ったのは、芦田愛菜と西島秀俊の父娘和解シーンもさることながら、指揮者見習いだった女子高生(當真あみ)が最終回で「皇帝円舞曲」を振ったシーン。晴見フィルが、ドイツに戻るマエストロの後を託す人材として、素人同然だった彼女を抜擢するのだが(コンマスも芦田愛菜に)、あぁこうして音楽は新しい世代に受け継がれてゆくんだな…ということを端的に表現した名場面で、何だかじーんときてしまった。

🔳オーケストラ・アンサンブル金沢 第40回東京定期公演(3/18サントリーホール)

 

[指揮]マルク・ミンコフスキ

 

ベートーヴェン/交響曲第6番 ヘ長調「田園」

ベートーヴェン/交響曲第5番 ハ短調「運命」

(アンコール)バッハ/アリア(管弦楽組曲第3番より)

 

2018年から2022年までオーケストラ・アンサンブル金沢の芸術監督を務め、現在は桂冠指揮者のミンコフスキ。就任当初から新幹線に乗って金沢へ聴きに行けたら…と思っていたけれど未だ果たせず、このコンビを聴くのは今回が初めて。コロナ禍に翻弄されたベートーヴェンの交響曲全曲シリーズが先日の「第九」で無事完結し、今回の東京公演はその特別編である。

 

弦は10-8-6-4-3の対向配置で、コントラバスは正面奥に位置するウィーン・フィル式。前半の「田園」、どんなユニークな演奏になるかと思いきや、至極真っ当な音楽作り。第3楽章の中間部などさすがの躍動感だし、最終楽章終盤では指揮棒で左腕をゴシゴシやって弦を煽り、かなり濃厚なクライマックスを築いていた。ただ、催眠術にかかったように何度も眠気が訪れ、最後まで集中できなかったのだが…。

 

ところで、メンバー表を見て知ったのだが、一時期東響にいたフルートの八木さんて今OEKなんですね。第2楽章終盤の小夜啼鳥や、最終楽章冒頭の虹の音階では、ひと味違うソロを聴かせてくれて思わず目が冴える。そしてコンマスのアビゲイル・ヤングの隣にいるのは、元東響の水谷さんじゃないですか(現・OEK客員コンサートマスター)。クラリネットの客演が元新日フィルの重松さんだったとは気付かなかった…。

 

後半の「運命」、登場したミンコフスキが客席に向かって軽く会釈し、振り向きざまに振り始める。これは速い! 弦に弓が着かずスピッカート気味になってるし、ホルンなんか音がよれちゃってる。再現部のオーボエのカデンツァは思い切りゆったりと吹かせ、その対比が実に鮮やか。続く第2楽章では腹式呼吸でたっぷりと歌うのだが、弦がわざと不揃いに聞こえる箇所があって、何故かブルックナーを思い出したりする。

 

スケールの大きい第3楽章。第4楽章は最初の主和音の3つはゆっくりで、直後から一気にスピードに乗る。バッティストーニ&東フィルの「運命」も速かったが、それに匹敵する高速テンポ。しかもこちらの方がずっしりと重い。バッテイがスポーツカーなら、ミンコフスキはダンプカー。目の前に現れる楽想を次々となぎ倒しながら、コーダに向かってひたすら突き進む。眠気も吹き飛ぶ豪快無比なパフォーマンスだった。

 

アンコール前のミンコフスキのスピーチは、例によって自席ではよく聞き取れなかったのだが、「マエストロ・セイジ・オザワ」と言っていたので、小澤さんへの追悼の意が込められていたようだ。小澤さんが振る「アリア」は太く濃い明朝体のようだったけれど、当夜のそれは、綾なす各声部がイタリック体のように繊細で、その違いもまた味わい深い。

🔳金川真弓&小菅優 デュオ・リサイタル(3/16彩の国さいたま芸術劇場音楽ホール)

 

[ヴァイオリン]金川真弓

[ピアノ]小菅 優

 

モーツァルト/「ねえ、お母さん、聞いて」の主題による変奏曲 ハ長調

ベートーヴェン/ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第7番 ハ短調

(休憩)

イザイ/無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第4番 ホ短調

ファリャ/7つのスペイン民謡

プーランク/ヴァイオリンとピアノのためのソナタ

(アンコール)フォーレ/夢のあとに

 

金川真弓のヴァイオリンと小菅優のピアノという魅力的な組み合わせによるリサイタル。まず小菅さんのソロで「きらきら星変奏曲」。ベートーヴェンのイメージが強い小菅さんだが、モーツァルトも心洗われるようなタッチで、変奏曲の全体像を柔らかく描き出してゆく。続くベートーヴェンのソナタ第7番は、第2楽章アダージョ・カンタービレが絶佳。いつまでも終わってほしくない至福の時間だった。

 

休憩後に金川さんの短いトークがあった。後半のファリャとプーランクをつなぐのが詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカの存在であると。プーランクのソナタの第2楽章冒頭には「ギターが夢を涙に誘う」というロルカの詩の一節が引用されているが、その一節に始まる「六本の弦」という詩を金川さんが朗読し、そのままイザイを弾き始めた。昨年暮れに聴いた青木尚佳さんのイザイは隙の無いバランスだったが、金川さんはより歌う印象で、やはりこの人の音は好きだなぁ。

 

再び小菅さんとのデュオでファリャ、そしてプーランク。冷徹さと歌心を兼ね備えたプーランクが名演。最後のピアノの音が、鳴り響く銃声のようにいつまでも消えない。この曲を前回聴いたのは2015年10月(小林美恵&萩原麻未)のことで、当時はロルカ殺害を理不尽で無慈悲な歴史的事実として捉えていたけれど、9年後の今この曲を聴くと、その理不尽と無慈悲がぐっと生々しく感じられる。銃声は未だ消えていない。涙の夢のあとに、一抹のざわめきが残る。

 

改修工事中だったさいたま芸術劇場は久しぶり。余談だが、与野本町の駅から芸術劇場へ向かい、そのまま直進して高速道路を越えてしばらく行くと、「七越製菓」の工場がある。以前食べたおかきが美味しくて、製造元の所在地を調べたところ、さいたま芸術劇場の近くだったのだ。工場に隣接して直売所があり、余所では見かけない多種多様なおかきが並んでいて、おかき好きにはかなり魅力的。ここに寄り道するのも、ささやかな楽しみ。

昨年末から観たかった映画。Netflixならいつでも視聴できるようだが、新作映画はできれば映画館で観たい。しかし上映スケジュールが非常にイレギュラーで、ようやく観ることができた。

 

レナード・バーンスタインの生涯を、妻フェリシアとの関係を軸に描いた作品。監督・脚本・主演をブラッドリー・クーパーが務め、製作陣にはスコセッシやスピルバーグらも名を連ねている。先頃行われたアカデミー賞では7部門にノミネートされたものの無冠に終わったようだ。

 

題名役クーパーの「なりきり」ぶりが見もの。外見も声も仕草もなるほどよく似ている。ワルターの代役としてデビューした青年期から、タングルウッドで学生を指導する最晩年まで、年齢ごとの老けっぷりも見事で、あたかも本人のドキュメンタリーを見ているかのよう。

 

全編に流れるバーンスタインの音楽も聴きもの。主だった楽曲が次々と使用されるが、中でも「キャンディード」の「Make our garden grow」が劇中で歌われる場面や、背中合わせに座るレニーとフェリシアに「不安の時代」の冒頭が流れる場面が特に印象深い。サントラがあれば欲しい。

 

ただ、肝心のドラマはどうだろう。バーンスタインという規格外の才能と個性の持ち主が、周囲の人々に及ぼす「功」と「罪」を描き出そうとしているが、個々のエピソードが羅列されるばかりで、映画というよりもテレビドラマの域を出ていないような…(それにしては長い)。モノクロで始まり途中からカラーになる映像にはセンスを感じるのだが。

 

ともあれ、クーパーの「バーンスタイン芸」だけでも一見の価値あり。後半にマーラー「復活」の最終楽章終盤を大聖堂で振る、そこそこ長い演奏会シーンがあるのだが、見覚えのあるレニーのアクション(指揮しながらジャンプする、両腕で自分を抱きしめる)が逐一再現されていて、なかなかの完コピぶり。

 

🔳The Real Chopin×18世紀オーケストラ(3/12東京オペラシティコンサートホール)

 

[フォルテピアノ]川口成彦*、ユリアンナ・アヴデーエワ♯、トマシュ・リッテル♭

[管弦楽]18世紀オーケストラ

 

モーツァルト/交響曲第35番 ニ長調「ハフナー」

ショパン/「ドン・ジョバンニ」の「お手をどうぞ」による変奏曲 変ロ長調*

藤倉 大/Bridging Realms for fortepiano(日本初演)♯

ショパン/アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ♯

ショパン/ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調♭

(アンコール)ショパン/24の前奏曲より 雨だれ♭

 

サブタイトルは「~フランス・ブリュッヘンの想い出に~」。ブリュッヘンが創設した古楽器の18世紀オーケストラをバックに、3人のピアニストがフォルテピアノで代わる代わるショパンを弾くという趣向の好企画で、東京での2公演のうち2日目を聴いたが、客席の入りはちょっと寂しい。

 

指揮者の位置にフォルテピアノ(1845年製プレイエル)が客席に向けて置かれているが、最初はオケのみ(指揮者なし)でモーツァルトのハフナー交響曲。この曲のみ立奏で、ピリオド楽器ならではの雑味たっぷりのオーガニック・サウンドが心地よい。

 

次の「ラ・チ・ダレム変奏曲」は、てっきりフォルテピアノ独奏かと思いきや、登場した川口成彦氏がおもむろに弾き振りを始めた。元々この曲、ショパンがピアノとオーケストラのために書いた最初期の作品で、独奏で聴くのとはかなり趣きが違う。

 

続いてアヴデーエワが登場。フォルテピアノ独奏で藤倉大の日本初演作品を披露した。知らずに聴いたらいつの時代の作品か分からなさそうな小品で、ガムランに似た想像上の楽器をイメージしたと自作解説にあるが、確かに現実の楽器ではなく、記憶の中で鳴っているような不思議な感覚になる。

 

そして先日リサイタルでもアヴデーエワで聴いたばかりの「アンダンテ・スピアナート~」。オケ伴付きと聴き比べることになったが、そもそもこの曲をオケ伴付きの生演奏で聴くのは初めてかも。しかもピリオド楽器での演奏という滅多にない機会で、作曲当時の響きに想いを馳せる。

 

ここまでが前半で、休憩後はトマシュ・リッテルがソロを弾くピアノ協奏曲第2番。同じくリッテルが弾くフォルテピアノ(エラール)で、この曲の室内楽(ピアノ六重奏)版による演奏を聴いたことがある。今回は古楽器オケとの協演だが、第2楽章終盤のファゴットの対旋律や、第3楽章後半のナチュラルホルンの雄叫びの、何と素朴で味わい深いことか。

 

そして同じ楽器でも、プレイエルの響きも三者三様。リッテルの演奏にはピリオド楽器特有の脆弱さがほとんど感じられず、端正で粒立ちの良いタッチを聴いているとモダン・ピアノかと錯覚してしまう。一転、アンコールの「雨だれ」では、雨粒の1滴1滴が幽かに滲むような音色に酔う。

🔳すみだ平和祈念音楽祭2024(3/9すみだトリフォニーホール)

 

マーラー/交響曲第3番 ニ短調

 

[指揮]井上道義

[管弦楽]新日本フィルハーモニー交響楽団

[メゾ・ソプラノ]林 眞暎

[女声合唱]栗友会合唱団

[児童合唱]TOKYO FM少年合唱団、フレーベル少年合唱団

 

今年の「すみだ平和祈念音楽祭」は、引退が迫る井上道義&新日フィルによるマーラー3番。このコンビのマーラーと言えば、同じトリフォニーホールで行われたマーラー・ツィクルス(1999-2000)で聴いているので、およそ四半世紀ぶり。もっとも例の「転倒事件」のインパクトが強過ぎて、3番も含めてそれ以降の演奏の記憶がほとんど残っていないのだが…。

 

この日の演奏、第1楽章から描線が濃く理路整然とした運び。ただ会場の音響のせいか、サウンドがやや硬く平板で、アンサンブルにあまり広がりが感じられない。第1楽章再現部のシンバルの一撃は3人に増員され、叩いた後も円盤を前に向けたまましばらく動かさない(昨年聴いたカーチュンも最終楽章で増員していたけど、流行り…?)。夢の中から聞こえてくるような第3楽章のポストホルンの音量はばっちり。

 

女声合唱は最初から舞台後方にスタンバイし、第3楽章の終結部で児童合唱とメゾ・ソプラノ独唱が登場。独唱の林さんは女声合唱の中央に位置し、児童合唱はオルガンのバルコニー左右にシンメトリーに並ぶ。照明に若干の演出があり、第4楽章でやや暗くなり、第5楽章で合唱が起立すると明るくなり、第6楽章では客電もやや明るくなったと思うのだが、あれはどういう意図…?

 

第6楽章は最初の弦も、最後のティンパニも体感的に速い。全体的にイマイチ焦点を欠き、何かまとまった感慨が湧いてくるには至らなかったけれど、あくまで個人的な好みによる感想です。

 

★マーラー/交響曲第3番 鑑賞履歴(2014/4~)

山田和樹&日フィル(2015/2/28)

ノット&東響(2015/9/12)

ノット&東響(2015/9/13)

パーヴォ・ヤルヴィ&N響(2016/10/6)

フルシャ&バンベルク響(2018/6/29)

カーチュン・ウォン&日フィル(2023/10/13)

3月になるときまって思い出す歌、というのが2曲ある。「三月のうた」と「三月生まれ」である。ほかの月ではそういうことはないのに、この2曲は不思議と毎年3月が来ると思い出す。

 

 わたしは花を捨てて行く

 ものみな芽吹く三月に

 私は道を捨てて行く

 子等のかけだす三月に

 わたしは愛だけを抱いて行く

 よろこびとおそれとおまえ

 おまえの笑う三月に

 

谷川俊太郎の詩に武満徹が作曲した「三月のうた」。私は石川セリの歌でこの曲を知ったが、元々は「最後の審判」という、W.P.マッギヴァーン原作のサスペンス映画の主題歌だったという。ドラマ「3年B組金八先生」の劇中でも使用されていたそうだが、これはよく憶えていない。

 

特に痺れるのは「よろこびとおそれとおまえ」の一節。アクロバチックに「悶える」臨時記号の移ろいに、ぞわぞわしてしまう。武満の名フレーズの1つだが、歌詞を書き出してみると、谷川の仄めかしもなかなか意味深である。

 

 ときどき

 真夜中に電話して

 あなたを無理に誘い出す

 これから何処かに行きましょ

 朝までふたりで踊りましょ

 そうよ、三月生まれは

 気まぐれなの

 

「三月生まれ」はピチカート・ファイヴの1曲。クラシック以外はあまり聴いてこなかったけれど、何故かピチカート・ファイヴには惹かれるものがあって、よく聴いた一時期があった。渋谷系の全盛期は90年代半ばだから、もう30年前の話だ。

 

この曲のイントロを最初に聴いた時、なんてリッチでゴージャスなサウンドなんだろう…と耳を奪われたのが忘れられない。そしてどこか浮世離れしたノンシャランなヒロインの歌。さらに歌詞が進むと「もっともっと、もっともっともっと」という野宮真貴の声がリフレインして離れない。

 

私の中では、この2曲は3月の「陰」と「陽」。花粉症のように今年も巡りくる。

 

 

🔳ユリアンナ・アヴデーエワ ピアノ・リサイタル(3/3紀尾井ホール)

 

ショパン/幻想ポロネーズ 変イ長調 作品61

ショパン/舟歌 嬰ヘ長調 作品60

ショパン/前奏曲 嬰ハ短調 作品45

ショパン/スケルツォ第3番 嬰ハ短調 作品39

ショパン/アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 作品22

(休憩)

リスト/死のチャールダーシュ S.224

リスト/暗い雲 S.199

リスト/ピアノ・ソナタ ロ短調 S.178

(以下アンコール)

ショパン/マズルカ イ短調 作品59-1

リスト/ハンガリー狂詩曲第17番 ニ短調 S.244

 

アヴデーエワのリサイタルを聴くのは2019年2月以来約5年ぶり2度目。2010年ショパン・コンクールの覇者も、今やすっかり実力派の中堅である。この日もシルバーのジャケット&パンツというスタイルで、中性的な雰囲気は相変わらずだが。

 

プログラムは前半にショパン、後半にリストで、いずれも作品番号を遡る構成。川口成彦氏の解説によれば、リストの作品は全てショパンの死後のもので、作曲年代が近接する最後の「ロ短調ソナタ」から最初の「幻想ポロネーズ」へと回帰する流れでもあるようだ。

 

「幻想ポロネーズ」にしても「舟歌」にしても、冒頭からガツンとした打鍵で始める演奏もあるが、アヴデーエワはそうはせず、極めて抑制されたバランスで丹念に音楽を組み立ててゆく。続けて演奏された「前奏曲嬰ハ短調」と「スケルツォ第3番」の後者で初めて溜めたエネルギーを解放した感覚があって、次の「華麗なる大ポロネーズ」にかけて前半の力強い山場を演出した。

 

後半のリストは3曲続けて演奏された。「死のチャールダーシュ」と「暗い雲」はほとんど馴染みの無い曲だが、前者はモンティの同名舞曲とはかなり様子が違うし、後者は解説にもある通りスクリャービンを思わせる神秘的な響き。リスト晩年のピアノ曲はまだまだ未知の領域で闇も深い。久しぶりに聴く「ロ短調ソナタ」も、実に歪で異形のソナタだと改めて思う。音楽のロジックが前半とはまるで異質。

 

こうして聴き比べると、同時代を生きた友人でもあったショパンとリストだが、音楽的な世界線の違いには歴然たるものがある。最も古い「アンダンテ・スピアナート~」(1834年)と、最も新しい「死のチャールダーシュ」「暗い雲」(1881年)を隔てる、20分間の休憩中に起きたロマン派約半世紀の「断絶」こそ、このプログラム最大の聴きどころだったのでは。

🔳都響スペシャル(2/23東京芸術劇場コンサートホール)

 

[指揮]エリアフ・インバル

 

マーラー/交響曲第10番 嬰ヘ長調(デリック・クック補筆版)

 

長らく聴かずに避けていたマーラーの交響曲第10番を、ようやく実演で初めて聴いたのは、2018年4月のノット&東響による第1楽章アダージョ(ラッツ校訂版)。同じく第1楽章を2020年9月には紀尾井ホール室内管による弦楽オーケストラ版(ハンス・シュタットルマイア編)で、2021年11月にはN響チェンバー・ソロイスツによる室内オーケストラ版(カステレッティ編)で初めて全楽章を聴いた。そして今回、待望のフルオーケストラ版による全楽章を初体験。録音で聴いているとは言え、生音で触れるマーラーの交響曲としては最後の「新曲」。

 

これが第3次マーラー・シリーズの開幕となるインバル&都響による演奏は、初めて体験する響きなのに、演奏し慣れたレパートリーのような安定感がある(実際、国内で最も多くこの曲を演奏しているのはこのコンビではないか)。デリック・クック補筆版については木幡一誠氏による解説に詳しく、クックの没後に至るまで続いた改訂により3ないし4種類存在するスコアを基に、インバルが独自に折衷させた形で演奏されているようだ。なおオケはチェロが手前の通常配置だが、このレイアウト、最近ではほとんど見なくなった気がする。

 

今では聴き慣れた第1楽章は別として、第2楽章スケルツォと第3楽章プルガトリオは、既存のマーラーの交響曲の楽章にかなり似た印象がある。しかし第4楽章スケルツォ以降が真の未体験ゾーンで、この楽章の終盤の打楽器の処理はショスタコ的(打楽器奏者は6人で、ダブル・ティンパニ、ハリセンに似たルーテも登場)。第5楽章フィナーレは軍楽隊用大太鼓の異様な打撃が執拗にくり返され、マーラーの全作品中随一とも言うべき孤高のフルート・ソロがあり、最後に弦が狂ったようなグリッサンドでしゃくり上げた後、息の長いディミヌエンドで消えてゆく。

 

全体としては、自然とか宇宙とか死後の世界とかそういうスケールの大きい話ではなく、もっとパーソナルな、ひとりの人間の内面に生起する感情を掬い取った音楽であるように感じられた。

 

終演後、この公演を最後に退団するヴィオラの店村眞積氏に、インバルから大きな花束、メンバーからもう1つの花束、さらに釣り竿(?)が贈られ、退場前にはコンマス矢部氏に促されステージ手前で一礼。これまで見てきたオケマンの去り際でも、これほど盛大なのは珍しい。ヴィオラ奏者の最後の演目がマーラー10番というのもいいですね。

小澤征爾さんが2月6日に亡くなった。88歳。同年代のマエストロたちがまだまだ健在で指揮台に立つ中、毎年放送される松本の音楽祭での歩くこともままならないその姿を見るのは辛かった。音楽家人生の集大成となるはずだった時期に、活動の大幅な制限を余儀なくされるという、指揮者にとっては残酷な晩年だった。

 

私自身は小澤さんの熱心な聴き手ではなかった。実演で聴いたのは5回あったかどうか。特にこのブログを始めてクラシック熱が再燃したここ10年は、小澤さんがコンスタントに指揮できなくなってしまった時期とほぼ重なっていたため、1回しか実演に接することができなかった。それ以前にも聴くチャンスはいくらでもあったかと思うと、同時代を生きながらも、聴き手としては実に間が悪かったとしか言いようがない。最後に2016年3月の演奏に立ち会えたことは、今にして思えば僥倖だった。

 

🔳小澤征爾&水戸室内管 ベートーヴェン5番の純真(2016/3/29)

 

以下は、そんな一クラシックファンから見た、小澤さんについての極私的な雑感である。

 

小澤さんの長いキャリアの中で、特に印象に残っている場面が3つある。1つ目はボストン時代で、1988年8月25日に行われたバーンスタインの70歳を祝うバースデイ・コンサート。録画したそのコンサートの模様については、バーンスタイン生誕100年の時に一度書いたことがある。師匠の懐に飛び込む小澤さんの「小僧っぷり」「愛弟子っぷり」がこの上なく発揮された舞台として忘れられない。

 

🔳30年前の今日、タングルウッドで(2018/8/25)

 

2つ目は1989年のベルリン・フィルのジルヴェスター・コンサート。小澤さんはアマチュア合唱団・晋友会を引き連れて、オルフの「カルミナ・ブラーナ」を振った。前年のベルリン・フィル定期での高評価を受けて再度呼ばれた形だったと思う。声楽付きの大規模作品を得意とした小澤さんだが、ベルリン・フィル、晋友会、そしてオルフの音楽がぴたりと嵌った、これはその頂点とも言うべき会心のパフォーマンスではなかったか。

 

3つ目は月並みだが、2002年のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサート。小澤さんのウィーン時代を代表する場面というと、やはりこれになる。しかも最もキレキレだったのは、ワルツでもポルカでもなく、ヨーゼフ・ヘルメスベルガーの「悪魔の踊り」。これを聴いた時、小澤征爾という指揮者の音楽性の本質を垣間見た気がしたものだ。以上が私が見てきた小澤さんの、ボストン、ベルリン、ウィーン三都におけるハイライト。

 

もう1つ、余計なことを書く。小澤征爾と立川談志についてである(この2人、小澤さんが4か月ほど年長の同学年だが、生前に接点はあったのだろうか?)。私が立川談志の落語を聴くようになった頃には、すでに彼の芸歴は晩年に差し掛かっていた。世評の高かった「芝浜」など、極められた芸の厳しさがあった。しかしある時、談志がまだ若手だった頃の音源を聴いて、その軽やかな口跡に惚れ惚れとさせられた。立川談志の芸の本質は、むしろこっちにあるんじゃないかと。

 

それと似たようなことを、小澤征爾にも感じるのだ。一般的に小澤さんの最も脂の乗った時期と言えば、ボストン時代の後期だろうか。確かにその時期の演奏も素晴らしいし、それ以降の演奏にも凄みを感じてしまう。しかしボストン時代以前の、トロント響やシカゴ響との録音を聴くと、その引き締まった音楽の身のこなしに痺れる。音楽が圧倒的に若い。それは後年になってからも、彼の核心に宿り続けていたものではなかったか。神格化された晩年の「征爾と談志」に、ふとそんなことを想った。

 

小澤さんの著書「ボクの音楽武者修行」を初めて読んだのは、中学生の時だっただろうか。もう一度読もうと思いつつ読みそびれたまま、結局訃報を聞いてから再読することになった。今これを読むと、小澤さんも、日本も、世界もまだ若かった…としみじみ思う。そんな「時代」の残り香が、いよいよ消えたのだ。