トリフォノフとハンマークラヴィーアと適齢期 | 今夜、ホールの片隅で

今夜、ホールの片隅で

東京在住クラシックファンのコンサート備忘録です。

🔳ダニール・トリフォノフ ピアノ・リサイタル(4/11サントリーホール)

 

ラモー/新クラヴサン組曲集より 組曲 イ短調

モーツァルト/ピアノ・ソナタ第12番 ヘ長調

メンデルスゾーン/厳格なる変奏曲 ニ短調

(休憩)

ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第29番 変ロ長調「ハンマークラヴィーア」

(以下アンコール)

J.グリーン&テイタム/I cover the Waterfront(波止場にたたずみ)より

スクリャービン/ピアノ・ソナタ第3番より 第3楽章

モンポウ/「ショパンの主題による変奏曲」より 第1変奏、ワルツ、エピローグ

 

昨年に続きトリフォノフのリサイタルを聴く。昨年は「フーガの技法」をメインにしたプログラムだったが、今回はハンマークラヴィーア・ソナタをメインに、前半にはラモー、モーツァルト、メンデルスゾーンという一捻りしたプログラム。

 

1曲目のラモーは、アルマンドに始まる7曲から成る組曲で、約30分を要する。終曲「ガヴォットと6つの変奏」では思いのほか壮大な変奏曲の伽藍が築かれる。次のモーツァルトは、スタイリッシュなすっきり系とは一線を画す演奏。甘く揺れる緩徐楽章にうっとりしていると、フィナーレ冒頭の和音の強打にガツンと引っ叩かれる。3曲目の「厳格な変奏曲」は、これがメンデルスゾーンかと疑うような堅牢な響き。短時間のうちに恐るべきロジックの威容を打ち立て、ベートーヴェンの前触れを果たす。

 

ハンマークラヴィーア・ソナタは、常々ベートーヴェンの音楽的構想の巨大さに、実際のピアノの音が追い付いていないのでは…と思うことが多い。しかし当夜の演奏にその憾みは無く、冒頭から揺るぎない巨大建築が力強くすっくと立ち上がる。しかもその現場は、オートマチックな機械任せではなく、大工のダニールがその腕っぷしで仕上げる「手仕事」感が大きな魅力。大胆に遅い第3楽章、思いがけず深いところまで導かれた後に、楽想が自然と高揚し加速するくだりが何ともたまらない。

 

このソナタ、若手ピアニストが弾くには精神性が足りず、ベテランになると技術的に衰えてしまい、それを両立させるのが難しい…と、以前何かのインタビューで読んだことがある。ピアニストのキャリアの中で、このレパートリーの適齢期はそれほど長くはないということだ。そういう意味では、トリフォノフはまさにハンマークラヴィーアの旬を迎えているのではないか。「剛」のようで「柔」、憑依型の集中力とグールド的明晰さを併せ持つ唯一無二のピアニズムに、これほど相応しい設計図は無い。

 

最後の音を打鍵するや弾かれたように立ち上がり、せかせかと慌ただしくカーテンコールに応えるトリフォノフ。アンコールは3曲で、スクリャービンも絶品だったが、個人的にはモンポウがサプライズ。この曲を聴くと、映画「櫻の園」で描かれた高校演劇部の、桜の季節の情景が甦る。東京の桜は満開から早1週間が過ぎたが、かろうじて散り残っていたアークヒルズ周辺の夜桜に、懐かしい余韻を添えてくれた。